祭事のお話 急編
「ただいま、戻りました」
そう言いながら、カラリと玄関を開けて靴を脱ぐ。
大学からここ『万屋 矢尾』までは、徒歩で四十分ほど。
細かい路地があり迷いやすいが、道さえ分かっていれば容易に辿り着く事が出来る。
しかし自転車を岡谷の家に置いてきてしまった。
だが今から戻るのも億劫だ。今度、コッソリと取りに行こう。
玄関を上がり廊下を進む。
そうして休憩部屋兼電話番部屋に差し掛かると、襖がスラリと開いた。
「あら榮。早かったのね」
「あ…はい。少し、気分が悪かったので」
声を掛けたのは、この店の店主、矢尾だ。
やはりその美貌は筆舌に尽くしがたく、年齢不詳ながらとても若く見える。
「ふうん、そう。所で、だけれど」
「はい、なんでしょうか」
「用事が出来てね。店を離れないといけないの。少し遠い場所だから、アナタは連れていけないわ。すぐに出発するから」
そう言う矢尾の隣には、大きめのボストンバッグが置かれていた。
着替えか何かが入っているのだろう。
「戻るのは、そうね。三日後になるかしら。依頼の方、任せる事になっちゃうけれど。頼んだわね」
「承知しました。お気をつけて」
そして矢尾はボストンバッぐを持ち、玄関へと歩いて行く。
その後ろ姿を見て、榮は思わず声を掛けてしまった。
「あの、矢尾さん」
「どうしたの?」
「あ…いえ、すみません。なんでも、ないです」
「何よ。まあいいわ。帰ってきたら、アナタに話す事があるから。楽しみにしてなさい」
そう言い、微かに微笑んで、矢尾は外へ出て行く。
榮は一人、店に残された。
とはいえ特別な事ではない。家に独りなど、小学生の頃から度々あった。
慣れている事だ。
少しだけ。そう少しだけ、矢尾と一緒に暮らしていたから、彼女がいなくなって少し寂しくなっただけだ。
慣れている、ハズだ。
階段を上り自室へ入る。
相も変わらず小ざっぱりとした部屋だ。
鞄を投げ捨て布団を敷く。なんだか、疲れてしまった。
「謝ら、ないと」
ポソリと呟くが、それはただ部屋へと消えて行く。
布団に身を投げ目を瞑る。なんだか、無性に寂しかった。
『んだぁ、榮よう。真昼間っからゴロゴロしやがって。そんな暇あったら夕飯の下拵えしやがれってんだ』
この声の持ち主は、机の上に放ってある包丁、極楽丸のものだ。
刃渡りは18cmほど。コンクリートを切り裂くほどの切れ味を持ち、加えて研ぐ必要もない便利な出刃包丁。
そして何故だか自意識を持つ。どうしてかは知る由もないし、知る気もない。
「…少し、疲れちゃったから、今日は料理作らない、かな」
それに、自分一人分を作ってもつまらない。
一人で食べるご飯も、何か寂しい。
一食抜いたくらいでどうにかなるものでもない。
『疲れただぁ? 全くよう、人間ってのは不便なモンだな。俺を見習いやがれ』
何と無茶を言うのか。
しかし今は、こんな無茶苦茶も有難い。
『だがよう榮。病は気から、健康は食からだろうが。なんか適当なモンでも腹入れとけ』
医食同源という事か。
包丁のくせに、何処から仕入れた知識なんだか。
「分かった、から。少し、寝るね」
『夕方には起こすからな、覚悟しとけよ』
「…うん、お願い」
相変わらずよく分からない包丁に内心ホッとしつつ、榮は眠りに就いた。
―――
「お疲れ様、店員さん。いつもごめんなさいね」
「いえ、我王も良い子ですから。私も楽しませてもらってますよ」
大鹿さんへ我王を預け、榮は店へと戻る。
定期的に依頼される『我王の散歩』を終わらせたところだ。
相変わらず、我王は人懐っこかった。それに途中から速魚に千尋も加わって、なんとも微笑ましい光景を見る事も出来た。
人気の少ないドッグラン。
そこで走り回る我王を追いかける千尋。そして優しげな瞳で見守る速魚。
なんとまあ、羨ましい家族だ。
矢尾が出張に出て次の日。今日で大学の学園祭は終わりだが、榮はどうにも行きづらかった。
昨日あれだけ意地を張って否定したのに、どのような顔をして会えばいいのか。
取り敢えず今は頭を冷やすべきだと納得させ、依頼の方を優先させたのだ。
「…ただいま戻りました」
『万屋 矢尾』の玄関を開け、中へ入る。
いつもならば『おかえり』と声が掛かるが、その声もない。
店主である矢尾は現在、出張中なのだ。
カラリと休憩部屋兼電話番部屋の襖を開けて座椅子へ座る。
いつも広いと思っていた店内だが、矢尾がいないだけで更にガランとしている気がする。物音一つなく、少し寒すぎる位に肌寒い。
古物買取受付への扉を開けてそちらへ移る。
受付の机を挟んでこちら側。
座布団が一枚敷かれ、棚が一台置いてある。
棚の中には何種類もの書類が収められている。古物買取についての物だ。
座布団を引いて座り、受付机へ凭れる。
どうせお客様も来ないのだ。少しダレても良いだろう。
「ふぅ…」
『どうしたよ榮。何か調子狂っちまうぜ』
その声は極楽丸のもの。
家の中とはいえ包丁を持ち歩くのはどうかとも思ったが、独りではどうにも寂しいのだ。
机の下、机の向こうからは見えない場所においておいた。
「…包丁には分かんないよ、どうせ」
『ああ、分からねえぜ。俺ぁ人間じゃねえからな。だがな、今のお前はアレだ』
少し間を開け、昔を思い出すように考え込んだ後、極楽丸は言った。
『アレだよ、首落としたアイツみてぇだ。なんか諦めきった顔してやがる』
「諦めた、ね…」
『首を落としたアイツ』とやらが誰かは知らないが、どうせ太刀時代に斬った人の事だろう。
まったく酷い事をするものだ。しかし無機物に人間の命のあれこれを知っていると期待するだけ無駄だ。
『お前に死なれちゃ俺も困るんでな。野菜が切れなくなっちまう』
「…ありがと、一応」
なんだか心が軽くなった気がする。
本当に少し、だが。
「―――邪魔するぜ」
その時、古物買取受付への扉が開かれた。外からだ。
榮は首を傾げた。今日、古物買取の予約は入っていなかったハズだが。
顔を上げると、深い藍色の髪。
自信に満ちた鋭い視線に、細い線ながら鍛えられた体格。
それに諏訪を思い出すような顔立ち。そして肩からは竹刀袋を提げている
その顔に榮は見覚えがあった。
「建、さん…?」
「ん? ああ、お前か。確か…そうだ、榮とかいったな。矢尾のババアはどうした」
「あ…えっと、出張をしています。明後日には戻ると言付かっています」
「いねえんかよ、無駄足か…そうだ。お前、お嬢の友人だろ。聞きてえ事がある。随分前、お嬢が血塗れで戻ってきた時があったんだが」
曰く梅雨のすぐ後、彼の言うお嬢…が着物を血に染めて戻ってきた事があったのだという。
五臓六腑の半分以上が損傷する、常人ならば再起不能な程の大怪我だったらしい。
生死の境を数日さ迷い意識を取り戻したお嬢に、健さんは問い詰めたのだという。その原因を。
しかし…
「人間の創りやがった呪具ってのは聞き出したが、お嬢の奴、誰が持ってたかってのは口を割ろうたしねえ」
余程苦々しく思っているのだろう。
端正な顔立ちが深く歪んだ。
そうか。
あの時諏訪は、数日ほどで大学に戻ってきた。
だから軽い怪我だと思っていたし、本人もそう言っていた。
「頑固だからなお嬢は。ったく、誰に似たんだか」
「それでえっと、健さん。私に、何をお聞きしたいんです?」
「ああそうだ。お嬢の友人で、そんな呪具持ってる人間知らねえか? なんせお嬢が深手負った代物だ。岡谷んトコの、なんつったか…アイツがそんなモン持てる訳もねえ。それに―――」
顎に指を当て、髪を無造作に掻いて言う。
「榮っつったか、お前がそんな代物持ってるハズもねえ。つうか、近付いただけで冒される代物の気配なんざ簡単に分かる。少なくともそんなモンはこの家にはねえしな」
視線を蔵の方へと送り、建は言った。
どうにもこの健さんは、諏訪の事については過保護のようだ。
言った所で、多分とても怒られるだけだ。
―――うん。いいか別に。
自分だけで済むのならそれで良い。
変におかしな事を言って、他人が迷惑を被るよりは。
「えっと、それ私です」
「―――は? 冗談はよせよ。お前、ここ住んでんだろ? ここに岡谷の小娘が来れる訳もねえ」
榮の言葉に、健は虚を衝かれたような顔をする。
「夏の半ばに、矢尾さんにお部屋をお借りしまして。それまではすぐ近くのアパートに…えっと、燃えちゃいましたけど、諏訪が怪我したのはそこです」
「―――いやまて、お前も現場にいたんだろ? 岡谷のアイツはお嬢の札があったから無事だったが、お前はなんで平気だった」
「えー…っと、どうしてでしょう? 靄が出てきて触ろうとして来て、けど何か掻き消えてたような…」
「掻き消え―――いや、そうか、そうだったな。ミシャグの奴も言ってたな」
―――三石さん?
彼女がどうかしたのだろうか。
そういえばとんと音沙汰を聞かない。諏訪から聞くのも失念していた。
白凛は元気だろうか。虐められて泣いていなければいいが。
「そうか。なら、仕方ねえな」
そう言いながら、健は竹刀袋を下ろす。
チャックを開けて取り出したるは、柄まで鉄で出来ている古ぼけた大きな直刀。
全長は2mを越えるだろうか。少なくとも竹刀袋よりも長いようだが、どうやって出したのだろう。
「あの、私、物の価値は分からなくて。買取は矢尾さんが戻ってから―――」
「黙ってろ」
スラリと鞘が抜かれた。
鞘の外見からは想像もつかない程に、まるで鏡のように磨き抜かれた刀身。
つい先ほど、今まさに打たれたばかりのように。
榮の脳裏に一本の刀が蘇った。
バイトを始めた当初に出会った刀。極楽丸の前身たる無銘の太刀が。
だから、だろう。
机の下、向こうから見えない死角に有った極楽丸を咄嗟に握り締めたのは。
予感も何も無かった。
きっと達人でさえも反応出来ない一瞬の、刹那よりも短い時間の事。
衝撃が榮の左腕を貫いた。同時に甲高い金属音が。
遅れて、風を切る音が耳を射抜く。
気付けば、榮の頭上に掲げられた極楽丸に、鋭利な直剣が叩き付けられていた。
榮だけでは何も気づけず斬られていただろう。
『あぶっ、ね』
極楽丸の声が頭に響く。珍しく慌てたような声色だ。
「えっと、何を?」
「―――クソが、本物かよ」
フッと、腕にかかる重さが消える。
次の瞬間、胸元を中心に強い衝撃。
一瞬、銀色に光る線が極楽丸に防がれた光景が見えた。
勢いそのまま、榮は身体ごと吹き飛ばされた。
休憩部屋兼電話番部屋へ繋がる扉を破っただけで止まる事はない。
廊下とを隔てる襖を破り壁にぶつかり、ようやく止まる事が出来た。
「いった、い…」
身体を起こし壁を見ると、無残にも陥没し漆喰がボロボロと落ち床を汚していた。
矢尾さんが戻ってきたらどやされてしまう。しかし幸いにも、どこかが痛むようなことはない。
『ヤベぇな。ありゃあ本物か』
「…本物って、何が」
『いや、体勢直すのが先だな。おい、部屋戻れ』
「だから、本物って―――」
何かを感じた。
だから極楽丸を払った。
すると何かが斬れたような感触がした。
そして威圧感とも似た感覚が霧散した。
『っ、うぇ、吐き気しやがる。いいからとっとと戻れ。俺に考えがある』
「…分かった。説明してよね」
取り敢えず極楽丸の言う通り、榮は急ぎ部屋へと戻る。
その道中、何か懐かしい感覚を憶えたのに、榮は気付かない振りをしていた。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:特になし
設定:
至って普通の大学生。
錯乱しつつ、大学から戻ってきた。だがそれを、矢尾には気付かせなかった。
また、思わず彼女に声を掛けたが、自身もそれに驚いた様にしていた。
『謝らないと』と考えながら、しかし依頼を優先させた。仕事熱心、といえばそれまで。
『万屋 矢尾』を訪れた健から敵意を向けられ、古びた直剣で斬り付けられた。
だがしかし、極楽丸の存在もあり、無傷のまま自室へ撤退した。
・名前:矢尾
性別:女
職業:万屋店主
好物:酒
設定:
路地を何本も進んだ先にある、古びた万屋の店主。
以前、九十九からお願いされた『集会』へ出向いた。本意ではないが、面倒事を一度に解決させる為。
しかしその結果、最悪の結末を寄せ手繰ってしまった。
・名前:建
性別:男
職業:不明
好物:酒
設定:
『万屋 矢尾』を訪れた、甚平を着た若い男性。
彼は『人』の名前は憶えない。榮の名前を憶えていたのは、何故だか。
竹刀袋には、物理法則もへったくれもなく2m程の直剣が入っていた。
それは神剣である。昔、喧嘩をしたライバルから借りた物。
今でも交流があるとかなんとか。
・名前:極楽丸
性別:不明
職業:包丁
好物:菜汁・菜肉
設定:
太刀が鍛え直された包丁。最近は『力』を増したらしい。
何やら強大な『力』を感じ取り、主人たる榮の身体を一時的に操り対応した。
神剣を受け止めて平気な辺り、やはりその位階は最上位に足を踏み入れている。
健から放たれた『力』の放射を『喰らった』が『気持ち悪い』らしい。




