大社のお話
榮は死にかけていた。
何の誇張も一切の過言もなく。
眼に入る景色は高速で後ろに進んでいる。まるで走馬灯の様だ。
グラリと視界が歪む。まただ。
ああ、何故こうなったのだろう。
そうだ、あの時のせいだ。
榮は数日前の出来事を思い返していた。
―――
箸が床に落ちた。
プラスチックが立てる独特な音を響かせた。
落とし主は榮。彼女にしては珍しく、
「い、今、なんて…」
「うん。明日からの連休、遊びに行こうと思って」
うむ。それに関しては問題ない。
祝日は大学も休校だし『万屋 矢尾』は基本的に祝日は休業状態だ。
問題など何もない。
「それで…どこに?」
「わたしの家」
『わたしの家』
つまり諏訪の家である。
岡谷によれば、諏訪は車で一時間程の道のりを毎日通学しているとか。
運転手の男性は箕輪さん。諏訪の従者をしていて、身の回りの世話をしていると聞いた。
大学帰りに箕輪さんに呼び止められ、諏訪の大学生活について聞かれた事もある。その時の印象は『礼儀正しく諏訪の事を第一に考えている』である。
ピシリとスーツを着こなす様や佇まいは、とても貫禄があった。
箕輪さんは、自分の年齢を二十代の前半と言っていたが、どうすればあの歳であのような雰囲気を出せるのだろうか。
話が逸れてしまった。
それも問題はない。
友人の家に遊びに行くのは是非もない事だ。
しかし、ただ一つ。
ただ一つだけ、問題があった。
「…諏訪の家って、神社だよね?」
「そうだよ?」
神社。神社。神社。
諏訪の家は神社なのだ。
神社とは何か。神霊を祀る聖域。
つまりそういうことだ。
―――うん、無しで。
諏訪が何と言ったところで、榮が首を縦に振る事はないのだ。
丁重にお断りしよう。そうしよう。
お断りしようと口を開こうとした。その言葉を遮るように、諏訪が言う。
「…さかえ、おかやに言ったよね?」
「言ったって…何を?」
「とぼけたってダメだよ。わたし聞いたんだから『今度の連休、遊びに行こう』って」
「う、うん…」
確かに言った。間違いなく。
しかしそれは、どこかへ買い物にでも出かけようという意味で言ったのだ。
近くの大型商業施設でも良いし、諏訪の好きな映画鑑賞でもいい。
だが神社は。神社だけは。
「それにこの前、おかやの家に泊まったよね」
「え、うん」
以前、岡谷の家に泊まった事がある。
少し前から探していた漫画本を、岡谷が持っていると言ったのだ。
大学から十分程度の距離。往復するのにも手間ではない。
講義が終わる時間に待ち合わせ、岡谷の住むアパートへ向かう。
無事に借り受け、アパートを出ようとすると土砂降りの大雨。
生憎、鞄に傘を入れていなかった。岡谷も持っておらず、雨が止むまで雨宿りをさせてもらう事にした。
結局、雨は一晩中降り続け、その日は岡谷の家に泊まる事になったのだ。
次の日、同じ石鹸の匂いがすると、岡谷が諏訪に詰問されていたのを憶えていた。
「おかやの家は良くて、わたしの家はダメ…なの?」
「いや、そんな訳じゃなくてね」
諏訪は俯いてしまった。声にも元気はなく泣きそうな声色だ。
あれは不可抗力である。決して計画の上でのお泊りではない。
こんな時に限って、岡谷の姿はない。
諏訪の暴走を抑えるのは岡谷の役目なのに、今日から始まるという『麺の広場~秋の陣~』に行ったのだ。略して麺場(岡谷が勝手に言っているだけで、正式な物ではない…と思う)だとか。
秋の陣という事は春の陣も夏の陣も冬の陣もあるのかと聞いたら、その通りだという。一年に四度催され、岡谷はその常連なのだとか。
昨日、この食堂でチラシを叩きながら『ここが! この麺場が、私の魂の場所だぁっ!』とかほざいていた。夏休み中うどんを堪能してきただろうに。
「いや、ね。あの、その、諏訪の家に泊まるのが嫌なんじゃなくてね」
「じゃあいいよね! 明日迎えに行くからお泊りの用意しといてね!」
そう言うと諏訪は荷物を纏め、さっさと行ってしまった。弁解の暇などなかった。
追いかけようにも、榮の前には半分ほど残った親子丼。食べ切らなければ食堂を出る事は許されない。
―――あれ、いつの間にか泊まる事になっているのではなかろうか。
意気消沈した榮は、モソモソと親子丼を食べ進める。
そういえば、一人でお昼ご飯を食べるのは久しぶりだ。
ようやく食べ終わった榮は食器を片づけ、食堂を後にする。
―――そうだ。風邪を引けば…
寒くなってきた今日この頃。
裸で眠れば風邪の一つでも引くのが道理だ。
だがしかし、そうしても風邪なんて引かずになんともないままな気がする。
榮の体は丈夫である。それこそ無駄に。
小学生の頃に一度だけ大風邪を引いたが、それ以降は何ともない。
中学生の頃、学校でインフルエンザが大流行して学校閉鎖に陥った時もピンピンしていた。
高校生の時、修学旅行の際に出されたお弁当で食中毒が発生し同学年の生徒が全滅しても、榮だけがケロリとしていた。
その結果『黄金の胃袋』とか『疫病神』とかあだ名を付けられたのは秘密だ。
はあ、と溜め息を吐いて講義へと赴く榮。
曇りつつある榮の内心とは正反対に、秋の昼空は何処までも抜けるようだった。
そうして次の日。
榮の思惑などなんのその。
朝から食欲は抜群の上、喉痛一つ頭痛一つない。健康万歳だ。
諏訪の家に泊まると伝えると、矢尾は『あらそう』とだけ言って新聞に目を落してしまった。
なんだか借金をして以降、矢尾の反応が素っ気ない。いや、大切な車を壊したのだからそういう扱いになっても仕方ないのだが。
諏訪の家に泊まる間、食事を作る事は出来ないので、店屋物を取る代金として三万円を置いておいた。
朝食を食べ終わって一時間程が経った頃。
『万屋 矢尾』のチャイムが鳴った。裏口からだ。
そう言えば、榮が『万屋 矢尾』でバイトを始めて以来住んで以来、お客様以外での訪問者は初めてではなかろうか。
カラリと戸を開ける。
そこに立つのは、竜胆色の布地に白い花が染め抜かれた着物を着た、黒い髪の大和撫子。
前髪は紫色の花のヘアピンで留められ、白いおでこを見せびらかしていた。
艶やかな長髪は風に揺られサラサラと靡き、花のような匂いが榮の鼻腔をくすぐった。
「おはよう、諏訪」
「お、おはよう、さかえ」
こうやって、外で会うのは珍しい。
いつもは大学構内、それも食堂か同じ講義の間だけ顔を合わせる事が多い。
たまに岡谷も一緒に三人で遊びに行くが、こうやって待ち合わせて会うのは初めてかもしれない。
「荷物持ってくるからさ、入って待っててよ」
「う、うん。お邪魔します」
諏訪を招き入れ、居間で少し待っていてもらう。
榮は二階に上り自室へ入る。荷物は昨日の内に用意しておいた。
下着に着替え、タオルにちり紙、歯ブラシを始めとした衛生用品。
さて、後は…
『おいおい榮よお、俺たちに黙ってドコ行くつもりだ』
包丁がそう抗議の声を上げた。
抗議の声は聞き流している。話しかけてくるなどいつもの事だ。その内諦めるだろう。
カメラもパシャパシャとフラッシュを炊いている。こちらも抗議しているのだろう。
休日は自転車で遠出して、取り留めもない風景を撮っているのだが、何やらカメラには不満であるらしい。
包丁曰く『もっと至上の風景を、もっと異常な光景を』撮りたいのだとか。
この頃、包丁に毒されている気がする。とはいえ、そんなに変な被写体など早々ないのだ。諦めてもらうほかない。
とりあえず、フラッシュは眩しいからやめて頂きたい。
まあ、向こうの景色を撮る予定だったからカメラは持っていくとして、問題は包丁だ。
これから行く先は神社。
改心したとはいえこの包丁は、人斬りの使った元妖刀なのだ。
人斬りが使ったから妖刀になったのか、妖刀を持ったから人斬りになったのか。卵が先か鳥が先かな問題はこの際無視しておく。
重要なのは、この包丁は『悪意』の塊ということだ。
時々『悪意』の籠った発言もする。神職に携わる方が見れば、これ自体が退治されるような物なのではなかろうか。
退治されたらされたで世の中の為になるのだが、砥石要らずでコンクリートを容易に貫通するこの切れ味は、無くなったら惜しい。
『さかえ~?』
階段の下から諏訪の声が聞こえてきた。
あまり考えている暇はない。
鞄に空きはある。布きれに包んで持っていけばいいか。
帰ってきたら拗ねていて、全く斬れなくなっていたら困るし。
「お待たせ、諏訪。車だよね?」
「あ、うん。大通りの方で待っててもらってるよ」
車か。
多分、運転手は箕輪さんだ。
「それでは矢尾さん、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
―――
榮は死にかけていた。
何の誇張も一切の過言もなく。
後部座席に横になり、僅かに見える道路灯は右から左に流れている。
グラリと視界が歪む。車が道を曲がったのだろう。ガタリと車が揺れた。
つまり、車酔いだ。
自分で運転する分には何ともない。
しかし、それ以外。助手席だろうとタイヤの上だろうと遠くの景色を見ていようと。
酔うものは酔うのだ。
バックミラーからは、助手席に座る諏訪の心配そうな顔が見て取れた。
「うう…気持ち、悪い…」
「も、もう少しで着くから、頑張って」
車に乗り込んで一時間は経つだろう。
乗り込んでから十分で横になり、それからSAで休憩も取った。
大きな湖がとても綺麗だったことは覚えている。
ピント調整やら何やらはカメラに任せた。グロッキー状態の上に素人である榮よりも、カメラ本人? が調整した方が綺麗に映るからだ。
車を降りれば酔いは次第に覚めるのだが、もう車の匂いだけで酔うようになってしまった。
乗り込んだ途端に酔いが回るのは、流石に初めての経験だ。
それから更に二十分ほど。
ブレーキが掛けられて車が停まった。少し前に高速道路も降りていた様だったし、きっと到着したのだろう。
榮の限界はもう間近だったのだ。いや、もう限界など突破していたかもしれない。
「着いたよ~ さかえ~」
そんなノンビリとした声と共に、ガチャリとドアが開かれた。
逆さに見える諏訪の顔。
いつにも増して笑顔に見える彼女の表情は、今の榮にはどうにも怨めしかった。
フラフラと立ち上がり、青空の下へ出た榮。
彼女の目の前には、閂で閉じられた大きな門が立ちはだかっていた。異様な圧迫感を感じる。
それは、以前菫の屋敷で見た物とも似ているようにも感じた。
箕輪さんは車を置きに駐車場へ向かってしまった。
荷物は後で持って来て下さるらしい。感謝だ。
背丈ほどの側門を気兼ねなくくぐる諏訪。
未だ歪む視界に我慢をしつつ、後に続く榮。
「いらっしゃいさかえ! 歓迎するよ!」
「はい…お邪魔します…」
榮は決意した。
―――帰り、電車使お…
―――
諏訪の部屋は広かった。畳張りで、およそ十五畳の和室。
片隅には今までにも見た着物が衣裳掛けに掛かり、50型程の大きなテレビ。
寒くなるこれからの季節に向けてだろう、中央よりもテレビ寄りの位置には炬燵が置かれている。
一人部屋だというのに随分と大きい。天板の上にはノートパソコンが置かれていた。なんと、諏訪はパソコンを使えるのか。
窓からは湖が一望できた。
外周は16kmもあるらしい。自転車の貸し出しもしていると聞いた。
体調が戻ったら繰り出すのもいいだろう。
「さかえ、大丈夫…?」
「ちょ、ちょっとだけ、横にさせて…」
「う、うん。布団敷くから」
まるで病人だ。
少しだけ情けなくなりながら、諏訪に布団を敷いてもらい横になった。
目を腕で隠し、グルグルと回る視界を覆う。
―――疲れた…少しだけ、少しだけ…
目が覚めた。
眼を擦り布団を退ける。
「ん…」
いつの間にか寝入ってしまったようだ。
壁に掛けられた時計の針はお昼前。どうやら一時間ほど眠っていたようだ。
「諏訪…?」
部屋に諏訪の姿はない。
炬燵の天板を見ると、何やら紙切れが置いてあった。
『母に呼ばれたので少し部屋を空けます。十二時には戻ります』
そう書いてある。母親に呼ばれたと。
名家なのだから、誰かお客さんが挨拶にでも来たのだろう。
「ん…トイレどこだろ…」
布団を退けた時に少し肌寒くなったためか、催してしまった。
初めて来た家なのだ。トイレの位置など解るはずもない。
だがしかし、こういった古い民家のトイレの位置は共通しているのだ。
大体が家の端にある事が多い。
襖を開けて廊下へと出る。
諏訪の部屋に入った時は酔いで余裕がなく、辺りを見渡す余裕がなかった。
しかし、こうして改めてみると…
―――広いなぁ…やっぱり諏訪、お嬢様だったんだ。
廊下を歩いて行くと縁側が。その先には庭園があった。
曲がりくねった松の木。苔生した大岩。それに小石が敷き詰められ波模様が描かれている。
なんだろう。こう、大きい屋敷に庭園は必須要件なのだろうか。
そして縁側には、一人の男性が座っていた。
秋も深まってきた今日この頃だと言うのに甚平を着ている。
諏訪の兄弟だろうか?
縁側に腰掛けて徳利を傾けお猪口に手酌で透明な液体を注いでいる。
この真昼間からお酒でも飲んでいるのだろう。
しかし丁度良い。トイレの場所を聞く事にしよう。
「あの、すみません」
「…」
一度呼びかけるが反応が無い。
聞こえなかったのだろうか。
「あの…もしもし?」
「…」
二度呼びかけるも反応はない。
聞こえていないのだろうか。
「あの…」
「ああ!? んだ手前は!」
いきなりブチ切れられた。
ただ声を掛けただけなのに。余りにも感情の起伏が大きすぎる。
感情を爆発させる事も時には必要だが、怒っても良い事などないだろうに。
「お酒を楽しんでいた所を邪魔してしまい、申し訳ありません」
ここは頭を下げておくのが吉だ。面倒事など面倒にすぎる。
それにしても。
外見は細くて優しそうな顔をしているのに、案外気が強い。
人は見かけによらないものだ。
「…チッ、んで、手前誰だ。見た事もねえ顔だ」
「榮です。お初にお目にかかります」
「榮だぁ? 知らねえな。んで、なんか用か」
「トイレの場所をお聞きしたいんです。このお屋敷、広くて分からなくって」
「向こうだよ」
そう言って、男性は廊下の先を指差す。そちらを見ると、
「それくらい、手前を招いた奴に聞きやがれ。誰だ、手前なんて招いたのは。藜の野郎か。それとも桔梗か」
藜とは誰だろうか。
野郎と言うくらいなのだから男性ではあるのだろう。
そして桔梗。
こちらも誰かの名前なのだろうか。
「聞く前に置いて行かれてしまって。ところで、あなたは?」
「とっとと失せろ。ったく、ゆっくり酒も飲めねえ」
そう言い、チビリチビリとお猪口を傾けている。
余り傍にいても機嫌が悪くなるだけだ。早々に退散しよう。
しかしさっきの人は誰だったのだろう。まさか泥棒か。
まあ、泥棒がこんな縁側で悠長にお酒など飲んでいるハズも無い。
やはり諏訪の兄弟だろう。多分兄だ。
それはともかく、目的を果たさねば。
―――
「さあ榮さん。たくさん食べてね」
食卓に並ぶはご馳走の山。
ホカホカの白いご飯。
鼻腔を擽るお味噌汁。
色取り取りのおかず。
それら全てが混然一体となった混沌とした匂い。
自然と口内に涎が溢れてしまう。
箸を伸ばして口に運ぶ。山賊焼きだ。
醤油の香ばしい、そして食欲をそそる匂い。
パリリとした触感を越えた先からは熱い肉汁が溢れてくる。
なんと。なんと美味な事か。
次はきゅうりだ。きっと漬物だろう。
僅かな塩味。カリコリコリコリと口当たりの良い触感。
口の中が洗い流されるようだ。自家製だろうか。
後はカボチャの煮物。ピーマンやマイタケやナス、オクラの天ぷら、ウナギの白焼きなどなど。
本当に数多くのおかずと対面する事が出来た。
―――こ、ここは楽園かっ!
榮は嬉し喜び箸を進めていた。
その横では、諏訪がニコニコとしながら共にご飯を食べていた。
今は夕食の真っただ中。
隣には諏訪が座っている。食堂でいつも座っている通りだ。
二人の前にはこれまた二人の男女が座っていた。
男性の方は、線の細い華奢な体躯。
無精ひげを僅かに生やしロマンスグレーがかった短髪。
その姿は渋いオジサマと言った風体だ。
そしてもう一方の女性。
諏訪と同様に着物に身を包み、黒い髪を長く伸ばしている。
キリリとした流麗な目つき。美麗といった表現が適切だ。
一緒に食卓を囲むこの二人、諏訪のご両親である。
どちらも美男美女である。その二人の子どもなのだから、諏訪が綺麗なハズだ。
「ところで榮君は、どの部屋で休む予定なのかな」
夕食を食べ終わった頃、諏訪の父がそう聞いてきた。名前は藜というらしい。
先ほど縁側に居た男性が口にしたのは諏訪の父親の事だろう。
だが、どこで休むかと聞かれても。
トイレに行く過程で僅かに屋敷をうろついたから、部屋が多くあったのは分かっている。
きっとどの部屋で今日は眠るのかを聞いているのだろう。
この広いお屋敷。毎日掃除で大変だろう。
榮としても、そんな部屋を汚すつもりは毛頭ない。
と、いうより…
「毛布一枚あれば物お―――むぐ」
物置でも大丈夫です、と言おうとしたところ、隣から伸ばされた手に口を封じられた。
諏訪の仕業だ。何をするのだこのお嬢様は。
「さ、さかえはわたしの部屋で寝るからっ! お布団新しいの持ってくからねっ!」
そう言うと諏訪は榮の手を引いてそそくさと台所を出て行く。
食器も片付けていないのに。
「どしたのさ、諏訪」
「いいから来てっ!」
何やら怒っている様子だ。
しかし榮には怒らせるような心当たりはない。
どうして怒っているのだろうか。
途中、布団を渡されてあれよあれよという間に、諏訪の部屋に布団が二枚敷かれた。
以前、榮の祖母の家の隅に建てられた小屋で一緒に寝た時と同様の形。つまり、二枚の布団が隙間を開けずに敷かれている。
諏訪は怒った時なぜだか強情だ。あの時もそうだった。
今日、お昼を食べた後の事だ。
諏訪に連れられ、彼女の家が管理しているという神社へ行った。ちなみに車は丁重にお断りした。
由来やら何を祀っているのか。その信仰の歴史やらご利益などなど。それらを直々に説明された。
榮は『神様』など微塵も信じてはいないが、歴史やら由来やらは興味深い。
それに、榮は自分の考えを押し付ける方でもない。
諏訪は『神様』を信仰しているのだから、それはそれで良いではないか。
そして、榮はふと思った。
―――これはもしや、とてつもない贅沢なのでは?
誰よりも神社に造詣の深い諏訪の跡取り娘が、ただ一人に向け手ずから解説をしている。
それはきっと、何よりも得難い事なのだろう。
いつの間にか、周りに観光で来たと思われる方々も集ってきていた。
そのまま十数分は説明は続き、諏訪が一息吐くと周囲から拍手が飛んできた。
その拍手でようやく気が付いたのか、顔を真っ赤にして榮の手を引きながら逃げ出してしまった。
榮の手を引いて社務所に逃げ込んだ諏訪は俯いたまま言った。
『うう、恥ずかしい…!』
撫でるように頭を優しく叩くと、諏訪はそう言いながらゆっくりと顔を上げた。
しかしなかなか堂々としていた。将来は弁舌を生業にすればいいと思った。
『ありがとう、諏訪。はい』
財布を漁り、お札を一枚取り出して諏訪の手に握らせる。
『…なに、これ?』
『神社の説明さ、凄かったよ。だから』
その真偽など榮には分からない。分かりようがない。
しかし、あの自信をもった語り口。自信に満ちた立ち振る舞い。観衆を引き付ける魅力。
まるで演劇を観ているようだった。
『わ、わたしっ! お金の為に話したんじゃないよっ!』
そういってお札を叩き返されてしまった。
その後、ぷんすかと頬を膨らませる諏訪をなんとか宥め、近くの湖周を一緒に散歩をした。
電動自転車の貸し出しもしていたが、着物を着た諏訪がいるのだ。乗れるはずもない。
秋の昼間。冬が近いとはいえ陽が出ていたからか、中々暖かかった。
カメラで写真を撮る事も出来た。
ピントやら何やらはカメラ任せだ。下手に手を出すよりもこちらの方が綺麗に撮れる。
遊覧船や湖向こうの山の深緑が美しかった。
諏訪に、一緒に撮ってほしいと言われたので、近くを走っていたご近所の方に撮影をお願いした。綺麗に取れた、と思う。
現像したら渡してくれと言われた。連休が終わったら渡そうと思う。心霊的な写真になっていないことを信じよう。
そんなこんなで夕方になるまで観光をしたのだ。
そして夕食も食べ終わって布団を敷き、お風呂も歯磨きもまだだ。
ここは諏訪の実家。ならば、彼女から入るのが当然だろう。
「諏訪、先にお風呂入ってきなよ」
「えっ、ええっ!?」
何を驚いているのだろうか。当たり前の事を言っただけなのだが。
「さ、さかえから入ってよっ! わ、わたしは後でいいからっ!」
「そう? なら、先にお湯頂くね」
鞄からお風呂セットを取り出す。
そういえば包丁を仕舞いっぱなしにしていたが、拗ねていないだろうか。
まあ放っておこう。包丁に話しかけている変な人だと思われたくはない。
「あ、タオルってある?」
「だ、脱衣所においてあるからっ! 自由に使ってっ!」
顔を真っ赤にした諏訪がそう言う。
しかし榮は気にもせず、諏訪の部屋を後にした。
―――
「んー…迷った」
榮は再び迷っていた。
お風呂場へ向かおうと諏訪の部屋を出て、少しうろついたところでお風呂場の場所を知らないことに気付いた。
戻ろうにも、薄暗い廊下が続いているばかり。来たばかりの他人の家とは、こうも迷うものだったのか。
「うーん…どうしよう」
振り返ると真っ暗な暗闇が続いている。戻った所でさらに迷うだけだろう。
視線を前に向けると外が見える。暗闇に目が慣れたのだろう。
とりあえず先に進む榮。
すると目に入るのは苔むした大岩。曲がりくねった松の木。
松の木の頂にはまん丸に大きい満月が掛かっている。うむ、雲もない良い天気だ。
そういえば今日は中秋の名月だったか。
一輪挿しにはススキが活けられ、三方には幾つかの白いお団子が積まれていた。
お月見でよく見る光景だ。風流である。
「どうもこんばんわ」
「…手前かよ。今度は何処探してんだ」
む、これは心外である。まるでいつも迷っているような物言いではないか。
実際その通りではあるが。
榮が話しかけたのは、甚平を着た若い男性。
縁側に座っていた男性は、昼間と変わらずにお猪口を傾けていた。
よもや昼間からずっと飲んでいたのだろうか。
「お風呂場を探しています。場所を聞くのを忘れてしまっていて。ところでお月見ですか?」
「酒が不味くなる。とっとと失せろ」
「今日はスーパームーンらしいですね。普段よりもお月様が大きいらしいですよ」
「んなこたぁ分かってる。折角の月見酒を邪魔すんな」
そう言い、男性はまたひとつお猪口を傾けた。取りつく島もない。
しかし榮は気にする事もなく男性に話しかけた。
榮が住む『万屋 矢尾』の家主はもっとこう、人間離れした思考をするのだ。基本的に表情は硬いし。
比べてしまえば、自分の感情を素直に表す目の前の男性の方が人間味がある。
「どうせ暇なんですし、いいじゃないですか」
「俺が暇かどうかは手前が決める事じゃねえだろ」
「お酒飲んでるんですし、する事はないと見ましたよ」
「む…そりゃあ、なあ」
お酒を飲めば車にも乗れない。車に乗れないという事は遠出も出来ない。
日が暮れるのも早くなった今日この頃、歩いて山を降るのも危ない。
つまり今日はもう、お酒を飲んで寝るだけという事だ。
お風呂セットを脇に置き、縁側から足を投げ出すように座る。
地面には雑草一つ生えていない。かなり丁寧に管理されているのだろう。
高いビルも強い光もない。空気は澄み雲は皆無。耳に入るのは鈴虫の鳴く音。そして風のそよぐ音。
こういった自然が満ちる中、見上げる満月というのは格別だ。
「…んで何が目的だ」
「目的といっても特には…あ、お団子一つ頂きますね」
三方に乗せられた白い団子を一つ掴み、口に放り込む。
特に味はしない。お供え物なのだから仕方ないが、何か味が欲しい。
あんこかみたらしかきなこが理想だ。それならぼたもちを所望したい。いや、今の季節ならおはぎか。
「手前みてえな無礼な奴、初めてだ」
グイとお猪口を傾けお酒を呷りながら、男性はそう言った。
無礼とな。
そう思い、今までの自分の行動を振り返ってみる。
月見酒を楽しんでいる所に乱入した。
年上(と思われる)男性への馴れ馴れしい態度。
返事も待たずに月見団子を食べた。
これは酷い。
諏訪の家から追い出されても文句は言えない。
「それもそうですね。どうしましょう?」
「今更だ。そのまま馴れ馴れしくしとけ」
口元に笑みを浮かべながら、男性はそう言う。
どうやら好感触だったようだ。榮としては何時も通りに振る舞っていただけなのだが。
「ところで諏訪のお兄さん。お夕飯の時は見かけませんでしたけど」
夕飯の時、彼の姿は見えなかった。
別室で食事をとっていたのだろうか。
「手前、何も知らねえんだな。聞いてねえんか」
とは言われても、何も知らない。
何か複雑なお家の事情でもあるのだろうか。
しかし榮は詮索する気もない。面倒事などご免だ。
「諏訪からは何も」
「諏訪ぁ? 誰の事だ」
そういえば、諏訪の下の名前はなんだったか。
いつも名字で呼んでいたから忘れてしまった。
「えっと…藜さんと桔梗さんの娘の諏訪です」
「藜と桔梗の―――まさか、手前を招いたの、お嬢か?」
お嬢。
そういえば以前、箕輪さんにもお嬢と呼ばれていた事を思い出す。
しかし、妹に対してお嬢と呼ぶのも違和感が残る。兄妹ではなかったのか。
「珍しい事もあるもんだ。お嬢が誰かを招くなんぞ」
「そうなんですか?」
「岡谷の小娘なら何度か見たが、ここ何年かは見てねえな」
「へぇ…大学では一緒にご飯食べたりしてますけど」
「そういや、大学で懇意にしてる奴がいるって言ってたな。手前がそうか。名前は」
懇意とな。
確かに大学に入ってからすぐに仲良くなり、それ以来五か月ほどの付き合いだ。
幼少の頃にも仲良く遊んでいたらしいが、思い出したのは最近だからノーカウントとしている。
しかし名前は、お昼頃に言った気がする。
「榮です。旧字体の方の字で」
「榮? どっかで聞いた事あるが…」
「ところで、あなたのお名前は?」
「…建って呼べ。それにその顔」
ジッと見つめてくる建という名の男性。
「何処かで見た気がすんだ。何処だったか」
とは言われても。
今日初めて会って、今が二回目の邂逅だ。
それに、自分と同じ顔は三人はいると聞く。誰かと間違えているのだろう。
「へくちっ!」
風が吹き込んでくしゃみをしてしまった。
秋の夜長。冬に比べれば暖かいとはいえ、夏に比べれば肌寒い。
風邪は引かないとはいえ、お風呂に入って温まった方が気分的には良い。
「すみません。お風呂入りますね。お風呂場はどこでしょう?」
「向こうだよ。廊下の先の最初の戸だ」
指差す先にはトイレが。
ふむ、角を折れた廊下の先か。
お風呂セットを持って立ち上がる榮。
「お邪魔しました。私はこれで」
「風邪引くんじゃねえぞ。迷惑だからな」
車に乗った時、酷い酔いに襲われて一時的に行動不能になってしまった。
諏訪に酷い迷惑をかけてしまったのだ。これ以上迷惑はかけられない。
そうして榮はようやっと、お風呂に入る為に廊下を進み始めたのだった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:お月見団子
設定:
至って普通の大学生。
諏訪の口車に乗せられ、彼女の実家である神社へお泊りすることに。
車には滅法弱い。自分で運転する分には問題ないが、助手席や後部座席に座ると途端に酔う。降車後、一時間はまともに動けないほどに。
自覚のない方向音痴。それでいて散歩好きなのだから始末が悪い。
体がとても丈夫。小学校の低学年以来、風邪一つ引いていない。
何もかもを許容する彼女だが、こと『神様』に関しては絶対許容しない。それが彼女の生き方だから。
・名前:諏訪
性別:女
職業:大学生・祓い師
好物:御御御付け
設定:
大和撫子な大学生。
以前、岡谷から榮が彼女の部屋に泊まったと言う事を聞いて以来、今か今かと雌伏を経ていた。
やや強引ながらも、自分の家へのお泊りの了承を取り付け、連休を楽しみに待っていた。その浮かれっぷりは岡谷ですらも引いてしまう程。
神社、引いては祀っている『神様』への知識や信仰は本物。心を込めた言葉をお金で解決された事にはかなりショックを受けた。しかし頭を撫でられて許す辺り、惚れた弱みか。
また、弁舌にも長けており、聞き手の心を引き付けるある種のカリスマを持っている。
榮が『物置で寝ます』的な事を言うだろうと直感したため、手を引いて自分の部屋へ連れ込んだ。しかしヘタレ気味。
・名前:岡谷
職業:大学生
好物:うどん
設定:
短髪で陽気な大学生。
連休を利用して、電車で一時間ほどの距離の会場で開催されている『麺の広場~秋の陣~』へと参陣。その為、姿は見えなかった。
『魂の場所』と言う程に麺場(麺の広場~秋の陣~の略)を敬愛しており、年に四度行われる催しには欠かさず参加している。
体は麺で出来ているとかなんとか。
・名前:藜
職業:宮司
好物:きなこ餅
設定:
ナイスミドルな諏訪の父親。
娘が連れてきた同年代の友人に興味津々。もしも彼氏だったら抹殺していたとか。
子煩悩だが良い親御さん。しかしこの頃、娘の親離れに寂しがっている。
・名前:桔梗
職業:宮司補佐
好物:わらび餅
設定:
美人流麗な諏訪の母親。
娘が連れてきた同年代の友人に興味津々。もしも彼氏だったら馴れ初めを聞き出すつもりだったとか。
榮が寝ている間に諏訪を呼び出した。色々と話したらしい。
料理はとても上手。榮が泣いて喜ぶほどに。
・名前:建
職業:不明
好物:酒
設定:
トイレを探していた榮が出会った、甚平を着た若い男性。
榮が話しかけると怒鳴ったり、不機嫌に不愛想に振る舞ったりと感情の起伏が激しい。
しかし案外、話せる相手。少なくとも、榮は好意的に見ていた。
榮は彼を諏訪の兄と見ていた。しかし諏訪を『お嬢』と呼んだり、本人の口から『兄ではない』という言葉が出るなど、その正体は分からぬまま。
榮に誰かの面影を見ていたらしい。しかし結局、気付くことはなかった。




