番号のお話
「つまり私が言いたいのは、だ。榮後輩。キミという奴は随分とまあ、薄情じゃないか、という事だ」
ゴールデンウィークが明けたいつもの食堂。
いつもより少しばかり混みようが少ない食堂だったがもう一つ、いつもとは違う場所があった。
「我が『日本全国特産研究会』に入りたい奴はごまんといる。そんな中で、だ。折角、キミの籍は置いてあるというのに、私は理解に苦しむね」
榮の目の前に座る美麗なお方がそう言った。
艶がかりウェーブの掛かったブロンドの髪の毛、パッチリと見開かれ自信に満ちた大きな眼。プルンとした唇。整った鼻筋。
その上スタイルも整っている。身長は榮よりも幾分か高い。どこかの雑誌の看板モデルを務めていたこともあったとか。
一挙手一投足に眼を瞠ってしまう。それはきっと、妖艶と表現するのが適切なのだろう。男を操り自在に動かす美女。
世が世ならば、傾国と渾名されても不思議ではない。
榮に色気は無縁の世界なので、興味一つ湧かないが。
そしてこのお方、何を隠そう『日本全国特産研究会』の会長である。その名も鬼無里先輩だ。
学年は三年生。榮とは学部から違うが、諏訪とは同じ学部で違う学科とのこと。どうやら面識もあるみたいだった。
それよりも、いつの間に籍を置いた事になっているのだろう。
入部/入会書類の類に署名した記憶はないのだが。
「ん? ああ、学籍番号さえあればどうとでもなるからね。恩と貸は作っておく物だよ、榮後輩」
つまり偽造したと。
とはいえ実害もないので気にする事でもない。
大学側に訴えて得する事は何もないのだ。
それにしても何故分かったのだろう。
これでも顔に表情は出にくいタチだと自負しているのだが。
「しかしあれだ。なんだ? この混みようは」
「鬼無里さん、食堂初めてですか?」
「ああ、いや。いつもは弁当を詰めている。混む前に食べているんだ。こういう人混みは苦手でね」
なるほど。確かに食堂で食券を買って食べるよりも安上がりだ。しかし珍しい。
大学へ入学して三年と半分。一度も食堂で食べた事が無いなど。
「恥ずかしい事だが食べられない物が多くてね。大豆に米、それに殆どの魚。外食など生まれてこの方した事が無い。全く、体質にも困ったものだよ」
そう言い、自嘲気味に笑う鬼無里先輩。
なるほど、と榮は思う。しかしアレルギーならば仕方がない。
たかがアレルギーと思う人も多いが、アレルギーで死ぬ事さえあるのだ。
侮ってはならない。絶対に。
「しかし榮後輩。私の事は気軽に『きっくん』と呼んでくれたまえ。そんな他人行儀な仲でもあるまい」
そう言い、榮に視線を送る鬼無里先輩。
熱の籠った目線を送られても、顔を染める事くらいしかできない。
それに相談に乗っただけだ。身の上話を語られた上で、少しばかし受け答えをしただけ。
「それで、だ。榮後輩。考え直してくれたかね」
「学園祭の手伝い、ですよね」
そう。
鬼無里先輩が苦手な人混みの中、榮に会いに来たのはその為だ。
学園祭は十月の末ほど。三日間通しで行われる。
娯楽施設の少ないこの辺り。地域ぐるみで行われる大きな行事になっているようだ。
部活や研究会が模擬店を出して賑わい、多くの方々が訪れる。
そして模擬店の売り上げ九割はそのまま部費に回される。一割が運営側の取り分。つまり書き入れ時だ。
タダ働きできる人出は多い方がいいというのが、彼ら彼女らの見解だ。
榮は確かに『日本全国特産研究会』の方々と面識がある。
一癖も二癖もあるが、中々に愉快な方々だ。
手伝ってくれと言われたら、喜んで手伝いを買って出る。
しかし、だ。
「すみません。諏訪と岡谷と一緒に回る約束をしてまして」
「ふむ。諏訪というとあの神社の娘か、流石に分が悪い。それに岡谷同輩も連れ立っているとは思わなかった」
本当に申し訳ない。
一昨日、学食でお昼を食べていると、いつも通り少し遅れ諏訪がやって来た。
そしてお昼を食べ終わると、諏訪が学園祭のチラシを巾着から取り出し、言ったのだ。
『ねえねえさかえ。今度の学園祭、一緒にまわろ? おかやも一緒に』
そう、首を傾げて上目遣いで。
榮も特に約束はなかったから、四の五の言わずに了承の返事をした。
その時岡谷は『わたしゃついでか』とでも言いたそうに肩を竦めていた。
そういえば、鬼無里先輩は岡谷に『同輩』と付ける。
岡谷が留年していなくても一学年の差があるのに不思議に思っていた。
「そう言えば鬼無里さん。どうして岡谷は同輩なんですか?」
「ああ、その事か。少し前の話だが、私が生まれた村落に岡谷同輩が迷い込んでね。色々あったが、同じ釜の飯を食ったんだ、これはもう同輩だろう?」
うむ、分からない。
やはり常人には、遥か高みにいるお方の考えは分からない。
しかし気持ちは分かる。囲炉裏を囲めば話も弾むのだ。
「では、私はそろそろ席を外させてもらうよ」
そう言い、鬼無里先輩はイスを引いて立ち上がる。
いよいよお昼も本番となり、混雑具合も激しくなってきた。
誰よりも目立ち、そして人目を気にしている鬼無里先輩だ。さっさと移動したいのだろう。
しかしどうしたのか。机を回って榮の隣の席に腰を下ろした。
そうして、榮の耳に口を近づけ、言った。
「暇があったら部屋に寄ってくれ…精一杯のもてなしは約束しよう」
息遣いがハッキリと聞こえる距離で妖艶な美人に言われ、榮はゾクゾクと背筋が粟立った。
言い終えた鬼無里先輩は、悪戯が成功した子どものように無邪気な笑みを浮かべて去って行った。
いや全く、同性であってもドキドキしてしまうお方だった。
「やほやほ榮。今日は早いじゃん」
そう後ろから声が聞こえた。
前に持ったお盆には大き目の丼が見える。きっとうどんなのだろう。
この季節でもやはり焼けた肌。適当に切られた短めの茶色い髪の毛。
岡谷である。しかしその装いは丸きり違っていた。
下はデニムのパンツ。これはいつも通りだ。藍や黒や白とたまに色は変えて来るが。
しかし問題はトップス。白と黒のストライプが入ったVネック。そしてグレーのパーカーを羽織っていた。
曰く、もう秋に入り肌寒い日も多くなってきたからだという。その言葉通り、ここ数日でいつものキワモノTシャツは鳴りを潜めていた。
これではただのカッコいい女性ではないか。
このままでは彼女が彼女であるアイデンティティがクライシスしてしまう。
そう危惧した榮は、カレーライスに添えてあった福神漬けを彼女のうどんに乗せた。
うどんを侮辱するなと、割と本気で怒られたからもうしない。同時に、注文する時には添えないようお願いするのを忘れないと固く誓った。
「ん、ちょっとね。学園祭の手伝いしてくれないかって頼まれてさ」
「へー榮、そんなコネあったんだ。そんで?」
チュルチュルとうどんを啜る岡谷。天かすとワカメ、それにネギが乗ったたぬきうどんだ。
もうお昼を食べ終えていた榮は、暇潰しも兼ねて話を進めた。
「断ったよ。ほら、諏訪と岡谷と一緒に回るって約束したからさ」
「律儀だねえ、榮。先輩に恩売るのも悪くないのに。ところでどこの部活?」
「日本全国特産研究会だよ。前に発表見に行ったって話したよね、確か」
そう言うと岡谷の箸を持つ手が止まった。
いや、発表を見に行ったと言ったのは諏訪にだったか。
何せ四ヶ月も前の事だから、記憶が掠れてしまっている。
「あの研究会、かぁ…榮もいちいち、面倒事に首を突っ込むというか…」
「面倒事?」
「いやいや、こっちの話。という事は…鬼無里さんのトコか…」
「そうそう、鬼無里さん。知り合いって聞いたけど」
「………命の恩人、一応」
ではどうしてそんなに青い顔をしているのだろう。
まるで死にかけた記憶を思い出したかのようだ。
しばし俯き何かを呟いていたが、パッとと顔を上げる。
その顔はなんだか吹っ切れたようだった。
「まあいいや、榮ならなんとかするでしょ。諏訪にも懐かれてるし」
懐かれているとはまた、諏訪がまるで動物のような言い草だ。
確かに諏訪の事は好きだ。大好きだ。
一緒にいると楽しいし、顔を見ると癒される。
そういえば、と時計を見る。
いつも諏訪が食堂を訪れる時刻をかなり過ぎている。しかし姿が見えない。
「ところで諏訪は? いやに遅いけど」
「諏訪ねえ…なんか凄い事仕出かしたみたいで。偉い人に呼ばれてるんだって」
―――凄い事、とな?
諏訪の家は神社である。神社で凄い事というと…思いつかない。
榮の神社に対する印象は限りなく薄いのだ。興味も引かれない。
とにかく、諏訪が凄い事をやってのけたのは分かった。
「もうね、ウチの親戚連中上から下まで大騒ぎ。諏訪の分家もお祭り騒ぎでさ」
「分家は分かるけど、岡谷の親戚まで?」
諏訪の家は神社である。それも歴史が長い旧家だ。
分家があるのは分かる。しかし、分家はともかく岡谷の親戚まで大騒ぎなのは解せない。
「言ってなかったっけ? 諏訪と親戚だってこと」
初耳である。
しかしなるほど。イヤに気安い仲だと思っていたが、親戚だったのか。
「ウチの祖母の祖父の妹が、諏訪の…面倒だから親戚って言うけど、とにかく結婚して、私が産まれましたとさ」
「へえ、意外だね」
「意外って?」
「あんまり似てないからさ」
「そりゃあねえ。何代も前の事だし血の繋がりなんて有るんだか無いんだか。ウチは至って普通の家庭だよ」
そう言い、岡谷は笑った。
―――
講義が終わり、榮は『万屋 矢尾』へ戻って来た。
カラリと玄関の引き戸を開け靴を脱ぎ、休憩部屋兼電話番部屋に鞄を置く。
古物買取受付への戸は閉まり、話し声が聞こえてくる。矢尾はどうやらお客様の応対をしているようだ。
それならば、と。
鞄を再び肩にかけ、榮は階段を上り私室へ向かう。
襖を開けると引き出しのついた小さな座卓。
引き出しを開けると中に覗くのは、光を弾く出刃包丁。
『おう、帰ってきやがったか。今日はなに作んだ?』
出刃包丁の声が榮に聞こえてくる。
しかし榮が驚く事はない。いつもの事だからだ。
この出刃包丁は自意識を持っている。そして人斬りの持っていた太刀が打ち直された物だ。
人斬りが持ったからこうなったのか、こうだったから人斬りとなったのか。卵が先か鳥が先かなので気にはしていない。
そしてついでに何物をも切り裂く切れ味を持つ。加えて切れ味が落ちない。手入れを怠る面倒くさがりにも心強い。
「今日は何にしようかな。何かリクエストある?」
『おう、随分と殊勝な心がけじゃねえか。そうだな、まずは肉じゃがだ。タマネギ多めのな。それにこの前切ったあの魚、もっかい切らせろ』
この前切った魚というと、カツオか。
茅野さんの息子さんが送ってきて下さったという、旬の戻り鰹。
依頼で茅野さん宅を訪れた時の帰り、スチロパールに入った一尾丸々を頂いたのだ。
榮とて大魚を捌いた事はない。だが、次の依頼が二丁目の白馬さん宅だった事が幸いした。
白馬さん宅は魚屋さんである。それもかなり老舗の魚屋だ。
『万屋 矢尾』へ舞い込み、榮がこなした依頼は『迷子の飼い猫探し』である。
魚屋なのに猫を飼っていていいのかと聞きたかったが、猫の好物は魚であるという話は嘘であるらしい。
それに店頭で招き猫のように可愛がられていたし、盗み食いをしたことがないとも言っていた。
二十歳を超える老猫だがまるで衰えが見えない『速魚』と名付けられた三毛猫だ。
大鹿さん宅の我王との仲も良く、散歩途中にその背中にちょこんと座っていた事もある。
探す際、我王のお世話になった事は秘密だ。
結局見つけたのは、近所の公園のベンチの下。捨てられたと思われる子猫を暖めていた。
離そうとすると速魚に威嚇され、我王からも助けてほしいという視線を向けられた。
榮としても何とか助けたい。
白馬さんに事情を説明すると、それならば一緒に連れてきても構わないと言った。
速魚がそこまでするのだから事情があるのだろう、と。なんという信頼なのだと、榮も驚愕した。
結局、その子猫は『千尋』と名付けられ、白馬さん宅で飼われる事になった。
速魚も猫っ可愛がりしているらしいし、仲の良い親子である。羨ましい。
その後お礼も兼ねて、と言う事で白馬さんにカツオの捌き方を教えて頂いた。流石、長年の技だと感心したものだ。
カツオを捌く際になって極楽丸が捌き方を知っていると言った。その通りに切ると素晴らしく上手く捌く事が出来た。
元太刀のくせをして何故知っているのだと聞くと、魚を捌くのに使った馬鹿がいたらしい。
太刀をそんな事に使うなど、不届き者もいるものだ。
とにかく、今日の晩御飯は決まった。
しかしカツオはもう食べてしまって残っていない。
旬のサンマを買って食べるのがいいだろう。生憎、包丁の出番は少なくなりそうだ。
『榮、来て頂戴』
「はい、ただいま」
矢尾の声が聞こえたのでそう声を返す。
部屋を出て、キシキシ音の鳴る階段を下りる。
さて、どのような用事だろうか。今日は依頼も入っていないし、古物買取の方もお一人だけだ。
もしかするとお夕飯のリクエストかもしれない。買い物にも行っていないから、変えるとしても問題はない。
スラリと襖を開けると、やはり黒いドレス衣に身を包んだ妙齢の美人。矢尾である。
少しずつ肌寒くなってきているというのに、真夏と殆ど変り映えがない。
そしていつも通り、年齢不詳であった。
「矢尾さん、ご用は」
そうしてもう一人。
矢尾の隣にもう一人、女性が立っていた。
「こちらレイコ。私の同業よ」
「紹介された通り、九十九レイコだ。よろしく、榮君」
白磁のように肌は白く。青磁のように青い眼を。
陶器のように細く整った目鼻立ちに、墨のように黒い髪。
衣服は紙のように滑らかで、藍染のように鮮やかな。
九十九レイコと名乗った女性はそう言うと、握手を求めてくる。
握手しつつ、疑問をレイコへ投げかける榮。
「矢尾さんの同業の方というと、万屋を?」
「ああ。矢尾がやっているのを見て面白いと思ってね。試しに経営しているんだ。だがまあ、まだまだひよっこだ」
なるほど。
同業者の経営方法などを訪ねに来たのだろう。
榮自身、万屋という店はここ『万屋 矢尾』しか心当たりがない。全国的に見てもそう多くはないのだろう。
互助会も聞いた事がないし、伝手を頼るものなのだろう。
「コネも何も無いから、少しばかり紹介をしてもらいたんだ。引き取るついでにね」
レイコは朗らかに笑いながら言うが、なんとも世知辛い。
どんな業界の商売でも新規参入は難しいものだ。始めはそんなものなのだろう。
それに九十九。
その苗字に、榮は聞き覚えがあった。
―――九十九? 九十九というと…
夏に入る前後、そんな苗字のお客様が来店されたような。
そのお客様もレイコと同様、肌は白く青い眼を。
常磐色に染められた光沢のある衣服を身にまとっていた。
確か名前はシミヤと名乗っていたか。
何だか年代物のお皿を何枚か持ち込んでいた。
矢尾が二束三文で買い取ったと憶えている。
「シミヤさんの…ご親族、ですか?」
「ああ、あれも来ていたのか。シミヤは弟分でね。その辺をふらふらほっつき歩いているんだが、そうか、生きていたか」
生き死にが分からない位に帰らない奔放な人だったのか。
とてもそんな人には見えなかったが。
「ところで、何を引き取りに来たんですか?」
先ほどレイコが言った『引き取るついで』
何を引き取りに来たのか、少しだけ気になったのだ。
「箪笥よ、箪笥」
矢尾がそう言う。
―――箪笥、箪笥? 箪笥なんてあったっけ?
蔵の中には曰く付の代物がたくさん眠っているが、箪笥は見た事がない。
きょとんとしていると、矢尾が溜息を吐いて榮を見つめた。
「貴女の部屋にあるでしょう。使ってないの?」
ああ、そういえば。
部屋の片隅に一棹置いてあったかと、今更思い出す。榮が二階の一部屋に入った時には置いてあったか。
榮の背と同等くらいの木製の和箪笥だ。随分と年季が入っていたから、きっと骨董品の範疇だろう。
榮の持つ衣服など数える位だから、小さめのカラーボックスに全部詰め込んである。
「あー…忘れてました。そうですか、あの箪笥を引き取りに」
「レイコの案内よろしく。それと、持ってく時に手伝ってあげて」
そう言うと矢尾は、さっさと蔵の方へ行ってしまった。
「それでは案内します。部屋は二階ですから、足元に気を付けてください」
「ああ、よろしくね」
榮が先頭に立って廊下を歩く。
夕方という事も手伝って廊下は薄暗く、階段は更に暗い。
電灯は橙色の弱い物で頼りない灯りだ。
「いや、驚いたね。あの矢尾が自分の領分に人を住ませるんだから」
「そんなに驚く事なんですか?」
「ああ、勿論だ。伊達に後継者じゃないね」
なんだかいつの間にか後継者扱いされている。
アルバイトやら丁稚やら相棒だとは言われたが、流石にこの呼ばれ方は初めてだ。
「…誰が言い出したんですか、それ」
「業界じゃあ有名だよ。万婆も耄碌したとか、取って食う為に太らせてるとか、色々」
酷い言われようだ。
全く誰が言っているのやら。
そうこうしている内に、榮の部屋の前へ着いた。
元々そんなに遠い道のりではないのだ。
「入ってもいいかい?」
「はい。片付けてあるので見苦しい物は―――」
そうして襖へ手を掛けるレイコ。
その瞬間、榮は思い出した。
―――あっ! 包丁が!
そう言えば座卓に置きっぱなしだ。
普段は引き出しにしまっているのに。
急に矢尾に呼ばれたからそのまま部屋を出てしまったのだ。
これでは変な目で見られてしまう。
しかしもう襖は開かれつつある。ススス、と開かれ、座卓が見えた。
―――て、手遅れか!
その途端、レイコが倒れた。
バタリと、真後ろに。
「つ、九十九さん!?」
慌てて抱き起こすも、眼が大きく見開かれ過呼吸気味に呼吸が浅い。
それに顔からは汗が吹き出して体も熱くなっている。
何が何だか分からないが、このままでは危なそうだ。
「や、矢尾さん! 矢尾さーん!」
大慌てで矢尾を呼ぶ榮。
すると少し経って矢尾が姿を現した。
「うるさいわね全く…って、どうしたの?」
「え、ええっと、襖を開けたら倒れちゃいまして…ど、どうすればいいんでしょう」
「そうね…下に運んで頂戴。布団敷いておくから」
そう言い矢尾はさっさと下に降りてしまった。
部屋を覗き込んだようだが特に何か言うわけでもなく。
榮はレイコを背負い、階段を下りる。彼女の身体がイヤに軽いのが印象に残った。
―――
「えっと、矢尾さん。九十九さん、お帰りになられたんですか?」
レイコを布団に寝かせてしばらく、矢尾に部屋に戻っていろと言われた。
榮としても出来る事はないと判断し、部屋に籠って漫画を読んでいた。
とある雪国のファミリーレストランの舞台裏に焦点を当てた漫画だ。
誰か当てはめるとしたら、榮はきっと普通の人だ。
それはさておき。
夕食の支度をするため一階に下りると、レイコの姿はなかった。
布団も片付けられていた。帰ってからしばらく経っているのだろう。
「ええ。もう全快したみたい。それにレイコも忙しいから」
「えっと…持病、ですか?」
「レイコ、感受性が強くって。悪い物でも食べたのかしらね」
まさかあの包丁の『悪意』にでも中てられて気絶したのではあるまいか。
もしそうだとしたら、流石に包丁を処分せねばなるまい。
「えっと…処分した方がいいですか?」
「処分って箪笥? そのままにしときなさい。下手に動かすと危ないから」
「え、あ、はい。そうですね。そのままにしときます」
―――九十九さん、大丈夫かな。
とても尋常な様子ではなかったように見えた。
だが、矢尾が大丈夫と言ったのだ。自分が心配するなど烏滸がましいだろう。
「それと榮、今月末頃なのだけれど」
「はい。出張ですか?」
「ええ。けど少し遠い所なの。生憎、貴女は連れていけないわ」
『万屋 矢尾』が出張する頻度は案外多い。
山が多いこの県を東西南北。地主の方や旧家の方を対象に、蔵に所蔵されている貴重品骨董品の管理をしたりだ。
何度か出張に同行したが、菫さんの家の蔵ほどに大きい物には出会った事がない。
果たして菫さんは何者なのだろう。邪推しても仕方ないが。
「分かりました。何日くらいになりそうですか?」
「そうね。長くて五日間。いくつか依頼が入っているから任せっきりになっちゃうけれど、お願いね」
そう言い、矢尾は再び蔵の方へと歩いて行った。
しかし五日間にも及ぶ出張とは。余程大口のお客様なのだろう。
どうせなら着いて行きたかったがまあ仕方がない。榮は学生なのだ。
それはさておき。
夕食の買い物をする為、榮は『万屋 矢尾』を後にする。
路地を幾つも折れ曲がり車通りの少ない道路へ出る。そこから歩いて十分ほど。
人通りで賑わう商店街が見えてきた。
八百屋に魚屋に金物屋。
総菜屋に石屋に煎餅屋。
和菓子屋に豆腐屋にお茶屋。
その他色々。
この商店街に来れば大抵の物は揃ってしまう。
商店街が衰退する昨今。ここまで賑わっている商店街も珍しいのだろう。
近くに大型スーパーや食料品店も建っているが、何故だかこの商店街は盛況なのだ。
古くからの付き合い、という奴だろう。それだけが良いと盲信するわけでは無いが、こういうのは風情があって良い物だ。
―――サンマは買うとして他に何か…うーん、どうしようかな。
何を作って出しても矢尾は美味しそうに食べるし、榮にも特別苦手な物はない。
そういえば以前、すいとんを作った時になんだか感慨深そうに食べていた事を思い出した。
小麦粉はあったから、白菜や人参を多めに買ってまた作ってみよう。ついでに安めの野菜でも買って野菜炒めにでもしようと思い立ち、八百屋へと歩き出す。
するとポン、と肩を叩かれた。
誰だろうと後ろを向くと、そこにはウェーブがかかり艶が眩しいブロンドの髪。
そしてこう声をかけられたのだ。
「やあ、榮後輩」
「あ、鬼無里さん」
鬼無里先輩である。お昼に会った時と変わらずに美人である。
「榮後輩は買い物かね」
「はい。お夕飯の買い出しです。鬼無里さんは?」
しかしどうしたのだろうか。この商店街で会うなど初めてだ。
この辺りに家を借りているとも聞いた事はない。実家は遠くにあるとも今日言っていた。
「後輩に連れられてね。ここに美味しいコロッケが売っているらしいんだ。何分、コロッケには目が無い」
コロッケ。ふむ、なるほど。
ジャガイモを茹でて潰して塩胡椒で炒めたひき肉タマネギニンジンを混ぜて形成し、小麦粉溶き卵パン粉を塗して揚げるだけ。
油の扱いが少々面倒だが、これほど簡単な料理も珍しい。
買って食べるのは割高なので、今度作ってみようと思う榮だ。
「ところで鬼無里さん。その後輩って―――」
「せんぱ~い。コロッケ買ってきま―――げぇっ、榮!」
紙袋を手に持ち、スキップをするように鬼無里先輩に寄ってきた一人の少女。
大きい勝気な眼は周囲を威圧しているような印象を与えている。そして明るい茶色の髪の毛は小麦の化身のよう。
肩から掛けた鞄にはもふもふとした尻尾のアクセサリを付けている。狐か何かの尻尾のだろう。一度モフらせて頂きたい。
榮よりも随分と低い身長。とはいえ榮もいうほど高くはないが。
「あ、穂高さん」
彼女は『日本全国特産研究会』所属の二年生の一人。その名も穂高。つまり榮の先輩である。
「な、なぜここに榮が…ま、まさか近所に…」
「はい。十分くらいの所に住んでますよ」
そう応えると、穂高先輩の顔が面白いように引きつった。そうして少しずつ榮から離れていく。
しかし榮は逆に穂高先輩へ近づく。
「な、なによ、近づかないでよ!」
「まあまあ」
「まあまあって何よ! 言葉喋ってよ!」
「まあまあまあ」
唐突に榮は穂高先輩を抱き締めた。
榮としては珍しく無理矢理に。
「や、やめ―――はふぅ」
ギュッと抱きしめ頭を撫でると、穂高先輩はきゅうきゅうと喉を鳴らして表情を溶かす。その顔は赤らめられ気持ち良さげ。
幾分か高い体温が榮に伝わってくる。我王が擦り寄ってきた時や速魚が膝に乗ってきた時のようだ。
「全く君たちは仲が良い。少し嫉妬してしまうね」
「…はっ! 違うんです先輩これは―――」
「よしよし」
「はふぅ…ちょっと離してよ!」
抱き締めていた穂高先輩からグイグイと押され離れてしまった。
穂高先輩の顔は真っ赤に染まっている。きっと恥ずかしかったのだろう。
公衆の面前で抱き締められて頭を撫でられて。
「ふうふぅ…何で急に抱き締めんのよ!」
何でと言われても、抱き締めたくなったからとしか言いようがない。
「あ、鬼無里さん。コロッケ冷めちゃいますよ」
「うむ、頂こう」
「あー! 何時の間に!」
包みに入ったコロッケを鬼無里先輩に渡す榮。
穂高先輩が持っていた物だ。抱き締めた時に落としそうだったから拝借しておいた。
「ふむ、中々の味だ。程よく水気が含まれている。市販のコロッケはパサパサした物が多くてね。こういう、手作りした感のある物は好ましい」
「よ、よかったです先輩っ! 伝手を辿ったかいがありましたっ!」
まるで褒められたイヌ科動物でも見ているようだ。
尻尾がブンブンと振れているような、耳がピコピコ動いているような。
うん、可愛い。
「んで榮、ドコ住んでるのよ。この辺りにアパートなんてないでしょ」
そう訊く穂高先輩。
確かにこの商店街の周辺にアパートを始めとした借家はない。
アパートが一軒建っていたが、それも以前燃えてしまい未だ再建されていない。
「向こうに『万屋 矢尾』ってお店があるんです。ご存知ですか?」
そう言うと鬼無里先輩、穂高先輩両名の視線が榮に向いた。
何か信じられないモノを見たかのようだ。
「あ、ああ、知っているよ。その店は、そうだ。有名だからね」
「そ、そそそそれがどうかしたっのかしらっ!?」
なんだか二人が慌てている。
古くからある店のようだし、いろいろと有名なのだろう。
「そこで下宿させてもらっています」
そう言うと、穂高先輩から何か可哀想なモノを見る眼で見られた。
なんと失礼な。もう一回撫で繰り回してやろうか。
「…ふむ、やはり榮後輩は榮後輩だな」
その後何言か話し、榮は当初の目的を果たして『万屋 矢尾』へと戻った。
そして滞りなく夕飯を矢尾と共に食べ、その日は寝床に就いたのだった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:サンマの塩焼き
設定:
至って普通の大学生。
いつの間にか『日本全国特産研究会』の一員になっていた。そして向けられる好意には弱い。
岡谷と諏訪が親戚だと聞き『似ていない』と評した。
刀を使って魚を捌いた者がいると聞かされ『不届き者』と評したが、人の事は言えない。
彼女の評価はいつの間にか『後継者』に。本人は辟易しているが。
先輩である穂高の事が好き。撫でるとまるで動物みたいに喜ぶから。
・名前:岡谷
職業:大学生
好物:うどん
設定:
短髪で陽気な大学生。
秋に突入し肌寒くなって来た為、いつもの変Tは箪笥の奥へ。衣替えの時期。
うどんを穢されると激怒する。普段の温厚な様はどこへやら。
彼女と諏訪は親戚である。彼女の『祖母の祖父の妹』が諏訪の家に嫁いだとか。
友人に『似ていない』と評されるも、自嘲気味に笑うにとどめた。
鬼無里は『命の恩人』らしい。
・名前:鬼無里
性別:女
職業:大学生
好物:コロッケ
設定:
『日本全国特産研究会』の傾国美女な会長。三年生。
そこに立つだけで注目を集めてしまう程に美麗な面持ちをしているが、一癖も二癖もある者が集う『日本全国特産研究会』の会長らしく、本人も中々に変人。
諏訪とは同じ学部で違う学科。お互い面識はあるらしい。
大学の教職員に『恩と貸』があるらしく、書類偽造もなんのその。
『きっくん』と呼ばせたい程度には榮に好意を抱いている。他の人が呼んだら? 殺されます。
岡谷を『同輩』と呼んでいる。同じ釜の飯を食えばもう仲間なのだ。
美味しいコロッケの噂を聞けば全国津々浦々。その為ならば、少し遠めの商店街にも遠征する。
出身は山深い村落。岡谷が迷い込んだ場所。
・名前:速魚
性別:メス
職業:猫
好物:カツオ節
設定:
白馬さん宅で飼われている三毛猫。二十歳以上。
普段は魚屋の店頭で招き猫兼番猫をしている。店主からの信頼は厚い。
かなり高齢のハズなのにそうとは見えない程に化け化けしている。
我王とは種族の垣根を越えたパートナー。昔、彼に助けられて一目惚れ。
義娘に『千尋』がいる。我王と共に猫っ可愛がりしているらしい。
・名前:九十九
性別:女
職業:万屋
好物:酒
設定:
陶器を擬人化したような女性。
矢尾の昔馴染みらしい。名前で『レイコ』と呼ばれている。
連絡を伝えるついでに箪笥を引き取りに来た。
そのまたついでにお客を紹介してもらうつもり。
榮の部屋の襖を開けた途端、気絶した。もう人外魔境になっているので。
弟分に『シミヤ』がいる。こちらはあちこちを放浪している。
・名前:穂高
性別:女性
職業:大学生
好物:稲荷寿司
設定:
『日本全国特産研究会』の愛玩動物な二年生。
美味しいコロッケの噂を聞き、鬼無里を連れてデートを敢行した。
榮に抱き締められてしまう程に小さいが気は強い。
榮の事は苦手。しかし頭を撫でられ抱き締められ顔をほにゃりと溶かしてしまうあたり、榮には弱い。
榮は彼女にイヌ科動物の姿を幻視した。尻尾を振るような耳を動かすような。




