祭事のお話 它編
它編の『它』は、它神すらも恐れる人間の存在は果たしての『它』です。
『健よ、久し振りに酒でも呑まんか』
そう知己の『神』から誘われたのは『お嬢』の友人が泊まった一週間ほど後の事だった。
半月になろうかという日。雲一つなく綺麗な月だった。
手酌で酒を注ぎ、猪口を傾け流し込む。
ツマミはない。必要がない。隣同士で座り合い、黙って酒を進める。
口を開いたのは、健と呼ばれた男からだった。
「んで、どうしたよ。お前さんからなんて珍しいじゃねえか。何年ぶりだ?」
「…いやな、次代に跡を継がせる時期も迫ってきての。年が明ければ儂も消える。今まで売ってやった分の恩は気にせんでもよいぞ」
「はっ、よく言うぜ。お前さんの神社、創ってやったのは誰だと思ってやがる」
「ふん、両腕千切れかけて逃げ延びてきたお前を、治してやったのは誰だと思っておる」
そうして視線を合わせる二人。
口元は愉快そうに綻んでいた。
チン、と猪口を合わせる。
コクリと飲み込み、健はふうと息を吐いた。
「…そうか、寂しくなるな」
「何を言うか。必要のなくなった『神』が消えるのは自明の理だろうに。今更の事よ」
健の知己の『神』…ミシャグはそう言う。
その起源は、恐らく健よりもさらに永い。彼が地上へと降りてきた時には、既に畏れられていたのだ。
『神』としてのその『力』は祟りに特化していた。
古来より人々から畏れられ、あらゆる存在を祟る。それは同種の『神』すらも。
とはいえ、それも遥か昔の話。
今は自身を祀る神社から離れることは出来ず、その殆どを諦めて次代の『神』に跡を継がせる事に注力していた。
しかしそれも上手くいかず、幾星霜を無為に過ごしていた。
それなのに、だ。
「あのちっこいの、どうしたんだ」
健がいう『ちっこいの』とは、ミシャグが言う次代の事だ。
今のミシャグよりも更に幼い、本当に生まれたての『神』
そう尋ねると、ミシャグの顔が曇った。
そうして、言う。
「…儂は、諦めておった。何年も、何百年も次代を望みながら、だが叶わず。このまま何も遺せずに消えるものだと、諦めきっていた」
「ああ、知ってるぜ」
何をしても、何をしても何をしても。
次代など望めず諦めが募り、そして蝕まれていく心。
その苦悩が、その心境が、その諦観が。
間近にいた健にはハッキリと見て取れた。
「今度もダメだった。そしてもう、全て諦めておった」
「―――待てよ、諦めていた? ならあのちっこいの、どうした」
「…アレは、儂の『力』だけでああ成った訳ではない、混ざっておる」
「何があった?」
健を見るミシャグの眼は、至って真剣だ。
自嘲するわけでもなく、だからといって侮るわけでもなく。
ただ、事実を述べた。
「アレはな、白凛、というのだがな。名を付けられて、一気に『力』を開花させおった。儂が名付けたのではないぞ。人間が名付けた」
「人間が? あり得んのか、そんな事」
「儂も初めての経験なのでな。しかし、起こった事は信じる他あるまい。事実、アレは『神』となったのだからな」
「誰だ? 矢尾…いや、アイツが来るわけもねえ。他に…は、思い当たらねえな」
『神』を遥かに凌ぐ『力』を持つ人間の心当たりなど、そうはない。
唯一、心当たりがあるのは、結界の奥で引き篭もって『万屋』を戯れに運営している人間。名は矢尾という。
彼らの『業界』では『神殺』と名の知れている、しかしただの人間だ。
化物染みた『力』を持つが、それでも『人』の領域に留まり続けている。
そもそも、現象の体現である『神』を凌ぐ事など不可能なのだ。次元が違う、とでも言えばいいか。極一部の例外を除いて、あり得ない。
そして『神』の成り立ち。
一定以上の『力』を持ち素質を秘め、尚且つそれ以上の『力』を持つ『神』が名を付ける事で、次代の『神』となる。
ミシャグは『力』を持つ眷属を生み出す事に難儀していた。
そして一定以上の『力』を持つ眷属を生み出す事に、永い年月をかけ一定の成果を得る事が出来た。
しかし、同時に素質を秘める眷属を生み出す事が出来なかった。
先ほどのミシャグの言葉。
あれでは丸きり逆だ。過程と結果が逆転している。
あるいは、それ程の『力』を持つ者だったのか。
思考に陥る健だったが、それを遮るようにミシャグの声が発せられた。
まるで、秘める心を打ち明けるように。
「―――儂は…儂は、奴が、あの人間が恐ろしい」
「…神が人間を恐れちゃ、商売あがったりだ」
確かに、彼の横に座るミシャグは、全盛期とは比べるべくもなく『力』が衰えている。
科学が全盛となり、多くの現象が解明され『神』の正体が知れてから百余年。
これまでも多くの『神』が消えて行った。信仰されなくなった『神』の末路など、惨めな物だ。
しかしその『力』は、その司る祟りは、一人の人間程度など簡単に殺す事は可能だ。
「儂は、あの『泥』に襲われた時、もう諦めておった。次代は既に逃がし、もう存在する意味もない。呑み込まれて、そのまま消えるものだと、覚悟しておった。だが―――」
まるで吐き気を抑えるように口に手を当てるミシャグ。
「奴が、あの人間が、助けに来おった。人間ならば、入った瞬間に冒される『呪い』の真っただ中にな。その上、儂を背負いおった。儂を冒していた『泥』に触れても、奴は平気の平左だった。なんなのだ、奴は、あの人間は」
「…お嬢の友だち、だとか言ってたな」
「奴は、本当に人間か? 現に、お前さんを視て儂を視ている。そんな人間が、そうそう現代に顕れて堪るか。もしかすると小娘に近づいたのも、あるいは…」
健の眼をジッと見て言うミシャグの言葉は、言外にその人間は『妖』かそれに類するナニカと言っているようだ。
確かに健も知る、彼の子孫である『お嬢』も通う大学にはそういう類、つまり『妖』も在籍している。
しかしそれでも『お嬢』には届きえない。そして『神』にも当然ながら。
「…あの人間から『悪意』は感じられねえ。そういうのには敏感なの、お前さんも知ってるだろうが」
「確かに。儂も同様だった。しかし、な。奴が、儂を『泥』から逃がした時、奴は、奴は―――」
グイと猪口を傾け酒を呷り、まるで現実から逃げるように飲み干した。
そして口元を拭いながら、吐き出すように言った。
「―――笑っておった」
「笑ってた、だと?」
「笑っていた。自分が『泥』に呑み込まれながら。それに『悪意』も『怨み』も何も芽生えさせずに。あり得ん。あり得んだろう。自分が死ぬかも知れん時に、欠片も悪感情を抱かんなど。それに…」
震えを抑えるように自らの身体を抱き締める。
「それに奴は…奴は、心の底から何も望んでいなかった。信じられるか? 命を懸けて助けに来ておきながら何も望まんなど。怒りもせず望みもせず、見返りも求めず。何もかも諦めておるようだった。そんな奴、人間ではなかろう」
「…」
「気を付けろよ、健。排除しろ、とは言わん。しかし敵にはなるな。奴にはそれだけの『力』がある」
「おいおい、落魄れたとはいえ俺は軍神だぜ。たかが人間に―――」
「侮るな。過去そう言って、矢尾の様な人間に滅せられた『神』も少ないながら存在する。人間は不完全とはいえ、だからこそ進化の余地がある。我らとは違ってな」
「…お前さんは昔から、人間に憧れてるような口振りをしてたが。どうも本当みたいだな」
「憧れ、か。愛する者と交わり子を成し、そして死ぬ。それはきっと、幸せな事なのだろうな。ただ永く生きるだけの我らと違い」
「そりゃあ…俺も一度はそう思ったさ。だがな、生きてくれ、って言われちゃあな。子を護ってくれ、孫を護ってくれってな。子孫をお願いされちゃあ、消える訳にもいかねえ。これまでも、これからも、な」
「そうか…そうだったな。いやしかし、お前のような者を縛り付ける言葉など、まるで『呪い』ではないか」
「間違っちゃいねえさ。死に際の人間が遺した言葉は、何よりも強い『呪い』だ。絶対に解けねえし無視もできねえ。だが、それがなけりゃ今もねえんだ。感謝してるさ」
「そうか。お前が良ければ儂が言う事はない。せいぜい、永く生きろよ」
そう言って笑うミシャグ。
こんな無邪気に笑う姿を見るのは、何年振りだろう。
もはや『神』の責務から放たれ、後は消えるだけ。
余生を楽しむとだけ言い残し、ミシャグは部屋に戻って行った。
健は一人、酒を呑み続ける。
その心境が分かる者は、きっとどこにもいなかった。
・ミシャグ
県内随一ともいえる神社に仮住まいしている神様。
久方ぶりに『健』と酒を飲み交わし、彼の以後の健勝を祈った。
その口ぶりから『人間』に対してある種の憧憬を抱いていた様子。
しかし同時に『奴』と呼ぶ一人の人間について、建に忠告をした。
他を助け自分の身に危険が訪れようと僅かも『悪意』を抱かず笑みを浮かべ、少しもその見返りを求めず、人格を否定してもただ困ったように笑うだけだった『奴』は、彼女に恐怖を与えるには十分すぎる事だった。
永く待望していた『次代』へと全てを継がせ、年が明けるとともに消えようと考えている。摩耗し堕ちる寸前だった彼女の『魂』は、これで救われる事になった。
建とは永い永い付き合い。彼が、両腕をボロボロにしながら逃げ込んで来て以来の。
・健
県内随一ともいえる神社で祀られている神様。
久方ぶりに『ミシャグ』と酒を飲み交わし、彼女が消える事を寂しく思った。
彼の子が、孫が、子孫が自身を祀っている。一人の人間と交わった結果。
現在は、過去の誰よりも強い『力』を持つ『お嬢』を可愛がっている。
ミシャグの言葉を笑いながらも、彼女を恐怖させた『お嬢』の友人に対して、一定の警戒心を抱いた。
かつて、一人の人間に『呪い』を掛けられた。
絶対に解く事は出来ないそれを、彼は好ましく思っている。
ミシャグとは永い永い付き合い。喧嘩に負け、両腕をボロボロにされながら投げ飛ばされ、そして逃げ込んだ先で介抱されてから。
・『奴』
『お嬢』の友人。大学生。人間。
一週間ほど前、健を祀る神社へお泊りをした。
健からは、失礼な奴と言われた。
一週間ほど前、死にかけたミシャグを助けた。
ミシャグからは、人格を否定され人間か疑われた。
一週間ほど前、次代の神を生み出した。
次代の神からは、最も大切な人間と愛されている。
一週間ほど前、友人を殺しかけた。
友人からは、大恩と共に好意を向けられている。
彼女は全てを分かっている。理解しながら全て知らぬ振りをしている。
かつてそのせいで、最愛の友人をなくし、愛する肉親に『呪い』を掛けられたから。
掛けられた『呪い』は何よりも強く、何よりも大きい。他の『呪い』など、意味を成さない程に。
・『呪い』
それには弐種類存在する。
一つ。
ナニカの『悪意』と『怨み』が凝り固まった存在。
無差別に無秩序に、或いは一定条件を満たした者に牙を剥く。
一つ。
最愛の者が遺した最期の言葉。
それは絶対に解く事が出来ない、何よりも強い想い。絆の亜種。
何かを害する事はないが、それは確実に『呪い』である。




