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古巣帰のお話 後編

 高速道路に乗って三十分ほど。下道を走って五十分。

 住宅街を抜け、更に走って二十分。

 今はポツリポツリと家が建つ程度の、集落という言い方が適切であろう地域。

 

 家々の前に停められている車には軽トラが多い。トラクターやコンバインも見えた。

 田んぼや畑が周りにある事からして、農家が多いのだろう。


「随分とまあ、寂れた場所ね」

「この辺りはずっとそうですよ。小さい時から、ずっと」


 しかし、軽トラがメインの集落では高級車がとにかく目立つ事目立つ事。

 道ですれ違うご老人方の視線を一心に受け止めている。なんだか恥ずかしい。


 だが、この辺りの景色は変わらない。

 榮が小学生の時に見た時から、ちっとも。


 時間はお昼の少し前くらいであろうか。

 今日は朝ごはんを食べてきていないから、少し小腹が空いてきた。

 

「矢尾さん、お昼どうします? コンビニ、この先に一軒だけですけど」

「別に構わないわよ、そのまま行っても」

「それじゃ、行っちゃいますね」


 集落を抜け、更に道を走る。林の中の坂をグイグイと上る上る。

 道幅は今乗っている車ギリギリ。行き違いがあれば成す術がない。


 幸いと言うか、この時期は車で山を下る者はいない。

 山菜取りに来る者は麓に車を停めているし、下ってくる者は皆無だ。

 お盆のこの時期、親戚連中が戻っているのだが、この数日間は本家から出る事はないのだ。


「榮、後ろ」


 矢尾に言われ、ルームミラーに目をやる榮。そこには一台の車が映っていた。

 榮にとっては見覚えのある車。


「あ、母の車です」


 赤い車体の普通自動車。

 榮も何度も助手席に乗せられた事がある。ナンバープレートの数字も同じである。

 しかし、何度もクラクションを鳴らして煽ってくる。速く行けと言うのか、この道幅で。


「奇遇ね。挨拶をしておこうかしら、折角だし」


 矢尾は気楽にそう言うが、榮はそれどころではない。


 本家の屋敷まではあと十分ほど。

 到着するまで、榮は後ろから煽られ続けビクビクとしながら運転を続けていたのだった。




―――




 車を停め、ハンドブレーキを上げてエンジンを止める。

 ドアを開けて社外へ出た。グッと背を伸ばし、空気を吸う。


 広い森が近いせいか、それとも山の上だからか、心なしか空気がおいしい。


 以前、菫の屋敷で見た駐車場と似た広さ。しかし停まっている車は全く違う。

 駐車場には他に、数台の車が停まっていた。軽やら二輪やらワゴン。

 超高級車とは比べるべくもない普通の車。しかし何故だか安心感があった。


 ―――久しぶりだなぁ。


「それで、向こうに見えるのが本家?」

「はい、そうですよ」


 背の高い木の向こうには、広い広い瓦屋根が見える。 

 亡き祖母の屋敷。

 こうも間近で見るのは何年振りか。


 石畳が敷き詰められた道を挟むように切り開かれた森。

 その先に、屋敷は建っている。

 何百年も前から変わらずに建っていると祖母から聞いた事があった。事実、それくらい昔からこの辺り一帯を治めていたらしい。


 榮は幼い時、森や山の中を駆け回って遊んだものだ。

 セミを捕ったりカブトムシを捕ったり魚を獲ったり山菜を獲ったり小熊と遊んだりと。

 

 ―――うん、懐かしい。


「アンタ、そんな車に乗ってたの。パトロンでも見つけた?」


 赤い車から降りてきたのは、やはり榮の母親だった。

 赤のTシャツに赤のデニムパンツ。

 四十代の初めだというのに随分と派手である。

 上から下まで赤で染めているが、その髪だけは榮と同じ黒色。

 榮と同じく、化粧はあまり好まないらしい。ほとんどすっぴんである。

 その顔立ちは榮とよく似ていた。やはり母親だからだろう。


「あれは店長さんの車! お母さんこそ、もっと早く来てると思ってた」

「こんな家に長く居たかないわね。面倒だから」


 そう言い、苦虫を噛み潰したような顔をする。

 どうやら母親も、実家に対しては良い印象を抱いていないらしい。


「貴女が、榮さんのお母様ですか?」

「そうだけど、アンタは?」

「失礼致しました。榮さんが働く店を経営しております。矢尾、と申します」


 そう言って、深々と頭を下げる矢尾。


 その姿に榮は驚く。

 いつもとは違い、言葉遣いも丁寧なのだ。

 誰に対してもふてぶてしい様な態度は鳴りを潜め、懇切丁寧に挨拶をしている。

 こんな矢尾の姿など初めて見た。


「…そうですか。娘はどうです?」

「とても良く働いてもらっておりますよ。美味しい食事も作ってくれて、本当に」

「なら、安心しました。これからもよろしくお願いします」


 そう言い、榮の母が深々と頭を下げる。


「ええ、もちろん」


 矢尾の顔は見えないが、きっと微笑んでいるのだろう。

 なぜだか、榮にはそう思えた。


「それじゃ、先に行ってるから。アンタもさっさと来なさいよ。矢尾さんに迷惑かけないようにね」


 そう言い残し、母親はさっさと行ってしまった。


「分かってる! はぁ…それじゃ矢尾さん、行きましょう」


 矢尾を先導して進む。

 一直線に切り開かれた森の中、石畳が敷かれた道を歩く。


 屋敷への入り口はこの一本。おおよそ百メートルはあるだろうか。

 森の中から猪や鹿でも飛び出してきそうな雰囲気。


 事実、上を向くと三本ほどの傷跡が付いている。熊のマーキング跡だ。

 それと別の木には、何か大きな穴が空いている。きっとキツツキの空けた穴だろう。

 樹皮は鹿に食べられている所もある。


 山に続いているのだ、鹿や熊くらいは下りてくるだろう。


 ふと横を見ると、矢尾が何やら木に見入っていた。


「どうしました? 矢尾さん」

「いえ、なんでもないわ。行きましょ」


 確かに、熊の縄張りにいるのでは気が休まらないだろう。


 しかし、熊は案外臆病なのだ。

 急に鉢合わせでもしない限り、向こうから襲ってくる事など、あまりない。


 そうこうしている内に、屋敷へと繋がる門へとたどり着いた。

 屋敷をグルリと囲うように建っている、榮よりも随分高い塀。


 ―――変わってないな、やっぱり。


 ドンドンと門を叩き、しばらく待つ。

 すると珍しく、軋んだ音を立てて門が開いた。


「はい、ようこそお越し―――」


 門を開けたのは、明るい茶髪の女性。きっと染髪しているのだろう。

 片方の髪がかき上げられたハーフアップは活発な印象が、キリリとした細い眉はその意志の強さを表しているような。

 ややツリ目で小さい顔は、榮から見ても美人であった。

 何か呆然としているようだが、その顔に榮は見覚えがあった。


「あ、さっふぁ―――」


 彼女から手が伸びてきた。

 榮の頬っぺたを伸ばして揉んで、榮はされるがままだった。

 しばしそのままそうされていたが、ようやっと解放された。


「さっちゃん? 久しぶり」

「さに子…生きてたんだ。死んだと思ってた」


 幼少の頃、一緒に遊んだ記憶を思い出す。

 嫌がる彼女を引っ張って山を駆けまわったり、蜘蛛の巣を顔に引っ掛けて泣き喚く彼女を笑ったり、猪に追いかけられて一緒に逃げ回ったりした。

 彼女は、榮の母親の妹の娘。つまり、榮の従姉である。


 しかし、久しぶりに会っていの一番に生死の確認だとは、少々失礼ではないか。

 およそ八年ぶりの再開だというのに。

 

「そちらのお嬢さんはどなたかしら?」

「あ、そうでした。さっちゃんです。名前は…なんだっけ?」


 いつもさっちゃんと呼んでいたから、名前が思い出せない。

 さ、なんとかだとは思うのだが…


「そう呼ぶのやめなさいよ。もう子どもじゃないんだから」

「いいじゃん、歳は同じなんだから。さっちゃんも私の事、さに子って呼んだんだし」


 さに子とは、榮のあだ名だ。とはいえ、こう呼んでいるのはさっちゃんだけだ。

 由来は知らないが、苗字と名前の頭文字が『さ』で『二個』だから『さに子』なのだろう。


 学年は榮の一つ上だが年齢は同じ。つまり彼女は早生まれなのだ。 

 長らく近況など聞いていなかったのだが、大学には行っているのだろうか?


「はぁ…いいわよ、もう。そちらの方は?」

「バイト先の店長さんで、矢尾さん。えっと…お幾つでしたっけ?」

「少なくとも、あなた達よりは長く生きてるわ。それよりさっちゃんさん。お出迎えに来たという事は、私たちを何処かに案内をするのではなくて?」


 確かにそうだ。

 この門は、内側に大きな閂があったはずだ。 

 もし開けられなければ、塀を乗り越えて入る所だったのだ。


「…失礼しました。ご案内します」


 さっちゃんはそう言って、榮と矢尾の二人の案内を始めたのだった。




―――




 今、矢尾と榮の二人が居る場所は、屋敷の一角に建てられた粗末な小屋だ。

 プレハブでもなく、薄い壁が乱雑に張られた、玄関から直接続いた四畳ほどの広さの部屋。電灯は裸電球。

 奥には人一人がようやく立てる程の台所と浴室へ続く戸。浴室には、膝を折って座れる程度の浴槽が。シャワーはない。

 電燈も台所も浴室も、近年備え付けられて物と聞いた。


 榮と矢尾、さっちゃんに二人が案内されたのはこの小屋だった。


「やっぱりとんだボロ小屋ね。外見通り」


 矢尾の言葉に、榮は苦笑いを浮かべるしかない。否定しようもない事実だからだ。


 百年くらい前に建てられたこの小屋は、何度か崩れたり壊れたりしたらしい。

 しかしその度に修復されて建ち直り、今の今まで遺されてきたとか。


 祖母は、何代か前の当主の遺言だとか言っていたが。


「矢尾さん。そこの床、薄いから気を付けてください」

「ええ、分かっているわ」


 今は荷解きの最中だ。

 カメラを床に置き、包丁は放り投げ置いた。

 衣類は鞄の中に入れたままでも問題はないだろう。


 その後、お湯を沸かしてお茶を淹れる。自分の分と矢尾の分だ。

 暑い夏だが、こういう時には暑い物を飲めと言われている。どういう理屈かは知らないが。


「最悪ね」


 お茶を飲んでいると、矢尾がそう呟いた。

 何が、だろうか?


「向こうの屋敷と比べたら劣悪よ、こんな場所。何時から?」


 何時からだろうか。

 確か、祖母が亡くなった次の年。夏休みの中盤頃、とても暑い日だった。

 

 小学校の夏休み、例年通りに祖父母の屋敷へ遊びに来た。母親は別に用事があり、榮一人がこの屋敷へ泊まった。

 挨拶をして束の間。祖父に手を引かれ、以前から入るなと言われていた小屋へと連れてこられた。

 『今日から、ここに居なさい』そう言われ、その言葉に従い、この小屋で一週間ほどを過ごしたのだ。


 電気もガスも水道も通っていて、ご飯もお風呂も問題なかった。

 夜は暗く寂しかったが、なんだか不思議と安心した。頭まで毛布を被って寝る癖はこのせいでもある。

 それに、祖母が健在だった頃は、共にこの小屋で寝た事もあった。

 昔話も聞かされた。それは今でも覚えている。


 祖母の祖母、つまり高祖母の思い出の小屋であり、祖母も榮と同様に高祖母と一緒に寝たのだとか。


「案外快適ですよ、静かですし。それに、向こうの屋敷はなんというか、落ち着かなくって」


 昼間、小屋の中にいると蒸し暑くて仕方がないので、屋敷へ入ろうとするとこっぴどく叱られた。

 なので、昼間は裏の山や森を駆け回って時間を潰したものだ。

 邪魔だった長髪は包丁で適当に切り落とした。駆け回るのにバサバサと鬱陶しかったからだ。


 時には道に迷い、洞窟の中で一晩を過ごした事もあった。

 おかげで、雨風さえ凌ぐ事が出来れば、どこででも寝る事が出来るようになったのだ。

 榮の特技の一つである。


「ふぅん、まあいいけれど」


 そう言って矢尾は湯呑みに口を付ける。榮も同様に。

 古そうな茶筒に入っていたお茶っ葉だったが、普通に飲む事が出来て助かった。

 急須も湯呑みも年代物らしく埃を被っていたのだが、水で洗うと綺麗な色が出てきた。


 この屋敷も歴史が長そうだし、それなりの骨董品ではないのだろうか。

 榮に価値は、毛ほども知りえないが。


 ―――コンコンコン


 薄い板の扉がノックされた。

 誰だろうか、と榮はドアを開けた。


 そこに居たのは、さっちゃんだった。


「さっちゃん、どしたの?」

「敷布団と毛布にシーツを二人分。小屋にないでしょ? 持ってきたから」


 さっちゃんの言う通り、後ろに停まっている荷車には布団が積まれていた。

 そういえば、小屋の中に寝具の類がなかった。

 雑魚寝でも問題はないが、さすがに矢尾を床に寝かせるのは失礼だ。


「ありがと! 助かったよ!」

「朝の六時に洗濯機回すから、シーツはそれまでに持ってきて。枕カバーもね」


 そう言って、さっちゃんは荷車を引いてさっさと行ってしまった。

 しばらくぶりに会ったのだし、色々と話したかったのだが…


 少しばかりションボリしていると、何やら視線を感じた。

 咄嗟に左を向くと、黒い何かが引っ込んだのが見えた。


 確実に誰かいる。そして今、向こうからはこちらが見えない。

 足音を立てないように抜き足差し足忍び足。そしてバッと顔を出す。


「うひゃあ!」


 驚いたような声。目線を下ろすと、尻餅をついた女の子が。

 ツヤツヤとした黒い髪はサイドテールに纏められている。よく手入れをしているのだろう。

 前髪は、一方を黒猫を模したヘアピンで留められていた。

 榮の見立てでは、きっと小学校の一年生か二年生だ。


 これは事案では? と頭をよぎるがここは山奥だ。通報される心配は無いだろう。

 しかし、この少女には見覚えがない。


「えっと、どちら様?」

「あ、あの…さなお姉ちゃん、来ませんでしたかっ!」


 ―――さなお姉ちゃん…?


 さな、さな…と考えるが、榮にそんな知り合いはいない。


「お、おふとんをもって…えっと、この小屋に来てて…」


 ―――お布団、というと…


「ああ、さっちゃんか」 

「は、はい! さっちゃんお姉ちゃんですっ!」


 どうやら、さっちゃんの妹のようだ。

 しかしそうか、さっちゃんの名前はさなというのか。ずっと忘れていた。


「お姉ちゃんって…さっちゃんの妹?」


 確か、さっちゃんは一人っ子だったはずだ。

 何年も前の情報だが、母親からもさっちゃんに妹が出来たとは聞いていない。


「さ、さよのおばちゃんの、お姉ちゃん、です…」


 おじちゃんのお姉ちゃん。

 母親には、二人の弟と一人の妹がいる事が分かっている。

 そしてさっちゃんは、一番下の妹の娘である。

 つまり、この子のおばの娘がさっちゃんなのだ。この子の言う事は正しい。

 ということは…


 ―――なるほど、従妹か。


 このさよと言う女の子は、榮の従妹になる。

 顔は見た事もないし、話を聞いた事もないが。


「え、えっと…さなお姉ちゃんは…」


 不安そうな顔で見上げてくるさよちゃん。

 榮が黙っていたせいか、と。少し罪悪感にかられてしまった。


「あー…さっちゃん、お屋敷の方に戻ったよ。お布団持ってきてもらったけど、すぐにね」

「え…そう、なんですか…」


 見るからにションボリとしているさよちゃん。

 きっとさっちゃんに懐いているのだろう。それにこんな小さい子なのだ。

 歳の離れた従姉に声をかけるのは躊躇われるのだろう。

 仕方ない、気は進まないが…


「私が呼んでくるからさ、少し待ってなよ。矢尾さーん!」

「はいはい…あら、どうしたのその子。攫ってきたの?」

「違います! 屋敷の方に行ってきますけど、何か必要な物あります?」

「何も必要ないわ。それで、その子は?」

「私の従妹みたいです。さよちゃん、かな?」

「あ…は、はいっ! その、あの…お願いしますっ!」


 頭を下げたさよちゃん。年上の見知らぬ女に頭を下げるのは勇気がいる。少女の渾身の表れなのだろう。

 矢尾はさっさと小屋に引っ込んでしまった。面倒を見る気などないと言う事だろう。

 さよちゃんは矢尾の後に続いて、恐る恐るといった風に小屋へ入った。


 この晴れた青空の下。外にいるのでは熱中症になってしまう。

 小学生であろうさよちゃんに、知らない女性と二人きりで狭い部屋にいるのは少し心苦しい事だろうが、取って食われるような訳でもない。

 心配はないだろう。

 後ろも振り向かず、榮は屋敷へと歩いて行った。




―――




 ガラガラと引き戸を開け、玄関で靴を脱ぐ。

 下駄箱には置時計に花瓶。翡翠色の花瓶には一輪のヒマワリが活けられていた。


 屋敷に入るのは、何年振りだろうか。

 入ってすぐに見える奥へと続く廊下、それに階段。なんだか懐かしさを覚える匂いは、全く変わっていない。


 ―――さて…さっちゃんは、と。


 この屋敷には、広狭の程度はあるがかなりの数の部屋がある。

 宴会をするような襖で隔てられた広い部屋を走り回った事もあるし、物置でかくれんぼをした事もある。

 書庫の様な部屋も書斎の様な部屋もある。一度だけ書庫に入った事があったが、まだ小さい頃だったので本の内容は全く理解できなかった。


「キミ!」

「は、はい!?」


 玄関を上がってすぐ。奥から続く廊下から歩いてきた男性に声を掛けられた。

 まさかこんなすぐに見つかるとは思っていなかったから、心の準備が出来ていなかった。


 榮は声を掛けられた方に眼を向けた。

 赤と白のストライプのポロシャツに紺色のジーパンの、壮年の男性。

 少し白髪が混じっている。きっと苦労をしているのだろう。


「…ん? まてよ。どこかで会って…ああ! まさかキミ、姉さんの?」


 ―――姉さん、姉さんと言った。つまり、この壮年の男性は…


「えっと、さよちゃんのお父さん、ですか?」

「え? ああ、いや。佐代ちゃんは兄さんの娘だよ。僕には一人、息子がいるけど。憶えてるかな? あの子が赤ん坊の時に、会った事があるけど…」


 そう言えば、と。

 小学校の低学年くらいの時、女性に抱かれた男の子を見た事がある。

 夏休み、この屋敷で。


「あ、そういえば。えっと…さっくん来てるんですか?」


 確か、あの子の名前は佐玖といったハズだ。

 ああそうだ。今はきっと十歳くらいだろう。


「ああ、来ているよ。今は昼寝をしているけどね。夏休みの宿題なんて放っていてね」

「そうなんですか。もしよければ見ますけど」


 秀才というほど頭は良くないが、小学生の宿題を見るくらいは出来る。


「本当かい? あの子、佐奈ちゃんに言われば文句も言わずにやるんだけどね」

「ええ、勿論です。ところで…さっちゃんのお部屋はどこでしょうか?」

「佐奈ちゃんの部屋かい? そこの階段を上って二つ目の部屋だよ」


 そう言う叔父は、榮の前にある階段を指差した。

 二階とは思いつかなかった。

 叔父さんに会わなければ、一階の探索に時間を費やしていた所だろう。


「助かりました。外の小屋に泊まっていますから、ご用事があれば声を掛けてください」


 叔父と別れ、榮は階段を上る。上った先は長い廊下。

 壁には幾つかのドアノブが見える。この二番目の部屋が、さっちゃんの部屋のハズだ。


 ―――コン、コン、コン。


「さっちゃーん、入るよー!」 


 返事も待たずに部屋へと入る榮。

 カチャリと扉を開けると、さっちゃんが立っていた。

 その瞬間、榮は手で両目を隠した。


「あ、アンタ…!」


 この暑さだ、汗で濡れてしまったのだろう。数十分前まで来ていたTシャツを脱ぎ、着替えていた。


「み、見た…!?」

「見てないよ! 水色のブラジャーしか!」


 仄かな水色の胸部装甲補正装備しか見ていない。本当だ。


「いいから! 出てって!」


 グイグイと押されて部屋を叩きだされた。

 これは失敗した。返事を聞くべきだった。


『それでさに子、何の用』


 ドアの向こうからさっちゃんが声を掛けてきた。

 そうだ、用事を済ませなければ。


「佐代ちゃん、さっちゃんの事探してたよ」

『佐代が? すぐ行くから待ってて』

「分かったよ、さっちゃん」


 しばし待つと、ガチャリと音を立ててドアが開いた。


 うどんを啜るグレイのTシャツ。

 榮の友人が、かつて着ていたキワモノTシャツをさっちゃんが着ていた。

 まさか、こんな場所で再び会いまみえるとは思わなかった。


「それで、佐代は?」

「小屋にいるよ。外は日が強いから」

「はぁ!? アンタあんな小屋に置いてきたの!?」

「え? 矢尾さんもいるし大丈夫だよ」

「あんな胡散臭い女に任せられるわけないでしょ!」


 何やら焦っているさっちゃんだが、あの矢尾が小さい女の子を取って食うわけがないだろう。

 榮は矢尾に対して、不思議な信頼感を抱いているのだ。


 しかしさっちゃんは榮の手を引き、靴を踵で潰したまま急いで小屋へと駆けつけた。

 そこには…


『さあさあ御立合い! 摩訶摩訶不思議な人形劇団! 数百年ぶりの開演だ!』

『我ら三兄弟! 必ずや彼奴らを滅ぼして見せましょう! ああ、愛しのエリー! 何故我らを泣かせたのか!』

『遥々島を離れ飛び、探し回った幾星霜。ああ、ああ、貴方への恋慕。忘れる処か募る一方』


 何だか物騒な事を言っている人形たち。と、いうより、矢尾の腹話術であろうが。

 何やら十字の板を両手に持ちカシャカシャと動かす矢尾。その直下では、三体の人形がフワフワと動いていた。

 それぞれの人形は肩を組み、さも楽しげに踊りまわっている。


『いい湯だなっ!』

『つめてえなっ!』

『ばばんばばんばんばん!』


 佐代は興味津々といった風にジッと見つめ、その一挙手一投足に目を輝かせ、パチパチと拍手をしていた。

 その光景に、榮も佐奈も呆然としてしまった。


 矢尾は忙しなく十字の木の板を動かしているが、その動きと人形の動きが連動していない。

 それに、いくら目を凝らしても糸が見えない。しかし人形は問題なく動いている。


『幕切れは突然に!』

『歯ぁ磨けよぉ!』

『風呂入れよぉ!』


 三体の人形の丁寧なお辞儀と共に、佐代は大きな拍手を送った。

 何故だか、榮もつられて拍手をしてしまった。


 佐代は矢尾に駆け寄り、なにやら貰っている。

 近づいて見てみると、包み紙に包まれた透き通るオレンジ色の物体。


 それを口に放り込んだ佐代は、パアッと表情を輝かせた。


「矢尾さん、何をしてたんですか? それと、私にもくださいな」

「手品よ。糸無し糸繰り人形」

「えっと…? それって凄い事なんじゃ…」

「そう? この程度、誰でもできるわよ。はい」


 そう言い矢尾は、お菓子の代わりに十字の木の板を榮に押し付けてきた。

 その途端、三体の人形はパタリと倒れてしまった。今まで自由に跳び回っていたのが嘘のように。


「え、ええっ!?」


 一体の人形の首がグルリと動き、榮の方を向いた。それに続くように、他の二体の人形の顔も。

 ガラス球をはめ込んだような透明の視線は、榮に飛び切りの恐怖を与えた。


『憶えたぞ! 貴様の顔!』

『七つの傷! 顔の傷痕!』

『地下駐車! 装甲戦車!』

「ええっ!?」


 ―――ど、どういうこったい!?


「矢尾さんっ! 腹話術やめてください!」

「あらそう? もういいわ。戻って」


 十字の木の板を矢尾に返す。

 パチリパチリと四角いスーツケースの鍵を外し蓋を開けると、人形たちは一人でに入って行った。

 三体の人形全てが漏れなく榮を睨み付けて行くのは、本当に怖いからやめてほしかった。


 やけに大きいスーツケースを持って来ていたと思えば、この人形が入っていたのか。


「ちょ、ちょっとアンタ!」

「なにかしら?」


 パタリとスーツケースを閉じた矢尾に、さっちゃんが突っかかる。


「な、な、なにしてるのよこんな場所で!」

「人形劇よ? 見てわからないかしら」

「に、にんぎょっ…! それに、佐代に何渡したの!?」

「鼈甲飴よ。知らないの?」


 矢尾がそう言うと榮の掌を開かせ、何かをポトリと落とす。

 見てみると、先ほど佐代に与えた物と同じ。

 包み紙を開けて口に放り込むと、甘すぎない自然な甘さが口に広がった。


 鼈甲飴は、アルミ箔のカップに砂糖と水を入れて加熱すれば簡単にできる。

 小さい頃はよく作ったものだ。


「まあまあさっちゃん、佐代ちゃんも楽しんでたんだし。それに佐代ちゃん、さっちゃんに用事あったんじゃないの?」

「…まあ、いいわよ。害はなかったみたいだし。それで佐代、どうかした?」


 さっちゃんの視線が佐代へ向いた。

 膝を曲げて視線を合わせながら。


「あ、あの…明日いっしょに、虫捕りにきて、ほしくって…」

「虫捕り?」


 虫捕りと言うと、小学校の自由研究だろうか。

 それにしても、女の子が昆虫採集とは珍しい。


「あー…明日、か。集まりに出なきゃだから、ちょっとね」

「そ、そんな…」


 どうやら、さっちゃんには用事があるようだ。

 集まりと言ったが、きっと親戚連中のお持て成しだろう。


「私は大丈夫だよ。行こっか?」

「…さに子が?」


 なにやら訝しげにさっちゃんが言うが、榮はいたって真面目である。

 幼稚園の年少から小学校の中学年頃まで、裏の山や森を駆け回っていたのだ。


「うん、お墓参りに来ただけだから予定なんてないし、佐代ちゃんさえよければだけど」

「え、えっと…その…よろしく、お願いします…」


 ペコリとお辞儀をする佐代ちゃん。

 うむ、素直な子である。


「それじゃ明日、朝ごはん食べたらにしよっか。虫捕り網はある?」

「は、はい…物置に…」


 佐代が指差す方向。

 そこには、榮が泊まる小屋よりも少しばかり大きいプレハブ小屋が設置されていた。


 この山奥の田舎だ。きっと鍵も掛かっていないだろう。

 明日の朝起きたら用意しておこう。榮は心に留めて置いた。


「うん、それじゃ、また明日。今日はゆっくり休んでね」


 そう言うと、佐奈と佐代は屋敷へと戻っていった。


 矢尾と榮が小屋へと戻り、辺りが薄暗くなった頃。


「そういえば榮」


 夕飯も食べ終え、小さなちゃぶ台を片付け終わった時。

 料理は勿論榮が。とはいえ、そうめんを茹でただけだが。

 材料はさっちゃんに持って来てくれた。


 後は、布団を敷いて寝るだけだ。


「この小屋、出る(・・)らしいわ」

「………え?」

「さっきの佐代、っていったかしら。あの子が言っていたのだけれど」


 『屋敷の中で白い影が蠢いていた』『お盆の季節になると小屋の扉を叩く音がする』『山で青い炎が燃えていた』

 佐代がやけにビクビクしていると思い聞いたら、そう言ったのだという。

 親戚連中からはお化け小屋とも噂され、取り壊されないのも『呪い』のせいだと言われていた。


「うそ、嘘ですよね? 嘘ですよね、幽霊なんて、嘘ですよね?」

「ええ、そんなのいないもの。あんなの信じるのは素人か、それか―――」


 ―――ガタン!


「うひぃっ!」


 壁に立てかけていたちゃぶ台が倒れたのだ。

 地震など起きていない、隙間風で倒れるはずもない。

 では、何故か。


「あわ、あわわわわわわ…」


 普段は無視できる程度の事だが、今の榮は矢尾から怖い話を聞いたばかりである。

 そんな中、超常的な現象に遭って、榮の精神は限界である。


 ―――こ、こんな…こんな場所にいられるかっ!


「私、野宿しますっ!」


 扉の方にダッと駆け出す榮。彼女にとって、幽霊のいるかもしれない小屋よりも、遊び慣れた山や森の方が信頼できるのだ。


「うぺぇ!」


 しかし、榮の足に何かが絡み付いた。無様にも転んでしまう。手で受け身は取ったが。


「な、なにが…」


 人形だった。三体の人形が足に掴まり、透明なガラスの目玉で榮を睨み付けていた。

 矢尾の方を見ると、スーツケースを開いていた。それに、十字の木の板を手で弄んでいた。

 ズリズリと床を引き摺られ、見る間に扉から引き離されてしまった。


「し、死にたくなーい! 死にたくなーい!」

「死なないわよ。こんな事で」


 いつの間にか敷いてあった布団へと引き摺りこまれた榮。

 そして電気が消された。キシキシと床が軋む音がする。人形たちが歩いているのだろう。


「や、矢尾さん! 電気! 電気点けて下さ―――」


 ―――キシキシ、パキン、ギシ、ビキン。


「うひゃあ!」


 家の中から聞こえるラップ音に、榮は毛布を頭まで被り目を瞑る。こういう時はさっさと寝てしまうに限るのだ。

 しかし、だ。


 ―――ザリ、ザリ、ザリ、コン、コンコン。


 扉がノックされた。

 丁寧にも三回。


 ―――あわ、あわ、わわわわわわ…!


 ただの気のせい。きっと気のせい。絶対気のせい。

 目を瞑り、心の中でくわばらくわばらと唱え、帰れ帰れと念じ掌に人と書いて呑みこみ十字を切ってヘソを隠す。


 ―――コンコン、コン、ザリ、ザリ、ザリ。


 帰って行ったのだろう。しかし、幽霊にも脚があるのか。


 だが、完全に眼が冴えてしまった。

 このままでは寝る事は出来ず、ただ怖い思いをするだけだ。


「や、矢尾さぁん…」

「何よ、情けない声なんて出して」

「で、電気点けさせてくださいぃ…」

「いやよ、眩しいもの」


 にべもなく断られた。

 しかし、榮も必死である。


「こ、怖くて、怖くて眠れませんよぉ…」

「怖い? 仕方ないわねぇ」


 ―――パサリ、キシ、キシ。


「あの、矢尾さん?」

「怖いんでしょ? 一緒に寝てあげるから」


 矢尾が榮の布団へ潜り込んできた。

 榮も矢尾も体が大きい方ではないが、二人が身を寄せ合ってくっ付いて、ギリギリ布団から出ない位だ。


「あの、私、子どもじゃありませんよ?」

「私から見れば、誰も彼も子どもと変わらないわよ」


 僅かばかり抵抗する榮だったが矢尾に抱き締められ、頭をポンポンと優しく叩かれる。

 矢尾の心臓の鼓動が聞こえる。そして榮の鼓動と共に、背中も優しく叩かれ続ける。


 ―――なんか、安心するな。 


 そういえば、誰かと寝るなど何年振りだろうか。


 かつての記憶を想起する。

 小学生の頃、この小屋で一緒に寝た記憶を。

 そうだった、人肌とはこうも、心地良いものだった。


 ―――そうだ、おばあちゃんも…


 自分とは違う体温。少しばかり温かく、そして違う匂い。

 優しい匂い、優しい体温、優しい記憶。


 段々と瞼が重くなる。心地良い、温かく、気持ち良い。

 うとうとと、恐怖など忘れていた。


「お休みなさい…―――」


 榮の耳元で囁かれる矢尾の声。誰かの名前が聞こえた気がした。

 しかし榮には聞き取れず、静かに、眠りの世界へと引き込まれていった。

・名前:(さかえ)

 性別:女

 職業:大学生

 好物:そうめん

 設定:

 至って普通の大学生。

 矢尾と共に『本家』へと泊まることになった。

 結果、三畳の部屋と狭い台所、シャワーなしの風呂といった『最悪で劣悪』の小屋に泊まる事になったが、自然と受け入れてた。

 昔のあだ名は『さに子』である。苗字と名前の最初の文字が『さ』で『二個』だから『さに子』だと、勝手に考えている。

 小さい頃は野山を駆け回っていたらしい。


・名前:矢尾(やお)

 性別:女

 職業:万屋店主

 好物:酒

 設定:

 路地を何本も進んだ先にある、古びた万屋の店主。

 お盆の最中は『万屋 矢尾』は休業である為、暇潰しを兼ねて榮の祖父母の家である『本家』へと赴いた。

 榮の祖父母の家である『本家』と、古いボロ小屋には何か思う所がある様子。

 特技は『糸無し糸繰り人形』洗練された『腹話術』で、まるで生きているような動きを見せる。本人曰く『手品』


・名前:佐千(さち)

 性別:女

 職業:専業主婦

 好物:かき氷

 設定:

 至って普通の専業主婦。榮の母親。

 榮の運転する『べーえむべー』を煽りに煽った赤い普通自動車を運転していた。

 榮を矢尾に任せた。

 本人は、産まれ故郷である『本家』には近寄りたくない模様。


・名前:佐奈(さな)

 性別:女

 職業:家事手伝い

 好物:エビフライ

 設定:

 榮と同齢の従姉。具体的に言うと、榮の叔母の娘。

 ずっと死んだと思っていた榮と再会し、混乱の中で彼女のほっぺたを伸ばし揉んだ。

 佐代からは懐かれている。彼女も、本当の妹のように可愛がっている。

 キワモノTシャツの愛好家。他には企業ロゴの入ったTシャツも持っているらしい。

 昔、榮に手を引かれ、無理矢理に野山を駆け回っていた。

 榮からは『さっちゃん』と呼ばれ、彼女を『さに子』と呼ぶ。榮と同じくセンスは皆無。


・名前:佐代(さよ)

 性別:女

 職業:小学生

 好物:シュークリーム

 設定:

 榮の年下の従妹。具体的に言うと、榮の叔父の娘。

 佐奈に懐いている。彼女のヘアピンで留めた髪は、彼女を意識してか。

 榮の泊まる小屋にはいい思い出が無いらしく、借りてきた猫のようにおとなしかったが、矢尾とはすぐに打ち解けた。その性根を見抜いてか、あるいは純粋さからか。

 そして、彼女の人形劇を見て感激したらしい。鼈甲飴も気に入った模様。

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