勇者と一緒で何が悪い!
窓から射し込む淡い光に当てられ目を覚ましたエイネルはベッドの上でゆっくりと目を覚まし、緩慢な動きで上半身を起こしてから両目を擦る。
人工的な明るさとは違う大自然の輝きを前に、飛び上がったエイネルはベッドを下りると窓を開けて昨日太陽が沈んだのとは反対の方向を一直線に見据えた。
地平線から昇って来た太陽が昨日の茜色とは打って変わった明るい光を放ち、エイネルは思わず素足のまま窓の外へとジャンプ。
冷たい石畳の地面の感触を確かめながら太陽に向かって両手を広げることで一身にその恵みを享受し、上空に広がる青々と澄み渡った空を見上げながら、エイネルは何度も深呼吸を繰り返す。
魔界では見ることが出来ない美しい風景の数々、澄み渡り遠くまで鮮明に見渡せる清々しい空気、何もかもがエイネルにとっては新鮮そのもの。
人は何と美しい景色を日々見ているのか、この魔界には探しても見つけることが出来ない美しき光景こそが人間の営みを育み、その心を高潔かつ優雅に保つものなのかもしれない。
「パパ、とうとう私もこの景色を脳裏に焼き付けることが出来ました。あぁ神よ、この美しき景色をありがとう。キラキラキラー」
「昨日不貞寝した奴が今日はやたら元気だな。おはよう」
「あっ、起こしてしまったか。ごめん」
「挨拶」
「え?」
「『ごめん』じゃなくて『おはよう』だろう。それともお前の住んでた村かなんかじゃ、そっちが主流なのか?」
「いや、違うけど、そうだな。うん、おはよう」
「よろしい」
窓枠に肘掛けながら顔を出していた男は荒れている髪の毛を掻きながら大きな欠伸と共に部屋の中へと戻り、樽の中から水を掬って洗面器前に立って顔を洗う。
ちなみにこの男の言う通り昨日エイネルは良い歳のくせして迷子になったと言う事実にちょっとショックを受け、不貞腐れて起きたばかりなのにまたベッドイン。
男が色々と気にしていたことを質問する前に驚異の早さで熟睡し、酒屋辺りで安く一日を過ごそうとしていた男も仕方なくもう一泊分料金を払い、こうして二人は今日を迎えているのだ。
十分に朝日を堪能したエイネルは窓から再び部屋の中へと入ると男は椅子に座り、布袋からパンと渇いた肉を一枚取り出して重ねてからそれをちびちびと頬張る。
食事を見た瞬間に先ほどの感動を押し流すかのように腹の虫による空腹の波が襲い掛かり、男は粘着質な視線に気づくと気まずそうに食事の手を止めた。
「食べたいのか?」
「うん!」
「そう言えばお前、旅人や商人にしては余りにも身軽過ぎたな。遭難同然にここにいたり、何者なんだお前は」
「私か。私は魔……え、えっと、世界に憧れた夢見る乙女だ」
「虫でも食ってろ」
「すみません本当は魔王です! パン下さい!」
人間界においては一応隠しておこうと思った素性をあっさりと暴露したエイネルに男はパンを一切れ放り投げ、器用に口でキャッチしたエイネルは一瞬で食べると再び視線を男ね向ける。
「まだ何か用か?」
「おかわり!」
「無い、我慢しろ。適当な素性でっち上げたのに一枚食わせてやったことに感謝するのが筋だろう」
「で、でっち上げなどではない! 私は本当に魔ごもがご!?」
胸を逸らしながら立ち上がったエイネルの誇り高き自己紹介の途中、男は傍らに置いてあった懐中時計の時刻を確認した瞬間にパンをもう一切れ掴み、それをエイネルの口を塞ぐかの様に押しつける。
もぐもぐとパンを食べながらも苦しそうに男の手を振り払おうとするエイネルに男は向き直り、右手の人差し指を口の前に立てると、エイネルがその意図を理解するより前に『それ』は来た。
「おはようございます。シーツの回収に来ました、それと昨夜御伺いしたモーニングコールの時間です」
「あぁ、ありがとうございます」
扉を数回ノックした後、丁寧な所作で入って来たメイド服の女性はきびきびとした動きで部屋にある二つのベッドのシーツを回収し、御辞儀をしてから部屋の外へと出て行く。
男は柔和な笑顔でメイドを見送ってから一気に気疲れした表情に変わり溜息をつき、エイネルの方を見ると既に彼女の口の中にパンはない。
考えてみれば少女の口にパンを押し込んで黙らせている現場を目撃したら多少なりとも好奇の眼差しや不審な目を向けるだろうが、先ほどのメイドはそのような物がまるで感じられなかったあたり、相当図太い神経をしているのだろうか。
何にせよ面倒が避けられたことに男は安堵し、再び口を開けて来たエイネルの頭と顎を両手で掴んで閉じる。
「何故パンを押し込んで来たのか聞きたい。美味しかったけど」
「嘘だろうと何だろうと、魔王なんて言葉を聞かれるわけにはいくまい」
「嘘ではない! 私は、本当に魔王なのだ!」
容姿的に子どもが嘘をついているようにしか見えないので男も殆ど信じてない視線を送り、エイネルの瞳の視線がぶれないので口を開く。
「名前は?」
「エイネル・レヴィ・デスゲート、第7代魔王。父の名はデストラ・ヴァイ・デスゲート、祖父の名はブラッド・ファン・デスゲート」
先ほどまで酔っ払いのように淀んでいた男の視線が一気に鋭さを増し、それを見たエイネルはどうだと言わんばかりに胸を張る。
世間一般に魔王と言えば100年前に伝説の勇者であるアライトに倒されたデストラ・ヴァイ・デスゲートを指すことが多いが、その父親と娘の名前を正確に知っている者は非常に少ない。
勿論知らない者がいないわけではないのでこれだけでエイネルが魔王と認めるわけではないのだが、男は彼女が腰に差していた黒刀のことを思い出した。
「お前が持っていたあの剣、アレは何だ?」
「よくぞ聞いてくれた! あれこそ我がデスゲート家に伝わる家宝、ダークマターを惜し気もなく使った魔剣『覇国』! 綺麗だろう、あの鮮やかで妖艶に光る刀身を見ているだけで心が研ぎ澄まされるかのよ――」
「いやそこまでは聞いて無い」
「あ、そう」
「覇国は勇者界では魔王の武器として有名だし、魔王ってのは満更嘘ではないようだな。しかし、何で魔王がこんなところにいる。しかも部下も連れず、何が目的だ」
さり気なくテーブルに置いてある大剣に手を伸ばしていた男の前で、魔王は両腕を広げて嬉しそうな表情を浮かべながら答える。
「世界見学! 及び家出!」
「……はぁ?」
両腕を広げた段階で柄に手を伸ばしていた男はエイネルの答えに数秒間をあけてから言葉を漏らし、余りにもアレ過ぎる答えに何と答えていいか言葉に詰まった。
まずどの部分から突っ込めば良いのだろう。そもそも人間的に10代半ばの容姿である少女が舞おうと言うことが可笑しい辺りか、それとも魔王が家出などと言う気違い極まる言動をしたことだろうか。
「私は一度も、人間と言う生き物を見たことがなかった。太陽も、こんなに綺麗な空も、見たことなかった。人間界に来てまだ一日目だけど、迷子になっちゃってるけど、私……凄く嬉しい」
「まさか、本当にただの家出なのか。ボディーガードの部下は? 人間界を侵略する計画とかは?」
「何で魔王がボディーガードなんてつけないといけないのよ、私はこう見えも強いのよ。それに人間界を侵略って、そんなこと今さらする意味無いじゃない。今のデスゲート家ではね、人間界侵略なんてナンセンス、流行ってないのよ」
「人間界侵略って流行レベルなのかよ。呆れたもんだ、確かに魔王族デスゲートは100年前に魔王が殺されてからかなりのんびりした魔族集団になったが、ここまでとは」
「それで、お主の名前は?」
「ん? あぁ、お前が名乗ったなら俺も応じるべきか。リンカード、リンカード・ブライアンだ。自称勇者」
人間界で最も警戒していた勇者が突然目の前に現れたことにエイネルは一瞬表情を強張らせて身を引くが、すぐに目の前の男から敵意のようなものがないことに気付いた。
リンカードがデスゲート家のことを『のんびりした魔族集団』と言ったが、もしかしたら人間界において自分達は脅威にすらならない、どうでも良いレベルとして扱われているのかエイネルは少し不安になる。
互いに宿敵とも言えるべき相手が目の前にいると言うのに突然過ぎる状況に頭が追いつかず次の動作を急いで思慮し、静寂を先に打ち砕いたのは魔王であるエイネル。
「えっとその、人間界では私達デスゲートの魔物ってどうでも良く思われてるの?」
「少なくとも勇者たちの間ではデスゲートは割と温和、ヘルエデンとノーライト配下の魔物は凶悪って識別になっている。尤も一般人からすれば全部同じだ、でなきゃ態々パンを一枚無駄にはしない」
「なるほど。それとお主は自称勇者と言ったが、何故『自称』なのだ? 別に勇者は職業とかじゃないだろうに」
「今の時代、勇者は職業だ。魔王なのに人間界の事情も知らんのかよ。しかしプータローや暴れたいだけの奴も多いがな、そう言うのは大抵『自称だ』。公式の勇者には程遠い」
「つまりお主もプータ」
「俺は自分の意思で『自称勇者』をやっているんだ、プータロー何かじゃねーよ。今度はこっちの番だ、何で家出なんてしたんだ?」
「さっきも言ったけど、広い世界を見たかった。パパは若い頃、今の私みたいに家出同然で旅をしてたらしいの。その話が面白くて、話している時のパパの顔は凄い嬉しそうで……今でも覚えてる」
両手を体の後ろで組みながら踵を返したエイネルは窓際に近づくと腰掛け、逆光でリンカードからは見え辛いが、その表情と声は喜びに満ち溢れていた。
「そんな世界を私も見たかった。55歳の時に魔王になって、100年間ずっと夢見てた。でも皆が駄目って言うの、人間界は危険だからって。でも、信じられなかった」
「親父さんの話が? それとも、その皆ってのが?」
「勿論部下の話。気遣ってくれてるのは分かってたよ、だから強く押し切ることはできなかった。でも昨日、一人の部下が背中を押してくれたの。嬉しかった。誰も私の気持ちなんて分かってない、どうでも良いと思っている……そう思ってたから」
「なるほどな。重ねて問うぞ、お前は人間界に攻撃的意思を持って来たわけでないんだな」
「うん。さっきも言ったけど、ナンセンスだからね」
「世界を見て回りたい。人間を知りたい。その気持ちがお前の原動力」
「きっと、絶対そう」
喜びの中に凛然とした態度を含ませる表情はリンカードの一切の疑問を払拭するのには十分な何かがあり、魔王が家出などと言うのを本気で考えた瞬間、彼の口元が緩んだ。
次いで部屋に響き渡るリンカードの笑い声に馬鹿にされたと思ったエイネルは「何が可笑しい!?」っと抗議するが、腹を抑えながら笑う彼としてはそれどころではない。
「ははは、すまんすまん。魔王が本気で家出などと言った挙句、世界旅行がしたいなどと胸を張って言うのがシュールでな。つい笑ってしまった」
「それは魔王が旅をするのが可笑しいと言うことか? それとも、私の胸が全くないと言うことか!?」
「いやどっちもそう何だが……くくっ、やべ、笑えるわ」
「ぬうう、私はまだ155歳の育ち盛りなんだ! 見てろよ、後数百年もすれば私だって人間的に言えば立派な女性になっているであろう!」
「あれ、お前って155歳なの? えっ、冗談だろ? 見た目14歳ぐらいだぞ!?」
「魔王族の寿命はおよそ3000歳、人間と一緒にされては困る。ドヤァ!」
「ふーん、結構長いんだな。面白い話が聞けた、お前なら放っておいても悪いことしなさそうだから大丈夫だろう。それじゃ、俺はもう出発する。精々良い旅を、魔王さん」
「えっ? あ、あれ? もう行っちゃうのか?」
「長居する意味も無いからな」
テーブルに置いていた白銀の鎧を装着し、マントを羽織って背中に剣を固定したリンカードは慣れた手付きで宿を出払う準備を進め、唐突に会話が終わってエイネルは激しい焦燥感に襲われた。
面白楽しく話していたがエイネルは現在迷子街道まっしぐら、家出なのだから当然魔王城から金品を持って来るだけの余裕も無かったので路銀は無い。
魔王なんだから一人で旅ぐらいで出来るだろうと言われればそりゃ出来るだろうがこの辺りはヘルエデン配下の魔物が跋扈しており、さすがの魔王でもろくな食事無しで疲労困憊の所を人間と魔物双方から狙われたら一巻の終わりだろう。
軽く手を振って別れを告げたリンカードは踵を返して部屋の扉を開けるが直後にマントが引っ張られ、振り向くとエイネルが必死にマントの端を掴んでおり、彼女の手が震えていた。
数秒間己ですら何をしているのか分からなかったエイネルは咄嗟に我に返ると慌てて手を放し、気まずそうにリンカードを見上げるが彼の表情は変わらない。
「まだ何か用か?」
「いや、そう言う訳ではないのだが、その……私は、こう見えて方向音痴なのだ」
「最東端に行こうとして最西端にいるぐらいだからな」
「いやそれは別の理由だと思うのだが」
「店で新しい地図とコンパスでも買うんだな。それじゃ、元気でやれよ。あぁそうそう、この辺は勇者崩れの山賊とかもいるから気を付けろ、大丈夫だとは思うけどな」
「ま、待ってよ!」
反射的に叫んでしまったエイネルは再びリンカードのマントを掴むが今度は彼も止まろうとはせず歩き続け、引っ張られて態勢を崩したエイネルはその場に倒れ込む。
掴んでいたマントの端が若干切り取られてしまったがリンカードは気にすることなく歩き続け、地面に打った額の痛さを感じながらも顔を上げたエイネルは切れ端を握り締め、廊下の闇に溶けていくリンカード目掛けて叫んだ。
「私を、連れて行って!」
立ち止まったリンカードは先ほどまで笑っていた表情が嘘のように無機質な瞳で倒れているエイネルを見つめ、彼女の瞳から一筋だけ流れる物を見た気がしたが、それを己の中で否定する。
「お前は魔王だろう。自称とは言え、俺は勇者なんだ。勇者と魔王が一緒に旅だと? 馬鹿馬鹿しい、そんなこと出来るわけあるか」
「出来るよ! パパだって、勇者の友達がいた! 私は、お主と一緒に旅がしたい!」
「どうしてた? 言っておくが、ただ迷子になりたくないからとか、金がないとかぬかした瞬間……」
踵を返したリンカードは一歩一歩と倒れているエイネルに近づきながら背負っていた剣を抜き、振り抜くと切っ先を彼女の額の目の前に突き付ける。
無機質な瞳から伝わって来る威圧感は並みの人間ならその場で逃げ出してしまいそうな程の凄味を帯びており、武器も無く人間界に来て早くも絶体絶命的な状況陥ってしまったエイネルだが、潤む瞳で真っ向からリンカードの視線を受け止めた。
傍から見ればどちらかと言うとリンカードの方が魔王に見えるほどの構図だが、魔王としてのプライドがあり、恐怖がないと言えば嘘になるが退くわけにはいかない。
「殺すからな」
「私は人間とは魔物を嫌い、殺すことに躊躇いがない生物だって教えられた。パパの話には良い人も多かったけど、大半はそんな人じゃない。良き友に出会えることは、何よりの幸福だって言われてた」
「それで俺が良き友だって言いたいのか。でもな、俺が勇者でお前が魔王である限り、利害関係じゃ生きていけないんだぜ」
「そんな関係じゃない。私はさっきまでお主と話していて、凄く楽しくて嬉しかった。私が魔王だと分かってもしっかりと話を聞いてくれて、私を理解してくれた。そして私はお前を余りまだ知らない。私はお主を知りたい。一緒にいるだけで楽しくて、嬉しい気持ちにしてくれたお主のことを……もっと、知りたいの」
「お前……」
嘘偽りない気持ちを吐き出したエイネルの瞳を見降ろすリンカードは数秒の逡巡を経て嘆息し、向けていた剣を背中へと戻してそっと手を差し伸べた。
「お前の気持ちは分かった。お前のその目は、信用できる目だ。しっかしまぁ、魔王と勇者とは変な組み合わせだな」
「可笑しくなんてない。私は何となく、お主のことが好きだ。魔物と人が仲良くなっちゃ駄目なんて掟はないし、魔王が勇者と一緒で何が悪い!」
マントの切れ端を力強く握りながら差し出された手を取り、エイネルは立ち上がって彼の横を歩き出す。
魔王と自称勇者、彼らの偶然なのか運命なのか分からない巡り合わせの旅は、今始まった。