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白昼夢のお話 前編

 時は夕暮れ、地方の山の中。

 粗末なあばら家に、一人の女性が暮らしていた。


「…暇ね。暇が過ぎるわ」


 あばら家とは場所違いも甚だしく、時代錯誤もいいところの黒いドレスに身を包んだ妙齢の彼女は、暇を持て余していた。


「ああ、暇だわ。暇、暇」


 コロリとゴザに寝転がり、放りつけてあった一冊の本に手を伸ばす。

 『人を喰った話』と題が打たれている。出版社は妖華出版だ。

 ペラリとページを捲る。しかし何度も何度も読んだ内容だ。空で唱えられるくらいには。


「人を喰らう三カ条『慌てず』『騒がず』『落ち着いて』…何が暇を潰せるのかしら』


 知り合いの妖怪から貰った本だが、甚だバカらしい。

 あの妖怪は笑いながら読んでいたのだ。あるのかも分からない神経を疑う。


 ―――ゴン、ガサガサ、バキリ!


 何やら外が騒がしい。

 態々静かな場所を選んだというのに、これでは無駄骨ではないか。

 仕方なく体を起こし、用心棒を外して外へ出る。音のした方に見当をつけ、歩き出した。

 数分も経たずに現場を見つけた。


 そこには巨大な猪が息荒く、地面を蹴りつけていた。

 その鼻先には、血塗れの人間が木にもたれ掛かっていた。


「どうしたの、鉄斎」


 鉄斎と呼ばれた大猪。

 そのギラついた眼光を女に向けた。


『この人間が我の縄張りを侵したのだ。それだけならば見逃してやったが、我の眷属を狩ろうとした。我には眷属を義務がある。騒がせたのなら謝罪しよう』

「いいのよ別に。退屈していた所だから」


 木にもたれている人間へ目を向ける。

 長い髪は血で汚れその顔は紅に染まり、衣服は所々破れ白い布地は斑になっている。

 息はしているから、どうやら気を失っているだけのようだ。


「それで、この人間の処遇は?」

『無論、殺すつもりだ。生かしておいたのでは我の面子が立たぬ』


 なるほど、それはそうだろう。

 何百もの眷属を率いる長として、危害を加えようとした者を見逃すわけもない。

 人間が入ることは稀のこの森だ。

 生かして返したのでは、この森に入る人間が増えてしまうかもしれないのだ。


 しかし、彼女は退屈していた。


「ねえ鉄斎、この人間をくれないかしら?」

『…貴様には借りがある。だがこれは譲れぬ。我には、我らには誇りがあるのだ』


 誇り。

 妖怪や異形の間では特に重要視される概念だ。

 高潔な生き方、誇る事の出来る生き方。これを重んじる。


 しかし、彼女に誇りなどない。

 そんなものは、とうの昔に捨ててしまった。


 大猪はその牙を人間の喉元へ当てる。

 あと僅かでも動けば、喉笛を貫くだろう。


「それじゃあ取引をしましょう。貴方の眷属にも益のある話よ」

『言ってみろ』

「取っ手おきのお酒を二樽。それに野菜を四籠に魚の干物を十一匹。それと人間を交換。どう?」

『…良いだろう。ただし、次はないと伝えておけ』


 ノシノシと獣道を歩き去っていく大猪。

 元々自分には必要のない物だ。渡した所で大して痛くもない。


 さて、と。

 血塗れの人間を背負い、あばら家へと戻る。


 甕から水を汲み、桶へと移して手ぬぐいを濡らす。

 顔にこびり付いている血を拭き取り、服を脱がして体も拭く。

 適当に拭いた所で、人間はゴザへ横たえておく。どうやら女のようだ。それに随分と若い。少女と言っても相違ない。


 鉄鍋に適当に切った野菜と味噌を入れ、グツグツと煮込む。

 煮込んでいる間に、裏の物置から酒に大根、魚の干物を取り出してあばら家の前に置いておく。

 置いておけば、鉄斎の眷属が持って行くだろう。


 あばら家へ戻る。

 未だ女は目を覚ましていない。うむ、詰まらない。

 仕方なく、彼女は目を閉じた。もはや必要の無い事なのだが、昔取った杵柄だ。

 徐々に、徐々に意識が落ちていく。最早何年かぶりの睡眠だった。




―――




 目が醒めると、あばら家は暗闇に包まれていた。

 どうやら寝過ぎてしまったようだ。

 久しぶりに眠ったものだから、起き方も忘れていたのか。


 暗闇に慣れてきた眼で周囲を見渡す。体を起こそうとするが、何やら違和感を感じた。

 燻っていた火に薪を足す。辺りが僅かばかり照らされ、ようやく違和感の正体に気が付いた。


「あら?」


 胸元に包丁が生えていた。

 それも根元まで深々と刺さっている。肋骨の隙間を上手く通したのだろう。

 これでは心臓は真っ二つだ。


 鉄鍋は空っぽになっており、血に塗れていた女の姿は無い。

 自分を刺したのが先か、食べたのが先か。まあ、どちらでも良いだろう。

 使った器と箸は水で綺麗に洗われている。律儀というか、大胆というか。


 包丁の柄を持ち、一息に引き抜く。痛みが走るが、慣れたものだ。

 始めは血が流れ出していたが、それも徐々に勢いが弱まり、一分も経つと傷は完全に塞がった。


 ふう、と一息つく。

 それにしても、殺されたなど久しぶりだ。

 何十年振りだろうか。


 顔は憶えているし、手掛かりもある。

 あの女がしていた簪。血を拭く時に邪魔だったから外しておいたのだ。

 鼈甲を削って造られた精巧な物だ。

 所々には銀細工の装飾もある。ここまで細やかに彫刻を掘る事の出来る者など、この近辺に数える程もいないだろう。探し出すのに苦労は無い。


 それに、鉄斎の眷属を狩りに来たのだというのだから、その筋の者だという事に間違いはない。

 久々に退屈も紛れそうだ。そう思い立ち、彼女は闇の中へと歩み始めた。




―――




「さ、とっとと教えて頂戴」

「うわ、生きてたのかよ婆」


 なんと失礼な事を言う爺だ。

 たかが二十年姿を見せなかっただけではないか。


 いま彼女がいる場所は、狭い家の受付前。

 住んでいるあばら家のある山を降り、一番近くの村。

 その村の外れにある『万屋 万場』だ。


 店主は白髪交じりの甚平を来た、万場という名の男。

 万場がまだ鼻を垂らした餓鬼の頃から知っている、古馴染みだ。


「あらあら、そんな事を言って。ぶち殺すわよ」

「おお、怖い怖い。歳を食うと堪え性が無くなって嫌ンなる。こうはなりたくないモンだねえ」


 こういった軽口を叩くのも久しぶりだ。

 昔から反抗的な奴だったが、歳食った今でも全然変わっていない。


「これ。誰が作ったのか教えて頂戴」


 机に簪を置く。

 若い時に全国を津々浦々と巡ったお陰か、万場はこういった工芸品には目敏い。

 片目が悪いせいか舶来物の片眼鏡をかけて簪を手に取った。


「へえ、随分と良いモンじゃねえか。盗ンできたのか?」

「落し物よ。私はとっても優しいからね、態々届けようと思ったの」

「まあ、婆の戯言なんざどうでもいいが、この細工にゃ心当たりがあるぜ」


 片眼鏡を外し、簪を手で弄ぶ。

 要は、教えて欲しいのなら金を出せ、という事だ。


 懐から巾着を出し、黄金色に輝く小判を取り出す。

 使い道のない金だが、人間に片足を突っ込んでいるのだ。

 金があって困る事はない。


「はい、これでいい?」

「へへ、毎度あり」


 恭しく小判をしまうと、仰々しく言ってのける。


「この簪ぁ、信濃の職人が作ったモンだぜぃ。しかもこの細工、凄腕だな。一朝一夕で練り上げられるモンじゃねえ」


 ふむなるほど。

 信濃はここから山を幾つか越えた先だったか。

 それならば、数日もあれば到着するだろう。


「その職人、心当たりある?」

「確か『天津』とか言ったか。そいつの細工は見事でなぁ、今でもハッキリ覚えてるぜ。信濃の北の方だったかな? そいつンとこ行きゃ分かるだろ」

「あらそう、助かったわ」

「俺の知ってる事ぁこれで全部だぜぃ。そんじゃあな、婆」


 そう言い、瓦版へ目を落とす万場。

 あんなホラばかりを載せてある物など、よく読む事ができる。

 たまに真実も混じってはいるが、それこそホラと読み違えるだろう。


 しかし全てが、彼女にはどうでも良い事だ。

 万場の言葉通り、信濃へと歩みを進めたのだ。




―――




 朝夜朝夜。

 山を越え森を越え、川を越え、二回ほど日が明けた頃、漸く信濃へとたどり着いた。


「さて信濃。ここは何処かしらね」


 信濃は四方全てが山に囲まれている。今、彼女が居るのは山の上。

 そこからは盆地である信濃が一望する事が出来た。世に聞く善光寺平であろう。

 そして目に入るのは、一段と大きな仏閣だ。


 あれが噂に聞く善光寺であろうか。


「へえ、あれが。なかなか洒落てるじゃない」


 山を越える間に出会った、信濃を出てきたという風来坊が言っていた事を思い出す。


『今は善光寺がお開帳の最中でな。神仏を信じるのは勝手だが、露店が一杯立ってたぜ。その中でも美味かったのがな…』


 そんな風に、是非とも善光寺に行けと言っていた。 

 蕎麦は聞いた事があるが『おやき』とは何なのだろう。

 何やら餡子や菜っ葉が入っている饅頭と言ってはいたが。


 彼女は神仏を信じる質ではない。

 神の知り合いなど多くいるし、それよりも厄介な妖怪は山ほど知っている。

 時に友になったり祓ってきたりしたが、おおむね良好な関係を築く事が出来ているはずだ。


 そもそも、此処には退屈潰しに来たのだ。

 職人を探すのは後回しでも問題ないだろう。


「さて善光寺。楽しい事が在れば良いのだけれど」


 ゆっくりと山を下り始めた彼女。

 善光寺までは、東へおよそ二里の距離だ。


 途中、法師が村民に乞われて作ったと伝えられている溜め池を見た。


 そういえば、と彼女は思い出した。もう随分前の酒の席で、友が言っていた事を。

 干ばつで苦しんでいた民の為に足で地面を押し込み、近くの湖から水を汲んできたと覚えているが、まさかこの溜め池がそうなのか。

 体が大きい割には穏やかな性格で、人間にも友好的な友の事だ。きっと本当なのだろう。

 無償で人間に奉仕するなど彼女の価値観からすればあり得ない事だが、彼にとっては違うようだ。

 よくもまあタダで働くものだ。どうせ裏切られるのに。


 そうして、何日か夜を迎え、朝を迎え。

 まばらに民家が建ち並ぶ通りを抜けた。

 時間は夜が明けた直後。まだ薄暗い中、彼女は門前へと辿り着いた。


「へえ、良いわね」


 門の両端には一対の仁王が構えを取っていた。

 余程の技量を持った者が彫ったのだろう。並みの妖怪では門に近づいただけで消滅してしまう程の圧力を放っていた。

 この場所は彼らが守護する領域になっているのだろう。


 しかし、彼女はただの人間である。人より僅かばかり長生きしているだけなのだ。

 何の問題もなく通る事が出来た。


「こういうのは好きよ。なんだか燃えそうだけれど」


 彼女はそういう曰く付の品を見分ける眼も持っている。

 こういった品は是非とも残してほしいものだ。


 少しばかり歩くと山門へと到着する。

 楼上からは景色を一望できるみたいだが、この辺りの景色は山の上から散々眺めてきたのだ。もうお腹一杯である。


 山門を抜けると、いよいよとうとう善光寺の本堂だ。


「中々に壮観ね。こんなに大きな木を伐るなんて勿体ないけれど」


 見上げるほどに大きい柱には、墨で何かが綴られている。梵字、だろうか。

 あいにく彼女は宗教に詳しくない。丁度良く、掃除をしている小僧がいた。歳は十四かそれ位だ。

 どうせだからと、聞いてみる事にした。


「もしもしそこの小僧さん。この柱、なんて書いてあるのかしら?」

「柱、ではありません回向柱(えこうばしら)とお呼び下さい」

「あらそう? それじゃ、回向柱に書かれている文字について教えて貰いたいのだけれど」

「分かりました」


 彼女と小僧は揃って移動する。本堂を前に見据えた所だ。


「上から『キャ・カ・ラ・バ・ア』と読みます。漢字では『空・風・火・水・地』と書きます。この世界に満ちる如来の命を意味しています」


 如来。

 確か、悟りへと至った初めての人間を模した姿だったか。

 動物や人間も長く生きれば妖怪へと変化するし、似たようなものだろうと、彼女は勝手に考えた。


「そして続きの梵字は『キリク・サ・サク』と読みます。意味は『阿弥陀如来(キリク)』『観世音菩薩()』『勢至菩薩(サク)』で、三体の仏を示しています」


 なるほど、そんな意味があるのか。

 しかし仏など、所詮は人間の妄想の産物だ。

 妖怪は人間の『悪意』と『怨み』とで。

 仏は人間の『善意』と『妄想』とで。


 どちらかといえば、信じるに値するのは妖怪の方だろう。それか実在する神の方だ。


「けれど、そんな物を信仰するなんて憐れね。そう思うでしょ、貴男も」

「…何を仰りたいのです?」

「いえね。どうにも貴男、仏を信じるなんて精神性じゃないから。救いを求めてる訳でもないし、罪を償う訳でもなし。どうして此処で小僧なんてしているの?」

「…私は仏に仕える身です。心の底から、仏を信仰しているのです。理由などありません。そうしたいからそうしているのです」


 まるで自分に言い聞かせるような小僧に、彼女は興味を抱いた。

 人より僅かばかり長く生き、人を見る目はそこそこあると自負している。

 過去、様々な人間を見てきた。そして、一つの結論に至ったのだ。


 この世には、どうしようもない悪人がいると。


 表面上は取り繕ってはいても、その心の中では『悪意』がグツグツと煮え滾っている者が。

 愛嬌と笑顔を振りまいていても、殺意と敵意に支配されている者が。

 殺意と敵意を支配し、ある種の呪具に変貌しつつある異常者が。

 笑顔で人を殺し、息を吐くように邪悪を振り撒く者が。


 そしてこの小僧は、間違いなくそれ(・・)だ。

 仏に仕えると言っておきながら、真実欠片も信仰していない。

 上辺では正常に振る舞いながらも、中身は邪悪そのものだ。

 姿形は同じでも内面は全く違う、人間の逸れ者。


 長く生きて変貌した者が『妖怪』ならば、これは生まれながらの『邪悪』だ。

 環境や過去でこうなったのではない。


 ここまでの者は久しぶりに見たのだ。

 久しぶりに人間に対して興味を抱いた。 


「ふぅん、そう? それなら一つ聞かせて頂戴」

「…なんでしょう」

「貴男は―――」

「その子を苛めるのはそこまでにして戴きたい」


 彼女の声は、太い声に遮られた。


「住職様」


 小僧はそう言い、ハッとしながら彼女の下を離れた。


 余計な邪魔が入った。

 まあ、面白い者と出会えただけでも儲けものだ。

 あとは、先ほどの小僧が何を成すか。それを見届けたかったが、これ程の『邪悪』なのだ。

 勝手に大きな事を起こすだろう。それこそ、世界を揺るがすような。


「申し訳ない。まだ修行を始めたばかりの身で、勝手が分からないのです」


 小僧は住職と呼んだだろうか。

 飴色の袈裟を着けその顔には深く皺が刻まれた、老齢の住職だ。


「いいのよ。久しぶりに興味を持てたわ」

「…貴女は、変わっておられないのですね」

「あら? 何処かで会ったかしら」


 いちいち人間の顔など覚える事はしない性分なのだ。

 少なくとも住職のその顔に、彼女は憶えがなかった。


「西で修行をしていた時に助けて頂きました。もう四十年も昔の事でしょうか。その節はお礼も言えず、真に申し訳ありません」

「ちっとも憶えていないけど、良かったじゃない」

「いえ、憶えておられないのも当然です。当時の私は濁っておりました。退魔の一族の端くれと罵られ、才もなく無茶を続けて。手に余る『鬼』の駆除を依頼され。あの時助けられなければ、間違いなく命を落としておりました」


 そういえば、と思い出した。

 住職が言った四十年程前、知り合いの神からの借りを清算する為に、妖怪を一匹狩りに行った事を。


 その時の妖怪は『鬼』だったハズだ。

 地獄の獄卒を務めている事で有名だが、この『鬼』は、人間が『悪意』と『怨み』に浸食されて発生した妖怪だ。


 細かい事は興味がなかったので詳しく聞かなかったが、周辺の村々を襲い人間を喰っていたとか。

 乞われた神は憤った。しかし、神の間にはある約定がある。人間世界へ過度に干渉しない事。

 なので、一応は人間である彼女に押し付ける事にしたのだ。


 結果は単純、案の定雑魚だったのでさっさと祓っておしまいだ。

 その時、腰を抜かした青年がいた気もするが。

 そうか、彼がこの住職なのか。


「あらあら、立派になったじゃない」

「はい、才の無さを痛感いたしました。その後はすぐに出家をして仏門へ。私が出来うる限りの人々を救いたいと思ったのです」


 住職は救いを求めるのではなく、違う形での救いを与える為に。

 人間は勝手に救われるのに、なんと傲慢なのだろうか。

 しかし彼女はそれを口に出す事はない。微笑むだけだ。


「ふうん。まあいいわ。一つ聞きたいのだけれど『天津』って職人は知らないかしら」

「『天津』…確か、退魔の一族の分家と記憶していますが、何年も前に断絶したと聞きました」


 『天津』が退魔師とは初耳だ。しかも断絶したという。

 職人を纏めていると万場は言っていたが、見当外れだったのか。


 彼女は懐から簪を取り出す。


「この簪の持ち主を探しているの。知らないかしら」

「簪、ですか。申し訳ないが、こういった細工品には疎いのです」


 元々期待はしていなかった。

 住職は男であるし妻帯者でもあるまい。

 知っている方が不自然だ。


「私、知っています」


 住職の声とは違う、少し高めの声が聞こえた。

 先ほどの小僧の声だ。


「あらご存じ? 教えて貰えないかしら」

「あちらの」


 小僧が指差す方向。方角でいうと北だろうか。

 これまた大きな山が見えた。


「斑尾山の麓野の村に『天津』を名乗る者がいると聞いた事があります」

「あらそう? ありがとうね。住職も。それじゃあね」


 呆気もなく、彼女は善光寺を後にした。


 住職には何も言わない。小僧には気を付けろとか、破門をしろだとか。

 無粋なのだ。何かを成そうとする者を邪魔するなど。

 良いではないか。邪悪に塗れた人間がいても。

 人間は結局、死ぬ為に産まれてきたのだから。


 そんな事を考えつつ、彼女は斑尾山へと歩を進めたのだ。




―――




 彼女は寄り道をしつつ歩き続け、数日後には小僧に言われた斑尾山の麓に到着した。

 小僧の言った通り、そこには村があった。 

 四方には見上げるほどに高い櫓が聳えている。


「あらあら、ご丁寧に結界。四方に柱で簡単な物。けれど中々に強固ね。単純な物の方が修復も簡単だし」


 ある種の概念結界だろう。

 結界自体に攻撃性はなく、妖怪に類する者から内側を護る。結界術の王道だ。


 簡単だからこそ修復も容易。専門性の無い者でも簡単に弄ることの出来る。

 低級程度の妖怪は近づく事さえないだろう。


「まあ、あまり関係はないのだけれど」


 彼女は人間である。物理結界ならまだしも、概念結界など意味を成さない。


「さてさて『天津』は誰かしら」


 とはいえ、まだ朝早い。

 井戸から水を汲み出している大人と子どもの姿はあるが、どうにも職人という風体をしていない。

 閉鎖的な村だ。余所者は目立つのか、ジロジロと目線を感じる。敵意が無いのが幸いか。 

 そういえば、こちらに来てから飲まず食わずだ。

 とりあえず、手近にあった茶屋に入る。どうやら、村人向けに早くから店を開けているようだ。


「いらっしゃいませっ! 何になさいましょうっっ!」 


 椅子に座ると、こんな朝早くだというのに大きな声で注文を取りに来た。

 そばかすが目立つまだ幼い少女だ。店の手伝いだろう。


「そうね、お勧めは何かしら?」

「おやきですよっ! おやきっっ! ダイコンの干物ですよっっっ!」


 切り干し大根の事だろうか。

 ならばそれで良いだろう。


「それじゃあ、そのおやきを二つ。お茶も頂戴ね」

「分かりましたっ!」


 そうしてパタパタと厨房の方へ駆けていく。

 十分ほど待った頃、お皿に乗せられた円盤形の物が机に置かれた。

 

「ごゆっくりっ!」


 手に取ってみると、平の部分両面が黒く焦げている。

 試しに割ってみると、丸く平べったい物がギチギチに詰めてある。


 勝手に切り干し大根だと思っていたが、なるほど。

 言葉通りのダイコンの干物の輪切りだ。

 齧りついてみると、しょう油で煮たようなしょっぱい味付け。干して煮込まれたダイコンの干物は味が良く滲み、柔らかい。

 周りの皮に味はないが、パリッとした触感が口に喜ばしい。

 

 中々の味だ。

 シンプルだが、片手間に食べる事ができて良い。

 郷土料理だと聞いていたが、馬鹿に出来ない。


「お客さん、どこから来たんです?」


 二つ目のおやきに手を付けようとすると、声が掛けられた。

 いつの間にか傍に男性がいた。髪が白くなり始めた、壮年の男。この店の店主だろうか。


「善光寺から」

「善光寺。今はお開帳をしているんでしたっけ。あんなに賑わった場所からこんな辺鄙な所まで、何の用で?」

「人探しよ。『天津』って人を探しているの」


 『天津』

 その言葉を聞いた男性は、ピクリと眉を動かした。

 ふむ、なるほど。


「『天津』なんて女、この村にゃいませんよ。どこで話を聞いたんだか知りませんけど、勘違いでさぁ」

「あらそう? それじゃあ、これ」


 簪を机に置き、店主に見せつける。

 それを見た店主の眼は険しくなり、彼女を睨みつけた。


「アンタ、これを何処で…」

「拾ったの。若い女の子が落としたみたいでね」


 店主の眼は大きく見開かれ、信じられないといった風に手で口元を隠している

 当たりだ。あの小僧も馬鹿に出来ない。


「これを作った職人がこの辺りにいるって聞いたから来たのだけれど、外れみたいね。お茶を飲み終わったら出ましょうか」


 おやきを食べ終わり、お茶をチビチビと飲む。

 さて、店主はどういう行動に出るだろう。

 少女を呼びつけて何やら耳打ちをし、少女は店を飛び出して行った。


「それじゃご馳走様。お代は此処に置いておくわ。お釣りはいらないから」


 机に一分銀を置き、店を後にしようとする。

 すると、焦ったような店主の声が彼女に掛けられた


「待ってくれ! 落としたのは本当に、若い女だったのか!?」

「ええ、怪我をしていたみたいだから手当をしたのだけれど」

「本当、なんだな?」

「嘘を言っても仕方ないじゃない」


 自分を殺した相手の顔をもう一度見ておきたいという願望もあったが、暇潰しの観光ついでだ。

 この簪の持ち主に心当たりがあるのならば、店主に返却を依頼しても良いだろう。


「返却をお願いしてもいいかしら。心当たりはあるようだし」

「もう少し! 少しだけ待ってくれ! お代はいらねえ! 頼む!」


 そう言い、土下座をしてまで彼女を引き留める店主。

 なるほど、そうするほどに価値のある物なのか、この簪は。

 まあ、土下座までされたのだ。少しばかり待っても良いだろう。


 どうせ時間など、腐るほどにあるのだ。


 お茶のお代わりを持ってきてもらい、十数分ほど経っただろうか。

 店主はソワソワと何かを待っているように焦っているようだ。


「父ちゃんっ! 呼んできたよっっ!」


 先ほどのそばかすの少女が店に戻ってきたようだ。

 少女に連れられ、店に入ってきた女性。

 目の下は濃いクマが目立ち、長い髪も白髪が混じってボサボサになっている。

 このまま山姥にでも間違われるのではないかと言えるほどに、その女性は憔悴しているようだった。


「ふうん、その女が『天津』? 随分と無様な姿をしているのね」


 正直な感想を言った。

 それに、この女の心には『絶望』と『怨み』が満ちている。

 あと一押し、何かがあれば間違いなく『鬼』へと変じるだろう。それもまた一興なのだが。


 声をかけた所で反応がない。心ここに在らず、といった様子だ。

 それとも発狂しているのか。


「ああ『天津』様だ。この村の結界を管理して頂いている」

「ふぅん、そう。それで、どうしてこんなのを呼んできたの?」

「ああ、実はな―――」

「ああ…あああ…!」


 女の眼に、机の上に置いた簪が留まったようだ。

 絶叫に近い金切声を上げる女。


「これは、この簪は! あの子に、あの子に! あの子に残した! あの子に! あの子に!」


 簪に縋り、涙を流し泣き続ける『天津』と呼ばれている女。


 なんと無様なのだろう。

 しかしこの口振りから、あの簪の持ち主の女は『天津』の娘のようだ。

 そう言われてみると確かに、血を拭った後の少女の顔立ちは、この女とよく似ている気がする。


「それで、この女は?」

「ああ。簪の持ち主の母親だ。だが、少し話をさせてくれ。『天津』様の一族は、十何年も前にこの村に辿り着いたんだ」


 店主の口から話された言葉は、ごく有り触れたよくある話だった。


 妖怪の被害に悩まされていた村に、家が取り潰しに遭い住処を探していた祓い師の一族が住み着いた。

 祓い師は村を護り、村は一族を守る。村は万歳、一族も万々歳。

 悲劇にも喜劇にもなりはしない、下らない話しだった。


「『天津』様は、その時の一族の最後の一人…と言っちゃ語弊はあるがな。生き残りだ」


 曰く、数年ほど前にこの村が妖怪に襲われた。結界も役に立たない大妖怪だったそうだ。

 一族は村を護るという盟約に則り、大妖怪を狩ろうと動いた。

 しかし流石は大妖怪。一族の総力を尽くしても滅するには至らず、手傷を負わせて追い払うに留まった。

 対して一族の被害は甚大だった。女一人を残して皆殺しにされ、生き残った女も精神を病み、会話する事すらも難しくなった。


 簪の持ち主は、間違いなく女の娘であるらしい。

 一族の地を追い出される際、本家の者に奪われた。赤子の割に力を持ち、運悪く本家の眼に入ってしまったらしい。

 簪は赤子に遺す事の出来た、唯一の物のようだ。


「へえ、下らない。過去なんて忘れて今を生きればいいのに」

「そう簡単に忘れられるかよ。腹を痛めて産んだ自分の娘の事をよ」


 彼女にそういう経験はない。だから理解が出来ないのだ。

 子孫を残すのはある意味、人間を含めた生き物の特権だ。


 妖怪は『悪意』や『怨み』に呑み込まれて勝手に増えるし、下手をすると永遠に生きる。

 『神』は当然の如く死にはしない。人間に忘れられない限り永遠に存在する。

 彼女は関係なく、増えもしないし減りもしない。ただ、生き続けるだけだ。


「なあ! その子、アンタんトコにいるんだろ! 一目でいいんだ! 逢わせてやってくれないか」

「さあ? 血塗れだったし、目が覚めた時には居なくなってたし」

「なっ! 生きてるのか!?」

「どうかしらね。妖怪に襲われて死んだか、道に迷って餓死したか。消息なんて知らないわ」


 ―――カシャン…


 簪が落ちた音がした。

 女が落としたのか、と思いそちらを見る二人。


「あ、あの子が、死、死、死、死死死死死死死死死ぃぃぃぃぃぃっ!」


 頭を掻き毟り、狂ったように叫ぶ。

 変化は一瞬だった。

 髪は剥げ落ち、額からは二本の角が盛り上がり、肌は赤黒く染まる。

 『鬼』へと堕ちたのだ。一押し(・・・)が成されてしまった。


「『天津』様!」


 店主が、女だった(・・・・)妖怪に近づく。

 その身を案じての事だろうが、もう手遅れだ。


「離れた方がいいわよ」

「え―――?」


 『鬼』の腕が揮われた。

 変貌直後とはいえ岩をも砕く力を秘めた剛腕だ。

 店主の首へと殺到する。岩に比べて人間の首など、豆腐よりも脆いものだ。

 もしも当たれば、首と胴体など容易くサヨナラするだろう。


 ―――ズ、バン


 血飛沫を撒き散らしながら店の壁に衝突する。

 店主の体は力が抜けたように、ヘナヘナと床へと這い蹲った。


 しかし、店主の首と胴体は繋がったまま。

 吹き飛んだのは『鬼』の左腕だ。


 彼女の指元には一枚の長方形の符が見て取れた。

 妖怪への特攻を持つ、彼女作の退魔符だ。

 店主の首を落とす寸前、符を用いて『鬼』の腕を落としたのだ。


「ギィイイィィィアアアアァァァアァァア!」


 絶叫。

 彼我との力量差を悟ったのだろう。

 『鬼』は店の壁を破壊し村を出て、一目散に森へと逃げ込んでいった。

 外から入るには難しいが、中から出る事に関しては、結界は機能しないのだ。


 獣とそう変わらない思考形態のくせに、撤退は早い。

 素となった人間の思考と知能が反映されたせいか。長く生きればきっと大妖怪へと成るだろう。楽しみだ。


「おやきのお代はこれでチャラね。本当なら大金を吹っ掛ける所よ」


 呆然とする店主と、興味なさげに壊された壁を見つめている彼女。

 裏から出てきたそばかすの少女は、破壊された壁を見るなり泣き出してしまった。


「あ、あ『天津』様は…」

「『鬼』に成ったわ。もう戻れないから、心配するだけ無駄よ」


 人間が妖怪に成る例はごまんとあるが、その逆はあり得ない。

 堕ちた者を元へ戻すなど、たとえ『神』であっても不可能なのだ。


「む、村の結界は…」

「さあ? 管理者が居なくなった以上、長くはないでしょうね。さっさと村を出た方がいいわよ」

「あ、アンタ、祓い師なんだろ!? 助けてくれよ!」

「嫌よ。そんな義理もないし」


 それに面倒である。

 彼女は簪を拾い上げ、懐へと仕舞い込んだ。


「さあ、教えなさい」


 店主の胸倉を掴み、恫喝する彼女。

 妖怪に成った最初期、理性も持ちえないそれは、変貌直前に抱いていた『怨み』を晴らそうとする。

 それを達成すれば理性を取り戻し、ある程度は意思疎通が出来る。勿論例外もあるが。


「な、なにをだよ…」

「本家の場所よ」

「『天津』様を、助けて、くれるのか」


 何を言っているのだこの人間は、さっき言っただろうに。


「あの『鬼』にはもう救いなんてない。貴男達人間と共存なんて不可能なの」


 妖怪と人間の共存。

 それを夢見た愚かな人間を、彼女は知っている。

 顔見知りであり比較的親しい人間であった。

 一度誘われた事もあるが丁重に断った。忠告もした。

 

 彼女には最初から分かっていたのだ、その結果を。


 夢に殉じたその人間と、賛同した妖怪や人間。

 しかし夢は破れ、争いとなり、すべて死に絶えた。

 愚かではあったが、その実直な性格は嫌いではなかった。


「…本家は、北だ。山の中に建っていると聞いた。それしか知らねぇ」

「そう。ならいいわ」


 店主を開放してから、机に小判を数枚置いて店を後にする。情報料だ。情報には対価を。

 これだけあれば当面の生活費にはなる。そのあとの事は知ったことではない。

 遅かれ早かれ、あの女は『鬼』になったのだ。


 彼女は村を後にした。

 店主の言っていた北。山へと向かうのだ。

・名前:黒い衣裳の女

 設定:

 木々が生い茂った山の中腹ほどのあばら家に住む妙齢の女性。

 久々に生きている人間を見つけて気紛れで助けた。

 その後、落し物を返す暇潰しと観光を兼ねて、信濃の地へと足を踏み入れた。


 人を見る目は確か。善良であれ邪悪であれ。


・名前:鉄斎

 設定:

 数百もの眷属を率いる群れの長。百年を生き、妖怪へと転じた猪の妖怪。

 自らの縄張りへと立ち入った人間を迎え撃ち、これを撃退した。

 『黒い衣裳の女』には借りがあるらしく、一定の信頼を置いている。

 妖怪らしく、面子と誇りを重視しているようだ。

 

 案外子煩悩。眷属には甘い。


・名前:万場(ばんば)

 設定:

 小さな村に店を構える『万屋 万場』の店主。初老の男。

 二十年ぶりに出会った『黒い衣裳の女』と軽口を叩ける奇特な男だが、かつて全国を歩き回った時の情報とその仕事ぶりは彼女も一目置いている。

 『黒い衣裳の女』とは古くからの付き合いらしい。

 噂話を記載した『瓦版』を好んで読むが、話半分で見ている。


 初恋は『黒い衣裳の女』である。今の今まで独身であるのもその為。


・名前:住職

 設定:

 善光寺平に建立されている『善光寺』の住職。

 小僧を苛める『黒い衣裳の女』へと注意をした。

 かつては退魔師としてブイブイいわせていたが、圧倒的な実力と才能の差を痛感し、出家。仏の道へと進んだ。


 かつて助けられた女性を探していた。お礼を言うために。


・名前:小僧

 設定:

 善光寺平に建立されている『善光寺』の小僧。

 御開帳に訪れた『黒い衣裳の女』にたまたま声をかけられ、その悪性を見抜かれた。

 『黒い衣裳の女』の言葉に心を揺すぶられかけるも、住職の言葉で我に返り危機一髪の所で逃げ出す事が出来た。

 その後、邪悪な心を秘めたまま修行を続け、誰からも尊敬される住職へと成長した。

 死の間際『邪悪を見抜いた方に出会わなければ、ここまではこれなかった』と言ったという。


 人間の邪悪の権化。けれど、信仰は本物。


・名前:『天津』

 設定:

 斑尾山の麓にある村の、結界の管理者。女性。

 『黒い衣裳の女』の前へと連れられてきた際には、髪も肌も荒れ果て、かつての面影は失われていた。

 数年前に村へと侵攻してきた大妖怪に一族を皆殺しにされたが、辛くも退けただ一人生き残った。

 身内を失い『悪意』に蝕まれ、娘を奪われた『怨み』に突き動かされ、あと一押しで『鬼』へと堕ちる寸前だったが、生きているであろう娘を心の支えに、辛うじて今の今まで生きていた。

 しかし『黒い衣裳の女』の言葉で一押し(・・・)が成され『鬼』へと変じた。


 かつては穏やかで優しく、村人からの信頼も厚かった。


・名前:鬼

 設定:

 地獄の獄卒として知られている、赤い肌と角を持つ妖怪。

 人間が『悪意』と『怨み』に飲み込まれ変じる事で増殖する。が、稀に自然発生する鬼もいるらしい。

 『鬼のように強い』という言葉通り、低級の鬼でさえ人間を容易く引き千切る腕力、壁を貫通する突進力などを持つ。きっと人間では、束になっても敵わない。

 素体となった人間の知能が受け継がれたのか、左腕を切り落とされ叶わないと見るや一目散に逃げ出すなど、生まれたばかりの『鬼』としては高い知能を持ち、長く生きれば大妖怪に成ると『黒い衣裳の女』は期待していた。


 『悪意』を発散する為『怨み』を晴らす為、それはひたすらに破壊を繰り返す。


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