彼女の世界に僕はいないというあまりにもシンプルなこの事実
微鬱注意!!
年の瀬にしても、ひどく寒い夜だ。
僕はコートのポケットに手を入れ、背中を丸めながら駅のホームで急行電車を待っている。ついさっき、車両点検により電車が遅れている、というアナウンスがあった。周りの人間は皆押し黙って電車が来るのを待っているが、苛立ちがまるで空気中を漂う微粒子のように伝わってくる。
再びアナウンスが鳴り、ほっと息を付き、視線を上げた。
吐き出されすぐに白く濁った自分の吐息の先。目の前の後ろ姿を見た瞬間、自分でも分かるほどに胸の鼓動が早くなったのが分かった。後ろ姿、というよりは、髪だ。つむじの位置、光沢、細さ、そのひとつひとつが記憶の中で一致していく。間違いない。そう確信しながら、全身に染み出す汗と息苦しさを感じた。
電車がホームに滑り込んでくる。
彼女とは、高校三年生の時、半年間付き合っていた。その後、僕は地元の大学へ進学を決めたが、彼女は地元のスーパーに就職した。
大学生と社会人じゃ時間が合わないかな、こっちはアルバイトであっちの方が収入があるけどデート代は割り勘かな、今まで毎日会ってたけどこれからは会う時間が減るな、会社の男に言い寄られたらどうしよう。僕は、そんなふうに彼女とのこれからの付き合い方に一抹の不安を抱いていた。でもそれは、砂糖水を無理矢理喉元に流し込まれるような、甘い息苦しさを伴う不安であり、つまり僕は少しの不安を抱きながらも彼女とのこれからの未来の可能性を夢想していたのだ。だが、結果的に、彼女の手で、その未来の可能性は綺麗に叩き潰された。
電車の中で、僕は彼女とお互いがギリギリ触れ合わない絶妙の距離で隣り合って座っている。
久しぶり、え、何年ぶり?
そう笑顔で言う彼女に、高校卒業して以来だから三年ぶりくらいじゃないかな? と笑顔で返しながら、頭の中では記憶の中の彼女と目の前の彼女を対比していた。
彼女の顔が、少し変わっていた。たぶん、化粧のせいだろう。無意味に派手な化粧にまみれているわけではないが、やはり少し印象が違う。だが、髪はそのままだ。僕が大好きだった髪は、化学的な化合物に晒されて汚い色で染められず、僕の記憶の中の印象と全く変わっていない。そんな彼女が、記憶の中と同じように微笑んでいることに、ほとんど震えに近い感情が湧く。
彼女は、仕事のこと、まだ交流のある高校時代のクラスメートについて話した。だが僕には彼女の今の生活にほとんど興味を抱けなかった。記憶の中の彼女の印象が強いからだろう。架空の友人と過ごした架空の出来事について話しながら、僕は彼女との最後の日を思い出していた。
卒業式の日だ。話がある、と体育館の裏に呼び出されても、僕は何の疑問も危機感も抱かなかった。考えてみれば、付き合っているのに人気の無い場所に呼び出すなんて、妙な話だった。
彼女は単刀直入に、別れよう、と言った。
僕が理由を尋ねると彼女は、環境の変化、という理由を挙げた。
これからお互い違う環境に入り今までと同じ関係は保ちづらくなる、ここで別れた方がお互いのためだ、と要約するとそんなことを彼女は言った。
つまり彼女にとって僕との関係は、高校のクラスメート、という環境に守られてようやく維持できるようなそれくらいのものだった、ということだ。
そんなことはない、これからも今まで通りやっていこう、と食い下がる僕に、彼女は、私よりも他に良い人がいるよ、と言った。そう泣きながら言う彼女を見て、僕は全てが終わっていることを悟った。彼女の中では、もう全ては終わっている。僕はまるで、リハーサルが全て済んだ舞台に遅れて引きずり出されたピエロのようなものだった。突然の照明に照らされ、間抜けなピエロは慌てふためき、観客はそれを嘲りの笑いで迎える。僕はあの時、世界中の人間から笑われているような、そんな気分になった。今、目の前で、彼女が笑っている。僕の中の彼女への想いは複雑だ。好意と愛情と殺意がぐちゃぐちゃに混じり合っている。それはきっと適当な野菜をミキサーに押し込んで作られた野菜ジュースのようなこの上なく汚い色をしたドロドロの半固体みたいなものなんだろうな、とそんな下らないことを考えながら、僕はいもしない友達との、行ってもいない海外旅行について話した。本当は、大学で友達はほとんどできず、半年前に中退してからは誰とも連絡を取っていない。
電車が駅に着き、僕と彼女は吐き出される人混みにまみれ、ホームに降り立った。階段を降り、改札を抜けるまで、僕たちはお互い一言も喋らなかった。
「なんか、元気そうでよかった」
突然、彼女がそう言った。
彼女の中での僕は、元気ではなかったのだろうか? だが言葉は外へ出ていくことなく、僕の中で死んだ。彼女の背後に巨大な樹があり、その周りではイルミネーションが輝いている。
「じゃあ、またね」
彼女は長い髪を耳にかけ、その動作で彼女の左手の薬指の指輪が目立った。彼女の指に光る指輪には、とっくに気付いていた。その指輪を彼女に贈ったのはどんな人間なのだろう。だが、それを確かめることで、何かが生まれたりすることはない。それは、完全に僕のいない世界の話であり、そこに僕は何の影響力を持ち得ない。この煌めきが最高に達する夜、彼女はあの指輪を贈った人間と一緒に過ごすのだろう。そして、それは自分ではない。それはあまりにシンプルな事実だったがあまりにも受け入れ難いものだった。だが、やはり自分には、その事実を覆すことはできない。
僕は無言で彼女と、その背後で煌めくイルミネーションに背を向けた。携帯電話を取り出し、彼女のアドレスを削除する。
『●●●●●を削除しました』
そう表示された液晶画面を見ながら、自分の中から彼女が完全に削除されるのはいつになるだろう、とそんなことを思う。
振り返ると、彼女の姿は既に虫のような人混みにまみれ、もうどこにも見えなかった。