呪宿のお話
榮は急ぎ『白它神社』へと向かった。
諏訪の家が建つ山から少し降った所にあったのが幸いした。
山を突っ切って全速力で駆ける事が出来たからだ。
通常なら四十分かかる所を、僅か三分ほどで到着する事が出来た。
『白它神社』本宮に到着した瞬間、榮は違和感に気付いた。
静かだ。静かすぎる。
昼間、あれほど溢れていた活気が無い。
風があるのに木が靡く音が聞こえない。
空気が淀んでいる。重い。
まるで、自然そのものが死んでいるようだった。
茂みを掻き分け少しすると、小さな庵に着いた。
こちらもなんだか雰囲気が違う。先ほどよりも更に空気が淀んでいる。
この淀み、感じた経験がある。
茅野さんから頂いた小箱。
その中から噴出した『呪い』の具象体。
それを何倍にも濃密にしたような。ならば、これは『呪い』の影響なのだろう。
慎重に庵へ近づく。
周囲を見渡すも異変はない。
これは中に入るしかあるまい。三石さんが無事かどうかも気になる。
引き戸を開けて庵へ入る。
靴を脱いで上がり、一番近くの襖を開けた。
「三石さん!」
そこには三石さんが倒れていた。慌てて抱き起こす。
白い貫頭衣は泥に塗れ、真っ白い髪の毛は黒に染まっていた。
折角の美しい髪の毛が斑状になってしまっていた。
拭おうとするも様子がおかしい。取れないのだ。白い髪に染み付いたように。
ペチペチと頬を叩くと、閉じていた眼をゆっくり開いた。
まだ生きている。少しだけ安心できた。
「お前…榮、か」
元気のない声。随分と消耗しているようだ。
「何があったんです。随分と汚れていますけど」
「なぜ、来た…彼奴、か…」
三石さんは白凛とそんなに大差のない背丈だ。
背負うのに苦はない。榮はよいしょと三石さんを背負った。
「やめ、ろ。儂は、もう、いい」
「ダメですよ。白凛が悲しみます」
やはり軽い。
白凛と僅かくらいにしか変わらない。
さて、逃げ出すのならば来た道を戻ればいい。
庵を出ると、何か体が重い。
昼間の様な軽快さが嘘のようだ。
この辺り一帯がおかしいのだろうか。
「奴は…」
「奴って、三石さんを襲った方ですか?」
背中に乗った三石さんの頭が僅かに動いた。
どうやら首肯したようだ。
「まだいるんですか?」
「泥、を…いや、あれは…」
三石さんの息は荒く、浅い。
途切れつつある意識を無理矢理に繋ぎ止めているようだ。
「泥? 白凛に付いてた奴ですか?」
「彼奴にも…もう、駄目、かもしれん、な…」
泥程度で何を言うのか。
あんな拭う程度で落ちる物を。
「長く、生き…次代を望み…最期が、これ、か…」
「何言ってるんですか。白凛は無事ですよ。三石さんも大丈夫ですって」
そう言うと、自嘲するように小さく笑った。
うむ。首筋に息が当たってくすぐったい。
「…お前の、その明るさ。あの方を、思い出す」
あの方、とな?
諏訪を小娘と呼んだり、何か偉い人を糞餓鬼と呼んだりする三石さんが『あの方』と呼ぶとは。
少し気になるが、追及する暇など無いだろう。
―――ズン…!
地面が揺れた。
地震の様な長い横揺れではなく、何かが地面に追突したような衝撃。
しかし音などは聞こえなかった。大きな異変が起こりつつあるのだろう。
「やはり、儂は、生餌か…」
三石さんがそう呟いた。
すると榮の背中の方。庵の方向から『何か』が聞こえた。
月明かりで何とか足元が見える中、暗闇よりも暗い『何か』が地を這い迫ってきた。
庵は半ばまで沈みかけ『何か』が通った木々はズブズブと地面に沈み込んでいる。
―――何か、ヤバそうな…
そう思うが早いか、榮は駆けだした。
後ろを振り向きつつ走るが、どうにも走るよりも早い。
茂みに入った所で手詰まり。このまま走っていても追いつかれてしまう。
―――どうしようか…そういえば、生餌?
先ほど、三石さんが呟いた言葉を思い出す。
生餌とは何だ? と自問自答する。
獲物を釣るために、わざと生かしておいた餌。
釣りの基礎の基礎らしいが、榮の趣味ではないので詳しくは分からない。
しかしこの場合、餌が三石さん。
ならば獲物は…
「逃げろ、榮…お前一人ならば、逃げら―――っ」
三石さんが宙を舞った。
その眼は見開かれており、何が起きたのか分からない様子だった。
何が起きたか。榮が三石さんを放り投げたのだ。
三石さんが言う『奴』は、三石さんを生餌にして誰かを狩ろうとしている。
この場合、獲物は助けに来た誰か。
獲物は、榮だった。
事実、迫っていた『何か』は榮を通り過ぎた辺りで動きを止めた。
地面に倒れる三石さんは、榮を驚愕に満ちた顔で見つめていた。
榮の足元がズブズブと沈んでいく。
何かに触れているような感触はない。しかし冷たい。
冷たいだけ。それだけだ。
けれども榮は抵抗する事なく。呆気もなく、沈み込んでいった。
―――
榮は依然、沈みつつあった。
光一つない真っ暗闇の泥の中。下へ下へと落下していった。
とはいえ風を切る様な速度ではない。水中を徐々に沈下しいるような奇妙な感覚。
流石の榮にもこんな経験はない。精々、崖から落下した事や数分ほど潜水したくらいなのだ。
―――さて、どうしようか。
息も出来るし身体も動く。当面の間、命の危機はなさそうだ。
この周りにある暗闇は、白凛や三石さんの衣服に付着していた『泥』だろうと見当はついた。
あの『泥』も真っ黒だった。とはいえ、尋常な物質ではないだろう。庵すらも沈み込んでいたし。
ならば、上へ泳げば抜け出せるのだろうが、そうは問屋が卸さないようだ。
―――どっちが上だろ。
最早、上下の感覚などないに等しい。
自分の身体があるのは分かるが、まるで見えないのだ。
人間が取り入れる情報の九割だか八割が視覚に頼っていると聞いた事がある。
それに声を出しても何も聞こえない。これは聴覚もイカレているのだろう。
―――取り敢えず泳ごう。
海がない県育ちなのだ。泳ぎは授業で泳いだくらい。特別得意というわけでもないが、流石に泳げないという事はない。
クロールの要領で腕を動かすと動いている感じがする。とはいえ見える光景が変わるわけでもない。
『―――ノロイ―――』
―――ん? 何か…
榮の耳に何か聞こえた。
試しに声を出すもやはり聞こえない。
先ほどの声も、何というか耳を通して聞こえたような物ではなかった。
頭に直接響くような。
『―――ノロイ、ヲ、ジョウジュ―――』
―――成就? 呪いを?
とはいえ、榮には意味が解らない。
そういえば以前、無機物こと極楽丸が言っていた事を思い出す。
方向性が何とか、目的を遂げるまでしつこいだとか。
それに『呪い』と『願い』は表裏一体なのだとか。岡谷がそう言っていた…と思う。
ならば、その『願い』が達成されれば消え失せる。
そうすれば榮も解放されるのだろう。きっと。
―――いいよ、手伝ってあげる。
何を手伝えばいいのか知らないが、どうせ『願い』もくだらない物なのだろう。
極楽丸は『野菜を斬りたい』だとか、写真機は『風景を撮りたい』だとか。
茜さんもどうせ『暇潰し』とかいう理由で幽霊のまま留まっているのだろうし。
『―――ケイヤク、ヲ、ココ、ニ―――』
榮の前に、人の形をした物が現れた。
その人型は、どこか見覚えのある顔をしていた。
―――店長さん?
祖母の家がある山の麓。
コンビニ『兎玉』の店長、その人だった。
―――
肌寒さで目が覚めた。
掛けられた布団をどかし体を起こし辺りを見渡す。どうやら諏訪の部屋のようだ。
時計を見ると6時を指している。障子から射す光を見るに早朝だろう。
なにかサラサラとした感触がする。身体を見ると白一色の装束が着せられていた。
諏訪が夜、寝る時に着ていた襦袢のようだ。何故この装束を着ているのだろうか。
さて、昨夜は布団に入って…
―――あ、そうだ。
昨日の夜は寝つけなかったから散歩に出て、泥で汚れた白凛を見つけて三石さんを助けに行った事を思い出した。
確か泥に呑み込まれて、店長さんがいて…
―――あー…『呪い』成就したのかな。それならよかった。
こうやって無事に目を覚ましたのだからそれでいい。特におかしな事にもなっていないし。
そういえば、諏訪の姿が見えない。
布団も敷かれていなかったようで、元々寝ていなかったようだ。
カラリと襖を開け廊下に出る。
すると壁にもたれて眠っている白凛がいた。
初秋で寒くなってきたというのに、こんな外で眠るとは。風邪を引いてしまうではないか。
起こさないようにゆっくり抱き、今まで眠っていた布団に寝かせておく。
これで風邪を引く事もないだろう。
「あ、三石さん」
「お前…榮か」
廊下を歩いた先。
庭園の見える縁側に座る三石さんがいた。
黒く斑に染まっていた髪は白い輝きを取り戻し、泥の痕跡などまるで残っていない。
よかった。無事だったのか。
「どうされたんですか? こんな場所で」
「…あの庵を再建するのにしばしかかる。それまでは居候の身じゃ」
ああ、そういえば泥に沈んでしまっていた。
つまり白凜も一緒に諏訪と暮らすという事か。
なんと羨ましい。
「世話を掛けたな、榮」
「白凜にお願いされましたから。助けて、って」
「…だから助けに来たのか。何の見返りも求めずに」
見返り、と言われても。
助けてと求められたから助けた。
別に見返りの為にやったわけではない。
何というか、返答に困る。
やりたいからやっただけなのだ。
「…ふん、気に入らん。お前、本当に人間かや?」
そう捨て台詞を吐いて三石さんは去って行った。
そんな事を言われてもどうしようもないのに。
三石さんと入れ替わるように現れたのは、黒いスーツに視線が読めないサングラスをかけた偉丈夫。
「…榮様、ご無事で」
「あ、箕輪さん」
やはり箕輪さんである。
この朝早くからスーツとは、中々大変そうなものだ。
「あの、諏訪はどちらに? 部屋にいなかったんですけど」
「お嬢、ですか…」
しばしの間、静寂が支配した。
どうかしたのだろうか。
「実は、体調を崩してしまいまして。いえ、本当に軽いモノなのですが、もしもの事があったら、と。離れの方に」
なんと、諏訪は風邪を引いてしまったようだ。
夏が過ぎつつある今日この頃、体調管理には気を付けねば。とはいえ風邪は引かないが。
しかしこれは、矢尾さんの店へ戻らねばなるまい。あまりお邪魔しても迷惑だ。
「そう、ですか。お大事にとお伝えください」
「ええ、必ず。それと、お車を出すように申し付けられましたが…」
「いえ! 電車で戻ります!」
車に乗っては酔ってしまう。あの気分の悪さだけはごめんなのだ。
電車でたった二時間程度の距離なのだ。本数が少ないとはいえ、朝早くならば乗れない事もないだろう。
榮は諏訪の部屋へ戻り、荷物を纏め始めた。
『おう、ようやく起きやがったか。それよりも暇だ、とっとと切らせろ』
「さっきから起きてたよ。それよりも喋らないでよ。戻ったらご飯作るから」
『いやな? 何か妙に調子よくてな。とにかく暴れたい気分なんだよ』
暴れたいとは物騒な事を言う。包丁のくせに。
それよりも無機物の調子とは何なのだろう。欲求なんて『野菜を切りたい』くらいのくせに。
荷物も詰め終わり、未だ布団で眠っている白凛の頭を撫でて部屋を出た。
諏訪のご両親に挨拶をして家を出た。
階段を降りつつ遠くの湖を眺め、近くの駅へと歩いて行くのだった。
電車に乗って安心したのかすぐに眠ってしまい、上下を間違えて隣の県に行ったのは秘密にしよう。
と思ったが、ついでに銘菓のお餅を買って帰ったのが仇になり、矢尾にからかわれた榮だった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:信玄餅
設定:
至って普通の大学生。
白凛に助けを求められたので、三石さんの元へ向かった。やっぱり甘い。
正体不明の『泥』へ呑み込まれ、正体明瞭の『呪い』と契約を結んだ。
しかし次の日の早朝には平気の平左。やっぱりおかしい。
やっぱり車には弱い。
彼女には意味を成さない。どのような『呪い』も。
・名前:三石
性別:女
職業:ブリーダー
好物:どら焼き(竹風堂・栗あん)
設定:
庵に暮らす、全て全てが白尽くめの神様。
正体不明の『泥』の侵略を受け、応戦するも『力』の差は歴然。
なんとか白凛は逃がすも自身は致命傷を負い、生餌にされた。
綺麗な白髪は『泥』に冒され息絶え絶えだったが、次の日には元気になっていた。榮が色々したせい。
榮を『本当に人間か?』と罵った。彼女の信念によると『怒らない者は化物』だから。
しばらくは諏訪の家に居候の身に。最低半年くらいは。
・名前:白凛
性別:不明
職業:見習い
好物:お茶
設定:
外見はまるきり幼稚園児くらいの神様見習い。
眠る榮を護る為、一晩中襖の前に座っていた。
目が覚め、榮がいなくなったと気付くと大泣きした。
榮の匂いのついた布団を寝床に決めたらしい。諏訪と取り合ったとか。
・名前:諏訪
性別:女
職業:大学生・祓い師
好物:御御御付け
設定:
大和撫子な大学生。
体調を崩してしまったようで、離れで身を休めていた。
榮を閉じ込める計画は頓挫してしまった。しかし日を改め、大晦日くらいに計画を再始動するつもり。
・『泥』
設定:
神域内の庵付近から噴出した漆黒の物体。
『力』を用いて冒した三石を殺さず、生餌にする程度には知性を持つ。
地面を這うように広がり進み、その際障害物は全て呑み込んでしまった。
崇りを司る神をも冒すその『力』は、しかし榮には通用しなかった。
・『店長』
設定:
『泥』の中に現れた、人の形をした『呪い』
契約を結んだ榮に呼応するかのように顕現したが、詳細は不明。
きっと、何時か何処かで何方かが『悪意』を分離した具現。




