魔王が迷子で何が悪い!
ドロドロとした気持ちの悪い毒沼の地に鬱蒼と生い茂る紫色の葉を蓄えた木々の群れ、地面から湧き上がる毒の気泡、一切の生物を否定すると言われる毒の森デスブリング。
有毒ガスが立ち込める道を物ともせずに悠々と歩き続けるエイネルは、次元を超えて魔界と人間界を繋ぐと言われる『正邪の門』を目指していた。
まだ父親である先代魔王デストラが生きていた頃に聞かされた昔話と地理の授業で習った内容によれば、人間たちはここを通ることで人間界から魔界へと顕現すると言う。
人間と違って魔王城にある転送術式を使うことで魔族は簡単に人間界に進出することができるのだが、家出のために魔王城の術式なんて使ってしまえばエネルギーの余波で使用がばれるし、魔力の痕跡を辿られてあっと言う間に計画は終了。
泥濘が少し深くなってきたのでブーツをしっかりと履き直し、滑ってミニスカートや上着が汚れないように注意しながら慎重に進んで行く。
「パパの話だと森に入ってからそれほど時間は掛からなかったらしいけど、考えてみたら私とパパの歩行距離を一緒にしちゃ駄目だよね」
そもそも道が正しいのかすら怪しい。御世辞にもジュルジェが描いた地図は故意になのか知らないが、子どもにお使いを頼んだら隣町まで行ってしまいそうな程に壊滅的に意味不明なものだった。
役に立たないこと請け負いなので途中で捨ててひたすらに進んでいたのだが、どれだけ進んでも『正邪の門』らしきものは見当たらず、次第に心の中にある不安が嵐のように吹き荒れる。
「ここには勇者が出るかもしれないから近づくなってパパに言われてたから一度も来たことなかったけど、対勇者迎撃演習に見せ掛けて下見ぐらいしておくべきだったかしらね。迂闊だったわ」
今日と言う日に備えて何もしてこなかった過去の自分に愚痴を垂れながら歩き続け、泥濘は次第にブーツの踝辺りまで浸食して来た。
尤もエイネルが履いているのは魔界でも屈指の魔龍の尻尾の皮から作られた特性の戦闘ブーツであり、耐熱耐寒耐毒、雨霰から矢でも槍でもやってこーいと言わんばかりの耐久性を誇る最高級品。
そもそも魔王たるエイネルにはこの程度の毒は効果がないのだが、彼女がブーツを履いているのは気持ち悪い感触が足の裏を這いずり回らないためのようなもの。
「つまらん、魔界の風景とはどうしてこう心にズキューンと来るものがないのだろうか」
空を覆う厚い雲は不変に見えて刻一刻と姿を変えていると言うのに、目の前の景色は紫色のドロドロ地面に枯れたように葉が実っていない木々のみで何の面白さも無い。
別に今が冬だから草木が枯れているとかそういう季節的なレベルの問題ではなく、魔界の生物は瘴気などを吸収して生きているので光合成が基本的に不要。
しかし目の前の景色は詰まらないものだが確実に人間界と言う新たな可能性に近づいていることにエイネルの胸は高鳴り、疲れて来ているはずなのにその一歩一歩はどんどんと力と活気が溢れ出るように勢いを増す。
どうすれば切っ掛けが生まれるかなんて分からなかった。だけど今こうして、ジュルジェが目を瞑ってくれているおかげで城の外を初めて自分一人で堪能し、闊歩しているのだ。
「パパは世界を旅して、人間が聞いていた生物とは全然違うことを知ったと言っていた。他にも、色々な美しきものを見て感動したと聞く。私だって……あっ、ひょっとしてアレ!?」
歩き続けて数時間ほどが経過してようやくエイネルは木々の隙間に開けた空間があることを確認し、先ほどまで転ぶ心配をしていたにも拘らずいつの間にか彼女の両足は走り出していた。
毒ガスだらけの濁った視界がまるで黄金の山にも匹敵するような希望の光に満ち溢れ、漆黒の髪を靡かせながら彼女は開けた空間へと大鷲の如く警戒に飛び出す。
しかしその瞬間に目の前の異常な光景を見たエイネルは慌てて足に力を入れて踏み止まり、少し滑って上半身が泥濘に浸かりそうだったが右手を地面に押しつけることで何とか阻止。
体勢を直したエイネルは手についた毒性のヘドロを振り払うと再び目の前の『妙なもの』に視線を送ると、念のため他にも『正邪の門』らしいものがないか周りを見渡すが、コレ以外のものは何もない。
今彼女の目の前に広がっているものは地獄の底まで続いているかのような巨大な穴、地の底から這い出て来るかのような闇が蠢いており、落ちてしまったが最後未来永劫帰って来れない様な不安を誘う不気味な穴。
先ほどまで夢見て描いていた輝きは目の前の闇に浸食されたかのようにエイネルの心には恐怖が蔓延り、右足が一歩後ろに下がった直後、後方の木々に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたく。
反射的に鋭く振り向いたエイネルの視界には全長30m程の巨大な泥の龍が毒沼を盛り上げながら現れ、自分の配下の魔物出ないと分かった直後、エイネルは腰に差している剣の柄に手を伸ばした。
「この魔力の気配は……ノーライトの魔物か。我が領土にここまで踏み込んだこと、その身を持って償うがようわあああ!?」
決め台詞を言っている間に龍の巨大な尻尾が木々を粉砕しながらエイネルが居た場所を薙ぎ払い、正確に距離を見極めた彼女は素早くバックステップをして強烈な攻撃を難無く回避。
しかし着地しようとしたらそこには地面がなく、あったのは先ほど希望の輝きを恐怖に塗り潰してくれた巨大な穴。
「い――」
当然落ちていく。翼はあるのだが、気が動転して展開している余裕はない。
「いやあああああああああああああああああああああ!」
男は歩いていた。背負った大剣と白銀の鎧を擦り合わせながら緑溢れる草原を進み、正面から吹き抜けて行く優しい風がオリーブ色のマントを緩やかに撫でる。
軽快に草原を歩く男の右手には両目の辺りからそれぞれ一本ずつ角が生えた馬のような魔物の首が握られており、既に長い時間持っているのか生首からは殆ど血が流れていない。
久しぶりに見つけた仕事を順調にこなしていることに若干の満足感を覚えながら、男は目の前に広がる巨大な河に用意している帰りのための船に向かって歩を進めていた。
現在生首だけになっているこの魔物は最近この草原付近で目撃された攻撃的な奴で、草原を通る商人や旅人、薬草など必要な植物を採取しに来る近場の村の若者たちを次々に襲い命を奪って行った悪魔。
辺鄙な土地なので都合良く腕が立つ者がおらず、たまたま通りかかった男が報奨金目当てに引き受け、先ほど見事にその首を討ち取った。
「最近まともなもん食ってなかったからな、これでしばらくは路銀代わりにもなっと? うぅん?」
何か鈍く柔らかいものが足に当たった感触がした男が下を向くと真っ黒な衣装に身を包んだ少女が草むらの中に倒れており、数秒間見つめてから男は辺りを警戒してからゆっくりとしゃがみ込む。
息はあるようだ。機動性重視の軽装に両肘と両膝に装着されているプロテクター、何より腰に付けている鞘に収められている刀は間違いなく本物。
恐らくは男の同業者か単純な旅人もしくは商人の類だろうが、服全体は長旅をして来たと言うには不自然なほど綺麗で、肌の艶も良く長い間飲まず食わずでここまで辿り付き今しがた倒れたとはどうも想像し難い。
不可思議な少女ではあるがどうやら意識を失っているだけらしく、男は彼女を持ち上げて肩に担ぐと河で待っている迎えの船に乗り込む。
「ほぉ、こいつがここいら荒らしてた魔物の首か。やるでねーのお前さん、村の若いもん総掛かりでも返り討ちに遭う化物だったのによ」
「こいつは火属性に弱い。俺とは相性が悪かっただけさ」
「そうかい。それでそのよっと! それは?」
船頭の老人が桟橋を蹴って船を出すと共に、男が肩に抱えている少女を指差し尋ねる。
「地面から湧いて来た」
「んな阿呆な」
「じゃあ空から落ちて来た」
「わしも気付くって。しかも『じゃあ』ってなんだ『じゃあ』って」
「いつの間にか転がってた」
「なるほどな」
この老人が今の答えのどこら辺に納得したのか男には分からなかったが、「それは誘拐だろ」とか「このロリコンが」とか言われるよりはよっぽどマシだ。
男は少女を船の上に寝かせると彼女が腰に差していた刀に目が行き、別に盗むつもりなどはないのだがどれほどのものか少し気になり、ゆっくりと手を伸ばして柄を持ち上げる。
重い……鞘も合わせて持ち上げてみれば大凡10キロ近くはあり、とてもではないが目の前に眠っている細腕の少女が不自由なく使える代物とは思えない。
さらに興味が惹かれた男は柄を撥ねて刀身を見ると太陽の光を燦然と反射する白銀ではなく、浴びる光を全て吸い込んで尚のこと貪欲に輝きを奪おうとする黒。
だと言うのに美しい光沢を放つその刀身に触れた瞬間に男は全身の毛が逆立つような寒気を感じ、慌てて刀身を鞘に押し戻して手を離した。
「これは、今の感触はまさか、魔剣の類か!?」
魔剣――文字通り魔の力が籠った剣のことであり、その効果は剣により様々だが、一般的には魔法の効果を剣自身に付与していることが多い。
一般的な鉄製品に比べ強度で劣ることが多いが、高価な物ともなると強度も使い勝手も格段に上回る。
この少女が携えている魔剣は男が今まで見て来た物とはランクが、触れた時の恐ろしさが、直感に訴えかけて来る危機感のようなものが比較にならない。
出来ることなら今すぐ河に放り投げて捨ててしまいたい程ではあるものの、他人の物を許可なく無遠慮に捨てるのはさすがに憚られた。
「気になるが、放っておくわけにもいかないか。場合によっては……いや、物騒なことは考えないでおこう」
男は壁に背を預けると両腕を組んで瞳を閉じ、草原を流れる風を感じながらただ黙る。
この少女がもし危険な魔王配下の魔族なら、自分が手を下さなければいけないだろう事を考えながら。
仄かな灯の光が瞼を明るく照らしていることに気付いたエイネルはおぼろげに目を開け、数秒後に意識が覚醒すると素早く上半身を起こす。
壁に掛けられたランタンが優しい輝きでエイネルの瞳を照らし、体を覆っている毛布を見て彼女は安堵して胸を撫で下ろした。
どれぐらい気を失っていたのかは分からないが体中を見渡しても別段傷ついている様子はなく、枕元には愛用の黒刀もしっかり置かれていたので、捕虜にされたとか身包み剥がされたと言うことはない。
続いてエイネルの目に入って来たのは窓の外に射している茜色の綺麗な光で、ベッドから降りて窓を開けた彼女はその身を乗り出して光の射す方を見る。
遠くに見える山に今まさに沈もうとしている丸い光を放つ物体、時折歪んで見えるそれは、エイネルのいた世界では1000年に一度しか見れない物。
胸の中に込み上げて来る不思議な感覚が流れ込んで来るが戸惑うことは決して無く、かつて父親が話していたのと同じく彼女の目から一滴二滴と、溢れ出る物が流れ落ちた。
当然ただ単純に眩しい太陽を瞬きをせずに見ていたのが原因の一助ではあるだろうが、この涙に宿る気持ちは絶対にそんなものではない。
飽きるほどに太陽の光を目に焼き付けると山の端へと吸い込まれて行き、辺りが暗くなると同時に部屋のドアが開かれ、エイネルが振り向くと入って来たのは一人の男。
「目が覚めたか、気分はどうだ」
「お主が助けてくれたのか。礼を言う、ありがとう」
「俺は気分はどうかと聞いたんだが」
「えっ? あぁ、問題ない。それより聞きたいのだが、ここはどこだろうか? ファロンデルタなのか?」
「ファロンデルタ? 何年前の話をしているんだ、お前は。ここはマッケンエルク、カルティナ王国領でも最西端に位置するド田舎さ。かつてファロンデルタと呼ばれていた都市は正反対、最東端だ」
「……マ、マッケンエルク? ど、どこそれ?」
如何にも不審者を見るような目付きでエイネルを見る男は壁に張られたカルティナ王国領の地図の一番西側にある小さな点を指差し、エイネルは慌ててポケットから小さな地図を取り出す。
書かれている王国の名前はカルティナ王国と同じなのだがその形や都市部の位置が若干違ったり、今自分がいるマッケンエルクに関しては記載すらされていない。
「ガーン!? そ、そんな……」
「お前それ、何百年前の地図だよ。ある意味骨董品だな、おい」
持っている地図に記載されていないどことも分からないところ、こんなところでもし自分の居場所を完全に把握できなくなったとしたら。
「私が迷子だと言うのかああああああああ!?」