少年と赤いボール
「少年と赤いボール」
むかしむかし、ある所にジョハンという一人の少年が母親と一緒に暮らしていました。
ジョハンは十歳という年齢にもかかわらず叔父さんが営むペンキ屋の手伝いをよくして、
家に帰れば母親の家事と内職の編み物を手伝ってやる、とても優しい男の子でした。
少年の家はとても貧しくて、明日食べるパンすら買えるか分からないありさまでした。
学校に行けるお金もなかったので、空いた時間を見つけては母親から字の書き方や
計算の仕方など、色々なことを教えてもらいました。
それでもジョハンは、貧しくて父親を物心ついた頃から出稼ぎにいってから帰ってこないために父の顔すら覚えていなくとも、
母親と一緒に明るく楽しく暮らせていることにとても満足していました。
その姿は、近所の大人たちには健気に一生懸命生きる様子が感動的だった様に映ったらしく、
自分の子供たちもジョハンのように親の言うことをよく聞く、優しい子になって欲しいと思うようになりました。
やがて街の子供たちの多くは夜遅くまで勉強をさせられ、休みの日には親の仕事を嫌々やらされたりしました。
ジョハンには何の責任もありませんでしたが、原因がジョハンにあると知った子供たちは
彼に乱暴をふるうようになりました。
石や釘を投げられたり、棒で殴ったり蹴ったりしました。
抵抗して、もし怪我をさせたりすれば家を追い出されるかもしれないと思ったジョハンは、
歯を食いしばってただずっと暴力がすむまで耐えました。
それよりも辛かったのは言葉でした。
自分だけでなく家族まで侮辱されることに、深い悲しみと怒りがジョハンの
お腹の中をぐるぐる回っていたのです。耳をふさいでも、頭の中で繰り返される。
そんな日々でも、ジョハンは手伝いを続けました。
母親と一緒にいられることが、唯一ジョハンが安心できる時間だったからです。
とある夏の暮れ時に、いつものようにいじめっ子たちを振り切って空き地の隅で気持ちを落ち着かせていたジョハンは、
足下にくしゃくしゃに丸められた紙を見つけました。
なんとなく興味がわいたので、それを拾って破かないように慎重に広げて見てみると
綱渡りをしながらにこやかに笑っているピエロの絵が描かれておりその上には
「ヴォンヌサーカス団」と大きな字で書かれてありました。
そういえば、先週あたりから街の子供たちがこのチラシを片手に喜んで大人たちも
サーカス団が来たのは三十年ぶりだと言うことで興奮していたことをジョハンは思い出しました。
サーカス団の話題を街で聞くたびに聞いていないと自分に言い聞かせていた。
しかしこうしてリアルにサーカス団のチラシを目にすると、胸が高鳴って困惑する。
(家にはお金がないから、考えても無駄なのに)
と、分かっていても一度だけでも見てみたいという欲求は収まらずに、
むしろ忘れようとするほど感情がふくらんでしまい悩みました。
それでジョハンは、母を悲しませたくないのでサーカスはまったく興味のなさそうな素振りを見せて、
夜中にこっそり家を抜け出して橋の手前にある公園へと行きました。
そこでジョハンは一人ベンチに座って、ガス灯の明かりの下でチラシを広げてずっと眺めました。
ジャグリングや象の玉乗り、ピエロの綱渡りやライオンの火の輪くぐりなど
考えるだけでドキドキしていつもチラシを持つ手が汗でグショグショになりました。
サーカス団の公演が一週間と迫った夜のことでした。
ジョハンは今日も夜遅くに家を抜け出して、公園のベンチで一人想像力を働かせていました。
そこに、赤い手のひらサイズのボールがころころと足下へ転がってきました。
ジョハンはいじめっ子なと内心警戒しながら、ボールを拾いました。
「ありがとう少年」
とその時、背後からぽんと肩を叩かれました。
ジョハンはびくっと『おぉ!』と思わず声を上げながら振り返りました。
突然肩を叩いた人は、やあと右手を振りながらその人は笑いかけました。
ジョハンは声をかけられたときよりも驚いたように、チラシのピエロとその人を交互に見比べました。
チラシのなかのピエロと目の前にいる人物がなんとそっくりだったのです。
ジョハンは驚きのあまり声も出せずに口を半開きにしてその人を見つめた。
その人は微笑みながら「あぁ、それは僕だよ」といって、ふわりとガス灯の上に飛び乗りました。
二メートルもあるガス灯に軽々と飛び乗った光景にジョハンは見とれたようにぼーっと視線を送ります。
「公演は、来週の水曜日の午後7時からだからねー」
体を小刻みに揺らし、ジョハンの顔を伺うようににやにやと笑いながらピエロは呟くと、ジョハンは急に暗い顔になりました。
チラシをくしゃっと握りしめ俯いたまま「僕の家はお金がないから行けない」と小さく呟いたきり何も喋らなくなりました。
ピエロは腕組みして首を左右に傾けながらしばし「うー」と呻くと、
人差し指をピンっと上げてなにか閃いたという表情を浮かべて物音一つ立てることなくジョハンの前に着地しました。
そして頭を優しく撫でてやりながら、しゃがんでジョハンの目を覗き込むようにして、
先ほど拾ってからジョハンの掌の中にずっとおさまっている赤いボールを指さしました。
「この魔法のボールを貸してあげる。これを受付のお姉さんに渡せば通してくれるよ」
「そんなの無理だよ。それに母さんになんていえばいいのさ」
「そんなこと・・・もう気にしなくていいよ。それにサーカスはお祭りなんだ。
そんな固く考えなくていい、子供は楽しむことだけ考えよう」
と言ってピエロは奇妙なダンスをしながら離れていきます。
「じゃぁね待ってるよん♪」
と手を振りながら呟いて、ピエロの姿はあっという間に夜の闇の中に溶けていきました。
ジョハンは家路に向かう途中、悩んでいました。
行くべきか行かないべきか・・・母親だけを残して。
お金なんて払っていないのに本当に入れるのか?
と考えている内にジョハンは家の前に立っていました。
いつものように、勝手口からこっそり入ろうと窓を横切ろうとしたその時でした。
この時間はまずあり得ない、ランプの仄かな明かりが部屋に灯っていたのです。
いつもならば母は仕事に疲れ切って夜中に起きることなどまずあり得ないのに。
ジョハンはそっと窓から覗こうと庭から持ってきた大きめの石の上に足を乗せて背伸びをしました。
母親は椅子に座ってテーブルに肘を立てながら、片手で目元と額を覆ってなにやら深く考えている様子でした。
肩がわずかに上下していました。ジョハンは不思議に思ってそっと窓に耳をくっつけて聞き耳を立てます。
すると、母親のすすり泣く声がわずかに聞こえてきました。
手のひらの中から、ぽろぽろと光るものが落ちています。
ジョハンは胸がつぶれる思いがしました。
母の寂しそうな顔や疲れた顔は何度も見たことはありましたが、
泣いている姿をジョハンは初めて見ました。
額を抑えているので目元はよく見えませんが、頬を伝う大粒の液体がランプの明かりできらきらと光っていました。
自然と、ジョハンの目から涙が溢れてきました。
サーカスと母親を比べていた自分がとても愚かだと、痛感したのです。
ジョハンは石を元の位置に戻すと、涙を拭きながら自分の部屋に戻っていきました。
一週間後、公演の日がついにやってきました。
ジョハンはいつも通り叔父さんの仕事の手伝いを終えると、家に帰りました。
ここしばらくはいじめっ子に遭遇することを警戒して家路を遠回りしていましたが、
今日はサーカスの公演日でしたから、安心して帰ることができました。
あの夜の後、母親は何事もなかったようにジョハンに笑顔で接しました。
だからジョハンも心配をかけないように、そしてできるだけ側にいられるよう前より
熱心に手伝いをして夜中に家を抜け出して公園に行くこともなくなりました。
空が紅くなり始めた頃、時計は六時を少し回っていました。
ジョハンが叔父さんからもらったパンとチーズを包みからあけた時、内職の編み物をしていた母親が口を開きました。
「今日は、サーカスよね・・・」
ジョハンは背筋が凍りついた気がしました。
いままで一言もサーカスについて触れなかった母親がよりにもよって当日に喋ったことにとても驚いたのです。
ジョハンは素っ気ないことを意識して答えます。
「・・・・・・うん」
「ピエロさんからせっかくもらったのに、行かないの?」
「なんでしってるの!? あっ」
思わず口走ってしまい、ジョハンは口を押さえました。
すると母親は、その仕草が可愛いというような笑みを浮かべて呟く。
「早くお行き、始まるわよ」
ジョハンは首を左右に振ります。
「どうして行かないの? 母さんのことは気にしなくていいのよ」
母親は怪訝そうに、ジョハンの足下に座り込み肩をさすってやりながら息子の瞳を覗き込んだ。
ジョハンは涙をこらえて、
「母さんが泣いているところを見たくないんだ。僕がずっと側にいれば悲しい思いをしなくてすむでしょう?」
言い終わると、母親の目元から一筋の涙が流れました。
ジョハンが心配そうに顔を見ると、母親はとても嬉しそうに笑っていました。
悲しみとはほど遠い、息子の言葉に心から喜ぶ女性の姿がそこにはありました。
母親はジョハンの肩を一度揺すってやると、涙で潤んだ目でじっとジョハンの目を見ます。
「ばかねぇ、あれは嬉し泣きよ。いままでずっと耐えてたのが溢れただけ、
じつはねお父さんが帰ってきたの。この公演が終わればずっと一緒よ家族三人で暮らせるの」
「え、ええーと・・・」
ジョハンは訳が分からずに小首をかしげた。
母親は震える声を必死に抑えて続ける。
「さぁ行っておいで。お父さんのピエロ、しっかり見てきなさい」
「・・・・・・」
理解した途端、ジョハンの瞳から大粒の涙が流れました。
一度も母親の前で見せなかった涙と嗚咽。
でもその涙は、母親と同様に暖かく喜びに満ちていました。
そして母親は「いってらっしゃい」と優しく抱きしめました。
ジョハンはうん、と笑顔で頷くと勢いよく外へと飛び出して、
涙を拭くことも忘れてサーカスのテントへ向けて全力で走りました。
あの夜から捨てるに捨てられずに持っていた赤いボールが
ポケットの中でジョハンに力を与えていたのかもしれません。
その走りは疲れもなく、怯えもない、力強く逞しいものでした。
一回童話調で書いてみたいなの思いのみで書きました。