山友のお話
『あ、くまだ! かおうよ!』
『か、かまない? だいじょうぶ?』
『大丈夫だよ! まだ小さいし。えっと、なまえは…』
刻が見える。
古い懐かしい、幸せだった頃の記憶が。
『あ…ここ』
『ん? 白いね。しらがかな?』
『お月さまみたい』
『お月さま…なら、がちりんだ!』
『がちりん?』
『おばあちゃんが言ってたんだ! お月さまのことをがちりんって!』
死の直前に見る、記憶の想起。
走馬灯なのか。ならば自分は死んだのか。
坂を下っている感覚がする。
しかし、目は見えない。暗闇の中をひたすらに下る下る。
果てなく、どこまでも。
懐かしい。どこかで感じた事がある。
どこかで、何かで。
ああ、そうだ。
―――あの時、この場所で
―――
眼を開けると、茶色い土の壁が見えた。
木の根が垂れ下がっている。
「ここ…」
体を起こし辺りを見渡す。薄暗いが光はある。
数メートル先からは青い空が見えた。洞窟、だろうか。
―――そうだ。崖から、落ちて。
体のあちらこちらが痛い。二の腕や脚には切り傷が見え、衣服は所々破れていた。
幸い、骨は折れていないようだ。
数十メートルはあろう崖から落ちたのに、よくもまあ無事でいられたものだ。
榮は独白するが、ふと気付く。
「これ、私の…」
自分に掛けられていた毛布。
緑色の花の模様が散りばめられた毛布。
かつて榮が洞窟で暮らしていた時、ボロ小屋から唯一持ち込んだ物だ。
それならば、あの崖からほど近い場所だ。
しかし、自分をここに連れ込んだ犯人は、何を考えているのだろうか。
誰が何の為に何の目的で。
いくら考えても思いつかない。
恨む心当たりは幾つかあるが、恨まれる心当たりは全くない。
うんうん唸って頭を捻っていると、土が踏まれた音がした。
今まで俯いていた顔を上げる。
―――ようし、問いただしてやる。
そちらへと顔を上げ、そちらを向く榮。
そして固まる。
熊だった。
上半身を起こしている榮を、優に超す体長。
真っ黒い体毛で覆われているが、首回りの一部は白い体毛が生えている。
案外つぶらな黒い瞳で、その視線は榮へと注がれていた。
―――あ、これ死んだやつ。
まさか、自分を餌にする為にここまで運んだのか。
どうせなら意識が無い内に喰らえばいい物を。榮だって痛いのはイヤなのだ。
長い牙の生えた口が開かれた。
生暖かい息が榮を襲う。とても臭い。なんというか生臭い。
このままその大きな口で頭を砕かれ脳味噌を潰され、腹を開かれて内臓をグチグチと貪られるのだろう。
―――ああ、最後に天ぷら食べたかったな…
ピンク色の舌が覗き、ベロリと顔を舐められた。
味見か、味見をしているのか。
ベロベロと何度も舐められ、榮の顔はベトベトだ。
それに舌がザリザリと肌を削って痛い。
もう覚悟は決めたのだ。一思いにやってほしい。
しかし、動きが無い。
それどころか、ハッハッと息を吐き、グイグイと体を押し付けてくる。犬のように。
そういえば、我王は撫でてほしい時に体を擦りつけてくる。
試しに体を撫でてみると、榮の体は熊に押しつぶされる。凄く重い。
息苦しさに悩まされつつ、そういえばと思い出した。
熊、それもツキノワグマ。
山、そしてツキノワグマ。
森、やはりツキノワグワ。
目の前の熊の大きさから察するに、十年やそこらは生きているだろう。
十年。十年前。
―――そういえば小熊を拾ったっけ…もしかして。
「もしかして…月輪?」
「グルゥ!」
まるで『そうですよ』と言わんばかりに喉を唸らせる。
おまけにと言わんばかりに、もひとつベロリと舐められた。
「おーお前、こんなに大きくなって!」
小熊の頃は抱えられるくらい小さかったくせに、成長したらこんなに大きい。
動物の神秘だ。
喉元を重点的に撫でる撫でる。
我王よりも随分随分硬い毛だが、ガシガシと擦るように撫でまくる。
月輪の眼はトロンとして気持ち良さげに細められ、身体の力が抜けたのか更に体重がかかる。
「うへぇ…と、取りあえず退いて…」
榮がそう言うと、月輪は素直に体の上から退く。
まるで榮の言葉が分かっているかのようだ。頭が良いのだろう。
我王も言えば分かってくれるし、同類なのだ。きっと。
「グ、ガウッ!」
月輪が一つ吠える。すると榮の後ろ。洞窟の奥から小さい二つの毛玉が寄ってきた。
榮を無視して月輪へ駆け寄り、そしてその足元へちょこんと座った。
月輪をそのまま小さくしたような小熊。
まるで月輪の小さかった時を思い出す。と、言う事は…
「まさか…子ども?」
「ガウッ!」
月輪が再び吠えると、小熊の片方は榮の元へ突撃してきた。
猪のような突進力、素早さ。
反応する暇も無く、小熊は榮の鳩尾へと突っ込んだ。
「ぐへぇ! うぐぐ…こんにゃろめ!」
わしゃわしゃと撫で繰り回すと、小熊は抵抗するかのように榮の手に噛みつこうとする。
しかし抵抗は無意味である。動物を撫でるのは慣れているのだ。
噛み付かれないように手の位置を変えながらわしゃわしゃと、喉元から背中から頭から腹からと、撫でて撫でて撫で尽くした。
やがて諦めたのか、降伏したかのようにビヨンと体を伸ばす。
月輪が何も言わない辺り、問題ないのだろう。
すると、今まで月輪の傍にいた小熊の片割れが、榮の傍にコソコソと忍び寄る。
それを見逃すはずの榮ではなく、その魔の手は小熊を襲った。
「ギュ、キギュッ!」
「良いではないか良いではないか!」
こちらはプルプルと体を震わせていたが、撫で繰り回している内に大人しくなった。
しかし、これはこれで物足りない。降伏は無意味なので抵抗してもらいたい。
「ギャウッ」
無抵抗な小熊二匹を撫で繰り回していると、月輪が傍に寄ってくる。
『ウチの子はどうです?』的な事でも言っているのだろう。
「いや、可愛いもんだね。それでさ…もしかして、月輪って雌だったの?」
「グ、グルゥ…」
ツキノワグマの子育ては、雌が行うと聞いた。
小熊を引き連れている所を見ると、月輪は雌なのだろう。
月輪は『今更ですか?』と言っているかのようだ。
これは悪い事をした。知っていれば、もっと可愛い名前を付けたのに。
『ムーピー』とか『ロビタ』とか。
「ガウガウッ!」
月輪はそう吠えると小熊の片割れ、臆病な方の首元を咥え、榮の顔前へと持ってくる。
その後に、突進してきたやんちゃな片割れを積むように置いた。
臆病な方が上で、やんちゃな方が下だ。
しかし生憎だが、榮に熊語は分からない。だけれども何故だか、こう言っているのだと感じた。
『名前を付けてくれませんか? かつて、私にしたように』
うむ、名前。名前か。
折角の友の頼みだ。是非とも受けたい。
―――うーん…ツキノワグマ、月輪熊、熊、クマ…ダメだ、思いつかない。
そういえば、と。
月輪とはお月様を表す言葉だ。
それになぞらえた名前はどうだろう。
―――月、月というと満ち欠け…と、すると。
ポン、と榮はやんちゃな方の頭に手を置く。小熊は嫌がる素振りを見せなかった。
「新」
「ギュッ!」
元気に返事をする。うむ、元気が良いのは良い事だ。
次に、臆病な方の頭に手を置く。こちらも同様、嫌がる素振りは見せない。
「満」
「ギ、ギィッ!」
どちらも元気でよろしい。
しかし、生き物に名前を付けるなどそうはない経験だ。
何だか緊張して体から力が抜けてしまった。
「これでいい? 月輪」
「ガウウッ!」
『有難うございます』と言うように、榮の頭よりも大きい頭を肩に乗せてきた。
頬っぺたに、チクチクモサモサ固い毛が当たっている。うむ、くすぐったい。
頭をポンポン軽く叩くと、ゆっくり離れていく。
うむ、可愛いものだ。
「ところでさ、月輪」
「ガゥ?」
榮が目を覚ました時、掛けられていた毛布の事。
この洞窟も、榮がかつて寝泊りした所のハズだ。
そして先ほど、新と満は洞窟の奥から出てきた。
月輪と二人の子どもは、この洞窟に住んでいるのだろう。何故なのか。
「ここに住んでるの?」
「ガゥ、ギャウッ!」
『はい、そうです!』と言うように吠えた月輪。
なるほど、この洞窟に住んでいるのか。
夏は涼しく冬の冬眠にも適している。森が近く餌も豊富なのだろう。
何故この洞窟に住んでいるのか気になったが、榮が気にする事でもない。
なんといっても野生の事情なのだ。手の届かない場所である。
幸せに暮らしてほしいものだ。
―――
「それじゃーねー! またいつかー!」
月輪に見送られ、榮は洞窟を離れた。
新と満の二匹は、月輪の足元でこちらをジッと見つめていた。
三匹の姿が見えなくなる。そしてしばらく歩くと、落着地点と思しき場所に到着した。
木の枝が折れて地面に散らばり、その場所だけが明らかにおかしかったから気付く事が出来た。
木の枝で落下の勢いが殺され、なんとか無傷で済んだのだろう。助かった。
さて、このまま森を突き抜ければ塀に突き当たるハズだが、それはリスクが高い。
ここは安全を重視して崖上に戻るべきだろう。
とはいえ榮に、垂直に近い土壁を登る技能などあるハズも無い。
遠回りをして崖の上まで行って、そこから戻るのが得策だろう。
そうして榮は歩く歩く。太陽の傾きから見るに、今は十二時頃だろう。
落ちたのがお昼前だから、木を喪っていたのは一時間かそこらか。
見覚えのある場所に到着し、坂道を上る上る。スズメバチを切り落とした場所近くに着た時だろうか。
目の前から、二人の子どもを連れた女性の姿が見えた。
「さに子! 大丈夫だった!?」
「うん、大丈夫だよ」
さっちゃんである。
榮の姿を見つけた途端に駆け寄り、身体のあちらこちらペタペタと触る。
後ろに見える佐玖と佐代は驚いた眼でこちらを見ていた。どうかしたのだろうか?
「さに子が崖から落ちたって、佐玖が駆けこんできて。母さんも伯父さんたちもお墓に行ってて、私が来たんだけど、どうしようもなくって…」
「そなの? さっくん偉いじゃん」
佐奈の後ろ、佐代の隣で俯いていた佐玖の頭に手を乗せ、撫で撫でする。
一瞬ビクリと体が動いたものの、少ししてペシリと手が跳ね除けられた。
「な、撫でんな! …ゴリラ女が落ちたの、俺のせいだし…」
まあ、結果的に無傷のようなものだし、気にする事でもないのだが。
話を聞くと、今から崖下に行って榮を探そうとしていたらしい。
無駄骨にならずに済んで良かった。
「け、けど、お姉さん、怪我はないん、ですか…?」
「うん、怪我はないよ。実はね、く―――」
「く?」
―――熊に介抱されたなんて言っても信じないか。
「あー…木で上手い具合に勢い殺されたみたいで。擦り傷くらいだよ? ほら」
細かい掠り傷や痣はあるが、大きな怪我はない。
数日もすれば治る程度だ。
そう言うと、何故だか佐代にキラキラとした視線を向けられる。
「お、お姉さん、スゴイです…!」
凄い、のだろうか?
たまたま木に引っかかり、掠り傷と痣だけで済んだ事が。
そもそも、崖から落ちる事など早々ないのだから、運が悪いのだろう。
ホッとした顔の佐奈とバツの悪い顔をした佐玖、キラキラした眼の佐代と一緒に、榮は山を下る。
そう言えば、お昼はどうしようか。矢尾さんが戻ってきていたら車を借りて、食堂にでも行こうか。
ふと、思い出した。
「そういえばさっちゃんさ、小さい頃一緒に熊飼ったよね?」
「熊ぁ? アンタに引き摺られて鉢合わせした事はあるけど、それだけ。何かを飼うなんて冗談じゃないわ」
あれ、記憶違いだろうか。
子熊を飼って、名前を付けたと思ったのだが。
確か、同年代の女の子と一緒に小熊に名前を付けたと記憶している。
榮の近くの同年代の子など、佐奈しか思いつかない。
佐奈が忘れているのだろうか?
少しばかり腑に落ちない中で、榮たち四人は屋敷の門を潜った。
時間は、お昼を少し過ぎた辺りだった。
―――
―――ガタガタゴト、ビュウガタン。
「ひ、ひぃ!」
深夜から雨が降るらしい。そのせいか、布団を敷いてから風が強くなってきた。
このボロ小屋。強い風が吹けば飛んでしまうような脆さだ。
震える身体に毛布を被り、目を瞑って必死に眠ろうとする。
しかし、眠ろうとすればするほど眼は冴え、眠気は遠のいてしまう。
今、この小屋にいるのは榮だけ。
矢尾は外出中だ。今夜は戻らないらしい。
昼間、小屋に戻って来ると置手紙が机に置かれていたのだ。
『榮へ』と書かれた手紙を開けると、こんな内容の文が書かれていた。
『古い知り合いに会ったから今日は戻らないわ。夕飯の材料は置いておくから、カレーでも作っておいて』
その手紙通り、カレーに使う材料がビニール袋に入れて置かれていた。
作るのが簡単なうえ、日持ちがして外れが無い。
一人寂しく夕飯を作りカレーを食べ、早い内に布団に入ってしまった。
しかし風が強く、何よりも幽霊に怯えている榮だ。眠る事も出来ずに今に至る。
昨日は矢尾と一緒にいたから眠る事が出来たのだ。怖い話を聞いた榮が、安眠できる道理が無い。
―――ビュウビュウ、ザリ、ザリ、ビュウガタリ。
強い風が吹く中、確かに足音が聞こえた。
まさか、昨日の幽霊が、また再び現れたのだろうか。
毛布から顔だけだし、扉へと視線を向ける。
暗闇に目が慣れ、薄暗いながらも視界はハッキリとしていた。
―――ビュウ、コンコン、ビュウ、コン。
確かに、扉が叩かれた。
昨日と同じ三回。
―――あわ、あわわわわわ!
榮の思考回路はショート寸前だった。
矢尾はいない。彼女の布団で寝たら安心できたのに。
そして、在るものならば切り裂けると豪語していた包丁は捨ててきた。
ええい役に立たない!
―――やってやる、やってやるったらやってやる!
一念発起した榮。
毛布から顔を出し跳ね除け、立ち上がる。
自分を怖がらせる幽霊に一矢報いてやろうと思ったのだ。自らの安眠の為に。
安眠の為に『呪い』の塊すらも消し去ったのだ。やればできる!
ソロソロと抜き足差し足忍び足。
足音を立てずに移動するのは慣れているのだ。
―――コン、コン、コン。
二度目のノック。
昨日と同じならば、これで帰るのだろう。しかしそうはいかない。
「悪霊退散! 暗黒の世界へ帰れ!」
バン! と扉を開け、口から出まかせに言葉を吐く。
適当に叫んだだけだ、特に意味はない。
「あ、あれ…」
月明かりが榮の前を照らす。
暗闇に慣れていた榮には、それすらも眩しく思えた
そこで腰を抜かして倒れていたのは脚がある、人間だった。
それも顔見知りの。
「諏訪?」
「さ、榮…?」
大学の友人、榮の友人の諏訪が、驚いたような顔をして倒れていたのだ。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:カレーライス
設定:
至って普通の大学生。
数十メートルの崖から落下したが、奇跡的に掠り傷で済んだ。
気を失っている間に連れ込まれた洞窟は、かつて彼女が暮らした場所。
従妹と従妹には小熊に餌を与えるなと言ったくせに、彼女は過去に、小熊を飼っていた。
幽霊にもお化けにも怖い話にも弱い。
彼女にとって『ムーピー』と『ロビタ』は『可愛い名前』であるようだ。
・名前:月輪
性別:メス
職業:ヌシ
好物:鼈甲飴
設定:
裏山に住むツキノワグマ。
十数年前、親熊と離れ死にそうになっていた時、榮たちに拾われ危機を脱した。
彼女はその恩を忘れず、毛布が置かれていた洞窟をねぐらにしていたのも、榮の匂いが付いた物に惹かれたせい。
頭はかなり良い。また、山のヌシとして他の動物の裁定も行っていた。
彼女の言葉は、榮には『敬語を使う若い女性』として変換された。
果てなき忠熊。こうなったのは榮のせいでもある。
・名前:新
性別:メス
職業:特になし
好物:肉
設定:
月輪の子どものやんちゃな方。
母が連れてきた見知らぬ人間に興味津々。ナデナデされてすっかり気を許した。
榮は邪気が無く恐れもない。珍しい人間だったらしい。
名付け親は榮。月の満ち欠けの一つ『新月』から取った。
・名前:満
性別:オス
職業:特になし
好物:山菜
設定:
月輪の子どもの臆病な方。
母が連れてきた見知らぬ人間に戦々恐々。ナデナデされる妹を見て恐る恐る近づいた。
榮は悪意が無く敵意もない。珍しい生物だったらしい。
名付け親は榮。月の満ち欠けの一つ『満月』から取った。




