古本のお話
「中々有意義だったよ。うどんは美味しいし日差しは強いし。やっぱり食堂で食べるのとは全然違かったよ。こう、コシがね」
「うんそうだね」
「それに渦巻も見下ろしたよ。いや、あれに巻き込まれたら人間終わりだね。自然はすごいよやっぱり」
「うんそうだね」
「…ついでに沖縄まで泳いで行ってさ。沖縄のさきっちょで魔剣見つけてそれに乗って火星に行って氷溶かして空気作って来たんだ」
「うんそうだね」
「この野郎め!」
ペシリと頭を叩かれた。
その衝撃に榮はハッとし、辺りを見渡した。
ガヤガヤと賑わい多くの人がごった返す。見覚えのある場所。
食堂だ。大学の食堂。
自分の前に置かれたお盆の上にはカレーライス。
半分ほど無くなっている。白い部分が目立つが。
目の前に座っているのは、小麦色に焼けた肌の女性。
なんだか以前よりも日焼けが強くなっている。日差しの強い場所にでも行ったのだろう。
そしていつもの珍妙なTシャツ。『海人』と書かれた物だ。沖縄で買ったのだろう。
いつもつるんでいる二人の友人の一人、岡谷だ。
そうだ。
夏休みが明けて講義が始まり、今日は初日だ。
九月の中旬。こんなに長い夏休みは初めてだった。
あれ、どんな講義受けたっけな。覚えていない。ボーっとしていた気がする。
「何すんのさ岡谷」
「さっきから変だぞ榮。適当な事言っても空返事でさ。何かあった?」
「…いや、まあ、ね。ちょっと借金を、ね」
「借金? 榮の事だから無駄遣いとかじゃないとは思うけどさ。幾ら?」
ズルズルとうどんを啜る岡谷。
今日の彼女のうどんは卵を一つ落とした月見うどん。
夏休みの間に嫌というほどうどんを食べただろうに。飽きはしないのだろうか。
岡谷の心配はさておいて、質問に答えねば。
いやだがしかし、言っても大丈夫だろうか。
まあ問題ないだろう。他人に話すような人柄でもないだろうし。
散々溜めて、榮は言う。
「………六百万」
「うぐぅっ!」
むせる岡谷。
ゴホゴホと咳き込んで、水を一口飲む。
鼻からうどんが飛び出ていないだけマシなのかもしれないが。
はあはあとしていた息を整え、慌てたように問いかけてくる。
「ろ、六百万って…何したの? まさかバイト先のお金ちょろまかして…」
お金をちょろまかすなど、そんな事するわけがない。
大体、リターンとリスクを考えれば行動などに移さない。
メリットは一時の満足感。デメリットは民事罰に刑事罰。
あり得ない。
「いやー…ちょっと車を傷つけちゃってね。店長の新車」
「それにしたって六百万か…」
エンジンの大事な部分まで真っ二つにしていたらしく『べーえむべー』は廃車となった。
新車の『べーえむべー』を破壊した責任を取らされ、購入代金のほぼ全額を背負わされてしまった。
幸いと言うか、返済期限については決められていない。
時給は九百円。平日と休日の勤務時間は平均で六時間。休みは気が向いたら取るようになっている。ほとんど休んだ事はないが。
勤務日数は三十日と考える。
つまり、月のお給料は十六万円前後。
これを年で換算すると、二百万円くらいか。
一割程度引かれるとすると、残るのは百八十万円。
六百万円を返済するには三年から四年の間。
しかもお給料全てを返済に充てるとして、だ。
「ねえ岡谷、バイトの当てない? 時給いいトコ」
岡谷に頼むのは筋違いだと分かっている。ハローワークに行くか街を歩いて求人を見つけるかするべきなのだ。
しかしこのままでは矢尾に申し訳が立たない。なるたけ早く返済をしたい。
「バイト、バイトかぁ…ちょっと待って」
そう言い岡谷は手帳をペラペラと捲る。
少しばかり記憶力に何のある岡谷だ。色々と書き込まれているのだろう。
何か書かれているのだろうが、榮に知る術はない。
ページを捲られる手が止まり、ニヤリと微笑む岡谷。
お、これは。
「全く榮は運がいいねえ。丁度当てがあるんだよ。時給は、これ」
そう言い、岡谷は指を一本立てた。
一。
時給というと百円はありえない。
ならば…
「千円? 結構いいね」
「違う違う。もう一桁上」
立てたままの人差し指をチッチッというかのように振る岡谷。
一桁上? つまり…
「い、一万円? 日給じゃなくて?」
「そうそう。時給が一万円。勤務内容は古本屋の店番。座ってるだけだね」
座っているだけで時給が一万円?
何か裏がありそうで恐ろしい。しかし選んでいる暇はない。
「けど、岡谷はそのバイトしないの? そんなに時給がいいのに」
岡谷の顔が真顔になった。
今まで笑っていたのに、どうしたのだろうか。
「いや、うん。一回やったんだけどね。うん。あれだよ………行けばわかるよ」
何か遠い眼をしている。
まあ、言いたくないのなら別に構わない。
特に追求する気もない。
「それじゃあさ、連絡先教えて。応募するから」
「はいはい。電話番号が…」
電話番号を聞く限り、市内の様だ。
しかしこの辺りに古本屋など合っただろうか。
榮の知る限り見つけた覚えはないが。
「あ、そうだ。借金の事は諏訪には内緒ね」
「分かってるって。矢鱈に言うつもりもないよ」
電話番号を書き写したところで、お昼休みが終わる頃になった。
食器を片づけ食堂を出る。
岡谷も講義があるらしい。講義棟の入口辺りで別れた。
階段を上っている時、ふと気づいた。
そういえば、諏訪が来なかった。
昼食の際には少し遅れて来ていたのに。
講義で会った記憶もないし、今日は大学へ来ていないのだろう。
風邪でも引いたのか、と疑問に思ったが彼女の家を知らないのだ。
電話番号も知らない。お見舞いに行くことも出来ない。
仕方ないかと諦め、榮は最前列へと座り講義への準備を始めた。
―――
現在時刻は午後の四時頃。
最寄りの駅から自転車で十分ほど走った場所。
坂道を下ったり上ったりして路地を通り、橋を一本渡った所だ。
以前車に押し潰された自転車だったが、早い内に新しいのを買っておいた。
今回の自転車は三段変速付の物。
先代の自転車は変則がなかったから、とても楽ができる。
「えっと、この辺、かな」
中央車線のない道路を自転車を押して歩く。
電話で説明された目印に到着した。
例の古本屋へは連絡を入れておいた。
待ち合わせ場所へ行く途中だ。
講義が終わり大学を出て、近くの公衆電話からカチカチカチと番号を入れて電話を掛けた。
すると、ワンコールでガチャリと取られた。
『はい、古本屋住吉です』
若い女性の声だった。
多分、榮と同じくらいの年だろう。
「お忙しい所すみません。バイト募集の件でお電話を差し上げたのですが」
『…え、正気ですか?』
何か突然正気かを疑われた。
変人とは度々言われるが、初めて電話をした相手に言われるのは初めてだ。
『うぎっ』
何か変な音が聞こえた。
ゴトリと鈍い音の後、ズリズリと何かが引き摺られる音が聞こえた。
数秒後、受話器から聞こえる声が変わった。
若い男の声だ。
『申し訳ありません、店員が失礼な事を』
「あ、いえ、慣れていますから。所で、バイトを募集しているとお聞きしたんですが」
『ええ、ええ。募集をしています。つい先日、一人入院してしまいまして』
入院?
古本屋の店番で入院する事など無い。事故にでも遭ったのだろう。
『店員が一人だけでは店が回らないんです。早い内に契約を結びたいのですが』
「え、面接や履歴書とかは…」
『いえ、そんな物は後からどうとでも出来ます。今は人手が欲しいのです。勿論、そちらの都合が合えば、ですが」
「是非ともお願いします!」
なんと呆気なく決まってしまった。
時給一万円の高額バイトが。
『ところで、募集の件はどなたからお聞きに?』
「えっと、以前そちらでバイトをしていたと言っていましたけど…」
名前を言っていいのだろうか? 個人情報にうるさい世の中だ。
どう言おうかと悩んでいると、男性の声が続いた
『正気で戻ったとなると…ああ、岡谷さんですね』
ん? 何か変な事を言われた気がする。
『納得しました。それでは弊店『古本屋 住吉』の場所ですが』
「あ、はい。お願いします」
『弊店は路地のただ中にありまして、とても分かりにくいんです。近くに目印がございますので、そちらでお待ちいただければ迎えを送ります』
「分かりました。それでは、本日の四時頃に伺います。近くの建物は…?」
そして言われたのが、この場所。
「赤と白の鉄塔、か。ここだと思うけど…」
住宅街から少しばかり離れた場所に建てられた鉄塔。住宅街近くに赤と白のカラーリングはとても目立つ。
確かに、待ち合わせ場所にするにはとても分かりやすい。
しばし待つ。
腕時計を見ると、丁度四時になる頃だ。
「あの、もしもし」
後ろから声を掛けられ、ビクリと榮の体が跳ねた。
少し前の電話で、最初に受話器を取った女性の声だ。
後ろへ振り向く。
自然な金色の長髪。
パチリと大きい碧い眼。
まるで白い肌。
西洋人形のような外見。
そしてその衣服。
西洋人形のような外見に反して和の衣装。
赤を基調としたそれは、夕焼けの紅い空に溶け込むようだった。
なんだろう。
身近に着物を着ている友人がいるが、流行っているのだろうか。
流行には疎いのだ。知るハズが無い。
「『古本屋 住吉』の使いですが…先ほど、お電話を頂きましたので、お迎えに上がりました」
「あ、はい。よろしくお願いします」
一言挨拶をし、パツキンのチャンネーに着いていく。
榮は自転車を押し、彼女は少し前を歩く。
電話で言われた通り、大分狭い路地を何回も曲がる。確かに初見では分からないだろう。
何回目か路地を曲がった時だろう。何か視線を感じた。
ちらりと横を向くと、目があった。
パッと外されるが、気まずい。
取りあえず名前を聞こう。
「あ、えっと…お名前は」
「…茅野です」
素っ気なく言われた。
何か嫌われるようなことをした覚えもない。
なにしろ初対面なのだ。
む、しかし茅野。
どこかで聞いた覚えが…
あ、そうだ。
「三丁目の?」
「三丁目? 祖母の家は三丁目ですけど…」
なるほど、間違いない。
「別の所でバイトをしてまして。そこの、お客さんです」
「あの辺でバイトって、まさか万屋の…」
「あ、そうですよ」
肯定すると、なんだか憐れむような視線を送られた。
金髪美人にそんな目を向けられても、ご褒美でしかないのだが。
そして角を曲がると、少し広い道路に出た。
少しばかり薄暗い。周りが住宅街で路地中だからだろう。
そして榮の数メートル前。
『古本屋 住吉』の看板を掲げた店があった。
平屋の店舗だ。
広い間口からはうす暗い店内が見える。大きな本棚が幾つも置かれているのが見えた。
茅野に連れられ店へと入る。
薄暗いながらも、縦に置かれた本棚が幾つか設置されている。
数えきれないほどの本が詰め込まれている。
本の大きさから考えるに、小説か何かだろう。榮は漫画専門なので興味はないが。
そして店の奥。
胸の辺りまでの高さのカウンターがあった。
男性が座っている。そして何かを読んでいたのだろうか、目線を榮に向けた。
薄暗い店内でも目立つ黒いクマ。ボサボサとした黒い髪。縁の太いレンズの厚いメガネ。
それに紺色の甚平。それとも作務衣か。立秋も過ぎてしばらく立つのに、寒くはないのだろうか。
「どうも『古本屋 住吉』の二代目店長をしています『ジョウチュウゲ』です」
立ち上がった彼の背は、榮よりも随分と高い。
見下ろされる形で挨拶をされた。
ジョウチュウゲ?
そう言われても、漢字が思い浮かばない。
名字や名前には、珍しい読み方をする物も多いのだ。
「ジョウチュウゲ、というと…」
「ああ『上』と『中』と『下』それで上中下」
「あ、そうですか。えっと、榮です。お忙しい中、お時間を作っていただき…」
「ああ、こちらこそ。一刻も早く人手が必要なんだ。一人じゃ手が回らなくってね」
そう言って笑、後ろに目を向けると茅野が憮然とした表情をしていた。
なんだか憎しみが籠っている気がする。あ、今、舌打ちした。
「榮さんは何曜日なら入れるかな?」
何曜日。平日は『万屋 矢尾』でのバイトがある。こちらは今まで通りに続けたい。
ならば休日。土日の休日ならば『万屋 矢尾』にお客様は来ない。
依頼の方は休日が多いが、多くとも数件程度。これは今までの経験からだ。
「えっと、土日なら…」
「なら丁度いいんじゃない? 私、平日入ってるし。これ以上増やされたら辞めるわ」
どうやら茅野さんは平日にシフトが入っているようだ。
ならば都合がいい。平日は榮の都合が悪いのだ。
「うん、それならそうしよう。えっと、明後日からか。榮さん、何時から出られるかな?」
「休日なら九時から出られます。何時までですか?」
「うーん…十七時まで、かな? 勿論、休憩もあるよ。お昼の一時間」
「分かりました。あの、ちなみに時給は…」
「うん? 岡谷さんに聞いていないかな? 時給は一万円だよ」
間違いないようだ。
しかしお世辞を言っても繁盛はしてない様な古本屋だ。
潰れでもしないのだろうか。いや、気にすることではないか。
つまり、まとめるとこうだ。
九時から十七時の間。昼休憩が一時間。つまり七時間。
七時間掛ける事の一万円。つまり一日当たり七万円。
一月に八日ほど働くことになり、七万円掛ける事の八日。
合計、一月に五十六万円。
五十六万円!
手取りは少し減るとはいえ十分に過ぎる。
このまま続けば返済などあっという間だ。
「それじゃ、明後日から頼んだよ。仕事はその時に教えるから。茅野さん、道案内を頼んだよ」
「…はぁ、分かった」
そう言って、茅野は店を出た。
榮はその後に着いて行く。一度通ったとはいえ、まだ流石に道は覚えていない。
しかし二度通れば覚えられる。隠れた特技だ。
「…榮、って言ったっけ」
「はい、どうかしましたか?」
「岡谷から聞いてないの?」
岡谷から?
彼女から聞いているといえば。
時給は一万円、古本屋の店番。それだけだ。
「店番、と聞いていますけど」
「店番も間違ってはないけどさ…」
ポリポリと頭を掻く茅野。
何かを言いたいようだが、言葉が見つからないようだ。
「それと、岡谷を知っているんですか?」
言ってから気付く。
岡谷は以前、あの古本屋で働いたと言っていた。
茅野さんも働いて長い様な素振りを見せていたし、二人の間に接点があって然るべきだ。
「岡谷は…なんというか、入院しなかった初めての奴。榮、岡谷とどういう関係?」
「岡谷は同級生ですよ。大学の」
「大学って、あの?」
そう言った茅野の口からは、榮の在籍する大学の名前が紡がれた。
この辺りには大学など一つしかないから、間違えるはずもない。
「ええ、そうですよ」
「へぇ、榮、頭いいのね」
そうであろうか。
取り立てて長所もない普遍的な頭だ。
会話をしている内に路地を抜けた。
赤と白の鉄塔が見えてきた。
当初は中々取っ付きにくいと思ったが、なんとか仲良くやっていけそうだ。
「ここで大丈夫?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」
そう言い、榮は自転車に跨った。
さてと、時計を見ると午後の六時前。
ここから『万屋 矢尾』までは一時間かかるかかからない位の距離。
到着するのは午後七時くらいか。
「そんじゃあね、榮」
「はい、茅野さん。これからよろしくお願いします」
カチャリと変速を換えてペダルを踏み出す。
薄暗い道路を走り、榮は家路に就くのだった。
―――
いつもの学食。
食堂内は学生で賑わい良い匂いが充満している。
いつ来ても良い場所だ。
榮の昼食はカレーライス。
福神漬けは入れないようにと頼んである。榮はどうにも、添え物が苦手なのだ。
「んで榮。バイトどう?」
そう言ったのは、榮の前に座る日焼けした女学生。
そして彼女の前には、丼に盛られネギが乗せられた素うどん。
榮の友人、岡谷だ。
彼女が言ったバイトとは、間違いなく『古本屋 住吉』の事だろう。
岡谷の紹介で『古本屋 住吉』でバイトを始めてから一週間が経った。
店長、上中下との相談で、向こうでのバイトは休日の二日。一月で八日から十日ほど。
時給は一万円。とても破格だ。
「うーん…確かに楽だけどさ。なんというか、本当に問題ないのか心配」
しかしその仕事内容。時給に見合う程の物ではなかった。いい意味で。
事前に聞いた通り、カウンターに座っているだけなのだ。
来店したお客さんも一日に数人。数百円の文庫本を何冊か買って行ったくらいだ。
同僚の茅野。
彼女はあの店へ下宿しているらしい。平日は朝から夕方まで店番をしていると聞いた。
土日は店長、上中下の担当だそうだ。
榮が入ったから店長は、日がな一日を読書に費やしているらしいが。
「いいじゃん別に。簡単ならそれに越したことはないし」
ズぞぞと麺を啜る岡谷。
確かにそうなのだが、暇が過ぎるのも問題だ。
岡谷はどうしていたのだろうか。外見だけならばスポーツウーマンなのだ。
シュッとしてスッとして日焼けしてるのだから。
「岡谷はどうしてた? ジッとしてられないでしょ」
「ジッとしてられないってなにさ…いやけど、あんまり覚えてないんだよね。夏休み前に一週間ばかしだったんだけどさ」
そういえば、と。岡谷は夏休みの間に旅行をしていた。
『うどん食い倒れの旅』とかなんとか言っていたが、なるほど。
旅費はこうして捻出していたのか。
しかし覚えていないのなら仕方がない。
本人が公言している通り、彼女の記憶力には難があるのだ。
「やっほ~ さかえ~」
榮がカレーライスを食べ終わる頃、その声と共に後ろから抱き着かれた。
首を捻ると見えるのは人参色の生地。
そして烏の濡れ羽色の黒髪は、榮の首元をサラリと擽った。
惜しむように離れると榮の隣のイスを引き、音もなく座る。
そちらに目を向けると身を包んでいるのは人参色の小紋。秋も近いと言う事もあり、その季節をイメージしているのだろう。
諏訪である。普段通り、和服に身を包んでいた。
やはり和服には黒髪だ。古本屋の茅野も似合っていたが、あちらはどうにも外国情緒が感じられてしまうのだ。
諏訪と逢うのは久しぶりだ。
夏休みが明けてから一週間ほど。ずっと諏訪の姿が見えなかった。
岡谷に聞いても『分かんないよ。保護者じゃないんだし』と言うだけだ。
二人は長い付き合いと言っていたが、まあそんなものだろう。
「久しぶり諏訪。体調大丈夫?」
「体調? なんともないよ~」
そう言って巾着の口を開き、アルミホイルに包まれたおにぎりを食べ始めた。
体調は問題ないようだ。ならどうしてだろう?
諏訪は理由なく授業をほっぽりだすような性格ではない。ならば家庭の事情か。
だがおいそれと聞いていいものでもない。言いたくない事もあるだろうし。
「ま、ヤバくなったら辞めればいいんだからさ。バイトだし」
汁をゴクゴクと飲み干し、岡谷はそう言った。
対して諏訪はきょとんとした顔を浮かべた。
「バイト~? さかえ、矢尾さんのお店でバイトしてるんじゃないの~?」
「うん、別にバイト始めたんだ。ちょっと入用でさ」
借金の事は言わない。
話してどうこうなる物でもないし。
「言ってくれたら紹介したのに~ 榮なら大歓迎だよ~」
「…諏訪、それってもしかして神社のヤツ?」
「そうだよ~?」
「いやそれ、諏訪が勝手に決めていい事じゃないでしょ」
「だいじょぶだよ~ その辺も任されたから~」
「へー、もう頭上がらないね」
諏訪と岡谷がなにやら話している。
諏訪の家は神社のはずだ。
そこでのバイトといえばやはり巫女。
よく見る白と赤の装束を着て『かしこみかしこみ』とか言うのだろう、きっと。
「いや、神社はお断りかな」
「な、なんでさ~!? 時給もいいよ! 休憩取り放題だよ!」
「うーん、嫌だから」
神社だけはお断りだ。
たとえ時給が超高額だとしても。
「諦めなよ諏訪。家遠いんだから」
「む~っ! けどけど~っ!」
諏訪がペチペチと肩を叩いてきた。
なんだか駄々っ子のようだ。
そして肩を叩くのが止まったかと思うと。
「さかえはっ! 私とお金のどっちが大事なの!?」
「諏訪だよ?」
そう言うと数秒ほどの空白。そして諏訪の顔がボンッと赤く染まる。
本人としては至極当然のことを言ったつもりだ。
物の価値が分からない榮とはいえ、何が価値を持つかくらいは分かっているつもりだ。
お金は額面以上の価値は持たない。
半分ならば半分の価値だし、それ以下ならば価値も付かない。
あくまでも何かを得る為の手段だ。それ以上でも以下でもない。
だから榮は重要視しない。あるに越したことはないが、それだけだ。
どちらが大事かなど一目瞭然だろうに。
「えへへ…告白されちゃった…」
テレテレと頬を掻く諏訪。
何故照れる必要があるのだろうか。ただ当然のことを言っただけなのに。
「けど榮、大変そうだね」
岡谷がニヨニヨした顔で見ている。なんかムカつく。
そういえば、諏訪を見ていて思い出した。
赤い着物を着た、金髪碧眼の同年代の女性。
古本屋に下宿している茅野の事だ。
今この時代、着物を普段着にしている人など極稀だ。
古本屋でのバイトが始まって数日程度。茅野とは引き継ぎの時に一言二言話す程度。
一週間の短い間とはいえ接点はあるだろう。
「岡谷、茅野さんだけど」
榮は茅野の好物でも岡谷に聞こうとした。
仲良くなるためには距離を縮める事だ。その為には、その方法は。
食べ物だろう。
好物を目の前に出されれば、頭を下げてでも食べたいと思う。
少なくとも榮は。
「茅野さん? 誰それ」
「ほら、古本屋の。着物着て金色の髪した」
「着物? 普段着てるのなんて諏訪しか知らないよ」
知らない?
いや、岡谷が忘れっぽいとはいえ、異国情緒溢れる和服美人なのだ。流石に印象に残るだろう。
違う店? とも思ったが、時給一万円のバイトを募集する店などそうそうあるハズもない。
「ん、え? あの店、店長一人だけだよね。奥で本読んでる」
岡谷が言う。
確かにそうだ。榮が店番をしていた時、奥の部屋でお茶を飲みながら古書を読んでいた。
「店長の名前、分かる?」
「えっと…」
そう言いつつ、岡谷はペラペラと手帳を捲る。
忘れっぽい岡谷は、日々の事を手帳に纏めているらしい。
バイトの事を忘れたと言っていたが、それもあの手帳に書きこんであるのだろう。
ペラペラ、パラパラと手帳を捲ったかと思うと、その手がピタリと止まった。
当日の事が綴られたページなのだろう。
「上中下、だよね?」
「そうそう。茅野さんの事、書いてない?」
更にペラペラとページを進めている。時間にして数十秒後。
パタリと手帳を閉じて岡谷が言う。
「いや、ない、全然」
しらを切っているようには思えない。
本当に誰なのか分からないようだ。
「ホントに。ほら、見てみて」
そう言って、榮の前に手帳が置かれた。
岡谷が使っている手帳だ。
日付を見ると夏休み前。バイトをしている間に書いた日記だろうか。
『今日からバイトを始めた。店の名前は『古本屋 住吉』入り組んだ路地の先で分かりづらい場所だった。店長の名前は上中下。何か胡散臭いが時給は高い。夏休みの旅行に向けてなんとか粘ろう』
辺りの簡略地図と共にそんな事が書いてあった。
お客さんが来なくて暇だとか、お茶が美味しいだとかお菓子が美味しいだとか。
取り留めもない事だ。
ペラとページを捲ると日付は次の日。
こちらもやはり愚痴が書き込まれている。暇だーとか飽きたーとか。
バイトを始めて三日目。
ここで初めて愚痴ではない事が書かれていた。
『バイトを始めて初めてのお客さんだ。背が高くとても見目が良く、痩せていて肌は浅黒い。異境から来たのだという。海外の俳優だろうか?』
『予約をした本を受け取りに来たようだ。本の名前は『Unausprechlichen Kulten』読めない。ラベルには無有とある。なんと読むのだろう。むう、だろうか?』
お客さん。
榮がバイトを始めて二日。お客さんは片手で数えられるほど。確かに珍しい。
しかし予約の本か。
カウンターの横には何冊かの本が詰め込まれていた。
仕事の説明を受けた際、予約されている本だと聞いた。いづれ受け取りに来た時、渡すのだという。
「ところで岡谷。これ応対しながら書いてるよね?」
「忘れたら大変だからさ、隠れて書くようにしてるんだ。あ、普段はしてないよ。大事な時だけ」
なるほど、と一応は納得して、榮は手帳を読み進める。
『落丁や乱丁がないか確かめてくれと言われた。古本とはいえ破損品を渡すわけにもいかない。錆びた留め金を外して中を改め』
そこでプツリと途切れていた。
前日のページはギッチリと書かれているのに、この日は余白となっている。
「…続きは?」
「いや、それだけ。憶えてないんだけどさ、ちょっとばかし嫌な事があったみたいでね」
次の日のページを見る。
『昨日のページを改めると、どうやら余程な目に遭ったらしい。憶えていないので良しとしよう。しかしこの古本屋はマズイ。あと三日で目標額も貯まるし、それで終わりにしよう』
そして三日ほど取り留めもない事が書き留められている。
どうやら問題があったのはこの三日目だけのようだ。
だが、茅野さんには一切触れられていない。まるでいないようだ。
茅野さんは、平日店番をしていると言っていた。
しかしこの日記では、岡谷が一週間毎日店番をしている。
毎日なのだ。茅野さんと会って然るべきだ。
ならば…
「え、じゃあ、茅野さんは…?」
「うーん…私、諏訪みたいな霊視は出来ないし、何とも言えないけどさ…幽霊?」
「ゆ、幽霊!? 諏訪助けて! 岡谷が虐めるの!」
「さ、さかえ!?」
諏訪に泣きつく榮。
ぎゅむと抱き着くと諏訪があたふたとしながらもその身に抱く。
幽霊、幽霊、幽霊。
榮が最も苦手とする物はそれなのだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花という言葉がある。
正体さえ分かってしまえば怖くない、という意味だ。
その通りだ。噂には必ず大元があり、大して怖くもない話が大いに脚色されている。
最初が一でも、多くの人を通せば伝言ゲームさながら十にも百にも千にもなるのだ。
しかし、だ。
それは正体が知れているから言える事だ。
得体の知れない幽霊。
よくあるフィクションでは、幽霊側から一方的に干渉を受ける。
多くはどうにもならず、一方的に殺され死んでいくのだ。
それならば体がある分、人間の方が手っ取り早い。心臓を突くか首を落とせば片付くのだから。
「おかや、あんまり怖がらせちゃダメだよ? さかえ、怖い話苦手なんだから」
「えー…私悪くないじゃん。むしろ榮が悪い。こんな怪しいトコでバイトするんだから」
手帳をパタリと閉じてお盆を持ち上げる岡谷。
震えながらも時計を見ると、昼休みが終わりそうになっていた。
というより、あと十分だ。急いで片付けねばならない。
「お、岡谷…怨むからね…」
古本屋を紹介した分も、幽霊と言った分も。
恐怖で体がまともに動かない。岡谷のせいだこんにゃろめ。
しかし岡谷はどこ吹く風だ。
諏訪と手を繋いで食堂を出る。お盆を片付けるのを任せてしまったのは悪かった。
今度埋め合わせをしよう。
「あ! 榮の肩に手が!」
「うひゃひぃ!」
手を離して肩を払う。しかし何もない。
引っかけたな岡谷め。
恨みがましい視線を向けると、ケラケラと明るく笑っている。
笑い事ではないのに。
「そんじゃね榮に諏訪、また今度ー」
そう言い岡谷は手を振って去って行った。
文句を言う暇もない。
「はぁ…諏訪、それじゃ私も講義に行くね。手繋いでくれてありがと」
「ううん、嬉しかったから、いいよ」
惜しむように手を離す諏訪。
諏訪にも授業があるのだ。
「それじゃあね~ さかえ~」
諏訪もパタパタと手を振って去っていく。
榮も次の講義のある棟へと歩いて行く。彼女の肩は重かった。
次の『古本屋 住吉』でのバイトは二日後。
土曜日の引継ぎには絶対に茅野さんと顔を合わせる事になる。
どういう顔をして会えばいいのだろうか。考えると肩も足も体も重くなる。
はあ、と溜息を吐きながら、榮は階段を上って行くのだった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:カレーライス(福神漬け抜き)
設定:
至って普通の大学生。
店長の車を破壊してしまい六百万円もの借金を背負った為、新しいバイトを探していた。岡谷に紹介された超高時給のバイトを始め、返す目途は付きつつある。
しかし『古本屋 住吉』でのバイトは余りに暇で、普段は読まない文庫本にも手を出した。長い話を読む気はないので、ショートショートの有名作。
神社のバイトは絶対にしないらしい。いくら待遇が良くても絶対に。
同僚の茅野さんが『幽霊』だと言われ、割と本気で怖がった。
物の価値は分からないが、何が価値を持つかは分かるつもり。
・名前:岡谷
職業:大学生
好物:うどん
設定:
短髪で陽気な大学生。
夏休みはうどん食い倒れの旅をしたり沖縄に行ったりしていた。決して、魔剣に乗って火星に行ったりはしていない。
時給一万円の超怪しいバイトを榮に紹介した。本人は覚えていないが、散々なめに遭ったらしい。
記憶力に難がある。
榮が言った『茅野さん』について。
記憶を補完する為の手帳に一切記述がなく本人も全く覚えていない為に、彼女を『幽霊』と結論付けた。
・茅野さん
職業:フリーター
好物:水飴
設定:
和服で金髪碧眼のお姉さん。榮と同年代。
『古本屋 住吉』に下宿し、平日は彼女が店番をしている。店長に不信感を抱いている模様。
三丁目の茅野さんを知っているらしく、彼女の孫を自称した。
しかし岡谷の記録した手帳には一切記述がない為、彼女を『幽霊』と結論付けた。
・上中下
職業:古本屋店長
好物:氷砂糖
設定:
甚平を着たクマの目立つボサボサ眼鏡。男性。
『古本屋 住吉』で店長を務めている。先代から引き継いだらしく二代目を自称している。
三度の飯より本が好き。そのため、四六時中本を読んでいる。古書やら何やらを。
店長を務める『古本屋 住吉』に来るお客は滅茶苦茶少ないが、物好きが珍しい本を超高値で買って行くため、採算は取れているらしい。
しかしバイトの入れ替えが激しく、自分も店頭に出なければいけない事を憂いている。
・名前:諏訪
性別:女
職業:大学生・祓い師
好物:御御御付け
設定:
大和撫子な大学生。
夏休みが明けて一週間ほど、大学に来ていなかった。
家でのゴタゴタを片付けていたらしく、彼女の家でのバイト採用も彼女の役目になった。
榮がバイトをすると言ったら超高待遇で迎えるつもりだった。日給二十万円くらいで。
どこぞの誰かと同じく、手段は選ばない方。
・『古本屋 住吉』
設定:
大学の最寄駅から自転車で十分程。途中には上り坂も下り坂も橋もある。目印は『赤と白の鉄塔』
目印から少し歩き、閑静な住宅街の路地を何度も曲がった先に店を構えている。
異境の者も来るらしく、一部業界では超有名な店。
書籍に関してなら絶版本や稀覯本すらも入荷する。というかさせる。
入荷した本の一つには、革の装丁が成され錆びた金属の留め金で閉じられた『Unausprechlichen Kulten』がある。
お客様は選ばない。求める者に与えている。




