山遊のお話
「さっちゃんおはよ」
「さに子か。おはよう」
時は朝方。雲一つない爽やかな天気である。
榮は今、屋敷の外に備え付けてある洗濯場にいた。
昨日言われた通り、シーツと枕カバーを持ってきたのだ。
それを受け取った佐奈は洗濯機へ入れ、ガチガチとダイヤルを合わせた。
洗濯槽と脱水槽が分かれている、昔懐かしの洗濯機だ。
榮の小さい頃もこの洗濯機だった気がする。物持ちがいいのはよいことだ。
洗い終わるまではしばらくかかるからと、佐奈は台所の方へ行ってしまった。
朝食の用意でもするのだろう。
ゴウンゴウンと洗濯槽が回る音を聞きながら、榮は山を眺めていた。
―――あー…なんか落ち着く…
車の振動も人の喧騒も、この場には程遠い。
こうやって静かな中でノンビリするなど、なんと贅沢なのだろう。
「あ…お姉さん、お早うございます」
「あー…佐代ちゃん、おはよ」
ペコリとお辞儀をする佐代。彼女も手にシーツを持っていた。
山の上で少しばかり涼しいとはいえ、夏は寝汗をかくものだ。毎日洗うのが良いのだろう、きっと。
彼女の隣には、佐代よりも少しばかり背の高い男の子が。
ベリーショートでいかにも涼しげな髪型。半袖に半ズボン、いかにも夏だという装いだ。
その顔立ちは端正で、きっと同学年の子にはモテモテであろう。
そう言えば昨日、叔父が言っていた。
赤ん坊の頃に一度だけ会った男の子が、この屋敷に遊びに来ていると。
確か、佐玖といったか。
「あ、さっくんか」
「さっくんて呼ぶな!」
榮の言葉を聞くと、途端にそれを否定した。
うむ、何かからかいがいがある。
「なんだよお前」
訝しげな視線のまま、榮にそう聞いてきた。
とはいえ、そんなの決まっている。
「さっちゃんのいとこだよ。つまり、キミの従姉」
「はあ!? 聞いた事ねえよ!」
「まあ、キミが赤ん坊の頃に一回会っただけだしそりゃそうだよ。私もすっかり忘れてたし」
昨日、叔父が言わなければ忘れたままだっただろう。そもそも屋敷に入る用事もないのだ。
ここで会う事でさえも予想していなかった。
―――ビーッ、ビーッ
ブザーが鳴る。洗濯が終わったのだ。
しかし佐奈が戻って来る様子はない。きっと忙しいのだろう。
対して榮は暇である。洗濯槽から脱水槽へと洗い物を移し、佐代と佐玖が持ってきたシーツを洗濯槽に入れてダイヤルを回す。
ガタガタゴウンゴウンと洗濯機が悲鳴を上げるが、いつもの事である。
「あら榮、こんな所にいたの」
「あ、矢尾さん。起きたんですか?」
矢尾は朝に弱いようである。
榮が目が覚めた時も、矢尾はまだ深く寝入っていた。
矢尾の手が榮の体に回されていて、ほどくのに難儀したのだ。
『万屋 矢尾』でも、起こしに行かなければ起きる事が無い。
榮が朝ごはんを作り終えて濃いお茶を用意し、何度も体を揺さぶらなければ身動ぎ一つせずに眠っている。
そんな矢尾が自分から起きてくるなど。
珍しい事もある物だ。
「あ…矢尾さん、お早うございます」
「お早う、佐代」
矢尾の傍へ行って挨拶をした佐代。
佐代の頭を優しく撫でる矢尾。
「昨日はよく眠れた?」
「は、はいっ! 教えてくれたおまじないのおかげですっ!」
「そう。効いてよかったわ」
―――おまじない?
と榮は考えるが、昨日一緒になった時になにやら教えて貰ったのだろう。
親指を隠したり脇の下から覗いたり、おへそを隠したりコップに十字を作って水を飲んだり。
呪いは呪いとも読むのだ。
『呪い』に造詣の深い矢尾は、そういった事にも詳しいのだろう。
「はい、鼈甲飴。ご飯の後に食べなさいね」
「あ、ありがとうございますっ!」
太陽のような笑顔を浮かべる佐代。やはりあの位の時分は笑って過ごすべきだ、と思う榮。
オドオドビクビクと、人の顔色を窺っているようではダメだ。
「それで矢尾さん、どういった御用で?」
「昨日、虫捕りに行くって言ってたでしょう? 網とカゴ、物置から取って来たわ」
矢尾の言う通り、彼女の後ろには虫捕り網が二本、虫カゴが二つ置いてあった。
柄が随分と短いが、問題はないだろう。
「なんだよ、このオバサン」
「あらあら、生意気な糞ガキね。ぶち殺したくなるわ」
矢尾の言葉に、佐玖は全身を硬直させた。
なんとも物騒な事を言う矢尾だが、いつものジョークだろう。
佐玖もそんなに怯えずともいいのに。
「それじゃ佐代ちゃん、門の所で待ってるから朝ごはん食べたら来てね。帽子も忘れないように!」
「は、はい! よろしくお願い、しますっ!」
そう言って、佐代は佐玖の手を引いて屋敷へ戻って行った。
共に、矢尾も小屋の方へと戻って行った。
―――ビーッ、ビーッ!
洗濯槽が止まり、脱水槽も止まった。
脱水槽の洗濯物をカゴへ取り、先ほどと同様に洗濯物を脱水槽へ移して脱水槽を回しておく。
シーツを広げ物干しに掛けつつ、脱水が終わるまで榮は景色を眺めていた。
―――
朝食は、炊いたご飯と納豆。それに目玉焼きだった。
卵と納豆は佐奈にお願いして持ってきてもらった。
矢尾と共に食べ終わり、食器を片づけて外へ出る。
榮は昨日の約束通りに、佐代と一緒に虫捕りを。矢尾は麓のコンビニへ買い出しに行くと言っていた。
そう言って門を出た矢尾だったが、その際に一枚の紙片を渡された。
何やら難しい紋様が至る所に描かれた、長方形の紙切れ。
中央には『大』と『彡』が大きく書かれていた。きっと『参』が描かれていたのだろうが、褪色して消えたのだろう。どういった意味だろうか?
光に透かしても何も無く、破ろうとしてもビクともしない。
破れにくい特殊な紙でも使っているのだろうか。
屋敷の玄関から見覚えのある女の子が駆けてきた。
紙片をポケットに締まう。
麦わら帽子を被った女の子。佐代ちゃんだ。
長いズボンと長袖のシャツ。森に行くのだから適当な格好だろう。
その隣でふてぶてしく立っている男の子。佐玖だ。
半袖半ズボンで野球帽を被っている。
「あれ、さっくんも来るの?」
「さっくん言うな! 佐代がどうしても、って言うから…」
「え…わ、わたしは、何も…」
「う、うるっさい!」
顔を赤くしてそっぽを向く佐玖。
ふむ、なるほど。
可愛さ余って憎さ百倍…ではなく、好きな子には意地悪をしたくなる心境なのだろう。
従兄妹は結婚する事も出来るのだから、問題はないだろう。そういえば、榮の祖父母はいとこ同士だと聞いた事がある。
しかしそうなると、もう一つずつ網とカゴが必要だ。
「少し待っててよ、網とカゴ持って来るから」
持っていたバケツを置き、榮は物置へと急ぐ。
幸いというか、入ってすぐの場所にカゴはあった。しかし、虫捕り網はどこにもない。
自分に網は必要ないから、とカゴだけ持って外へ出る。
門へ行くと、先ほどまでの景色とは違っていた。
「なにしてるのさ、さっくん」
「さっくん言うなって! うぎぎ…も、持てない…!」
地面にめり込んだ極楽丸。
その柄を握って踏ん張っている佐玖。
あわあわと慌てふためいている佐代。
『暇だ暇だ』とうるさく、それに何かと使えるからと、極楽丸をバケツに入れて持ってきたのだ。
きっと待っている内にバケツの中の包丁を見つけて、好奇心から持ってみたのだろう。
諦めたのか、柄から手を離して息を吐く佐玖。
「な、なんだよあの包丁!」
「さ、さっくん、大丈夫?」
慌てたように佐代が駆け寄るが、遠目から見ても血は出ていない。問題はないだろう。
しかし、佐代がさっくんと言っても叫ばない。
是非とも成就してほしい物である。
「あーもー全く。危ないから触っちゃだめだよ?」
地面にめり込んだ包丁を持ち上げ、そして包丁に囁く。
「…で、なんで重くなったの」
『ああ? ガキは嫌いなんだよ』
小声で聞いた榮だが、いたってシンプルな答えだった。
まあ、悪意が無いのなら問題ない。バケツに投げ入れる。
「さ、行こっか…って、どうしたの?」
佐代と佐玖は目を丸くして、榮を見つめていた。
きっと、佐玖が力一杯持ち上げようとしてもビクともしなかった包丁を、苦も無く持ち上げた榮に驚いているのだろう。
「お、お姉さん、スゴイ…」
「ご、ゴリラ女だ…」
佐代はいいとして、佐玖はなんと失礼な。
とりあえず、網は二人に渡して門を開け、二人を連れて森へ入った。
何年ぶりかの森である。榮の心は弾んでいた。
―――
―――ジージージージーミーンミンミンミン
森へ入ると、セミの大合唱が聞こえた。
聞く限り、アブラゼミとミンミンゼミか。
地面は歩き固められ、背の高い草は殆どない。
懐かしい景色だが、小さい頃と今見る景色では見える場所が全く違う。それだけ成長したという事だ。
草の生えていない場所が、人が何度も通った跡。つまり道だ。
「そうだ二人とも、注意があるんだけど」
「は、はいっ!」
「なんだよ」
榮の後ろを着いて歩いてきていた二人。
木陰で足を止め、少しばかり注意を行う。
「ハチは黒い物を狙うから、帽子は外さないでね。それに巣を見つけても絶対に近づかない事」
「はいっ!」
「分かってるよ、そんな事」
佐代は素直に言うが、佐玖は憎まれ口を叩く。
全く、蜂に追いかけられた事がないから分からないのだ。
何百もの大群にしつこく追いかけられ、逃げても逃げてもどこまでも追ってくる。
沢に飛び込んで息を潜めてしばらくして、ようやくどこかへ去って行ったのだ。
あの時の事は鮮明に覚えている。
何とか一か所刺されただけで済んだが、全身に走る激痛と朦朧とした意識。
本当に死ぬかと思ったのだ。
―――ビイイィィィン…
羽音がした。そちらを見ると、黄色と黒。胴体を同じ太さの頭。
―――スズメバチ!
理解するが早いか、榮はバケツから包丁を抜き、一閃する。
一瞬前までは確かに飛んでいたスズメバチ、真っ二つになったその死骸がポタリと地面に落ちた。
スズメバチの行動範囲は数百メートル。巣は木の洞の中や地面の下にある。発見するのは困難だ。
この近くにもいるかもしれないと考え、榮は先へ進む。後から二人が黙って着いてくる。
佐代は分かるが、佐玖すらも黙っている。どうかしたのだろうか?
「それと熊もいるから。たまに小熊だけで遊んでるけど、絶対に近づかない事。親熊が探してる事もあるから。餌もあげないでね」
「は、はいっ!」
「わ、分かった!」
そういえば、鈴を持ってくるのを忘れていた。
熊は比較的臆病であるから、何か音がすれば寄ってこないのだが…
そうこうしている内に、少し開けた場所に着いた。
少し小高い位置にあるから、下の方には屋敷が見えた。
塀に囲まれた巨大な古民家。
敷地内の山側の隅にはボロ小屋が建ち、その奥にはプレハブ小屋と蔵が見える。
蔵にはいつも鍵がかかっていて、榮は数度しか入った事が無い。
確か、まだ祖母が健在だった頃だったか。
それにしても、こうやって上から見てもとても大きい。
比べて、小屋の小さい事小さい事。
まったく、ご先祖は何のためにあんな小屋を建てたのだろうか。
「あの、お姉さん…」
物思いに耽っていたら、佐代が話しかけてきた。
その小さな手にはカメラが握られている。首に掛けられていたポーチに入っていたのだろう。
「どしたの佐代ちゃん」
「わ、わたし、写真をとりたくて…けど、その…」
「自由研究だよね? 虫を捕るんじゃないの?」
「あ、いえ、あの…」
たどたどしい物言いだったが、佐代の言葉は続く。
つまり要約すると、昆虫標本ではなく捕った虫をカメラで撮って、その写真を展示するのだそうだ。
今時の小学生はハイテクな事だ。
佐代は昆虫そのものは平気なのだが、その死骸を見るとえずいてしまうらしい。
最近は、親が蚊を潰す所を見るだけでも気を失ってしまうのだとか。
そういえば、と。さっきスズメバチを切り落とした時は平気なようだったが、害虫ならば問題ないらしい。
心の問題なのだろうと勝手に思った。
とにかく、この方法ならば、昆虫そのものをピンで留める事はない。命も奪わない。
しかし、もしも捕った時に殺してしまったら、と考えるとどうしても足踏みしてしまうらしい。
「そうだね…なら、私が捕るよ」
「その…おねがい、します」
そう言ってペコリと頭を下げる佐代。
素直な事はいい事だ。ポムポムと頭を撫でておく。
そういえば、さっきから佐玖の姿が無い。
「いいのいいの、偶には動きたいから。この辺りは平らで歩きやすいからゆっくり行こうよ。ところでさっくんは?」
「えっと、むこうに…」
佐代が指差すのは、上へと続く坂道。さっきボーっとしている内に駆けて行ったのか。
榮も佐代と同じ位の時には山や森を駆け回ったのだ。佐玖は男の子なのだから大丈夫だろう。
「それじゃあ行こっか。セミもカブトムシもクワガタも一杯だよ」
「はいっ!」
―――
セミの大合唱が聞こえる。先ほどとは段違いの合唱が
「ふわぁ…すごい」
佐代も呆然と驚いている。こんな大合唱など、そうそう聞く事が出来ないだろう。
森の外で聞くのと中で聞くのとでは、迫力が段違いだ。
なにかこう、力を感じる。榮も聞いたのは久しぶりだ。
「さてと、始めようかな。これ、少し持っててもらえる?」
バケツから包丁を取り出し、空のバケツを佐代に渡す。
「あ、はい。網は…?」
「いらないよ。カゴだけあれば」
そう言い、榮は包丁を投げつける。木の中腹ほどに突き刺さった。
セミは、木の比較的上の方にいるものだ。
蹴り付けて三角跳びの要領でジャンプすればよいのだが、その振動でセミが逃げてしまうかもしれない。
コンクリートを易々と切り裂く包丁を投げつけ足場にして乗れば、あとは虫かごを被せるだけで捕まえられる。
―――よし、と。
今更といった風に、虫かごの中で飛び回るセミ。
透明の羽に黒い体表。ミンミンゼミだ。
足場にしていた包丁から下り、引き抜く。やはり抵抗なくスルリと抜けた。
『おい! いきなり投げんな驚くだろが!』
そういう包丁だが、軽く無視を決め込んておいた。
やはり、森や山の中は調子が良い。
体が軽いのだ。軽くジャンプしただけで一メートルは跳び上がる。
それに音もよく聞こえる。樹表を這いずるカブトムシやクワガタの音が。
虫かごに入ったセミを持っていくと、佐代にキラキラとした目で見つめられた。
「お、お姉さん、すごい…!」
「そう? ありがとう。それじゃあこれ。ミンミンゼミかな」
虫カゴの蓋を開け、カシリカシリと写真を撮っている。
その間に。榮はバケツを持って木に近寄る。
「それじゃ刺すよ」
『いやまて心の準備がっ!?』
木に包丁を突き刺し、そこへ跳び上がる。
樹液に群がるカブトムシのオスとメス。それにコクワガタ。
木から剥がしてバケツへ入れる。そして再び佐代の元へ。
「どしたの佐代ちゃん」
「あの、逃がしてあげたいんですけど…」
佐代は虫かごに手を突っ込んでいる。カゴにしがみ付くセミを引き剥がそうとしているのだろう。
しかし意外とセミの力は強いのだ。
「ああ、大丈夫だよ。このカゴ、二つに別れるから。ここをこうして…」
ツメを外し虫かごをパカリと開けた。
すると、セミは元気に飛び立っていった。
「写真、撮れた?」
「はいっ!」
ふむ、大丈夫だったようだ。
それなら次は、と。バケツの中からカブトムシを取り出す。
「カゴの中だとちゃんと撮れないでしょ? 持ってるよ」
クワガタに挟まれるととても痛いが、これはカブトムシだ。噛んだり刺したりするわけでもない。
持つことに抵抗はないのだ。
「あ、ありがとうございます!」
そう言い、パシャパシャと写真を撮る佐代。
上から前から横から。
ふと思ったが、昆虫標本は真上からの姿しか見る事が出来ない。
しかし写真ならば全ての方向から見る事が出来る。それに命も奪わない。
これは果たして良い事ではないのだろうか。
それはそれとして。
榮は次の獲物を探しに行く。
どうせなら、ミヤマクワガタやノコギリクワガタを見つけたいものだ。
佐代は先ほどの開けた高台で待っていてもらい、榮は奥へと進んでいくのだった。
―――
包丁を木に突き刺し、足場にして虫を取る。
時折現れるスズメバチは切り落とし、イノシシの足音がすれば気配を殺してやり過ごす。
クマに鉢合わせなかった事は幸いだった。
森をあちこち歩き回り、十分ほど経っただろうか。
『なんだここ。嫌な感じがしやがるな』
今までぶつぶつと文句を言っていた包丁が、真面目な声で言う。
地面には長方形の石が敷き詰められ整地され、辺りと比べてかなり広い場所。
中央付近には何かの木が植えられており、今までの見た木々よりも随分と背丈が低い。
そして榮の正面には小さな建物が建っていた。
不思議とセミの声は聞こえず、風が枝葉を揺さぶる音しか聞こえない。
何か今までの場所とは、別の雰囲気を醸し出していた。
『祠、か? なんか祀ってやがるんか』
「…行くよ。用事もないし」
『まあ待てよ。少しばかり興味がっ!?』
包丁を地面へと投げつける。回転させて投げつけたからか、石畳で弾かれ滑っていく。
拾い上げるが、残念ながら傷一つない。折れてしまえばよかったのに。
「次に喋ったら置いてくからね」
『あ、あいよ…』
榮は急ぎ、その場所を離れる。道なき道を進んだ結果、あの場所に着いた。
道なき道を戻れば、この場所から離れられる。
『てかお前さん、露骨だな』
「何が?」
『あの祠を露骨に避けてるぜ? 嫌な思い出でもあんのか? 話してみろよ。これでも俺ぁ長く―――』
包丁を祠の背後にある木へと投げつける。包丁は何の抵抗も無く木へと突き刺さった。
「さよなら」
『まっ、ちょま! 待て! 置いてくな! 謝るから! 謝るからー!』
その声を無視し、意気揚々と榮は道なき道を戻って行った。
片手に持つバケツには、ミヤマクワガタやヒラタクワガタ、ノコギリクワガタが入っている。
佐代の分はこれで十分だろう。また十分ほどすると、先ほどの開けた高台へとたどり着いた。
「あ、お姉さん、お帰りなさい」
「はい、佐代ちゃん。捕って来たよ」
バケツを地面に置くと、佐代はグイと覗き込んだ。
「うわぁ…すごい!」
佐代はキラキラとした目で手を伸ばし、小さな手でクワガタを持ち上げた。
胴体の真ん中辺りを掴んでいる。要領は分かっているのだろう。
女の子がキラキラとした目でクワガタを持っているのは何か違うとは思うが、個人の趣味趣向である。注意する事でもない。
「さっくん、見る?」
先ほどから、なにか機嫌が悪そうな顔で榮の顔を見ていた佐玖。虫かごは空っぽであった。
「む、虫なんて好きじゃねーし! それとさっくんやめろ!」
「そう? 残念」
ならば着いて来なければいいのにと思うが、佐代にいい恰好したかったのだろう。
しかし虫は取れなかった。せめて一緒にクワガタを見ればいいのに。
「あれ? お姉さん、包丁さんは?」
カシャカシャと写真を撮っていた佐代が、榮に問いかけた。
包丁にさんを付けるあたり、可愛い。
「無くしちゃった。別に困るわけでもないから、気にしないで」
「え…はい、けど…」
研ぐ必要のない、決して折れず切れ味の良いだけの包丁だ。
無くなった所で困るわけでもない。
「俺だって! その気になればバケツ一杯に捕れるし!」
そう言い、崖の方へ駆けだす佐玖。
そっちはマズイ。
榮には景色が見渡せるが、まだ背の低い佐玖や佐代にとっては、先が続いているように見える。
かつての榮もそうだった。すんでの所で肩を掴まれ、崖から落ちるのを免れたのだ。
榮も駆け出すが、僅かに遅れてしまった。
十メートルほどの距離。一瞬の事だった。
「佐玖!」
「うっ! わ!」
佐玖の肩を掴み、グイと引き寄せる。崖ギリギリだった。
しかし榮の体には慣性がかかっている。そして、佐玖の体を引っ張った反動も合わせ、榮の体は前に押し出された。
榮の体がふわりと宙に浮く。重力に引っ張られ、落下した。
―――あ、やば…
包丁があれば岩肌に突き刺し、減速して下りる事が出来たのだろう。しかし、あの場所に捨ててきてしまった。
榮に助かる道はない。
たった数秒。しかし数秒。永遠にも思える数秒。
榮は、ただ、受け入れていた。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:目玉焼き
設定:
至って普通の大学生。
洗濯機の回る音を聞いて落ち着く、山の風景を眺めてボーっとするなど、独特の感性の持ち主。
従妹の昆虫採集の手伝いに山へと赴く。そして生き生きとしながらセミや甲虫を捕獲した。
包丁『極楽丸』を投擲し正確に木へ突き立てる、軽くジャンプしただけで1m跳ぶ、数cmの足場で安定した動きをする、セミの合唱の中でその位置を把握するなど、人外に近い動きを見せた。
山や森の中では通常の三倍の性能を発揮するとかなんとか。
・名前:佐代
性別:女
職業:小学生
好物:シュークリーム
設定:
榮の年下の従妹。具体的に言うと、榮の叔父の娘。
夏休みの自由研究の為、祖父の家の裏山で昆虫採集を行う事に。
自由研究のテーマは『山に住むこんちゅう』
箱に昆虫をピン止めするのではなく、虫の写真を貼ってその名前と大きさを記入する。今時な感じ。
『昆虫』が嫌いなのではなく『死を見る』のが嫌い。
しかし蜂の死骸を見ても問題ないなど、心の持ち様の問題か。
・名前:佐玖
性別:男
職業:小学生
好物:カレーライス
設定:
榮の年下の従弟。具体的に言うと、榮の叔父の息子。
丁度生意気盛り。佐奈の言う事は素直に聞くが、榮に対しては大きい口を叩く。初めて会うから舐められないようにしたのだろう。
佐代に対しては仄かな恋心を抱いていると、榮は考察した。
自由研究のテーマは『古い道具とその使い方』
以前、蔵の中に入った事があるらしく、そこに有った物を見て思いついたのだとか。
『さっくん』と呼ぶと怒る。曰く『女々しいから』嫌なのだと。
・名前:矢尾
性別:女
職業:万屋店主
好物:酒
設定:
路地を何本も進んだ先にある、古びた万屋の店主。
佐代の事は、彼女の素直さも手伝って気に入った模様。しかし佐玖には容赦なく『ぶち殺したい』と殺意を込めて言い放った。
酒を買い込みに行くため、麓のコンビニに行った。その際、榮に謎の紙片を渡した。
・謎の紙片
『参』の内『ム』が消え『大』と『彡』が中央に描かれた、長方形の御札のような紙切れ。
また、文字を囲むように何らかの細やかな文様が描きこまれており、不思議な雰囲気を放っていた。
光に透かしても何の変哲もないが、破ろうとしてもビクともしない異常な強度を持っている。
・祠
榮が『道なき道』を進んだ結果到着した場所。
20m四方の土地に長方形の石が無数に埋め込まれ整地が行われ、中央には小さな祠が建造されその背後には随分と背の低い木が生えている。
明らかに人の手が加えられており、何かが祀られているようだが詳細は不明。
榮は何故かこの場所を早々に離れようとした。
『極楽丸』は『嫌な感じがする』と言い、何らかの存在の気配を感じ取った。




