表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/56

呪宿のお話 恋編

恋編の『恋』は、恋する彼女は強引での『恋』です。

 ―――ズン…!


 地面を揺るがす振動で、彼女は目が覚めた。


「今の…」


 彼女が持つ尋常とは違う感覚が異常を感じ取った。

 常人では何も感じ取れないであろう異常。慌てて布団を飛び出し箕輪の元へ走る。


 箕輪は彼女にとって、公私ともに相性の良いパートナーである。

 付き合いは長く、彼女が小学校に入る前から共に『家業』を手伝っていた。

 彼の仕事は渉外が主。人付き合いの下手な榮に代わり、所外との交渉を一手に引き受けている。

 時には彼女の『家業』のサポートにも入る事も。


 スパン! と襖を開けると、箕輪が慌てて支度を整えていた。

 対して彼女は就寝していた時のままの衣服。白襦袢である。年頃の女性としては問題があるだろう。


「お嬢、先ほどの振動は…」


 やはり箕輪にも感じられたようだ。

 流石、分家から選りすぐられた実力者なだけはある。

 常人では何も感じられず、特に『力』の強い者でなければ異常の波紋を察知する事すら出来ない。

 先ほどの振動はそれだ。父と母は未だ眠ったままだろう。


「とても強い『呪い』の波動を感じます。白它神社の神域から」

「やはり…部隊派遣の連絡を」


 そう言い、箕輪は部屋を出ようとする。


 彼女の『家業』は政府直轄の組織『異能対策部』の第三課『呪物取締係』に位置している。

 詰まる所『呪い』のエキスパートだ。直轄の部隊ならば、人間が操る『呪い』など苦も無く浄化できる。


 しかし彼女はそれを止めた。


「いえ、この『呪い』は尋常のモノではありません。人間が創り出すそれとはかけ離れすぎている。恐らく『神』に類する何かが白它神社に」

「まさか…」


 人間の『呪い』ならば。

 しかし感じる『呪い』は『神』のそれだ。

 第三課の者では、手も足も出ずに死んでしまうだろう。


「まさか、水脈から流れてきたモノでは」


 箕輪の言葉に考え込む彼女。

 以前から観測されていた、水脈に潜む特大の『呪い』の塊。

 高位の『神』が遺したと推察されるそれは、彼女の『家業』での最大の懸念事項だった。

 物理的に排除しようにも地下深く。霊的に浄化しようとするも逆流し冒される。現状、打つ手はない。

 上層部も最寄の、彼女の家に丸投げしている。それ程、強力な『呪い』なのだ。


 しかし、地表に現れるのに数百年以上かかるとも予想されていた。

 それを鑑みると、早すぎる。

 次代の神が誕生に呼応したのか、それとも…


「現状、原因は不明です。しかしこのままでは『呪い』はこの町を覆います。いえ、それ以上かもしれません」


 人間が創り出した『呪い』ですら、村一つを覆って伝播し周囲一帯を破滅させた事例がある。

 一人も残さず死に絶え、地や水すらも冒し向こう百年は立ち入る事が出来なくなった事さえあるのだ。

 稀とはいえ事例がある以上、油断はできない。


「私が出ます」

「お嬢…」


 もう一刻の猶予もない。

 このまま拡大を続ければ、朝日が昇る前に町を覆う。

 部隊が役に立たない以上、自分が行くしかない。

 この町の、神社の管理者として。


 奥の手はある。

 人の『力』では『神』に届く事はない。

 ならば、自らを『神』の領域に引き上げればいい。

 その為の奥の手が、彼女には存在した。




―――




 『白它神社』は、彼女の住む神社が建つ山を少しばかり降りた場所に建立されている。

 最短路は山を走り森を進むこと。

 自身の身体を『力』で強化する事で運動能力を底上げし、十分ほどで到着する事が出来た。

 寝巻の白襦袢ではなく、青を基調とした袴。そして白い胴着。どちらも動きを阻害させないような拵えとなっている。

 これが彼女が『家業』を行う際の戦闘服だった。


 そして境内に入った瞬間、異変に気付いた。


 ―――『呪い』が満ちてる。長居は危ないか…


 身体が重い。呼吸がし辛い。

 『力』で身を包み『呪い』を反発させる。しかし気休め程度にしかならない。

 それ程までに、この場に満ちる『呪い』は強大なモノだった。

 先へ進み、異変の中心へ向かう。そして神域へと立ち入った、その瞬間。


 ―――っ!


 境内とは比べ物にならない程、神域には『呪い』が充満していた。

 ただ『力』を纏っただけでは役に立たない程の密度を持った『呪い』が。

 反射的に、彼女は奥の手を使った。


 『神宿』


 その瞬間、身体からは止めどなく莫大な『力』が噴出した。纏わりつく黒い『呪い』は弾け飛んだ。


 信仰する『神』をその身に宿し、その権能を顕現させる『力』

 人間のまま『神』に近づく、きっと唯一の方法。

 人と共に在る『神』が希少となった今、それが出来るのはきっと彼女だけだった。

 

 『神宿』の影響か、彼女の烏の濡れ羽と形容できる黒髪は深い藍色へと変貌した。

 あと数秒遅れていたら、そのまま死んでいた。


「―――はっ、はっ」


 いくら『力』が強くとも、人間と『神』では届きようがない差がある。

 しかし今、彼女は『神』にすら届き得る『力』を発揮していた。


 だが、強大な『力』にはリスクが存在する。もちろん『神宿』にも。


 ―――急がないと、間に合わない…


 まず一つ。この『神宿』には時間制限が存在する。

 大きすぎる『神』の『力』を人の身に宿すのだ。

 長くとも五分。それ以上は身体が耐えられない。

 

 そして一つ。連続で行う事が出来ない。

 短くとも一週間の休息が必要となる。

 『神宿』後、全身が筋肉痛で動けなくなるのだ。 


 つまり今、彼女は危機的な状況だった。

 五分以内に異変を解決しきる。そうしなければ、そのまま『呪い』に呑み込まれる。


 ―――初めて、かな。こんなに追い込まれたのは。


 しかし解決せねばそれまでなのだ。それに、今の彼女には絶対に帰らねばならない理由がある。


 ―――待っててね! 絶対に帰るから!


 彼女の部屋で眠っている、最愛の友人の顔を思い浮かべる。

 それだけで、力が湧いてきた。


 息を整え顔を上げる。すると目の前には『沼』が広がっていた。

 庵が建っていたハズの場所に、全てを呑み込んだように。

 ドロはこんこんと湧き上がり環流している。そしてまるでヘドロのように『呪い』をまき散らしていた。


 ―――水脈に乗って、は間違いない。けど、目的が分からない。


 とても強い『呪い』の気配だ。異変の元凶は沼の内部にいるのだろうとも推察できた。

 だが目的が不明のままだ。まるで『呪い』をまき散らす事を目的にしているようにも思えた。


「あれは…ミシャグ様!」


 沼を飛び越え駆け寄る。

 漆黒の沼の傍ら。一本の樹にを背もたれにするように力なく項垂れる白い姿が。

 古来からの祟り神『白它神社』が祀る『神』が、変わり果てた姿でそこにいた。


 真っ白いハズの髪はほぼ全てが黒に染まっていた。

 弱い弱い呼吸が聞こえるだけだ。呼びかけても反応がない。


 ―――『呪い』が侵食してる…これは、もう…


 間に合わない。あと数分と経たずに、彼女は消えてしまう。

 だが、彼女に打つ手はない。見捨てるしかなかった。


 横たえ結界を貼る。

 ほんの僅か『呪い』の侵食を抑え込むだけ。気休めにもならない。

 だが、彼女が大元を始末する事が出来れば、もしかしたら。

 その可能性に賭けたのだ。


 ザリ、と『沼』の縁に立つ。

 だが飛び込むわけにも行かない。これだけの『呪い』の塊、たとえ『神宿』をしていようと侵食されてしまう。

 一秒保てば奇跡だ。


 ―――手詰まり…


 策はない。

 それとも一瞬に賭けて『沼』に飛び込むか。

 

 ―――トプン…


 決めあぐねていると『沼』が蠢いた。

 視線を向けると『沼』の中心から浮き上がるように、何かが出てくる。

 何かの浮き上がりと同調するように、吸われるように『沼』は縮小を続ける。

 何かが完全に現れると『沼』は消滅した。

 

 人の形をした『泥の塊』異変の元凶が顕れた。


『―――』


 『泥の塊』が腕を上げようとする。しかしそれよりも速く、彼女の拳が襲い掛かった。


 彼女が行使する『神宿』

 それは信仰する軍神の権能を反映してか、膂力の上昇だ。

 打撃力、蹴撃力、持久力、瞬発力、その他の物理的な力。

 今の彼女ならば、身の丈を大きく超える巨石を持ち上げ、投げ、砕く事は容易い。

 そして短距離ならば、残像を残すほどの速さで動く事も可能だ。

 高位の『妖』ほど物理的な側面も強いのが通例。

 『神宿』はそんな『妖』をも打ち砕く。そして彼女が元来持っている『力』の強さも合わさり、極めて効果的な策となっていた。


 敢えなく『泥の塊』は吹き飛ばされ、木々を薙ぎ倒して飛んでいく。しかし止まる彼女ではない。

 地面が陥没するほどの踏み込み。高速で飛ぶ『泥の塊』に肉薄し、拳を振り下ろす。


 ―――ズ、ズン…!

 

 地響きと共に土砂が巻き上がった。直後、視界が晴れる。

 彼女の拳は『泥の塊』の腹部に呆気もなく、突き刺さっていた。


『―――』


 まるで吠えるように『泥の塊』が音を発した、瞬間。ブワリと。

 腹部に突き刺さる彼女の拳に絡み付くように『泥』が這いずった。


「―――っ!」


 腕に流れている『力』を爆縮、そして解放する。

 眩い閃光と共に発生した圧力は更に地面を削り『泥の塊』を押し潰した。

 『神』のみが可能とする『力』の爆縮・解放。その領域に入っているだけあって、彼女にも行使する事が出来た。

 しかしその規模は比べるべくもない。百分の一程の威力があれば上出来だ。


 爆風に乗り跳び上がり、距離を取る。

 右腕が痺れていた。先ほどの『力』の反動とはまた違う。

 先ほどの『泥』の影響だ。直接流し込まれれば『神宿』をしていようが関係がない。

 相性は最悪だった。

 彼女は打撃でしか攻撃する事が出来ず、しかし『泥の塊』は接触面から『呪い』を流し込む。


 土煙が晴れる。彼女はそちらに視線を向けた。

 

『―――』


 依然『泥の塊』は健在だった。

 高位の『妖』ですらも滅する『神宿』の一撃、そして『力』の直撃を受けて尚、僅かに抉られただけ。効果があったのは幸いだが。

 ただの『呪い』にしては頑丈すぎる。しかし高位の『神』や『妖』のように高度な知性も感じられない。

 ちぐはぐなのだ。


『―――ス、ツ―――』


 何か聞こえたが聞き取れない。

 しかし何かを喋った直後『泥の塊』の頭に当たる部分に、グパリと亀裂が入った。

 何もかもを呑み込んでしまうような。底が見えぬ真っ黒な穴が現れた。


『―――ブ、ス―――』


 またも何かを喋った『泥の塊』

 その途端、黒穴から黒い液体が流れ出た。

 黒い液体は地面に落ちた瞬間、染み込む前に蒸発を始める。


 瞬く間に周囲に満ち、霧状のそれは彼女をも呑み込んだ。

 視界が僅かに黒ずむ。妨害の為かと考えながら攻撃に移る。地面を踏み込んだ。

 その時、異変に気付いた。


 ―――『力』が抜けてる…?


 先ほどの踏み込みとは比べるべくもない。

 年相応の陸上選手のクラウチングスタートのように弱々しい突撃。

 そして気付く。この黒い霧が、自分を弱体化させているのだと。

 

 もう止まれない。このまま突撃するしかない。

 だが。

 弱体化を受けているのならば、それ以上の『力』を出せばいい。

 『力』更に強める。それは『神宿』によるブーストによる物だけでなく、彼女が生来持つ『力』の底上げ。

 勿論、真っ当な技ではない。反動も大きいが、構うものか。


 二歩目の踏み込みで、彼女は更に加速した。

 初撃よりもずっと速い。音をも置き去りにした踏み込み。


 次の瞬間に現れた彼女は『泥の塊』の間近へ迫っていた。

 両拳を重ね『泥の塊』の腹部へと添えて、そして両拳の周りには白く輝く靄が纏わりついていた。

 『泥』が両腕を這い上って来る。しかし『呪い』を流し込まれるよりも早く。


 『力』の爆縮、そして解放。

 

 全方位に向けた攻撃ではなく、指向性を持たせた一撃。

 過去、極めて強力な『妖』との実戦の中で、数度しか使った事のない『神宿』の『力』の爆縮・解放。

 それを今ここで、実戦で初めて応用し、行使した。


 眩い白い線が『泥の塊』を貫く。

 途端『泥の塊』の瑞々しかった泥が乾き、ヒビが入る。


 しかし予想以上に反動が大きい。

 両の肘から先が強く痺れていた。


 ガラガラと音を立て、泥が崩れ落ちて行く。

 土煙が上がり、視界が遮られた。

 効果はあったようだが、この状態でまともな一撃を撃つ事はままならない。

 これで消え去ってくれることを願うばかりだ。


 少しずつ土煙が晴れる。


 ―――これで…あれは?


 僅かに覗けるその中からは、肌色の何かが見て取れた。

 すぐに隠れてしまったが、ハッキリと。

 

 ―――人の…? まさか…


 誰かを憑代としていたのか。彼女としてもこれは予想外だった。

 地下から噴出した『呪い』が人を憑代としているなど。

 思えば気付くべきだった。たとえ強力な『呪い』だろうと、憑代が存在しないで行動できるはずがない。

 一部例外も存在するが『神』や『呪い』は、人や物を憑代として受肉し、初めて最大限に『力』を発揮する事が出来る。

 しかしその『力』が強ければ強いほど、憑代と出来る人や物は限られる。

 あれ程に強い『神』の遺した『呪い』を纏っているのだ。素質が無い者は触れただけで冒される。

 そして、自分以上に素質がある憑代を、彼女は知らなかった。


 ―――誰が…?


 風が吹き、土煙が晴れる。

 泥が剥がれ、憑代となった人物が、姿を現した。


 肌のあちこちには赤黒い血管のような紋様が走り、衣服は泥で黒く染まっている。

 黒かった髪からは色素が抜け灰色に。

 左腕は黒で覆われている。まるでそこだけに凝縮したように。

 そして、元の面影など存在せず。


「―――どうして…?」

 

 彼女の最愛の友人が、凶悪な『呪い』を纏い、全てを憎む表情で彼女を睨んでいた。




―――




 彼女は幼い頃から、神童と呼ばれて育った。

 異常な素質。異質な才能。特異な『力』をも持ち、更に鍛練を欠かす事はなかった。

 最早、同年代の彼ら彼女らと比べるべくもない。一歩二歩、では済まない。百歩千歩、億歩も離れた場所に彼女は立っていた。


 だから、彼女は孤独だった。


 置き去りにした彼ら彼女らは彼女と距離を取り、その親御は彼女を腫れ物のように扱う。

 『神の寵児』『辰子』『水の宿子』とも、そんな呼ばれ方はいくつもあった。

 自分にだけ視える『神様』に相談したこともある。

 友達が欲しい、と。気軽に話が出来る、そんな友達が欲しいと。


『そんな奴ら放っとけ。お前はあんな奴らと違う。関わるな』


 結果は変わらなかった。

 どこにいても、彼女は孤独だった。

 諦めにも似た境地に立ち、心を閉ざそうと考え始めたそんなある日の事だった。

 両親から、先祖代々縁のある『家』への同行を求められた。

 もう、何かを考えるのも諦めていた。だから、何も考えずに頷いた。


 とてもよく晴れていた事を覚えていた。車に乗って数時間。

 車窓からの景色は木、木、木。車を降り少し進む。

 森が切り開かれ石畳が続いた先、山の中腹ほどに建った家だった。

 

 そして森に入った瞬間、彼女は『神様』の存在を感じ取った。

 彼女にしか視る事が出来ず、誰からも理解されなかった存在を。


 滞在する間、傍付として宛がわれた同年代の少女。

 その少女もまた、彼女とどこか同じ眼をしていた。

 『何か』を諦めた者が持つ、光を宿さない眼。


 きっと少女も同じだと。そう直感した。

 そしてその夜、彼女に訊いた。


『アナタ、神様、信じる?』

『…気持ち悪い』


 その時彼女は、初めて涙を流した。


 何もかもを諦め、彼女は陽だまりの森の中にいた。

 朝早く寝床を抜け出し森に繰り出していた。

 どこか近親感を感じる空気で、彼女は心を閉ざす事に決めた。


 誰かの意思で動く人形に。

 誰かの言葉で操られる様に。

 

 青々と生きた森。ここならいい。

 蝉の合唱。風の囀り。自然の中で消えるのならば。

 動物の気配。森の匂い。そして木々を跳び回る物音…物音?

 耳を澄ます。枝を揺らす音が近づきつつある。それも、かなり速い。


 まさか『妖』の類か。

 神域の気配が近いこの森。その可能性は低いと思われるが、もしもの備えだ。

 『力』を巡らせ強化を施す。これだけで、並みの『妖』は滅する事が出来る。


『うわとぉ!』


 ―――バキバキベキ、ドシン!


 彼女の目の前に落ちて来た。多くの枝葉と一緒に。

 どうやら足を踏み外したようだ。だがその影は、彼女と同年代の子どものように見えた。

 いててと言いながらキョロキョロと辺りを見渡し、打ったのだろう頭を押さえている。

 そうして彼女とその子どもの目が合った。


『あなた、誰?』


 長く外で遊んでいたのだろう。肌は程よく小麦色。それに半袖に短パン。

 髪の毛は割と短くザックリと切られ、野球帽を被っていた。

 どうやら話を聞くと、傍付の少女のイトコらしい。

 しかしどうにも、傍付の少女とは違い『家業』には関係していないようだった。

 けれどどうせ、信じてはくれないのだ。彼女はこう訊いた。


『アナタ、神様、信じる?』


 傍付の少女に訊いた言葉、一言一句同じことを。

 子どもは僅かに首を傾げて、キョトンとしたようにしている。

 やっぱり、と。彼女は立ち上がり離れようとした。

 誰の眼も届かない場所で、心を閉ざす為に。


『神さまはいるよ!』


 その子はそう言った。

 まるで太陽のように明るい、満面の笑みを浮かべて。

 その瞬間、彼女の心には一筋の光が射し込んだ。


『えっとね。あっちゃんっていうんだけど、何でも知ってるんだよ? この前もね―――』


 目の前の子どもは話を続けるが、彼女の耳に入る事はなかった。

 なぜなら彼女の心には、歓喜が渦巻いていたからだ。


 『信じるか』と問われ『いる』と断言した。

 今までの者は皆『信じてるよ』と、ありきたりな答えばかりを返してきた。

 『神様』が視え、そして話す事が出来る初めての相手。

 逢った事のない同類との邂逅。怪訝な視線を向けられる事もない。


『あ…あのね、私も、その…かっ、神様が視えるの!』


 誰にも信じられず、そして押し込めてきた事実。

 声を荒げ感情を剥き出しにし、吐き出すように彼女は言った。


『ホント!? さっちゃんに言っても気持ち悪いって言われたの! あなたも神さまと友だちなんだ!』


 疑いもせず真っ直ぐに。

 しかし子どもは『友達』と言ってのけた。


『神様と、友達…?』


 彼女の知る神様は、違う。

 『力』の使い方だけを教わり、会話も愛想も殆どなく、気紛れに姿を現し消す。

 神様とは、そういうものだった。

 師と弟子が最も近いのだろう。もっと険悪なものだが。

 

 逢ってみたかった。子どもの言う『友達』に。


『いいよ! けどもうすぐ朝ごはんだから戻ろう!』

『う、うん…』


 そう言って子どもは、彼女に手を伸ばした。

 その手はきっと、彼女にとって初めてのそして最後の救いの手だ。

 彼女は迷わず、そして力強く、その手を―――




―――




 その手に、彼女は首を絞められていた。首を絞めつけるは黒い左腕。憑代のものだ。

 両足は地に着く着かないか。ギリギリと絞めつけられ、呼吸もままならない。

 憑代は相変わらず、彼女を厳しく睨み付けていた。


 『泥』を剥がした後、彼女は危機的な状況にあった。

 まともに戦う事もままならない。しかし憑代は構わずに彼女を襲う。

 そして一瞬の隙を突かれた彼女は、身動きが取れない状況まで追い込まれたのだ。


 彼女の首を絞める憑代の左手。一体化した『呪い』は、先ほどまで纏っていた『泥』とは別格だった。

 今までの『泥』が上澄みであるかのように濃密な。そして『神宿』を行使している彼女の攻撃は全て、左腕の『呪い』に止められていた。


 徐々に彼女の身体に、赤黒い紋様が浮かび上がってきた。

 憑代の左腕から『呪い』が流し込まれているのだと、彼女は判断した。

 このままでは、あと数分程で『呪い』に塗り潰される。支配され、全てに仇なすのだろう。


 しかし彼女が感じていたのは、安堵だった。


 ―――あなたと、一緒になれるのなら、いいよ。


 最愛の人と、共に居られるのなら。こんなに嬉しい事はない。

 ならばもう『神宿』は必要ない。もう限界も近いのだ。

 彼女の髪から藍色の粒子が落ちる。それは空気に溶けるように消えていった。


 その途端に『呪い』は加速度的に彼女の身体を侵食していく。

 もう僅かも保たない。身体の痛みとは違う、もっと別の場所が痛みに襲われた。


 ―――よかった、ずっと、一緒、に…


 彼女の身体が地面に落ちた。

 最早、立ち上がる力もない。

 弱々しく顔を上げ、顔を見上げた。


 最期はその顔を見ながら消えたいと思って。

 きっとまだ、厳しい眼を向けているのだろう。あの笑顔を、また見たかった。

 しかしその予想に反し、憑代の顔は驚愕に満ちていた。


「許さない、絶対に」


 聞きなれた声が聞こえた。

 黒に塗れた左腕を前に出す。すると何かが飛んできた。


 六寸ほどの出刃包丁。

 感じる気配から、最高位に近い『妖』だと判る。

 それも彼女の家と同様、最上位に位置する家が何百年もの時間をかけて祓う代物。

 あれ程高位の『妖』が、今の今まで何の気配も感じさせずに何処かにいたなど、考えられない。


 憑代は、何の気兼ねもなくその柄を掴み、刃を自身に向けた。

 そして躊躇することなく、自刃した。


 その瞬間。

 変化はまず、彼女に現れた。

 肌を冒しつつあった赤黒い文様の『呪い』がひび割れ、剥がれ落ちる。

 そして、周囲に満ちていた霧状の『呪い』が消えていく。清浄な空間へと復帰した。


 最後に。

 憑代の左腕に一体化していた『呪い』が、出刃包丁へ吸い込まれていく。

 まるで喰らい、自らの『力』とするかのように。


 ガラリと、出刃包丁が地面に落ちた。 

 同時に、力なく倒れ伏す憑代だった者。

 既に身体の自由が戻っていた彼女は慌てて立ち上がり、優しく受け止めた。


「けど、なんで…」


 残されたのは彼女と、そして憑代だった者。

 この様子ならば、ミシャグ様も無事だ。

 そして間違いなく『呪い』は消え去っていた。跡形も残さずに。

・彼女

 家に伝わる『家業』を継ぐ女性。大学生。

 先祖代々、神社とそれを置く町の管理者を務めている。。

 深夜、大きな振動と共に現れた『呪い』の対処に赴く。神が遺したとされるその『呪い』は、多くの『妖』や『呪い』と対峙してきた彼女でも決死のものだった。

 噴出した泥の『沼』から現れた『泥の塊』を相手に『神宿』を行使しつつも善戦し、泥を剥がすまでに追い込む。

 しかし憑代となった最愛の人を前に動きが鈍り捕えられ『呪い』を流し込まれる。

 『魂』すらも冒される痛みの中、しかし共に居る為にそれを受け入れた。

 だが、突如自刃した憑代を見て呆然自失に。

 

 その後『神宿』の反動で痛む身体に鞭打ち、元の日常へ戻る事が出来た。

 『家業』の世界で最大の懸念事項だった『呪い』を滅した事で、彼女の名声と発言力は大幅に強まった。


 幼い頃から孤独だった彼女を救ったのは、一人の子どもだった。

 信仰する『神様』との仲を改めようと決意したのも、そのおかげ。

 ひいては今の彼女がいる事も。


・『神宿』

 信仰する神様をその身に宿し『力』を再現する業。

 宿す神様によって『力』は様々。怪力や風操、発火や水顕等々。

 前提条件として神様との対話が必要となる。

 しかし現代は神様が消えつつある上に『視える』ほどの『力』を持つ人間が稀である為、行使する事が出来るのは現在、一人だけ。


・『沼』

 地下から噴出したドロが、ヘドロのように『呪い』をまき散らす。

 その『呪い』は、古代からの祟り神を冒し、強い『力』を持つ『彼女』にすら瞬間的に『神宿』を行使させた。

 きっと、常人では触れただけで死んでしまう。常人ならば。


 その正体は、禍津神が遺した『呪い』(に巻き込まれた者の血)と、一族を『妖』に皆殺しにされた『人間だった者』の『悪意』が混ざったモノ。

 その目的は、全ての破滅。

 地下深く、休眠状態だった『それ』は、新しい神様の誕生に呼応して目覚めた。次代の神様を取り込み『力』を蓄え、それを繰り返し全てを超える『力』を目指していた。

 しかしそれは幸か不幸か『人間だった者』の子孫の手で潰える事になった。


 蛹というか繭というか、それとも卵が近いのか。


・『泥の塊』

 『沼』から浮き上がるように現れた、人型をした何か。

 『憑代』を核とする事でカタチを成し、それが驚異的な『素質』を持っていた事で『神宿』を行使した者とも互角以上に渡り合った。

 『呪い』を周囲に散布し弱体化させる空間を創り出す、接触面から『呪い』を流し込むなど、案外多彩。

 通常ならば『力』の爆縮・解放で消滅する程度だが『憑代』の素質もありほぼ無傷で済んだ。しかし、指向性を持たせた『力』の爆縮・解放には耐えられず上澄みが崩れ落ちた。

 上澄みは『悪意』である。残されたのは、濃密な『呪い』だけ。


 第一形態で最終形態。


・『憑代』

 崩れ落ちた『泥の塊』から姿を見せた『呪い』と同調・共鳴した女性。

 衣服はドロに塗れ黒ずみ、髪は灰色に変質し、肌には赤黒い血管状の文様が走り、左腕は『呪い』と一体化している。

 『憑代』の驚異的・異常なまでの『素質』は、神様を冒す『呪い』すら取り込み(あるいは喰らい)自らの『力』とした。

 その『力』は圧倒的。左腕から『呪い』を流し込み『神宿』すら貫通し、自らの眷属を増やす事も可能。

 だがその『怨み』は神様にのみ向けられている。

 その為『神宿』を解いた『彼女』を見た事で攻撃を停止。出刃包丁を召喚し、自刃した。


 その最後の言葉は『彼女』に向けられたのか、それとも『呪い』にか、はたまた…


・出刃包丁

 刃渡り六寸ほどの出刃包丁。

 『憑代』の意思で召喚され、腹部を貫き『呪い』を喰らい尽くした。

 『彼女』は最高位の『妖』と判断し、それまで気付かなかった事が不思議な程の気配を放っていた。

 話す用もないし嫌な気配がしていたので、眠っていたから気配を感じなかったのは秘密。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ