母ちゃん
私はいつでも母ちゃんと呼ばれている。
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もはや母ちゃんどころか婆ちゃんと言われてもおかしくない年だが。
子供からも子供を持つ若い親からも、いかつい男たちからも呼ばれている。
一番問題だと主張したいのは私より年上の、孫にも恵まれジジババと自分がよばれている年代のものからも「母ちゃん」と呼ばれている事だ、納得できない。
「いい加減にその呼びかたやめてくれないか」と何度か言った覚えもあるのだが、皆キョトンとして「母ちゃんは母ちゃんだろうが」と相手にされない。
もうそれは今はあきらめてはいるが。
この島は南シナ海にあるいくつもの小さな島の一つだ。
昔から貧しくただひたすら貧しい他の島と変わらない典型的な島だった。
周辺の島の人間と、はるか昔から魚を、わずかな畑からの収穫を命をかけて奪い合い生きてきた。
けれどそれに勝利したからといって腹いっぱい食べられるわけでもなく、ただ命を繋いでいくのが精一杯の暮らしだった。
だけどそうやって生きてきた彼らには何の悲壮感もなく、その日を無事に過ごせたならハッピー、何らかの悲しい出来事がおこったら、ま、しょうがない、明日になったら何とかなるだろ、って明るく陽気に生きてきた。
何かを望むにはすべてにおいて不足しており、そこでは人の命さえ荒れた天候一つでバタバタと簡単に消えていくのだから。
あまりに厳しい中で生きていけば、ただ人はシンプルに生きるしかない。
そういうことだ。
この島で乳離れしたら、自分の足で歩きだしたなら、すぐ覚えなければいけないのはいかに安全に排泄する場所にいけるかと、腐りかけの食べ物にも耐える頑丈な体を作る事だった。
だからこういう生きるに精一杯の場所の人間たちは強力な共同社会を作りあげる。
それが生きるのに必要だと本能的に知っているから。
そんな島に私がやってきたのは本当に流れ流れてだった。
私はごく平凡に生きてきた日本人で、地方に生まれそのまま生まれた町で中学を卒業してから準看護学校に通い準看護学校卒業後そのまま地元の病院で働き出した。
まだまだ資格に対しては寛容な社会体系だった。
私は病院に通ってくる町工場の社長の口ききで二十歳の時に結婚した。
町で弁当屋を営む四つ年上の夫は口数も少なく大人しい男だったが、反対に夫の母親と妹は賑やかだった、私に対してだけは。
朝早く暗い内から私はおきて掃除と洗濯をそっとすませ、そのまま店の仕込み、店の仕事をしたら夜は最後に風呂に入らせてもらい寝るのが唯一の楽しみという暮らしだった。
その風呂も抜かれている事もあり、それが寒い冬の日などは流石に悲しかったりした。
私は何にも知らないただの無知な女だった。
そうやって従っていれば大丈夫なのだと思っていた。
学校はそれなりの成績で出たけれど私は何も知らなかった。
嫁にいけば婚家に従う、そういうのが当たり前な風潮な田舎だった。
そんな私の唯一の生きがいで宝物は授かった二人の子供達だった。
男の子と女の子、私は仕事や家事に追われながらも大事に育てた。
子供が病気になれば自分が代われればいいのにとなげき、子供が笑えばそれだけで幸せだった。
平凡だけどそれなりに生きていた。
娘は私が夫の母やいまだ嫁にいかない夫の妹にいいようにやられていると言って最初は怒り、やがて「馬鹿なの?」そう言ったきり私のそばには寄らなくなった。
早々と私の姉夫婦が住む都会の高校を受験し奨学金を受けながら子供のいない姉夫婦のもとで暮らして、そのまま大学にいっていた。
私の姉は妹の私から見れば驚くような事ばかりしてきた人けれど、眩しいくらい自分を持ってそれを貫いている人だった。
姉は高校の時に自分の担任と出奔し、すぐに連れ戻されて結局その教師とは別れる事になったけど、それ以来私たち家族はいろいろ言われ続け、母には「お前だけはまともに生きてくれ」と言われ育った。
娘が私に冷ややかになるのと反対に息子はより私を気遣うようになり、勉強ができると義母が機嫌がよく「やっぱり繁だって頭が良かったはずなんだよ。それを学校の先生が気がつかなかっただけなんだ。だから孫の誠もこんなにいいんだ」そう言って喜び、そんな時は私への風当たりも穏やかになるものだった。
それでますます誠は勉強を頑張るようになった。
やがて息子の誠は大きくなると、祖母の期待もその身にのせて、そのまま地元の国立大学の医学部に入った。
私は寝る時間さえあまりなくレポートや何やらに追われる息子をただ心配するしかなかったが、優しく「俺がんばるから」そう言って笑う息子に、そっと小さな手助けをする日々を送っていた。
働く病院も家から通える場所にと決めやっとこれからと言う時に息子は病に倒れた。
私は結婚してから一度も休んだ事のない店を休み息子に付き添った。
義母が義妹が何と言おうと夫にさえ、近くの居酒屋の女と浮気しようが何一つ逆らう事も文句一つ言わなかった私が初めて逆らった。
どんどん弱る息子に、まだまだやりたいことだって沢山あっただろうに、それらを我慢して頑張っていた息子に神も仏もないのものかとなげき悲しんだ。
ただ息子の前ではなにごともないように、悲しみを見せる事のないようにと意識して振る舞った。
なまじ医学に知識がある分、いろいろわかっているだろう息子の不安を取り除いてあげたくて、でもできなくて、そんな日々が過ぎていった。
子供達にはいつもどんな時にも悲しい顔を見せないように、苦しい事を見せないように笑ってきた私が最後の最後、息子に対して何にも出来ないはがゆさに噛み締めすぎた奥歯が欠け、歯のカケラがポロっとでたとき、何がおきたかわからなかったそれを口から吐き出した時、グダグダとした思いや悲しみやどこにぶつけていいのかわからなかった怒りの全てがすっとそれを見てなぜか抜けた。
私はそれから息子をただ抱きしめた。
ひたすら抱きしめ頭を撫でて大好きだよと愛しているよとそばにいた。
言葉もかわせなくなった息子の最期の時、私は息子の耳元に「生まれ変わってまたあんたを産んであげるから大丈夫。怖くないから大丈夫。母ちゃんがいつでも守ってやるから大丈夫だよ。安心していいんだよ」と言い続けた。
私がギュッと握り締めていた手にほんのかすかな答えの気配を残して息子の誠はその命を終えた。
義母に私がちゃんと見ていないから誠が死んだと言われたが最もだと私もそう思った。
誠の一周忌がすぎた時、私は準備を本格的にはじめた。
家を出る準備だった。
何を言われても開き直り助産師の資格を取った。
その後離婚しあの家を出て産院で働き出し、やがて海外協力隊の一員として働き、じきに世界でも有名な海外援助団体に所属して一度帰国し、準備を整え再び日本から出る時に久しぶりに娘と会った。
娘の道子は私と似ないでしっかりしていて離婚の連絡をした時、やっとかと笑って今日もまたこうして笑って見送ってくれる。
誠の墓参りも任せとけと豪快に笑う娘に私はその強さと、同じように存在する優しさに目を細めた。
慣れない最初は比較的整った国で活動していたが、慣れるに従ってドンドンと生きるに苛酷な土地へと流されていく。
同じように転げおちるようにそういう土地で活動する医師が言った言葉を思い出す。
「どっちかなんだよねぇ〜。その場所に踏み留まって出来るだけの事をしようとその期間勤めあげる人間と、俺達みたいに更に更に何とか何とかって欲張って深みにおちていく人間」
「俺らはど〜しようもない馬鹿かもなあ。この手で出来る事なんてたかが知れてるのに、もしかしたら、もしかしたらってこうして生きていく」
「助けられる命以上にこぼれ落ちていく命の方が多いのにねぇ。この間、電話で親に泣かれたよ。兄貴にもいい加減そんな馬鹿な偽善はやめろってさ。親の金で大学に行き何遊んでるんだって」
その会話をしてた時は私が助手を努め、畑に埋まってた地雷にやられた家族を黙々と不足ばかりな医療簡易テントで外科処置をしていた時にしていた会話だった。
運ばれただけマシな状態な子供の足を切断しながらだった。
私がこの島にきた時はもうじき五十になろうという年で、やっと十年の月日が流れたくらいだというのに、スイもアマいもわきまえた、きちっとした擦れっからしな図太い人間が出来上がっていた。
私がこの島にきた時は既に海賊行為で隠れて食っていた島民達にとって、ひどく警戒するよそ者で厄介なやつが勝手にやってきたって認識だった。
私が島に派遣されても誰一人こないまま二ヶ月がすぎた。
ノンビリこれ幸いと釣りにあけくれていた時だった。
たまたま浜に海から運ばれてきた怪我人を見つけ、近づく私を威嚇する彼ら以上に周りの人間を威嚇して、その怪我人を無理矢理治療した。
私の目の前にそういう人間がいては仕方がないと彼らにはあきらめてもらうしかない。
本人に嫌だといわれても何もかもがない場所では、私は鬼にもなって出来る事をする。
これができない、あれができない、医師ではないなど正当な理屈はそこでは意味がない事を知ったから。
内戦でひどい事になってる地域では全てが意味がなく消えていく、その命でさえも。
その内戦地域にいた医師たちに器用さを買われ、使えるやつだとこき使われてきた。
そこで私はその場で出来る処置をしない事の重みをいやというほど消える命で無言で教わった。
できる範囲の最善で行う処置、それを誰であれそこにいる者がきちっとする事と、そこで私は泣いて吐いて恨まれてしつけられた。
やがてポツポツ妊婦がやってくるようになり自然と私は島に受け入れてもらった。
「あのさ、私は助産師なの、病人や怪我人は管轄外」
そう言いながらも、しっかりした病院は、はるか遠くにあり金もかかり、また金があってもなかなか診てもらえない彼らは私のところにやってきた。
お産、怪我、病気、果てはお見合いのしきり、私はなんでもやった。
消えていく命を見送り、消えそうな命を助け、夫婦喧嘩も島どうしの利権の話し合いにも手を出した。
数年たち他の苛酷な土地へ再び異動となった時に、島民と仲が良かったと自負する私はあっさりと別れる島民たちにちょっと寂しくなった。
別れにつきもののどうしようもない感情を持つ私が少し、いや、本当に少しだけだ、本当だ!ちょっとだけだけど寂しく感じた。
その私が感傷に浸りながらやけ酒を少し煽り、その異動するために乗った船でやっと眠りについたという時に、私の安眠はすぐに妨げられた。
帰還の船がこの当たりを荒らす海賊に襲われたのだ。
右往左往しパニックに陥る船員の皆さんが気の毒なくらい私は落ち着いていた。
全員甲板に出され並べさせられたが、乗り込んできたガタイのいいライフルを担いだ海賊の面々は私を見てニカッと笑い「迎えにきた、母ちゃん」と言った。
船が襲われた時に私の耳は日本語の「母ちゃん」という声を聞いた。
私は毎年誠の死んだ命日には海に向かって大声をあげる。
「母ちゃんはちゃんときちんと生きてるよ〜!もう少し待ってんだよ〜!」と。
三年目に私の取り上げた最初の子供達が私の裾を、もはや白衣とは呼べぬその裾を持って聞いてきた、どんな意味だと。
私はそれを丁寧に教えてやった。
それが「母ちゃん」のはじまりだった。
私の所に忙しい母親や父親がなぜか私の取り上げた赤ん坊を預けていくようになり、いつしか他の子供達も託児所がわりに預けていかれるようになった。
私の所なら何があっても安全だろうと。
男が猟や海賊行為にいくように、彼女らも細々とした畑の世話やちょっとした狩りにいく。
鬱蒼と繁る小さなジャングルのそこもまた安全とはほど遠く毒を持つ生きものなどがいる。
そこに、子供らをおいていく心配がなくなるのを彼らは本当に喜んだ。
私はそうして島の何でも屋になり、着るものの補修から、昔とった杵づかの腹をすかせた子供達のための料理人にもなった。
料理にはやはり私は自信があり弁当屋を切り盛りしていたおかげで大量調理も得意で、小さなジャングルでとれる何か考えちゃいけない大蛙が大量発生した時には、釣りのえさにもならないとなげくそれを、私によこしなと言い、それをから揚げにして皆に振る舞った。
それからなぜか大勢で食べるそれに皆はまり、いそいそと月に一度は皆で食べ物を持ち集まり、そこらで座りながらの大宴会が恒例になり、他の島の連中もいつしか酒や獲物を持って集まるようになった。
そんな宴会の最中、子供達が私を日本語で「母ちゃん」と呼ぶものだから大人たちも私を「母ちゃん」と当たり前のように呼ぶようになった。
私はそんなデカイ捻くれた子供など認めはしないが、もはや定着してしまい、私はただ「母ちゃん」と日本語で呼ばれ、その意味する所のように島民にとっての「母ちゃん」になっていった。
だから私は帰還のために乗る船に私を取り戻しにきた彼らを見てただただ笑ってしまった。
島民たちは面白い事が好きだから、今回の事もイベントの一環として私に黙ってしたんだろう。
すねて寂しく感じたさっきまでの私を返せ!
そのまま本部も私の異動をあきらめて、私の希望もありこの島にきてもうじき三十年になる。
島は他の島じまと協力して海賊行為を行うようになり、よりスマートに身代金や物品を頂戴しそれなりに少しだけ豊かになった。
そしてそのお金は私が預り、この島じまに生まれた子供らの教育資金に回した。
大人は生き方は変えられないし、贅沢も知らない、贅沢などいらないから。
援助隊のコネでアメリカの西海岸のクィーンズイングリッシュを話す男を島に呼び、子供らにはその英語を覚えさせた。
私が世界に出て驚いたのは同じ英語を話す人間でも、クィーンズイングリッシュを話す人間は最初から勝ち組に組み込まれ派遣先も違うという事だった。
私はちょっとジャンキーなその医師に私と共に子供達の教育を頼んだ。
教育をして何になると馬鹿にして笑っていたその医師も、その金が自分達を生かす為の他人から見れば汚い金だと知っている子供達と過ごす内少しずつ変わっていった。
彼は希望に溢れ救助組織に入団し、やがて現実とのギャップに泣いて苦しんで、それでも現地で医師として働いて、やがて全てに絶望して死んだように祖国に戻った男だった。
その男のまなざしに少しずつ何かが生まれた。
基礎を学び大丈夫だと判断された子供たちは皆この島をあとにした。
そのままきちんと首都の学校の寮に住みながら生きるすべをさがす子供達は、きっとまともな仕事のない島には帰ってこないだろうし帰ることは許さない。
彼らはきちんとした街の子になるのだ。
地元の首長とは持ちつ持たれつやっているが、私が言わずとも島民は皆わかっていた。
海賊行為など長く続けていけない事も、既に締め付けが目立ってきた事も。
けれど何もかもがない島の人間にそれを止めろと言う事ができるだろうか?
彼らは生きたい、子供達を生かしたい、ただそれだけ、それも至ってシンプルだ。
そのシンプルさに理屈は意味をなさない。
教育資金は基金として英語教師が作った新たな団体に委託している。
彼らもやがて親となり島の子供達の子孫の為のそれに関わってくれるだろうと思っている。
もちろん勉強が嫌だったり、街のリズムについていけない子供もいる。
この島にいつのまにか戻ってくるそんな子供達に私たちは何にも言わない。
男の子は海賊の見習いになり、女の子は島の女たちから島での生き方を教わっていく。
その島に戻ってきた子供らが男女の区別なく今、細い棒のような私にしがみついている。
私は日本語と現地の言葉で「大丈夫、大丈夫だよ」と私がこの手で母親のお腹から取り上げた子供達に繰り返し言う。
大宴会を毎月開くこの場所で。
島の大人達も全員ここに集まった。
私が集まろうと言ったから。
皆で私の手作りのから揚げおにぎりを先ほど食べた。
私にしがみつく子供らを撫でながら、同じように私を見る大人達を笑って見る。
ホッとしたようなどこか諦めたような彼らは無粋な空を飛び回る軍事用ヘリコプターを酒を飲みながら、ちょっと睨みつける。
現地のゲリラらしい私達に投降を呼びかける拡声された声が聞こえる。
新しい政府に投降してもインチキ軍事裁判ですぐ死刑だ。
この新しい政府とやらはクーデターで出来上がったばかりだが、すぐに敵対しうる勢力はないかと怯えるばかりで、できてからすぐ反体制ゲリラとして粛正ばかりしている。
まさかこんなちっぽけな海賊組織にまでくるとは思わなかった。
彼ら新政府は統治に失敗しつつある首都から撤退し、別の大きな街にいると聞いていた。
どうやら統制の混乱から独自に派閥争いがおきこうなったみたいだ。
私の国際団体の肩書きも理解できない。
私自身はちんけな人間だが、私の所属する団体は世界でトップをはる救援団体だ。
先進各国はこの後、私達の破滅の後、理由をつけてこの国に乗り込んでくるだろう。
何たって海底に資源がある国の一つだから旨みがある。
案外そういう国の一つが裏にいるのか?
まあいい。
昨日の来襲からあたふたする皆に説明をした。
この政府に投降してもただ死刑になって殺されるのは皆知ってる通りだし、船で戦うには装備が悪すぎる。
昔、槍で爆撃機と戦おうとした日本は今や先進国としてあるじゃないか、この国で生きねばならぬ子供達のために出来る事をしようと。
詭弁かもしれないけど、苦労を苦労としない明るさを持つ島民には、やはり最期も明るく前をみて欲しかった。
すでにわけがわからなくなってるこの政府へは少しでも早く引導を渡したい。
私達は首都にいる子供達を思い、宴会を開いた。
ネットに配信している画像には声は入らない。
頭上には軍事ヘリコプター、その下には別れの宴会をし続ける島民と、いっちょらの白衣をきて十代の若者達を抱きしめる袖に大きく国際援助団体のマークをつけている年寄りの私。
逆らわずにいる私達は本当はぶっちゃけヤバい事を話していたが、それが流れる事もなく、素朴そうな島民とまだ若い十代の子らと年寄りたちのただ宴を楽しむ映像が流れるだけだ。
もしかしたらこの映像がきっかけで、はた目にはただの島民でしかない私達の何一つ暴力で返そうとしないその姿が、映像を通して世界に発信される事で事態が動くかもとわずかに思ったのだが、今、最終通告がきた。
私を見るみんなに、百近い人間達に、しがみつく私が母の腹から取り上げた町に出られなかった不器用な子供達に私は微笑んだ。
「母ちゃんにまかせな。大丈夫だ。大丈夫だから」と。
「うちの誠を来世で産んだなら、しょうがないからあんた達も次の世では産み直してやろう」
その言葉にしがみつく子らは嬉しそうに笑い、どうしようもない男の一人がどんだけ産む気だとどっとはやし立て、それが皆にも伝染してバカ笑いになった。
みんなが口々に何やら「母ちゃん」と私に話しかけ、私が「なんだい?」と聞き返した時、空から落ちてきた幾つかの爆弾で全ては終わった。
その爆弾が落ちてくる刹那の瞬間、それを見ながら、世界には何一つ無駄なものなどなく例え中途で投げだす私達の命でさえ、その各自の生きてきた思いの一つ一つでさえが、ただ消えゆくだけでなく、いつか何かの形になるのだとふと理解した。
たとえどのような年つきの果てでも。
誰も知ることのないことだとしても。