妖刀のお話
散歩をしている時、ふと思いついた『お客様は神さま』という言葉から、この作品が生まれました。
『万屋 矢尾』
それが彼女がバイトをしている店の名前だ。
大学進学に際し、自由に使う事が出来るお金が欲しいと考え、借家の近くにあるバイト募集の張り紙を目にした。
時給やら休日やら勤務時間が彼女には都合がよく、応募に至ったのだ。
そこからはトントン拍子。
他に応募者がいなかったらしく、面接もせずに二つ返事で店主の女性は彼女を雇った。
折角作った履歴書が無駄になったのは地味に傷ついたが、バイトが出来るのならば問題ないだろう。
万屋とは、一言で言えば『何でも屋』だ。
依頼があればそこへ趣き、作業を行う。雀蜂の巣の駆除やら庭の草むしりやら犬の散歩。
彼女もこの店のバイトとして、いくつかの作業をしたことがある。
特に大変だったのは、犬の散歩だ。
大きなゴールデンレトリーバーに牽かれ、街中を何時間にも渡って連れまわされたのは記憶に新しい。
そして尚も考えを巡らせようとすると、声を掛けられた。
「なーなー聞いてんのー?」
「はいはい聞いていますよ。あ、お茶淹れますね」
「おーありがとー」
空になっていた男性の湯飲みへ、急須からコポコポとお茶を注ぐ。
お茶請けは、近くにある老舗のお団子屋から買ってきた、御手洗団子だ。
今時珍しい紺色の甚平を着た男性。間延びしたような喋り方をしているのは癖なのだろうか。
ボサボサとした白髪混じりの髪の毛は、男性を冴えない初老だと印象付ける。
彼はお客様だ。店番をしているこの『万屋 矢尾』の。
『万屋 矢尾』では古物買取も行っている。だが、彼女に物の価値は分からない。
鑑定などは店主が行っているのだが現在、店主は不在だ。
『ちょっとコンビニ言ってくるから、店番よろしく』と言って店を出て、二時間が経つだろうか。
店主が店を出た直後に、この男性が引き戸を開けて店へとやって来た。
この男性は古物の買い取りを依頼に来たらしい。
だが、肝心の店主が不在なのだ。しかし男性は、店主が戻ってくるまで待っているらしい。
話を聞くとこの店の店主と顔なじみで、月に一度はこの店に出向くとか。
彼女は、二週間ほど前に採用されたので男性の顔に覚えがなかった。
しかし、どこか見覚えがある。それとも、誰かの顔と見間違えているだけなのか。
「なーなー嬢ちゃんはどうして、あのババアのこんな店で丁稚なんかしてんのさー?」
「丁稚じゃないですよ、バイトです。ちゃんと休みもお給料も貰っていますから」
どうやら、店主と受付の前で座っている男性は、店主とは軽口を叩ける仲のようだ。
喧嘩するほど仲が良い、とはよく言ったものだ。
「ところで、何をお持ちになったんですか? 宜しければ、お見せいただいても」
「んー? 別にいいよー減るもんじゃなし」
初老の男性はそう言うと足元から長細い包みを持ち上げた。
受付の机に、風呂敷で包まれたそれを置くと、結び目を解く。
現れたのは、木で組まれた100cmほどの長細い箱。
初老の男性は、カタリと蓋を開けた。
すると漂ってくる、僅かに湿ったような、カビたような古臭い匂い。
幼い頃、親に連れて行ってもらった博物館の匂い。亡くなった祖母の家に似た匂い。
古いもの特有のこの匂い。彼女はこの匂いが堪らなく好きだった。
箱を覗き込むと、漆で塗られたような艶のある黒の鞘。白い紐で編まれた柄。
人に魅入られる様な美しさを持った一品。
「太刀、ですか? 随分と古い品ですね」
「嬢ちゃん詳しいねー 若い奴は刀って言うだけなのになー」
「打刀にしては全長が長いですし、鞘に足金物も付属しています。すぐ分かりました。鞘は後の時代に造られた物でしょうけど」
「そこまで分かんのかー 流石あのババアの丁稚なだけはあんなー」
「だから、バイトですって。刀身を見ても?」
初老の男性は頷く。良い、と言う事だろう。
念のため白手袋をはめ、慎重に箱から取り出す。蔵の整理をするからと言って、店主に買わされた物だ。
お値段なんと1980円。給料も入っていない身としては、手痛い出費だ。
スラリと鯉口を切る。そのまま流れに乗って、刀身を引き出した。
美しい、神秘的、素晴らしい、蠱惑的、心奪われる、魅了、誘惑。
まるで人の心を掴んで離さないような、魅惑の刀身。
美術品として、武器として、完成した造形。
これを使えば、さぞ良い斬り口が出来上がるのだろう。
斬りたい、斬り付けたい。
―――まあ、それはそれとして。
カチリと刀身を鞘へと納めた。
中々の逸品を見た。実家の蔵でもここまでの物はなかった。
ふと、視線を感じた。
初老の男性が目を丸くして、ジッと見つめていたのだ。
「…嬢ちゃんさーなんともないのかー?」
「なんとも? いえ、特に何も」
下手な事でもしてしまったのだろうか、と内心汗をかく。
こんな素晴らしい逸品を傷付けてしまっていても、弁償などできるはずもない。
「それさー 実は曰く付の代物しろもんでさー」
「曰く、ですか?」
「あー…まあ、長くなるんだけどさー」
そして初老の男性は語りだした。
この太刀は、かつて百人斬りを成し遂げた人斬りが使っていた逸品だと言う。
人斬りが拘束され、処刑される際にもこの太刀が使われた。
それ以来、この太刀の持ち主は人を斬りたくなる衝動に飲み込まれ、人を斬り殺す。
そして自分自身の首も刎ね、死ぬ。
そんな呪われた太刀だと。
だが話を聞かされても、彼女は顔色一つ変えない
「嫌ですね、そんな事ありえませんよ。今の時代に呪いとか、怨念なんて」
「へー ホントに信じてないなんて今時珍しいなー」
傷を付けないように慎重に箱へしまう。
ふうと一息吐き、白手袋を外した頃だろうか。
「待たせたわね、榮。昔からの知り合いにあって、つい話し込んでしまったわ」
入り口とは逆の、榮と呼ばれた彼女の後ろの戸が、ガラガラと音を立てて開かれた。
「あ、矢尾さん。お客様が来ていますよ。えっと…」
「天之」
「天之さんです。ご予約は入っていませんか?」
矢尾と呼ばれた女性。
まるで喪服のように真っ黒なドレスに身を包んでいる、妙齢の女性だ。
化粧の跡は見受けられない。飾らない美、とは彼女の為にある言葉であろう。
きっと二十代の後半だと、榮は勝手に考えている。
「天之? 予約なんて聞いてないけれど」
片手にはコンビニのロゴが入ったビニール袋を提げていた。
中身はきっとカップラーメンだろう。店主である矢尾は、三食カップラーメンを食べている。
添加物とか塩分とかで、体を壊すんじゃないかと言うと『手軽で手早くてそれなりの味だし。それに、安いじゃない?』と言われた。確かに、全面的に同意である。
それ以来、言及するのは止めている。しかし、三食カップラーメンの割には見事なプロポーションだ。
今度、その秘訣を聞いてみようと決心した榮だった。
そして矢尾が言う予約とは、古物買取についてだ。
基本的に、古物買取については予約制だと聞いた。
飛び込みで古物買取を依頼するお客様もいるみたいだが、店主が他の依頼で外に出ている事も多く、確実ではない。
なので、常連のお客様は古物買取の際、必ず電話で連絡を入れ、予約を入れる。
電話番と店主不在時の店番は、榮の業務の一環となっている。
「あら、まだ消え失せてなかったの?」
「お前も意地汚く生きてんなー そろそろ死ねばー?」
バチバチと二人の間に火花が散るような錯覚に陥る榮。
「矢尾さん。お話が終わるまで奥にいますので。電話はこちらで受けますから」
「ええ、お願いね。それじゃあ商談と行きましょうか。安心なさい、商売に私情は持ち込まないから」
「当然だろー くそババア」
どうやら二人は犬猿の仲の様だ。
―――
榮が奥に引っ込んで、数十分ほどが経っただろうか。
気になっていた漫画を読んでいると、ガラリと引き戸が開けられた。
ちなみに、電話はかかってこなかった。
パタリと漫画を閉じ、矢尾の顔を見上げる榮。
不機嫌そうな顔で、先ほど榮が開けた木箱を肩に担いでいた。
中身は骨董品で貴重品なのだが、あんな持ち方で良いのだろうか?
「矢尾さん、商談は済んだんですか?」
「ええ、恙なく。榮、この木箱、蔵に置いてきてくれない?」
「分かりました。場所はどこです?」
矢尾はカラリと棚を開けて紙札を取り出した。
そして筆でサラサラと何かを書き込み、二枚にちぎる。
片割れをペタリと木箱に貼り、もう片方には更に何かを書き込み、別の棚にしまう。
「江の二でお願い。似たような箱があるけど、重ねないようにね」
「はい」
投げつけられた鍵を受け取り、受付へ繋がる戸とは別の戸を開け、薄暗い廊下を進む。
蔵へと続く分厚く重い扉に掛けられた錠前を外し、中へと入る。
ヒヤリとした空気が肌を撫でる。
天井近くにある窓から僅かな光が差し込んでいるが、慣れていない目にはあまりにも暗い。
入り口の辺りを手で探り、電灯のスイッチを入れた。
薄暗い灯りに照らされ、いくつもの棚が並んでいる。今までにも何度かこの蔵に入ったことがあった。
年季の入った紅い番傘だったり、古ぼけた黒い三角帽子だったり、一抱えもあるまん丸な水晶玉だったり。
それを取ってきてと言われたり、これを置いてきてと言われたり。
この店の物、全てが『伊の七』だったり『千の一』だったりと、片仮名と数字で管理されている。
先ほどは『江の二』と言われた。なので『江』の棚の二段目にしまえ、ということだ。
「阿伊宇…『江』と」
入り口のすぐそば。
数メートルも離れていない位置に、その棚はあった。
似たような木箱が並べられている。榮がバイトを始める前から置かれていた物が大多数だ。
「よし…と」
恐る恐るといった風に、太刀の入った木箱を鎮座させた。
これで言いつけられた用事は済んだ。
しかし、この蔵は何か居心地が良い。
静かだ。とても静かだ。
閑静な住宅街から路地をいくつも彷徨った末に見つけたこの店。
結果的に借家の傍にあったわけだがあの時、路地を迷わなければ今でも存在自体に気が付かなかっただろう。
まるで音の無い異界にでも迷い込んだと錯覚してしまいそうだ。
『――――――――――――』
「―――今、何か…」
声が聞こえた。
静まり返った蔵の中だというのに。
泥棒か、とも思うが、錠前は確かにかかっていた。
窓は天井近くにある、二十センチ四方の小さな物だけだ。少なくとも、人がよじ登って入ってこられる大きさではない。
『―――け―――斬―――を―――』
再び、声が聞こえた
かなり近い。だが、辺りを見渡しても人影はなく、動物の気配もない。
なら、なんだ。
『―――抜け―――斬れ―――血を―――』
三度、声が聞こえた。
そして、静寂を破る乾いた音。
木箱が落ちた。振動は無かった。地震は起きていない。
なら、どうして―――
落ちた木箱は、榮が先ほど持ってきた物だった。
中からは太刀が覗く。
黒い鞘に榮の顔が映る。薄暗い蔵だというのに、不思議とそれは分かった。
『抜け、そして斬れ!』
頭に直接響く声。男とも女とも判別できない声だ。
ふらりと、榮の腕が太刀に伸びる。
柄を握った。
『血を浴びせろ、肉を断たせろ、骨を折らせろ、腱を斬らせろ!』
その声は狂気に満ちていた。
邪悪。凶悪。悪辣。猛悪。酷悪。悪徳。
そしてありとあらゆる悪を網羅している。そんな印象を抱かせた。
持ち上げる。重力に従い鞘が落ちた。電灯の光を反射し、ギラリと光る刃。
『斬れ! 斬れ! 斬れ!』
鞘を拾い上げ、刀身を納める。
味噌汁を淹れたお椀が食卓を滑る現象と同じだと納得し、木箱に納めた。
まったく、傷が付いたらどうするのだ。
『え、ちょっとなんで操られないの?』
「操られないも何も、なんで操られるんですか」
蓋を閉めようとする榮。
だが、そうしようとすると、頭に響く声が一際大きくなった。
『あー! ちょっと待って! こんな場所にいたら人が斬れなくなる! 助けて!』
「助けるも何も、人斬りなんて物騒じゃないですか」
頭に響く声を無視し、蓋を閉める。元の棚に戻すと、ガタガタと木箱が音を立てた。
うるさい。また落ちて傷でも付いたら、自分の責任になる。
「まったく、何がしたいんですか。喧しい」
『人! 人斬らせて!』
「それじゃあさようなら」
『待ってー! 死んじゃう! 死んじゃうから!』
無機物のくせをして、果たして何が死ぬのだろうか。
『あんまり長い時間斬らないと消えちゃうんだよ! 人間だって真っ暗闇に独りでいれば発狂するだろ!? それと同じ!』
ふむ、無機物のくせに的を射ている。
というより無機物のくせをして、そんな事をどうして知っているのだろうか。
「私としては、人斬りなんて物騒な事を言う太刀なんて蔵に仕舞っておきたいんですが」
『それじゃあ、嬢ちゃんとは別の人間に手渡すとかさあ』
「却下です。それ、いの一番に私が斬られるよね?」
頭の中にピーピーと笛を吹くような音が響く。口笛だろう。
口なんてない無機物のくせに無駄に器用な事をする。
「やっぱりこの蔵に置いとく方が…」
『そんな事したら呪ってやる! 子々孫々末代まで呪いぬいてやる!』
曰く付の太刀のくせして、言っている事が小学生と変わりがない。
なんだこいつ。うざい。
『そんじゃあこの際、人じゃなくてもいいからさあ、なんか斬らせてよ。あ、けど鶏はダメだぞ。骨がスカスカで斬り応えがないから』
一丁前に注文を付けてきた。
まだ斬るとも言っていないのだが…
「イヤだよ。私、それなりに動物が好きなの」
『えー…我儘な人間だなぁ…』
「さよなら」
『待ってー! 後生だからー!』
なんだか面白くなってきた。いちいち反応を返してくるのが癖になる。
サドでは無いはずだが、笑いを堪えるのに必死になる。
―――あ、そうだ。
「私に良い考えがあります」
『え、ホントに?』
―――
「矢尾さーん。少しいいですか?」
「どうしたの、榮。 何か珍しい物でも見つけたの?」
「いえ、さっきの太刀なんですけど」
「…中、見たの? なんともなかった?」
「先ほどのお客様にも言われましたけど、特に何も」
「ふーん…けど、好奇心は猫をも殺す、と言うわ。この業界じゃ曰く付きの代物を扱う事もあるんだから、不用意に触ると怪我するわよ?」
「呪いなんてありませんよ。こんな科学が発展した時代なんですから」
「ふふふ、それもそうね。それで、あの太刀がどうかしたの?」
「いえ、ちょっと料理を作りたいんですけど。あの太刀、使ってもいいですか? それと、台所もお借りしたいんですけど」
ポカンと、矢尾はそんな表情で榮を見る。
そしてしばしの間、沈黙が流れた。
「ふ、ふふ、ふふふっ、榮、あ、あなた本気なの?」
笑い出した。
目尻から涙を流し、堪えきれないといった風に大声を上げて。
終いには自分の膝をパシパシと叩きながら、転げまわっている。
―――あ、筆落ちた。
「本気も何も、料理を作るだけですよ?」
「い、いいわ。いいわよ。面白いわ。ふふっ、ふ、ふぅー…」
ようやく笑いが収まり、息を落ち着かせている矢尾。
「それで支払いなんですけど、お幾らになります?」
「ふふふ、殊勝な心がけじゃない。けど、あの太刀は安くないわよ。そうね…私の分も作りなさい。久しぶりにカレーが食べたいわ」
「分かりました。それでは、お米を磨いでから買い物に行ってきますので、しばらく店を空けますね」
「肉は鶏肉、それと辛口は嫌よ。辛いのは苦手だから」
案外、注文が多い。
だが榮はカレーが好物だ。
それくらいの注文、気にもならない。
台所に行き、米櫃から三合の米を釜に入れ、水でジャブジャブと洗う。
初春で暖かくなってきたとはいえ、水は冷たい。
そういえば、この店の水道は井戸水を使っていると聞いた。今時珍しいと感心したものだ。
ある程度、磨ぎ汁が濁りがなくなったら磨ぐのを止め、既定の水量よりもやや少なめに合わせる。
これでツマミを下げれば自動で炊けるというのだから、電気釜は便利だと納得した榮。
だがそれは、買い物を済ませてからの方が良いだろう。しばらく浸水させると美味しく炊けると聞いた事もある。
冷蔵庫を覗くが、あるのはバターと脱臭炭だけだ。他は何もない。
買う物は決まった。最寄りのスーパー『SEEYOU』へ出かける。
ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、鶏胸肉を買った。ついでに、榮が好きなグミも。
『万屋 矢尾』へと戻ってきた。
さて、とまな板をささっと洗う。
タマネギの皮を剥き、ジャガイモとニンジンもさっと洗い、恐らく竹製であろう笊にあけておく。
よし、これで準備は整った。
予め置いておいた太刀を持ち、鞘を外した。
『なあなあ、何を斬る気なん?』
「野菜だけど。何か問題が?」
『や、野菜なんて嫌だよ! 血飛沫も悲鳴もないじゃん! 』
「野菜切るのに悲鳴とか上げられたら料理なんてできないよ」
刀身が長くて扱いにくいが、そこは技量でなんとかカバーする。
『ぎゃー! たーすーけーてー!』
無機物がギャーギャーとうるさいが、無視して進めることにした。
峰でニンジンの皮を削る。案外、反っている刀身がニンジンの曲面にフィットし、削りやすい。
これは中々良い事を発見した。
ニンジンをまな板に置き、まずはヘタを切り落とす。
次に縦半分に切り、そして再び縦半分に切る。そして等間隔に切っていく。
いわゆるいちょう切りだ。
切ったものは笊にあけておいた。
最初の内はギャーギャーとうるさかった無機物だが、切っていく内に静かになった。
「やけに静かだけど、どうしたの?」
『…無抵抗な物を斬るって、案外気持ちいいかも』
どうやら新しい感覚に目覚めたようだ。
しかし、榮に無機物の感性など分かるハズもない。
聞き流しておく。
次はジャガイモだ。
最初に芽を処理する。
太刀を使って処理するのは初めてだったが、切っ先でほじくるようにすると綺麗に処理できた。
次に刀身の根本付近をジャガイモにあてがい、クルクルと回すようにして皮を剥く。
厚い刀身に苦戦する。中々大変だったが、滞りなく済んだ。
そして半分に切り、更に半分に。
1/4にしたものを笊にあける。
『ああ…この絡みつく飛沫、たまらねえ…』
なんだか陶酔している。
ただのデンプンなのに、何を言っているのだろうか気持ち悪い。
最後はタマネギだ。
まず半分に切り落とし、あとは等間隔に切っていく。
切ったものを笊にあけ、おいておく。
『沁みるぜ…昔を思い出す…』
ただの硫化アリルだ。
しみるような眼も鼻もないくせに、何を言っているのかこの無機物は。
野菜の下拵えは終わった。
最後に肉を適当な大きさに切る。
『この感覚…! これだよこれ! やっぱり肉に限る!』
何かを言っているが、無視を決め込んだ。
鶏肉なのだが、それはよかったのだろうか。
そうやってなんやかんやあって、カレーを作り終わったのだ。
―――
「矢尾さーん。カレー出来上がりましたよー」
「やっとできた? もう匂いだけで我慢が、ね?」
ぐぅ〜きゅるるぅ〜と、大きな音を立てている矢尾の胃袋。
普段はカップラーメンばかり食べているらしいので、こういった手作りの料理など久しぶりなのだろう。
「持っていきますから、机、拭いておいてください」
絞った台拭きを渡すと、嬉々とした表情で机を片付け、拭いていく。
積んであったカップラーメンの容器を片付け、古びた書籍を棚に仕舞った。
スペースが空くと、そこにカレーライスを盛った皿を置く。
「まともな料理なんて久しぶりね。頂きまーす」
「それでは私も。頂きます」
手を合わせ、そう言う。
鼻腔を擽るツンとした香り。食欲をそそるスパイスの香り。
スプーンで掬い、一口食べる。
美味しい。
口内がピリピリとした感覚に襲われるが、不快ではない。
自然と汗をかいてしまう。水を飲む。
美味しい。
ご飯とカレーを和え、また口に含む。
パン党である榮でも、カレーだけはご飯で食べたいと思う、この味。
美味しい。
ホクホクと炊けたジャガイモも、柔らかく煮えたニンジンも、甘く炒められたタマネギも、ジューシーな鶏肉も。
適度な辛さのカレールーと絶妙に調和し絡み合い。
とても、美味しい。
「うんうんうん! これよこれ! 榮、料理上手ね!」
「市販のカレールーですし、誰でも作れますよ」
「もう、謙遜しちゃって! お代わりお願い!」
「ええ、今くらいでいいですか?」
「もちろんよ!」
結局矢尾はお代わりを含めて二杯を平らげ、カレーを入れた鍋が空になった。
残さず食べてくれる事ほど嬉しい事もない。作った者冥利に尽きる。
床下から取り出したのだろう。矢尾は日本酒を煽り、ケラケラと笑っていた。
久しぶりにまともな料理を食べて機嫌が良いのだろう。
榮は食卓から皿を下げ、台所に持っていく。
遠足は帰るまで、という言葉がある。料理も同じだ。片付けが終わるまでが料理である。
空のカレー鍋は、矢尾が食べ尽くした時に水を入れて洗剤を入れておいた。
皿を水でサッと流し、スポンジに洗剤を付けて洗っていく。
『よし、決めた!』
鍋や皿、スプーンなどを洗っていた所、太刀が何かを決意したかのように言った。
野菜や肉を切った刀身は水で漱いで布で拭いておいたが、錆びないかと今更心配になってきた。
「なにをです?」
『俺! 包丁になる!』
―――
一週間ほどが経っただろうか。チャイムが鳴った。榮の借家へ小包が届いた。
なんだろう、と思いつつも受け取り、差出人を見ると『天之』とあった。
確か、以前『万屋 矢尾』に来店したお客様だったハズだ。
何かの間違いか? と思うが、確かに自分の名前が書いてある。
包装を破り、中を見る。
木箱と、一枚の紙片が入っていた。
紙片には何かが書かれていた。
筆で書かれたような文字だった。
『先日、あのババアの店に持ち込んだ曰く付の太刀ですが、包丁に鍛え直しました』
なるほど、あの曰く付の太刀は包丁になりたがっていたみたいだし、良いのではないか。
『鍛え直したはいいのですが、どうやら嬢ちゃんに懐いているようなので、ババアに借りを作って住所を聞き出しました。包丁を同封しますので、是非使ってください』
住所とは、そう簡単に教えてよい物なのだろうか。
いや、そんなハズはない。
それよりも、同封した包丁だと。
木箱がカタカタと音を立てた。
恐る恐る蓋を開けると、一本の包丁が鎮座していた。
刃渡り16cmほどの出刃包丁だ。
平は黒打ちされている。
黒い柄には白抜きで『極楽丸』と彫られていた。
『よう! また会ったな人間!』
頭の中に声が響いてきた。
男とも女とも判別できない声だ。
榮はこの声を、一週間ほど前にも聞いたことがあった。
「本当に包丁になったんですか…」
『おうよ! 有言実行が信条でな! さあ野菜だ! 野菜を切れ!』
肉食から菜食に転向したようだ。
以前のように、人斬りをしろと言わなくなっただけマシなのだろうが。
「…錆びませんか?」
『おうよ! 錆びもしねえし切れ味も落ちねえ! どんどん切れ! 切って切って切りまくれ!』
ふむ、ならば使うべきだろう。
丁度、包丁を買おうかと思っていた所だ。
錆びもしないし切れ味も落ちないのならば、これほどコスパが良い物もないだろう。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
『任せろ! 俎板ごとぶった切ってやる!』
「切るのは野菜だけにしてくださいね…」
『極楽丸』が榮の下に届けられた、同時期。
『持つと野菜を切りたくなる包丁』という都市伝説が囁かれ始めた。
初めは見向きもされなかったこの噂だが、世界的に名の知れた大富豪が『持つと野菜を切りたくなる包丁』に莫大な懸賞金をかけると、この噂は真実味を帯び始める。
そして、同じ太刀から造られたもう二本の『極楽丸』を巡って、裏では熾烈な戦いが繰り広げられる。
榮がそれを知る事になるのは、ずっと後だ。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:グミ
設定:
至って普通の大学生。
大学進学を期に、自由に使えるお金が欲しいという理由で、バイトを始めた。
バイト先は、近くでバイト募集をしていた『万屋 矢尾』
まだ働き始めのペーペーだが、古物の取り扱いは一通り心得ている。骨董品が好き故か。
太刀が喋っても動じない、鋼の心の持ち主。
・名前:矢尾
性別:女
職業:万屋店主
好物:酒
設定:
路地を何本も進んだ先にある、古びた万屋の店主。
万屋は案外繁盛しているらしく、依頼があっては東へ西へ大忙し。
よくカップ麺を食べているが、それは『手軽だから』という理由。別に好きというわけではない。
鑑定士としては、一切の私情を持ち込まない一流。業界ではかなり名が知られているらしく『万婆』と言えば、彼女の顔を思い浮かべるほど。
蔵には曰く付の代物がたくさん眠っている。
・名前:天之
性別:男
職業:鍛冶師
好物:酒
設定:
業界では名が知られている、高名な鍛冶師。
曰く付の太刀を万屋に持ち込み、一悶着起こした。
彼が打った包丁や刀は同量の金と取引されることもあり、それを専門に扱うコレクターもいるほど。
『神の業を持つ鍛冶師』『人間国宝に最も近い男』『錬金術師』とも呼ばれている。
ぶっちゃけ神様。
・名前:曰く付の太刀
性別:不明
職業:太刀
好物:血肉→菜汁・菜肉
設定:
『万屋 矢尾』に天之が持ち込んだ骨董品の太刀。
かつて、百人斬りを成し遂げた人斬りが使っていた太刀であり、人斬りを処刑した太刀でもある。曰くとは『持ち主と共に居る者を殺す』事。
当初は殺意と悪意に満ちていたが野菜を切っている内に改心し包丁になることを決意。後に、出刃包丁『極楽丸』へと姿を変え『持つと野菜を切りたくなる包丁』として、都市伝説的な扱いになった。
科学的に考察すると、電流により大脳真皮質を刺激、破壊し、人が持つ三大欲求を殺意へと摩り替え、破滅衝動を誘引させるとかなんとか。