魔王が旅して何が悪い!
どんよりとした気味の悪い紫色の積乱雲が無限に広がるであろう空一帯を覆い尽くし、同じく気味の悪い茶色に濁ったガスが充満する世界、そんな一角に巨大なお城が聳え立つ。
この世の終わりと言わんばかりの何の情緒も感じられない、地価ナッシングと言わざるを得ない環境とは正反対にそのお城は豪勢な造りをしており、もしかしなくても見た目はまるで悪魔が棲むかのような禍々しさ。
城の最上階に位置する謁見の間で、王座に堂々と腰掛ける人間的に見た目の齢10代半ばと言った感じの少女。
深紅のドレスに身を包みながら暇そうに、心ここに非ずと言わんばかりの呆けたエメラルド色の瞳で見上げる天井に映るのは、この世のどことも分からない夢想の世界。
今日も彼女のご機嫌はハイウェイレベルで絶不調。自慢の黒いロングヘアーを両手で梳かしながら考えるのは、この心の空洞にも似た虚無感を紛らわせてくれるであろう遊び。
人間界から態々部下を使って取り寄せたトランプとか言う玩具も最初は面白かったが、徐々に一人でトランプタワーを作って遊んでいるのが虚しくなって来たし、部下は態々気遣ってポーカーだろうが大富豪だろうがわざと負けてしまうから普通の勝負が出来ない時点で面白味がない。
少女は何かに飢えていた。何の刺激も変化も無いこんな生活に。かつて父親を倒した勇者たち、彼らが救おうとした人間界、その光溢れるであろう景色と未知との遭遇に溢れた輝きの世界。
「だと言うのに、何故に私は今日もただ王座に腰掛けているだけなのだ!?」
先代の魔王である父親が魔界まで攻めていた人間の勇者に倒されて早くも100年、当初は父親の死を受け入れられず人間を恨んだりもしたが、どこで狂ったか今ではその気持ちが180度逆転していた。
今の生活に特別不満があると言う訳ではない。コックが作る料理は美味しいし勉強は多少面倒臭いけど実のあるもの、しかし余りにも順風満帆過ぎて年頃の好奇心がその行き場を失っている。
雑務は基本的に部下に丸投げしてるし、そもそも少女は自分が魔王としてこんな場所にいることに意味があるのかすら分からず、果たして自分の存在価値が現在の魔界においてどのようなどのようなものなのか見出せない。
今の魔界は平和だ。少女が魔王を務める国とは別に二つの国があるが戦力は拮抗の三つ巴。これと言って戦争の火種も無く、何千年も前の殺伐とした関係は忘却の彼方。
「最近は勇者も全く城を訪れてこない。いや、それは良いことなのだろうが……つまらんのー、かつて幾多の人間たちがその身をとして護りたかった世界とは、どう言うものなのだろうか?」
彼女は魔王。魔界において絶対の権限を持つ三者の一人、だが実際は齢155歳の小娘、彼女が何を言ったところで大臣も議会の連中も聞く耳など持つまいて。
王座に居ながら足をぶらつかせながら魔王としての威厳の欠片も無い少女の父親、前代の魔王同様に彼女も人間たちとは深く争うことを好まず、どちらかと言うと互いに互いの利益を護る平和路線を維持しようとしている。
幹部の中には積極的に他国と人間界に乗り出して侵略活動を開始するべきだと言うものもいるが、そんなことをすればいずれどこからか湧いて来るであろう、殺意の塊に身を委ねた本物の勇者に殺されてしまうではないか。
先々代の魔王である少女の祖父は非常に好戦的でどんどんと人間界にも侵略をして行って、ついには一時的に世界の殆どを手に入れたが統一を夢見る前にその命は尽き、争いを好まなかった先代はその煽りを受けて大して何もしてないにも拘らず、恨み骨髄に徹した人間たちによってフルボッコ。
怖い。あぁ、人間とはなんと怖い。種族としては圧倒的優位に立っているはずの魔族に対して、彼らは何故か強い装備と豊富な術によって不利を悠々と覆し、いつの間にか金集めの道具にすらされてしまっている始末。
人間は強欲だ。その野心、世界を支配しようなどと言う莫大なスケールに至らないまでも、大量の人間たちが利己的な野心を連携して発揮すれば、それは世界を覆う巨大な流れになるのだ。
何が言いたいかと言えば自己の資本や権利のために魔物を無駄に殺しまくることは止めて欲しいなー、なーんて……ってことなのだが、今の少女ではその言葉を人間界の住民に向けて発信することすら適わない。
「結局私は、人間界の何に憧れているのだろうか? いや、何に憧れているから分からないからこそ、憧れは形をなさずに膨れ上がるのか。そう、憧れとはまさに、デスブリングの毒沼の気泡の如く際限無く浮き出て来るものなのかもしれぬ」
「詩的なことを言っているところ恐縮ですが魔王様、キッチンからチョコレートケーキが1ホールなくなっていたのですが、よもや摘み食いされたわけではあるますまい?」
天井を見上げ呟いていた少女の傍らにいつの間にか立っていた黒衣の男が問い掛けると魔王は黙ったまま嘆息し、哀れみの視線を傍らに立つその男に向けた。
2メートルはあろうかと言うほどの長身(人間から見れば)に猛々しい四肢を覆う深紅の鎧、背中に拵えるは見る者を一様に黙らせる威圧感を持ち、男と同じぐらいの長さを誇っている漆黒の剣。
嵐の中をくぐり抜けて来たかのような荒れた髪の毛に命を貫くような茶色の瞳、両目の下にはそれぞれ黒い横線が数本ほど走っている。
「ジュルジェよ、私がそんな意地汚いことをするような娘に見え――」
「見えます。思えます。確信が持てます」
「なっ!? き、貴様! 仮にも私はお前の上司だぞ! 私は偉いんだぞ! そんな私の言うことをお前は信じないと申すか!?」
「そう言われましても……あれ、頬に何か茶色い物が付いてますが?」
「あれ!? ちゃんと拭いたは――」
「やっぱり食ってんじゃねーか! てめ、ふざけんなよ小娘! アレは私の誕生日のお祝いとしてシェフが態々高級チョコレート使って作ってくれたもんなんだよ! ただでさえ体脂肪が最近増えて来ているのにまだ食べるんですか貴方は!?」
「おまっ、私は魔王だぞ! そんな口の利き方するなら更迭してバリアンの拘置所に100年ぐらい閉じ込めてやっても良いんだぞ!」
先ほどトランプのゲームでも部下が普通に負けるから詰まらないと言ったことだろう。アレは、若干の訂正が必要であろう。
ジュルジェ……先代魔王であった父親の同期にして遥か昔からこの魔王城に使えている魔族の一員、時折遠征から帰って来る彼だけは少女を魔王としてではなく一人の少女として扱っていた。
まだ父親が生きていた頃はよく遊んでもらっていた少女にとって、彼は少し特別な存在。許嫁とか恋人とかそんなのではない。て言うか、魔族にそんな概念殆どない。
幼い身にして魔王に押し上げられた少女にとってはジュルジェはさらに特別な存在になり、彼が居たからこそ満足も不満もこれと言ってない魔王城生活の中でも辛うじて面白さと言うものを見つけられた。
だが最近では彼の姿を見ることもめっきり減って、少女は退屈を持て余す。今日がジュルジェの誕生日なのも知っていた。あのケーキがジュルジェのためのものだとも知っていた。彼が気付くだろうことも分かっていた。
構って欲しかった。何も刺激も不変も無いこのルーチンワークに、横から突然吹き荒れる風になって欲しかった。
少女とジュルジェはお互いに犬歯を丸出しにして至近距離で睨み合っていたがやがてジュルジェの方が折れたのか溜息をついて顔を引き、仕方なさそうに髪を掻く。
「まあ良いんですけどね、ケーキはまた作ってもらうようにお願いしましょう」
「えっ? あっ? 良いのか?」
「魔王様の魂胆は見えてますよ。あわよくばここで私と大喧嘩でもしてそれを引き金に家出して人間界に行こうとしたんでしょう?」
「ギクッ」
「いやいや『ギクッ』なんて擬音語態々言わなくてもその表情で分かりますから」
「ジュルジェよ、どうして私はこんな場所に長々と居なくてはいけないのだ。世界は広い、お父様は良く楽しそうに語っておられた。魔界を見て回ったことを、幼き日に人間界で多くの景色を見たことを」
「魔王様……」
「それと二人の時は昔のように呼んで欲しいといつも言っておるのだが」
どことも言えない景色を天井に夢見る少女にジュルジェは掛けるべき言葉が見当たらないが、それより先に少女のじーっと見つめる瞳と言葉が暗い空気を切り裂いた。
「やれやれ、エイネルは我儘が過ぎる。お前は今、魔王なのだ。魔王とは城にいるもの、魔界を総べ、来るべき人間を迎え撃ち、魔族の権威を示す者だ」
「何で魔王が出向いてはいけないのだ。いつか私を殺す程の勇者が現れるなら、先に仕留めてしまえば良いではないか。死ぬの嫌だし」
「そうしたいのは山々だがな、魔王だって公務があるだろう」
「部下に丸投げだ。私が居ても居なくてもどうせ何も変わらないのだ。奴らにとって私は出された書類にただ判子を押して、新年会と忘年会と追い出しコンパの挨拶を言って、インタビューで新聞の片隅を埋めるだけの存在なのだ。影武者がやっても変わるまい」
「さすがの先代魔王のデストラもそこまで悲観には暮れていなかったぞ。だが、諦めろ。それが魔王なのだ」
「……ねえジュルジェ、お願いがあるの。私を人間界に連れてって! 私は、世界を見たいの! 私は……人形じゃないのよ!」
「目薬で涙を演出されても何の悲しみも湧かねーよ。良いから勉強してろ。あっ、また数ヶ月私は遠征なので、以上」
泣き付く振りをしていたエイネルの手を軽く払って踵を返したジュルジェはポカーンとしているエイネルをおいて部屋を出て行き、彼女は頬を膨らませると怒りをぶつけるように深々と椅子に勢い良く座る。
確かに半分ぐらいはジュルジェとの関係を再確認するための冗談で言ったが、半分は本心、エイネルが魔王になってから心の底にいつも貯め込んでいる気持ち。
ジュルジェは……彼はやはり分かってくれなかったのだろうか。今は亡き最大の親友であった男の一人娘にして彼が仕える国の魔王、魔王に対してとは思えない無骨にして遠慮のない態度の裏に、一体彼がどれほどの不安を抱えているのかはエイネルには分からない。
それと同じようにジュルジェも自分の気持ちを分かってくれていないのだろう。エイネルは体を反転させると椅子の布に顔を押し付け、周りに誰もいないこと確認してから小さな声で嗚咽を漏らす。
「私は……道具じゃない……もん……」
「あぁ、そうそうエイネル」
「ぎゃわあああああああああああああああああ!?」
アレだけ後味無く去っていたジュルジェが突然扉を開いて戻って来るとエイネルは大声と共に前に向き直り、持っていた目薬を慌てて両目に差してから凛とした態度で王座に腰掛けた。
「ななな、何だ!?」
「いやお前が何だ」
「五月蠅い! 良いからさっさと用件を言え!」
「そんなに目薬が好きなのか? それともドライアイなのか? 城下に優秀な眼科が居るから紹介してやろうか?」
「余計な御世話だ。それで、何の用なのだ」
「いや、今日は東の広場で新魔王誕生100周年のパーティーの準備が行われている。警備が東側に集中し、西側は手薄になっているので気を付けろよ。それと先ほどの眼科、丁度城の西側で経営しているんだ。今地図を描くからちょっと待ってろ」
「えっ? いや、西側に眼科があるなんて聞いたことはな……そ、そうだな! 常に目が渇くと色々支障があるものな! 今すぐ地図を描くのだ!」
大きな声で叫ぶエイネルは満天の笑顔で命令するとジュルジェは表情を崩さずに手帳に地図を描いてその紙を切り取り、受け取った彼女はただ視線だけでジュルジェに訴えかける。
ありがとう――瞳に希望の光と嬉しさの涙が浮かぶエイネルの頭にジュルジェは優しく手を乗せ、何度か撫でてからゆっくりと手を離した。
「良いか、城の外は危険がある。本当は私も付いて行きたいが、今はその余裕がない。そうだ、これを持って行け」
「これって……ネックレス?」
「私のネックレスと同じものだ。どうしようもない危険に陥った時には、そのネックレスに力を込めろ。時空を越えて、空間を越えて、お前を助けに行くと誓おう」
「うん、でも安心しなさいって。ジュルジェは自分の仕事を全うするが良い」
「了解しました、魔王様。それと眼科に行く途中で逃げたりしてはいけませんよ。良いですか、絶対に逃げたりしてはいけませんよ」
「分かってる。お前の言う通り、私は眼科に行くだけだ。その眼科が……西のどこにあるかはこの地図からではよくわからんがな」
ひらひらと地図が描かれた紙切れを微笑みながら揺らして見せつけるエイネルに対し、ジュルジェの表情は仏頂面だがどこか笑っているような気がした。
「地図の描き方が悪かったら申し訳ありません。それでは魔王様、お気をつけて……ここは、我らにお任せを」
それだけ言うとジュルジェは今度こそ扉から外へと出て行き、地図をその手に握り締めるエイネルは急いで堅苦しい服を脱ぎ捨てる。
戦いの訓練をする時に着用する動き易い薄手の服に身を包み、ジュルジェが描いてくれた地図に従うようにして謁見の間西側にある扉をゆっくりと開けて廊下へと躍り出た。
「私は眼科に行くだけだ。そう、これは決して家出ではない……いや、そもそも、魔王が家出して何が悪い!」