番号のお話 樒編
樒編の『樒』は、樒が抱いた僅かな疑念の『樒』です。
「三課の長が水脈の『呪い』を滅した。つい二日前だ」
「ああ、聞いている。一課を差し置き『呪い』を滅したと。これは越権であろう」
「何を言っている。何も出来なかった癖に。それは逆恨みというのだ」
「なんだと?」
「内輪揉めをしている場合ではない。この際『呪い』が滅されたのは歓迎すべき事。しかし問題は木犀の占星を覆した事だ」
「…懸念が消え、新たな懸念が出た、か」
「その通りだ。木犀の占星が外れた事態は一度だけ。遺されている限りでは、な」
「裏切者がまた出てくる、と?」
「それを恐れてどうする。出てきたのならば叩き潰せばいい。所詮は人間。それも若造だ」
「前例を知らぬわけではあるまい。それをして、何人の犠牲が出たと思っている」
「下っ端の数十人程度、どうという事もあるまい。放置した時、上回る犠牲が出ては遅いのだ」
「…召喚状は送った。我らの連名でな」
「ならば、その場で決めるべきだろう。議論を重ねても解決が望めん以上はな」
「『涼音』の言う通りだ。この場ではどうする事も出来ん。聞き取りをした結果次第だ。それでいいだろう?『立華』」
「…ふん。俺は『銀杏』のように甘くはない。この『業界』で、甘さを見せた者の末路を知らぬわけではあるまいに」
―――
多くの車が行きかう喧騒に塗れた街。
日はまだ高く、夜の帳にはまだ暇があった。
そんな中、一台の車が道路を走っていた。
黒く塗られた高級車だ。
一目見てかたぎの車ではないと分かったのだろう。周囲の車は車間距離を広めに取った。
数分程走った車は路肩に停車し、運転席から一人の男が降りた。
黒いスーツに身を包み、サングラスをかけた偉丈夫。
彼は歩道側へ回り後部ドアを開け、声を掛ける。
「お嬢、到着しました」
「分かりました」
声を返したのは、黒い髪を簪で結った若い女性。
装束は和服。若草色の仕立ての良い着物だ。
周囲と比べると浮いてしまうが、彼女が着ているとそれがない。
ごく自然に、ごく普通に。今は珍しいそれを着こなしていた。
従者の男性は運転席へと戻り、車を発進させる。
それを尻目に、女性は目的の建物へ歩みを進めた。
『異能対策部』
彼女が属する『業界』の安定を保つ組織。
表向きには別の名で管理されているがその実、江戸の初期から増加した『魔』の被害を軽減させる為、時の政府によって秘密裏に設立された。
『力』を持つ者の育成、扱う『術』の保全、一般への『魔』の秘匿などを理念としている。また、その一環として『魔』との共存も視野に入れており、関連した大学も運営していた。
そして『立華』『涼音』『銀杏』など、高名な祓い師を輩出している家が所属している事から『業界』での影響力は極めて大きい。
御三家に楯突いた者は『業界』で生きていけなくなるとも言われている。事実、そう言った者を何人も見てきた。
歴史は古いのだ。歴史だけは。
センサー式の自動ドアが音もなく開く。三階建ての鉄筋コンクリ―トビルだ。
外見は何の変哲もない古ぼけたビルだが、しかしその防犯設備は最新式の物だ。
『魔』への対策も怠っておらず、上位の『魔』が十体がかりで攻めてきたとしても揺らぐ事はない。
受付嬢に視線を送ると会釈をされた。
何も知らない一般人。地上部はダミーなのだ。
「十三時から面会の予定があるのですが」
「少々お待ちください」
受付嬢は手元のモニターを弄っている。恐らくアポイントの確認をしているのだろう。
そして十数秒。機械からカードが排出された。
「シキミ様、でございますね。お待ちしておりました。こちらのカードをお持ちください」
表面にICチップが埋め込まれた硬質のカード。裏には磁気ストライプが入っていた。
ありがとうと受け取り、シキミは奥へと進み、一機のエレベータに乗り込んでICカード読み取り口へカードをかざす。
すると扉が閉まった。閉める為だけにこのカードが必要なのだ。通常ならば、これで階を選べば動き出す。
シキミは続いてカードを階選択ボタンの僅かな隙間にカードを通す。よくよく注意してみないと分からない程に細い隙間だ。
するとエレベータは地下へと動き出した。
階選択ボタンにはそのような表示はないのに、自然と。
ふう、と溜め息を吐く女性。
それは杞憂からではなく、倦怠からの物だ。
女性はこの場所が堪らなく嫌いだった。
『魔』との共存など建前で『神』への畏敬など欠片もない。
そんな、ただ『魔』を滅する為だけの組織に。そして人間に。
数日前、シキミの生家近くで『呪い』が噴出した。
それだけならば予測されていた。それが何故か数百年ほど早まったのだ。
『業界』の見立てでは、新たな『神』が誕生した波動に呼応したのだと。
シキミがこんな場所に来たのも、偏にそのせいだ。
『異能対策部』でもロクな対策も出来ず放置された、それこそ数万人規模で人死にが出る事件。
それがたった一人の手で解決されてしまった。
事実、シキミの名声と発言力は今までよりも更に高まった。それこそ、先の三家に匹敵するほどに。
事件の聴取という名目から三家連名の召喚状で呼び出されたが、どうせ釘を刺すつもりなのだろう。
―――サヤが、一緒にいてくれたらなぁ…
何度か自分の生家でバイトをしないかと誘っているが、にべもなく断られている。
それにどうにも『神』を欠片も信じていない。幼馴染のユウでさえ、それなりに信じているのに、だ。
あの時ばかりは自分の生まれを呪ったものだ。
シキミにとってサヤは、幼い頃、女性の心を救ってくれた恩人だ。
しかし、つい数か月前に友人となり、少し前に恩人だったと理解するまで気が付かなかった。
あの時とはまるで違い、憎しみさえ抱いている口ぶりだった。
もしも、ずっと一緒に暮らしてくれるのなら。こんな建物壊して邪魔者は殺して一緒にいられるのに。
けれど、と。
サヤと一緒に住んでいる、あの女性。
『業界』では特殊危険指定と恐れられる人物と、住処を共にしているのには流石に驚いた。
ずっと幼い頃『神』に連れられて『万屋』を訪れた時、そのあまりの『力』の強さに終始圧倒されっぱなしだった。
当時でさえ周囲から『神童』と持ち上げられていたシキミは、その出会いで更に修練に没頭したのだ。
この前の連休の初日、強固な『結界』を何とか抜けてサヤを迎えに行くと、当時と変わらぬ佇まい。
しかし、当時よりも更に『力』の増したシキミでさえも、底の見えない『力』の女性。
どうにも女性も、サヤを気に入っているようだ。あの女性がいる限り、シキミの夢が叶う事はない。
何とかして排除できないか、と考えていると、エレベータが停まる。
電光板には『B1』と表示。
扉が開くと、シキミの前には見慣れた光景が広がっていた。
慌ただしく動く人の姿。
鳴り響く電話に応対する人。
一歩足を踏み入れると、何人かが頭を下げた。
若年ながらも女性はここ、第三課『呪物取締係』の長を務めている。確か中学生の中ごろからか。
実力がモノを言う『業界』なのだ。強い者が先頭に立ち弱い者が補佐をする。
他の課、第一課『妖怪取締係』と第二課『霊域保全係』も同様だ。
「シキミ様、おめでとう御座います」
シキミにそう言うのは『呪物取締係』補佐係の男。
『柊』の次男坊。シキミと同年代の男だが、つい先日に補佐係へと昇格した。
事実、中位の『魔』を単独で狩る事が出来る事から、その実力は確かだ。
だがそれならば第三課などではなく、戦う機会の多い第一課へ配属希望を出せばいいのに、とシキミは思っていた。
本人にそれを問うと、こう返された。
『戦う事は好きではありません。だから。誰かの為に誰かの理由で、ではなく。私自身の為に私の理由で『力』を使いたいんです』
見知らぬ誰かではなく、自分自身の為に『力』を行使する。それはきっと理想事だ。
この『業界』は、そんな理想で生き抜けるほどに甘くはない。
しかしシキミは、そんな理想は嫌いではなかった。
「ええ、ありがとう。以前からの懸念が払拭されて。しかもそれを若造が実現して。危機感でも感じたのでしょうね」
「それはもう。本家も大慌てみたいです。シキミ様、何か接触でもありましたか」
『柊』の本家、というと、確か『木犀』
攻撃的な『力』は皆無だが、未来視とも見紛う占星に特化した『力』を持つ。その的中率は99%にも及び『業界』でも並ぶ家はない。
件の水脈に潜む特大の『呪い』が数百年後に地表を冒す。そう占星したのは先代の当主だ。
普段は幽閉にも近い形で世俗と関わりを断ち姿は表さず、占星の結果だけを使者を通じて『業界』へと流す。数百年、そうしてきたのだ。例外なく。
だが『呪い』を滅した次の日の昼。
『木犀』の、先代と名乗る女がシキミの下を訪ねてきた。三十代半ばと思われる女だ。病的なまでに肌が白い、日に当たっていない
まだ『業界』には流していないというのに。そして面会時、彼女はこう言ってのけた。
『貴女様は私の『占星』を覆しました。決して外れる事のない、予知を』
『木犀』では長子が最も強い『力』を持つという。そして成人して当主となり、代々家を継いでいた。
その『力』は受動的に、夢を見る形で未来を見通す事。それは決して外れず、決して歪む事はない。
危機の予知にのみ特化し、そして結果だけが示され、過程は一切示されない。しかしその日付だけは鮮明に分かるという。
そして家訓にはこうあるらしい。
『占星が外れた際、それを打ち崩した者を主と認め、生涯を尽くす事』
事実、一度だけ『占星』が覆された際にも、当主だった男性が『占星』を覆した女性の伴侶と成ったという。
しかしシキミは扱いに困った。生涯を尽くすといわれても大抵の事は熟す事が出来るし、それにもう心に決めた人がいるのだ。
だが既に、まだ幼い娘に跡を継がせ、二度と戻らないと残して来たのだという。
『占星』がどんなモノなのか知る由もないし、女が最愛であろう娘を置いてきた覚悟も余程の物だろう。
しかしそもそも『呪い』を滅したのはシキミではないのだ。
滅した事は知っているくせに、どうしてそこを勘違いしているのだろうか。
正直に打ち明けて、最愛の友人に迷惑をかけるわけにもいかない。この『業界』について欠片も知らないのだ。
何故だか次代の『神』が懐いていたので、身の回りの世話を任せた。
聞いてみると『どこか似ている』らしい。
「『木犀』の先代が訪ねて来ました。家訓という話ですが、私にはどうにも」
「そうでしたか。私にも本家の事情は分からりませんが、残された従妹の事を考えると残酷だと思いますね」
全くだ、とシキミも思う。
「ところでシキミ様、御三家との面会があると聞きましたが」
「ええ、こんな場所に来たのもその為です。それでは、そろそろ行きますね」
そうしてシキミは、さらに地下へと続く階段へと歩く。
更に15m程下、そこにはただ一室のみが敷設されていた。
はぁ、と溜め息を吐き、シキミは扉を開けた。
―――
薄暗い部屋の中央に椅子が一つ。
シキミはその場所へ腰かけた。すると部屋が僅かに明るくなる。
腰かけた椅子を囲むように扇状に、三人の人影が見て取れた。
「若造が、図に乗るなよ」
いの一番、そう言ってのけたのは三人のうちの一人。
一課『妖怪取締係』の長を務め『立華』の当主でもある高齢の男性。
実力主義である『業界』の中でも、特に荒事が多い一課の長を務めているだけあってその攻撃的な『力』は群を抜き、並び立つ者は数少ない。
その経歴と能力を裏付けるように、彼の肌の見える範囲には無数の傷が付き、腕回りなどシキミの倍以上はあるだろう程に筋肉が付いている。
「仰っている意味が理解できませんが」
「自分が成した事の意味が分かっていないと見えるな、若造。何も知らず盲目に狩る意味もな」
そう言い、シキミを睨め付ける『立華』
シキミと顔を合わせるといつもこうだ。
若造が自分と同じ地位にいるのが気に食わないのか、それとももっと他の理由か。
「やめろ『立華』面倒事をこれ以上起こす気か」
『立華』を窘める初老の男性は『銀杏』の当主。
二課『霊域保全係』の長であり、同時に『異能対策部』の部長を務めている。
政府との交渉事も一手に引き受け『異能対策部』の全体を管理する立場にある。
課の方針もあってか、実力主義を標榜する『業界』では極めて珍しく、その交渉事の手腕を買われて長となったのだ。
彼が『異能対策部』の部長となってから、その規模は数倍にもなったのだ。その『力』こそ弱いが、実力は明白だ。
「黙れよ『銀杏』現場を知らん野郎が口を出すな」
「現場を知らぬ事は認めよう。私自身自覚している事だ。しかし目的は見失うな。そこまで短慮ではないだろう」
「…いいだろう。言いすぎた、悪いな」
そう言い、乱暴に椅子へと座る『立華』
その衝撃を受け椅子がギシリと音を立てた。
「すみませんが、先に私から一つ」
そう言ったのは、今まで静観を決め込んでいた女性。
『涼音』の当主。彼女は三課『呪物取締係』の長を務めていた、その分野のエキスパートだ。
そう、いた、だ。
シキミが『業界』で頭角を現す前後、その才覚を見抜き『呪物取締係』の補佐へ引き抜き、そして僅か数ヶ月の異例の速さで第三課の長となった。
その後は一線から退き、今は相談役として過ごしている。長を務めていた数十年の経験は貴重なのだ。
「間違いなく、本件の『呪い』は滅せられたのでしょうか」
『呪物取締係』の長を務めていた経験からか、彼女は『呪い』に対してはとても慎重だ。
滅し損ねた僅かな欠片から、再度『呪い』が発生する事もあるのだ。
「はい。欠片も残さずに」
「あの『呪い』は最高位の『神』か、それに準じるモノが遺した遺物。流石の貴女の手にも余ると予想していましたが、協力者でも得られましたか」
「協力者、と言っては語弊がありますが『神宿』を」
「ふむ…身体の具合の方は?」
「筋肉痛が少し。問題はありません」
「そうですか。ならば、私から聞く事はもうありませんね」
そう言い『涼音』は部屋を出て行ってしまった。
本当に『呪い』の有無にだけ関心を持っていたようだ。
残る二人『立華』と『銀杏』はそれを予想していたのか、口を挟む事もない。
「俺が訊こう」
そう言ったのは『立華』だ。
「俺は『呪い』を滅した理由も方法にも興味はない。滅した事を咎める気もない。だが、なぜ第一課へ連絡もなしに『呪い』を滅した。これは越権だろう」
あくまでも、第三課『呪物取締係』の目的は『管理』である。
『呪い』が悪性を発揮する前に、封印などの対応をして被害を未然に防ぐ。
もしも、悪性が発揮された後には速やかに第一課へと引き継ぐ。そうでなければ、余計に被害が広がる可能性があるのだ。
「事は至急を要しました。噴出した『呪い』の元に急行した時には一帯が冒され尽くしていました。私も『神宿』がなければ数秒すら保ちませんでした」
事実をありのままに述べるシキミ。
たとえ第一課の精鋭部隊といえど最高位の『呪い』と真正面から対抗するのは不可能。
ただ人死にを増やすだけだと判断したのだ。
「無駄死にをさせぬ為に、その判断をした、と?」
「はい」
「ふん。それがどうした。この『業界』に身を置くのならば、死ぬのが当然だろう。死ぬまでは半人前だ」
「それが貴男の本心というのなら、私には理解が出来ません」
「どうでもいい事だ、その程度。じゃあな『銀杏』よ。俺は行くぞ。北で熊の妖怪が暴れていると連絡が来たからな」
そう言い『立華』は部屋を出て行った。
相変わらずよく分からない人だと、シキミは常々思っていた。
「さて、最後は私か」
最後に残ったのは『銀杏』
中肉中背の印象が薄い初老の男だ。
「とはいえ、私はそっち関連には明るくないしな。どうだね、最近の様子は」
「特に変わりは。いえ、変わったといえば大学生活、でしょうか」
「そうかい。あの大学は『業界』の連中が多いから、気が休まらないのではないのかね」
事実『銀杏』も、シキミと同じ大学に通っていた。
当時は現在と比べ規模も小さく『業界』の者も数が少なかった。
随分と肩身が狭い思いをしたものだ。有名な家の出とはいえ『力』は微弱、裏では陰口を叩かれたものだ。
「好奇の視線は以前からでしたよ。それにユウも一緒ですし」
「そういえば、ユウ君も同じ大学だったね。そうかね。しかし、以前と比べてキミは、随分と素直になったと思えるが」
そう言われ、シキミは心中臍を噛んだ。
表に出していたつもりなど、微塵もなかったというのに。
これが人生経験の差というものか。
「素直、ですか?」
「ああ。以前までの…大学に入るまでのキミならば、我々の召喚状など無視していただろう。この場を蛇蝎の如くに嫌っているからね、キミは」
―――大学に入って、最愛の人に逢ったからですよ。
とは言えない。
そうしたら、迷惑をかけてしまうかもしれないから。
最高位の『呪い』に身体を冒されながら、何の後遺症もなく日常生活に戻るなんて常識外だ。
それに使役していたと思われる、包丁の形をした大妖怪の事もある。
器物を基にした、千年物と推測される妖怪。それまで気が付かなかったのが不思議なほどの気配を発していたのだ。
「そういえば。キミの同級生に一人、同じような家柄の子が居るようだけど」
「…同じような家柄、ですか?」
「その口ぶりだと知らないのかな? 今はもう見る影もないけど、その子の大祖母の代までは栄華を誇っていたらしくてね。キミの家と同格か、それ以上か。それなりに『業界』に通じている家の出だから、調査していたんだよ」
面接の時にも顔を会わせた、と付け加える『銀杏』
彼は大学の理事長も務めているのだ。つくづく『業界』以外では優秀なのだと呆れるシキミ。
「学業の成績は優秀、眉目も秀麗。学内の推薦を受けて入学を決めた、と。まあ、普通の学生だね」
愛する友人の高校生活の話が利けるかと思っていたが、期待外れだった。
しかし、面接時の様子を学生に言ってもいいのか、と疑問に思うシキミだった。
「母親は高校卒業と同時に家を出て、以後は『業界』との接触は無し。その娘も同様に。本人は何も知らない様子だったね。試しに『力』を見せても無反応だった。視えてもいないみたいだ」
そういう『銀杏』の顔には疑い一つ浮かんでいない。
しかしシキミは違う。
―――視えて、ない?
そんなハズはない。
現に『神』だって視えているし『呪い』すらも看破している。
なら、どうして?
「…その娘に、今も監視を?」
「いいや。関わりがない以上、その必要もないよ。干渉する気は全くないから、キミも学生生活を楽しむと良い」
そう言い『銀杏』は席を立った。
シキミが入ってきた扉とは違う扉へと近づき、取っ手に手を掛け止まった。
「最後に一つだけ『ムツキ』という名は知っているよね」
その名を聞いて、シキミは眉を顰めた。
『業界』では知らぬ者が居ない程に有名な名だ。
そしてそれは悪い意味で、だ。
シキミも母や『業界』の人間から聞き及んでいた。
百年以上も昔、一人の人間が居た。
誰よりも強く、勇ましく、恐れられた。
特別な『力』は持たずとも、身体一つだけで『魔』を滅し続けた。
人間でありながら『人』へ仇名した。
人間でありながら『魔』へ味方した。
多くの『人』を殺し、多くの『魔』を滅した。
多くの『人』を救い、多くの『魔』に組した。
最期の時まで『人』と『魔』の共存を信じ、そして死んだ。
その名は『ムツキ』といった。
幼い頃、悪い事をすると『ムツキ』に取って食われると、そう言われたものだ。
「それが何か?」
「さっき言った学生の大祖母が、その『ムツキ』なんだよ」
その言葉を受け、シキミは衝撃を受けた。
大祖母、というと祖母の祖母。数えて四世代前の人物。
今を生きるシキミは会った事もない、顔も知らぬ人間。
「今でも『裏切者』といえば彼女を指す。この『業界』では、彼女の再来を畏れている。そして彼女も『木犀』の占星を覆したんだ」
木犀は過去一度、一度のみ覆された。
それが『ムツキ』の成した事なのだと今、初めてシキミは知るに至った。
その内容は知る由もない。しかしきっと、大きな事を成し遂げたのだろう。
シキミと同様に。
「それで今回、キミを呼び出した目的なんだけど」
「はい」
「キミが果たして『裏切者』に成り得るのか。それに尽きる」
「…ありえません。私が『人』である限り、同じ『人』を殺すなんて」
「そうかい。それなら良かった。キミがそうなっても、私たちに出来る事なんてないからね」
そう言い『銀杏』は扉を潜り、部屋を出て行った
残されたシキミは、独り考え込んでいた。
―――『ムツキ』の子孫が、サヤ? けど、そんな様子…
しかし、はたと気づく。幼い頃、疑問だったのだ。
どうして大きな『力』を持たない家と付き合いがあるのか。
今は関わりを断ったが、何故と両親に聞きもしなかった。
祖先に『裏切者』と呼ばれた者がいたからだ。
シキミの祖先も、その影響力を畏れ同盟を結んだのだ。
きっと、シキミの友人は知らない。
何も知らない。知る方法が無い。
意図的に『業界』から離れて育てられたのだから。
何よりも強い『力』を持ちながら、何も知れず。
誰よりも強く『神』を信じながら、誰も信じず。
歪だ、とても。
それに、木犀の占星を覆した者が『裏切者』として疑われるのならば、友人にも当てはまる。
どういう訳か、それが明るみに出てはいないが。
「信じて、いいんだよね」
きっと友人の前で言えば、困ったように笑うに違いない。
そう思いながら、シキミも部屋を出て行った。
・シキミ
退魔師をしている大学生。政府直轄組織『異能対策部』第三課『呪物取締係』の長。
先日成し遂げた、水脈より噴出した『呪い』を滅した件で、本部に召喚された。
本人は本部を蛇蝎の如く嫌っており、機会があれば建物ごと破壊しようかと常々思っている。
しかし僅かに抱いた最愛の友人への疑念は後日、最悪の形で表に出てしまう。
・サヤ
シキミの友人。普通の大学生。
その『力』は誰よりも強いが『業界』については何も知らず、そして『神』を信じていない。
彼女も占星を覆した一人だが『木犀』には明らかになっていない。
今回の騒動の特異点。果たして、彼女は『人』なのか。
・ユウ
シキミの幼馴染。陽気な大学生。
『業界』を知ってはいるが、自身に『力』は全くない為、一歩引いた場所に身を置いている。
しかし決して安全地帯ではない為、たまに死にかけたりする。
それでも懲りないのは、彼女なりの矜持なのか。
・木犀
占星を行う一族。
その『力』は『占星』と呼ばれる予言/予知/予測に特化している。
当主は最も強い『力』を持つ長子が代々務めている。
また、その『占星』が外れた際、長子である彼/彼女は、それを覆した者を主とする事が家訓として残されている。
・御三家
『立花』『涼音』『銀杏』から成る、三つの家。
『業界』内では大きな権力を誇っており、彼ら彼女らの不信を買ったら『業界』では生きていけないとされている。
イメージカラーは、赤、青、緑。
『銀杏』以外の二家はそれぞれ『涼音』は『呪い』に『立花』は『術』に特化している。
例外的に『銀杏』は『業界』について才覚を持っていないが、それ以外の事柄に強い適性を持っている。
・ムツキ
サヤの大祖母。普通の退魔師、だが物理。
彼女の人生は、多くの血に塗れていた。
無闇に『魔』を滅する『人』を殺し、矢鱈と『人』を害する『魔』を滅した。
多くの『人』に『裏切者』と罵られ、多くの『魔』に『天敵』と恐れられながらも、少なくない『人』や『魔』からは『味方』と呼ばれた。
その人生は苦難の連続、艱難にあったかもしれない。
しかしその理想は多くの『人』『魔』を救い、多くの運命を覆した。
『神』にも『魔』にも転じる事が出来た彼女だったが『人』の身のまま、生を全うした。
・『業界』
尋常ではないモノを始めとした、科学では説明できない事象を扱う世界の総称。他にも『裏の世界』や『異界への近道』とも呼ばれている。
基本的に一般に公開される事はなく『業界』が発端となって大規模な災害が起きたとしても、自然災害として処理されている。




