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母子手帳のすみっこ

作者: 遊可くるみ
掲載日:2026/04/16


第一章 泣き声の海



 午前二時十七分。


 真帆はスマートフォンの画面で時刻を確認して、すぐに伏せた。見なければよかった。時間を知ると、疲労が数字になって体にのしかかってくる。


 紬が泣いている。


 もう三時間になる。抱いて、揺らして、背中をさすって、歌を歌って、おむつを替えて、もう一度抱いて。やれることは全部やった。でも泣き止まない。理由がわからない。生後一ヶ月の赤ん坊は、理由を教えてくれない。


 リビングを横切る。抱いたまま、同じ軌道を何度も往復する。首の据わらない頭を片手で支えながら。足の裏が床の冷たさを忘れている。感覚がない。腕の中の三キロが、四キロが——紬の体重すら正確に思い出せない。この前の検診で何と言われたか。手帳に書いたはずだ。書いた、はずだ。


 泣き声が鼓膜の奥まで浸透して、思考の隙間を埋めていく。波のようだと思う。寄せては返す波。ただし引くことのない波。際限なく押し寄せてくる、泣き声の海。


 真帆はその海の底で、立っている。



◇◇◇



 授乳を試みる。


 ソファに座り、授乳クッションを膝に置いて、タオルで高さを調整して、紬の頭を支える。何度もやった動作だ。本で読んで、動画で学んで、産院で助産師に教わった。正しいはず。正しいやり方のはず。


 紬が乳首に吸いつく。


 ——痛い。


 歯を食いしばる。乳首の先が裂けていて、吸われるたびに傷口が開く。昨日できた水ぶくれが潰れた跡がひりひりと熱い。左は三日前から血が滲んでいて、ブラジャーに付けた母乳パッドに薄茶色の染みがつく。白いパッドに広がる色が、傷の深さを教えてくる。


 紬が乳首を離す。咥え方が浅い。何度やり直しても深く咥えられない。助産師は「赤ちゃんが口を大きく開けたタイミングに合わせて」と言っていた。でも紬はすぐに口を閉じてしまう。タイミングが合わない。真帆が乳首を近づけると、顔をそむける。近づけると、そむける。近づけると——


 紬が泣き出す。火がついたように、顔を真っ赤にして。


 真帆は乳首を引っ込めて、紬を肩に抱き直す。痛みが、じんじんと脈打つように残っている。母乳パッドが擦れるだけで息が止まりそうになる。


 ミルクにすれば楽になる。わかっている。頭ではわかっている。粉ミルクを溶かして、哺乳瓶で飲ませればいい。紬も哺乳瓶のほうが上手に飲めるかもしれない。


 でも。


 母親学級で隣に座っていた女性が言っていた。「やっぱり母乳が一番ですよね」。笑顔だった。当然のことを確認するような笑顔。ネットの記事。母乳のメリット、免疫力、母子の絆。絆。


 この痛みの先に絆があるのなら、やめるわけにはいかない。


 真帆はそう思って、もう一度、紬を胸に近づける。紬はまた泣く。



◇◇◇



 午前三時を過ぎた頃、スマートフォンが震えた。


 健吾からのメッセージ。おやすみのスタンプ。出張先のロンドンは今、夕方の六時だ。時差が九時間ある。向こうの夕方がこちらの深夜になる。それが今の二人の距離だった。


 既読をつけた。返信するつもりはなかった。でもすぐに次のメッセージが来た。


『起きてるの? いま電話できる?』


 こんな時間に既読がついたことに気づいたのだ。真帆は画面を見つめた。紬が腕の中で泣いている。髪は乱れている。顔はひどいはずだ。電話に出たくなかった。でも出なかったら心配させる。心配されるのも、つらい。


『いいよ』


 一文字打つのに、数秒かかった。


 すぐにテレビ電話の着信が鳴った。真帆は泣いている紬を片腕で抱き直し、もう片方の手で応答ボタンを押した。画面にホテルの白い壁が映り、健吾の顔が現れる。出張先のロンドン。向こうの窓の外はまだ明るくて、健吾の笑顔がある。別の世界の映像のようだった。


「おー、起きてたんだ。紬ちゃん元気?」


 真帆はスマートフォンを少し傾けて、紬の顔を映す。紬はちょうど泣き止んでいた。画面越しの光に目を向けている。


「うわ、可愛い〜! めっちゃ大きくなってない? ほら、目がこっち見てるよ!」


 健吾が声を上げる。満面の笑み。画面の向こうで体を乗り出すようにして紬を見つめている。


「可愛いなあ。ほんと可愛い。真帆、ありがとね。頑張ってくれて」


 真帆は笑った。口角を上げて、「うん」と言った。大丈夫な母親の顔をした。


「ちゃんと寝てる? 無理しないでね」


「大丈夫だよ。この子も最近よく寝るようになってきたし」


 嘘だ。全部嘘だ。


 電話を切った。画面が暗くなり、真帆の顔が映る。笑っていなかった。目の下の隈が、暗い画面の中でもわかる。


 健吾は悪くない。仕事で離れているのは仕方がない。電話をくれるだけましだ。可愛いと言ってくれる。ありがとうと言ってくれる。


 でも、なぜだろう。


 画面越しに数分見ただけの人が「可愛い」と言える。毎日二十四時間一緒にいる自分には、その言葉が出てこない。


 なぜ。


 スマートフォンの写真フォルダを開く。妊娠中のエコー写真が出てくる。白黒の画面に浮かぶ小さな影。この写真を見たとき、胸が震えた。健吾と二人で泣いた。この子のために何でもしようと思った。名前を考えている時間が、あんなに幸せだった。紬。糸を紡ぐように、つながりを作って、そのつながりを大切にしていける子になってほしい。


 あの気持ちはどこに行ったのだろう。


 真帆はエコー写真を閉じて、泣いている紬を見た。


 何も感じない。


 母親学級で、みんな笑っていた。「もう可愛くて可愛くて」「寝顔見てるだけで幸せ」「この子のためなら何でもできる」。あの輪の中に自分もいたはずなのに。同じ言葉を、確かに自分も思っていたはずなのに。


 なのに今、この腕の中で泣いているこの子を見ても——


 可愛いと、思えない。


 望んで産んだ子だ。誰よりも欲しかった。自分が母親にしてもらえなかったことを、全部この子にしてあげようと決めていた。それなのに。


 真帆は唇を噛んだ。噛んで、声が漏れないようにした。泣きたいのは自分のほうだった。でも泣いていいのは赤ん坊だけだ。母親は泣いてはいけない。母親は——



◇◇◇



 部屋の隅に、光が灯った。


 小さな、淡い光。蛍のようだと思った。でも十二月に蛍はいない。


 光が動く。ふわりと浮いて、本棚の上からソファの肘掛けへ。丸い。ふわふわしている。小動物のような輪郭。大きさは両手に収まるくらい。体の表面が柔らかく発光していて、呼吸するように明滅している。


 目がある。丸くて黒い、ビー玉のような目。その目が、真帆をまっすぐに見ている。


「——この星の小さいのは、"音"で意思表示するんだね」


 声がした。高くも低くもない。性別のない声。どこかぼんやりとした、輪郭の曖昧な声。


「効率が悪い」


 真帆は凍りついた。紬を抱いたまま動けなかった。


 光る生き物は首を傾げた。傾げる、という動作があるのかどうかもわからない。丸い体がわずかに斜めになった。


「きみ、ずいぶん疲れてるね。質量が偏ってる。重力の受け止め方が雑になってる」


 真帆は口を開いた。閉じた。もう一度開いた。


「……なに」


「ぼくはポム」


「ポム」


「うん。ポム」


 光る生き物——ポムは、ソファの肘掛けの上でほんの少し弾んだ。


「きみの名前は?」


 真帆は答えなかった。答える代わりに、自分の頬を抓った。痛い。夢ではない。


 紬が泣いている。ポムが光っている。午前三時のリビングに、真帆は立っている。


 幻覚だと思った。睡眠不足で、ついに頭がおかしくなったのだと思った。でも否定する気力がなかった。もう何でもいい。幻覚でも妖精でも宇宙人でも。この泣き声が止まるなら何でもいい。


「真帆」


 自分の口がそう言っていた。


「ぼくは真帆って呼んでいい?」


「……好きにすれば」


 ポムの目がわずかに細まった。笑ったのかもしれない。わからない。


「真帆。きみのところの小さいの、すごい音量だね」


 紬が泣いている。変わらず、泣いている。ポムが来ても、何も変わらない。


 それでも真帆は——三時間ぶりに、自分以外の何かに声をかけられたという、ただそれだけのことで、ほんの少しだけ、息が楽になった気がした。


 気がしただけかもしれない。


 泣き声は続いている。



第二章 ポムの講義



 ポムは消えなかった。


 朝になっても、昼になっても、部屋の隅に浮かんでいた。淡い光は日中だとほとんど見えなくて、目を凝らすとかろうじて空気の揺らぎのようなものが見える程度だった。でもそこにいる。確かにいる。


 真帆は最初の一日、ポムを無視しようとした。幻覚に話しかける自分を認めたくなかった。でも紬が泣くたびにポムが何か言うので、無視しきれなかった。


「あの音はどういう信号なの?」


 紬がぐずり始めた昼過ぎ、ポムが聞いた。本棚の上に座って——座る、という表現が正しいのかわからないが——丸い体を落ち着けて、紬を見下ろしている。


「信号じゃない。泣いてるの」


「泣く?」


「……悲しいとか、つらいとか、お腹が空いたとか。そういうとき、人間は泣くの」


「へえ」ポムの体が少し明るくなった。興味を示しているらしい。「音を出すことで内部状態を外部に伝達するんだね。それって——音波による存在証明だ」


「存在証明」


「うん。"ここにいるよ"って、空気を震わせてる。すごく原始的だけど、確実な方法だね。音は壁を越えるし、暗闇でも届く。光より実用的かもしれない」


 真帆は紬を抱き上げながら、ポムの言葉を反芻した。存在証明。ここにいるよ。


 泣き声をそんなふうに聞いたことはなかった。「泣き止ませなきゃ」「どこか具合が悪いのかも」「自分の対応が間違っているのでは」。いつもそればかり考えていた。


「でも、受信側がずっと聞いてると壊れない?」ポムが首を傾げる。「きみ、だいぶ壊れかけてるよね」


「……うるさい」


「うるさい? 音量が大きいのは確かだね。この小さいのはなかなかのスペックだ」


 真帆は何も言わなかった。紬を揺らしながら部屋を歩く。いつもの軌道。ソファの角を回って、テレビの前を通って、キッチンの入口で折り返す。


「あ、止まった」


 ポムが言った。紬が泣き止んでいた。真帆の肩に頭を預けて、目を閉じている。


「振動が効いたんだね。反復する規則的な揺れが情報圧縮を促進する——つまり、きみが歩くとあの小さいのは眠る」


「そんなの知ってる」


「知ってるのにやめられないの?」


「やめたら起きるから」


「じゃあ永遠に歩くの?」


 真帆は答えなかった。答えたくなかった。答えは「はい」に近かった。



◇◇◇



 ポムの「講義」は、翌日も続いた。


 授乳の時間。真帆がソファに座り、紬を抱えて乳首を含ませようとしていた。紬は口を開けるが、浅くしか咥えられない。何度か試みて、紬が顔を背ける。


「あれは何をしてるの?」


 ポムが近づいてきた。真帆の肩の上あたりに浮いて、じっと見ている。


「……授乳。この子にごはんをあげてる」


「きみの体から?」


「そう」


「エネルギーの受け渡しか。直接的だね。でも——すごく痛そう」


 ポムの観察は正確だった。真帆の乳首は赤く腫れていて、左側は亀裂から血が滲んでいた。水ぶくれの跡が白くなっている。


「痛いよ」


「痛いのにやるの?」


 真帆は答えられなかった。なぜやるのか。母乳がいいと言われているから。母親なら当然だと思われているから。この痛みを超えた先に、何かがあると信じているから。何かって何だ。わからない。でもやめられない。


「ぼくの星ではエネルギーは環境から直接吸収するよ」ポムが言った。「個体が別の個体にエネルギーを渡すなんて、聞いたことがない。効率が悪すぎる」


「効率の問題じゃないの」


「じゃあ何の問題?」


「……わからない」


 紬がまた泣き出した。乳首を離して、顔を真っ赤にして泣く。真帆は紬を肩に担ぎ直して、背中をとんとんと叩いた。自分の胸が、じくじくと痛んでいる。


「ねえ真帆、あの液体を別の容器に入れて渡すのはだめなの?」


「……搾乳ってこと?」


「わからないけど、直接渡す必要ある? きみが壊れたら、渡す元がなくなるよ」


 正論だった。ポムの言葉はいつも的を外しているようで、ときどき妙に正確に刺さる。


 でも真帆は首を振った。


「そういう問題じゃないの」


「きみはよくそう言うね。"そういう問題じゃない"って。じゃあどういう問題なの?」


 真帆は答えなかった。答えられなかった。本当は自分でもわかっていない。なぜこんなに自分を追い詰めるのか。なぜ楽な方法を選べないのか。誰かに罰を与えられているような気がする。でも罰を与えているのは、自分自身だ。



◇◇◇



「抱くっていう行為は面白いね」


 夕方、紬を抱いてあやしているとき、ポムが言った。テレビの上あたりに浮いて、こちらを観察している。


「二つの質量が近づくと安定する。これは物理的に正しいんだよ。重力は距離の二乗に反比例するから、近ければ近いほど引力が強くなる。きみたちがやってるのは——重力共有行為だ」


「大げさ」


「大げさ? でも事実だよ。きみがあの小さいのを持ち上げて胸に近づけると、二つの重心が一つに近づく。物理的に、きみたちは一つの系になる。ぼくから見ると、すごく安定して見える」


 真帆は紬を見下ろした。泣き疲れて眠りかけている。体重が腕にかかる。重い。重くて、温かい。


「安定してるように見える?」


「うん」


「全然安定してないよ」


「そう? でもあの小さいの、さっきより静かだよ」


 確かに紬は静かだった。真帆の胸に頬を押し当てて、小さな拳を握っている。


「重力共有か」


「重力共有。ぼくの星にはない概念だよ。個体が別の個体を持ち上げるなんて、非効率すぎてやらない。でも、きみたちはやるんだね。壊れかけてるのに、やるんだね」


 ポムの声にはいつも感情がないように聞こえる。観察と記述。それだけ。でもこのとき、真帆はポムの言葉の中に、何か——感嘆のようなものを、聞いた気がした。


 気がしただけかもしれない。



◇◇◇



「ねえポム」


「なに?」


「眠りたい」


「眠ればいいよ」


「この子が起きる」


「どのくらいで起きるの?」


「わからない。三十分かもしれないし、十分かもしれない」


「十分の睡眠に意味はあるの?」


「ないよ。でも十分でも横になれたら——いや、意味ないか」


「きみの星の生き物は、定期的に意識を手放す必要があるんだよね。それはメンテナンスだよ。情報の圧縮作業。あの小さいのはすぐ起きるけど、それは圧縮率が悪いんだと思う。データが多すぎるんだ。全部新しい情報だから」


「全部新しい情報?」


「そう。あの小さいのは、見るもの聞くもの触るもの、全部が初めてでしょう? きみの顔も、天井も、空気の流れも。毎秒毎秒、新しいデータが入ってくる。だからすぐ容量がいっぱいになって、圧縮作業が必要になる。でも圧縮が追いつかないから、すぐ起きる」


「……だから夜泣きするの?」


「知らない。ぼくは仮説を言ってるだけ。この星の学者に聞いたほうがいいよ」


 真帆は少し笑った。ほんの少し。口角がわずかに上がった程度。でも笑った。昨日から数えて、二度目の笑いだった。


「ポムの説明、全部ちょっとずれてるよね」


「ずれてる?」


「うん。合ってるようで、合ってない」


「合ってないの?」


「でも、なんか……楽になる。少しだけ」


 ポムは黙った。それから、体の光をほんの少し強くした。嬉しかったのかもしれない。わからない。ポムの感情は、真帆にはまだ読めなかった。



◇◇◇



 夜。紬がまた泣き始めた。


 三十分前に寝かしつけたばかりだった。


 真帆は布団から這い出て、紬を抱き上げた。体が鉛のように重い。頭の中に霞がかかっている。自分が今何をしているのか、一瞬わからなくなる。


「あ、また音波だ」ポムが暗闇の中で光った。「存在証明の時間だね」


 真帆は何も言わずに紬を揺らし始めた。


 ポムは何か気の利いたことを言おうとしたのか、口を開きかけて、閉じた。真帆の顔を見て、何も言わなかった。


 泣き声はなかなか止まなかった。


 ポムの講義も、この泣き声は止められない。重力共有も、存在証明も、情報の圧縮も——言葉は面白い。考え方は新鮮だ。少しだけ息ができる。


 でも、朝は来る。夜泣きは終わらない。乳首は痛い。紬は泣く。


 現実は、何も変わらない。



第三章 愛せない告白



 紬が寝た。


 奇跡のような静寂だった。授乳して、げっぷをさせて、抱いて揺らして、背中をさすって、やっと目を閉じた。布団に下ろすとき、息を止めた。着地の振動で起きるかもしれない。ミリ単位で腕を下ろして、背中を布団につけて、そっと手を抜く。


 起きなかった。


 真帆はベビーベッドの柵を静かに上げて、その場にしゃがみこんだ。全身から力が抜ける。膝が笑っている。


 ソファまで移動して、崩れるように座った。テーブルの上に散らかった洗っていない哺乳瓶、ガーゼ、おむつやおしり拭き。片づける気力がない。目の前にあるのに、手が伸びない。


 ブラジャーをめくって、乳首に薬を塗る。チューブから出した軟膏を指に取り、そっと押し当てる。左の乳首は水ぶくれが潰れた跡が白くなっていて、周囲が赤黒く腫れている。触れるだけで鋭い痛みが走る。右も亀裂が入っていて、軟膏を塗ると染みた。


 自分の体が、この子の役に立たない。


 思うまいとしても、その考えが浮かぶ。母乳が出ないわけではない。出る。でも紬がうまく飲めない。咥え方が浅くて、乳首が潰れて、傷ができて、血が混じる。紬は血の味がする乳に顔をしかめて泣く。泣くから焦る。焦るとますますうまくいかない。


 自分の体ですら、この子を養えない。


「痛い?」


 ポムが近くに浮いていた。いつからいたのか。


「……うん」


「毎回痛いの?」


「毎回」


「それでも毎回やるの」


 真帆は軟膏の蓋を閉じた。手が少し震えている。


「やるよ。母親だから」


「"母親だから"?」


「そう。母親だから、やるの。みんなやってるの」


 ポムはしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。


「きみは"みんな"をよく使うね」


 真帆は顔を上げた。


「みんなやってる。みんなできてる。みんな可愛いって言う」


 ポムの丸い目が真帆を見ている。


「きみの星では、"みんな"がそんなに大事なの?」


「大事っていうか……普通のことだよ。普通にできることが、私にはできないだけ」


「"普通"もよく使う。ぼくの星にはその概念がないから、よくわからないけど」


 真帆は何か言い返そうとして、やめた。口を閉じて、天井を見上げた。リビングの照明は落としてあって、豆電球のオレンジ色の光だけが天井にぼんやりと広がっている。



◇◇◇



 静寂が長く続いた。五分か、十分か。紬はまだ寝ている。


 真帆の口が、勝手に開いた。


「——この子が、可愛いと思えない」


 声に出した瞬間、自分の中の何かが崩れた気がした。今まで頭の中だけで回していた言葉が、空気に触れて、本当のことになってしまった。


 ポムは何も言わなかった。


「母親なのに。産んだのに。みんな当たり前にできてることが、私にはできない」


 声が震えていた。抑えようとしたが、抑えきれなかった。


「……望んで産んだんだよ。すごく欲しかった」


 言葉が、堰を切ったように溢れ出す。


「旦那と二人で、赤ちゃんが来てくれるように何年もお願いした。妊娠がわかったとき、二人で泣いて喜んだ。名前を考えてる時間が幸せで、一日中名前の本を読んでた。紬って名前、糸を紡ぐっていう意味があるの。つながりを作って、そのつながりを大切にしていける子になってほしくて。私がもらえなかったもの——つながりとか、あったかさとか——全部この子にあげようって決めてた」


 ポムは黙って聞いている。


「自分は絶対にいい母親になるって思ってた。私のお母さんみたいにはならないって。ちゃんと笑って、ちゃんと抱きしめて、可愛いって言ってあげようって。あの人がしてくれなかったこと、全部してあげようって」


 声が途切れた。喉が詰まる。


「なのに今、この子を抱いても何も感じない。旦那はテレビ電話で数分見ただけで可愛い可愛いって大喜びするのに。私は毎日二十四時間一緒にいるのに。抱いて、あやして、おっぱいあげて、おむつ替えて。全部やってるのに。何も、感じない」


 真帆は自分の手を見た。荒れた指先。爪は短く切ってある。赤ん坊を傷つけないために。


「私がお母さんにされたことと、何が違うの。あの人も、きっとこんなふうに私を見てたんだ。何も感じないまま、義務でやってたんだ。私、あの人と同じだ」


 最後の言葉は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。


「名前、"紬"ってつけたの。つながりを作って、大切にしていける子になってほしくて。……でも最初のつながりが、私とのつながりが、できない」



◇◇◇



 長い沈黙があった。


 ポムの光が揺れていた。弱くなったり、強くなったり。何かを考えているのかもしれない。あるいは何も考えていないのかもしれない。


「ぼくの星ではね」


 ポムが口を開いた。


「"育てる"っていう行為がないんだよ」


「……知ってる。前に言ってた」


「うん。個体は個体のまま存在して、別の個体との間に"つながり"は生まれない。ぼくたちは最初から一人で、最後まで一人。だから——きみが言ってることの半分くらいは、正直よくわからない」


 真帆は何も言わなかった。


「でも」


 ポムが続けた。


「一つだけ、ぼくに観測できることがある」


「なに」


「きみはここにいる。あの小さいのもここにいる。きみはさっき、あの小さいのを布団に下ろすのに五分かけてた。ミリ単位で腕を動かしてた。起こさないように息を止めてた」


「……それは、普通のことだよ」


「ぼくにはそう見えない」


 ポムの声は平坦だった。感情を込めているのではない。ただ、見たものをそのまま言っている。


「愛してるかどうかは、ぼくにはわからない。その概念が、ぼくの中にないから」


 ポムは少し間を置いた。


「でも、きみがここにいて、あの小さいのがここにいる。きみがあの小さいのを起こさないように息を止めている。それは——観測できる」


 的外れだと思った。


 的外れだ。愛しているかどうかがわからないのがつらいのに。感情がないのが問題なのに。「ここにいる」なんて、そんな物理的な事実を言われても——


 でも。


 涙が出た。


 止めようとしたが、止まらなかった。声は出さなかった。ただ、涙だけが頬を伝って、顎先から落ちた。ソファのクッションに、小さな染みが広がる。


「……塩水が出てる」


 ポムが言った。


「故障?」


 真帆は泣きながら笑った。笑いながら泣いた。どちらが先かわからなかった。


「故障じゃない。これは……泣いてるの」


「泣く。音波による存在証明?」


「ちょっと違う」


「じゃあ何?」


「わからない。でも……止まらない」


 ポムは黙った。


 真帆は泣いた。声を出さずに、長い間泣いた。ポムはその間、少しだけ光を強くして、真帆の近くに浮いていた。何もしなかった。何も言わなかった。ただそこにいた。


 紬は眠っていた。


 静かな部屋に、真帆の呼吸だけが聞こえていた。



第四章 アルバム



「きみも小さかった時期があるの?」


 ポムが聞いたのは、紬のおむつを替えているときだった。


「当たり前でしょ」


「そうなんだ。きみもこれくらい小さかったの?」


 真帆は紬の足を持ち上げて、新しいおむつを敷く。手際は良くなった。最初の頃はおむつを一枚替えるのに十分かかっていた。今は三分でできる。上達しているのだと思う。上達していることに、何の感慨もない。


「この子くらい。三キロちょっとで生まれたって聞いてる」


「へえ。きみにも、きみを生んだ個体がいるんだ」


「母親ね。いるよ」


「その個体は?」


「……いるよ。遠くに」


 ポムはそれ以上聞かなかった。真帆の声のトーンが変わったことに気づいたのかもしれない。あるいは気づいていないのかもしれない。ポムの観察力は鋭いときとそうでないときの差が激しい。


 紬のおむつを替え終えて、ロンパースのスナップを留める。紬は天井を見ている。何を見ているのだろう。天井に何があるのだろう。


「ねえ真帆。きみが小さかったとき、どんな顔してたか知ってる?」


「知らない」


 言ってから、少し気になった。紬の顔を毎日見ている。丸い頬、細い眉、小さな鼻。この顔は誰に似ているのだろう。健吾に似ていると言われることが多い。では自分には似ていないのか。自分の赤ん坊の頃の顔を、真帆は知らなかった。



◇◇◇



 押し入れの上段に、段ボール箱がある。


 結婚するとき、実家から送られてきた荷物。真帆が取りに来ないから、母が業者に頼んで送ってきた。届いたとき、真帆はテープを切っただけで中身を確認しなかった。そのまま押し入れに入れて、三年が経っている。


 紬が昼寝をしている隙に、真帆は押し入れを開けた。段ボールの上に布団圧縮袋が積まれていて、それをどかすのに手間取った。体力が落ちている。こんな重さのものが持ち上げられなくなっている。


 段ボールを床に下ろして、テープを剥がす。中から出てきたのは、卒業アルバム、成績表のファイル、小学校の文集、折り紙で作った何か——そして、小さなアルバムが二冊。


 一冊は真帆の七五三のアルバム。もう一冊は、もっと古い。表紙が黄ばんでいて、角が擦れている。開くと、赤ん坊の写真が貼ってあった。


 自分だ。


 ぷくぷくとした頬。目を閉じて眠っている。包まれた白い毛布。病院の、硬い照明。


「それがきみ?」


 ポムが肩の上から覗き込んでいた。


「……たぶん」


 ページをめくる。退院の日。母に抱かれた自分。母の顔は——


 真帆は手を止めた。


 母は笑っていなかった。唇は結ばれていて、目は真帆を見ているようで、少し焦点が合っていないようにも見えた。疲れた顔だった。二十代の、若い顔。でも疲れていた。


 ただ——両腕は、しっかりと真帆を抱いていた。


 真帆はその写真を長く見つめた。何かが胸の中で引っかかる。言葉にならない。硬い結び目のような何かが、胸の奥にある。ほどこうとすると指がすべる。


 ページの間に、何か挟まっている。


 薄い冊子。表紙にひよこの絵が印刷されている。


 母子手帳だった。自分の母子手帳。


 開く。一ページ目。母の字。


 几帳面な字だった。定規で引いたような真っ直ぐな字。出生時体重、三一二〇グラム。身長、四十九センチ。出生時刻、午前六時十二分。分娩所要時間、十八時間。


 十八時間。


 真帆は一瞬、その数字に目が留まった。十八時間。母は、十八時間かけて自分を産んだ。


 次のページ。一ヶ月健診の記録。体重、四二〇〇グラム。「経過良好」。母の字で「よく泣く。理由がわからない」と書いてある。


 ——よく泣く。理由がわからない。


 真帆は母子手帳を閉じた。


 急に息苦しくなった。あの人の字を、これ以上見たくなかった。几帳面で、硬くて、事務的な字。感情の見えない字。この手帳のどこにも「可愛い」とは書いていなかった。「嬉しい」とも。ただ数字と事実だけが、正確に記録されていた。


 やっぱり、あの人はそうだったのだ。


 閉じるとき、ページの端に何かが見えた。小さな——落書きのような。鉛筆で描かれた、丸い何か。


 見なかった。見ないまま、母子手帳をアルバムの間に戻した。



◇◇◇



「ねえ、ポム」


 段ボールをしまいながら、真帆はふと口を開いた。


「なに?」


「前にも会ったことある気がする。あんたのこと、どこかで見た気がする」


 ポムは本棚の上で体を揺らした。考えているのかもしれない。


「ぼくは何度もこの星に来てるよ」


「何度も?」


「うん。でも、誰に会ったかは覚えてない」


「なんで?」


「ぼくたちは"関係"を保存できないから」


 真帆は段ボールを押し入れに戻す手を止めた。


「関係を保存できない?」


「うん。ぼくの星では、個体と個体の間に"つながり"が生まれないんだよ。だから"誰かに会った"っていう情報は、ぼくの中に残らない。会って、話して、離れたら、それで終わり。次に来たとき、ぼくはまた何も知らない状態で来る」


「……寂しくないの」


「寂しい?」


「誰にも覚えてもらえないのに」


「覚えてもらう、っていう概念がないからなあ。ぼくは平気だよ。平気っていうか——その感覚がないから、平気も寂しいもない」


 真帆はポムを見た。淡く光る、丸い体。ビー玉のような黒い目。確かに、以前にもこの目を見た気がする。いつだろう。どこだろう。思い出せない。


 記憶の端に何かが引っかかっている。古い、古い記憶。手を伸ばすと霧のように消える。


「ポム」


「なに?」


「……なんでもない」


 真帆はアルバムの、母に抱かれた写真をもう一度見た。笑っていない母。でも、しっかり抱いている母。


 あの人にも、こんな時期があったのだろうか。泣き止まない赤ん坊を抱いて、午前二時のリビングを歩く夜が。「可愛いと思えない」と、誰にも言えなかった夜が。


 ——考えたくなかった。あの人のことは考えたくない。まだ、向き合えない。


 真帆は段ボールを押し入れに戻して、襖を閉めた。


 リビングに戻ると、紬が目を覚ましていた。泣いてはいない。天井を見ている。真帆が視界に入ると、口を小さく動かした。


 笑った——ように見えた。


 でも真帆の胸には、まだ何も響かなかった。



第五章 崩壊



 三日間、まともに寝ていない。


 正確には、合計で四時間ほどは眠ったはずだ。二十分ずつ、細切れに。紬が泣き止んで、布団に下ろして、自分も横になって、目を閉じたと思ったら泣き声で起こされる。その繰り返し。二十分の睡眠は睡眠と呼べない。意識が途切れて、また戻されるだけだ。体が回復する前に壊される。


 頭の中に霞がかかっている。それは昨日までの霞とは違う。もっと濃い。もっと重い。視界の端が暗くなっている気がする。気がするのではなく、実際に暗いのかもしれない。わからない。わからないことが、もうどうでもいい。


 キッチンのシンクに哺乳瓶が溜まっている。三本。洗わなければいけない。消毒もしなければいけない。でも手が動かない。シンクの前に立ったまま、何をしにここに来たのか忘れる。


 スマートフォンが鳴った。


 健吾からのメッセージ。


『週末帰れるかも。金曜の夜か土曜の朝になると思う。紬の顔見たい!』


 かも。


 真帆はスマートフォンを伏せた。返信しなかった。何を返せばいいのかわからなかった。「嬉しい」とも「待ってる」とも打てなかった。かも。帰れるかも。紬の顔見たい。可愛い顔を見て、可愛いと言って、日曜の夜にはまたロンドンに戻る。残されるのは自分だ。それでも笑顔で見送るのが妻で母親の役割だ。


 指が動かない。画面が暗くなるまで、メッセージを見つめていた。



◇◇◇



 授乳の時間が来た。


 紬を抱き上げる。泣いている。いつものことだ。いつものことなのに、今日は泣き声が頭蓋骨の内側に直接響く感じがする。反響して、増幅して、出口がない。


 ソファに座る。授乳クッションを膝に置く。紬を抱えて、胸を出す。


 乳首は——もう見たくなかった。左は亀裂が二本入っていて、かさぶたが浮いている。右は水ぶくれが新しくできていて、透明な液体が皮膚の下に溜まっている。触れると痛い。触れなくても痛い。母乳パッドが擦れるだけで、息を吸い込んでしまう。


 紬を近づける。口が開く。咥える。浅い。


 やり直す。離す。もう一度近づける。口が開く。咥える。——浅い。


 やり直す。


 三度目。紬が乳首を引っ張るようにして吸った。かさぶたが剥がれる感覚があった。鋭い痛み。声が出そうになるのを奥歯で噛み殺す。


 紬が口を離した。泣き出す。顔を真っ赤にして、体を反らせて、両手を振って。真帆の胸から離れていこうとするように。


 もう一度。もう一度。


 近づける。紬が顔を背ける。泣く。近づける。背ける。泣く。


 乳首から血が出ている。紬の口のまわりに、薄く赤い跡がついている。


 真帆は紬を膝の上に戻した。手が震えていた。見下ろすと、自分のパジャマの胸元に血の染みが広がっていた。


「真帆」


 ポムの声がした。「きみ——」


「大丈夫」


 大丈夫ではなかった。何も大丈夫ではなかった。



◇◇◇



 紬が泣いている。


 あやしている。抱いて、揺らして、歌って、背中を叩いて。一時間。一時間半。やめない。やめられない。やめたら何かが終わる気がする。何が終わるのかわからないが、終わってはいけない気がする。


 足が痛い。腰が痛い。肩が痛い。乳首が痛い。頭が痛い。全部が痛い。


 紬は泣き止まない。


 ポムが何かを言っている。言葉が頭に入ってこない。音として聞こえているが、意味に変換されない。


 泣き声だけが聞こえる。泣き声だけが世界のすべてになっている。この部屋に自分と紬しかいない。ポムの光すら目に入らない。


 壁に時計がある。午後八時。いつの間に夜になったのだろう。朝からの記憶が曖昧だ。紬にミルクをあげたか。おむつを替えたか。替えたはずだ。たぶん。


 紬が泣いている。



◇◇◇



 それは一瞬だった。


 紬が泣き声のトーンを上げた。甲高い、耳の奥を引っ掻くような泣き声。真帆の腕の中でのけぞるように体を反らせた。


 真帆の頭の中で何かが弾けた。


 ——消えてほしい。


 一瞬。本当に一瞬。まばたきよりも短い時間。でも確かに、その言葉が頭の中に浮かんだ。


 消えてほしい。この泣き声が消えてほしい。この子が消えてほしい。


 消えて。


 ——。


 真帆は凍りついた。


 自分が今、何を思ったのか。この腕の中の、自分が望んで迎えた子に対して。名前を考えるのが幸せだった子に対して。「つながりを大切にしていける子になってほしい」と願った子に対して。


 消えてほしいと、思った。


 血の気が引いた。足の先から体温が抜けていく。紬を抱いている腕だけが、異常に熱い。


 お母さんと同じだ。


 ——あの人も、こうだったのだ。


 あの笑わない顔。焦点の合わない目。事務的な母子手帳の記録。あの人も、自分を抱いて、同じことを思ったのだろうか。消えてほしいと。この泣き声が消えてほしいと。だからあの人は笑えなかったのだ。だから自分を愛せなかったのだ。


 そして自分も、同じところに立っている。


 断ち切ろうとした連鎖の中に、自分もいる。紬のために終わらせるはずだった連鎖を、自分が繋いでいる。


 ポムが何か言おうとした。口を開きかけた——丸い体が、ほんの少し前に出た。


 でも、言葉が出なかった。


 ポムの口が閉じる。開く。また閉じる。


 ポムには「関係性」がない。個体が別の個体に対して抱くこの感情——愛したいのに愛せない、守りたいのに壊してしまいそうだという、矛盾した、引き裂かれた感情。それを表す言語が、ポムの中にない。


 ポムの光が弱くなった。


 ポムは何も言えなかった。


 真帆は泣いている紬を抱いている。ポムは黙っている。部屋の空気が重い。泣き声だけが響いている。


 この部屋に、味方がいない。



第六章 いなくならなくてよかった



 紬を布団に置いた。


 そっと、ではなかった。丁寧に、でもなかった。ただ、置いた。紬の背中が布団に触れて、一瞬だけ泣き声が途切れた。それからまた、泣き出した。前よりも激しく。


 真帆は立ち上がった。


 ベビーベッドの柵を上げた。手が震えていた。金具がうまく噛み合わなくて、三度目でようやくカチッと音がした。


 リビングを横切った。廊下に出た。寝室のドアを開けて、入って、閉めた。


 泣き声が遠くなった。壁一枚隔てただけなのに、くぐもって、輪郭がぼやけて、水の中で聞いているみたいだった。


 ドアにもたれて、しゃがみこんだ。膝を抱えた。額を膝に押し当てた。


 暗い部屋。カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいる。その光の筋の中を、ポムが浮いてきた。ドアを抜けてきたのか。壁を抜けてきたのか。わからない。ポムは物理法則をときどき無視する。


 ポムは真帆の隣に浮いた。肩の高さくらい。何も言わなかった。


 真帆も何も言わなかった。


 泣き声が聞こえている。くぐもった、遠い泣き声。存在証明。ここにいるよ、という音波。ポムの言葉が頭をよぎった。でも今は何の慰めにもならなかった。


 泣いていた。自分が泣いていることに、しばらく気づかなかった。涙が膝に落ちて、パジャマの布地に丸い染みを作っている。一つ、二つ、三つ。数えている自分がいた。数えることで、何かを繋ぎ止めようとしていた。


 声は出さなかった。泣き声を出していいのは赤ん坊だけだ。母親は声を出してはいけない。——誰がそう決めたのだろう。わからない。でもそう思っている。ずっとそう思っている。


 ポムの光が揺れていた。明滅のリズムがいつもより遅い。呼吸するように。いや、ポムは呼吸をしない。真帆の呼吸に合わせているのかもしれなかった。


 時間が過ぎた。


 五分か、十分か、三十分か。わからない。寝室の暗がりの中で、時間の感覚が溶けていた。あるのは自分の呼吸と、涙と、壁の向こうの泣き声だけだった。


 泣き声が——止まった。


 真帆は顔を上げた。


 静寂。


 完全な静寂ではない。冷蔵庫のモーター音。外を通る車の音。でも泣き声がない。紬の声がない。


 止まった。


 その瞬間、真帆の体を別の感情が貫いた。


 恐怖。


 もし。もし何かあったら。もし息をしていなかったら。もし、さっき布団に置いたとき、何か——


 泣き止んだだけだ。眠っただけだ。頭ではわかっている。赤ん坊は泣いて泣いて泣き疲れて眠る。それだけのことだ。理屈はわかっている。


 でも体が動いてしまった。


 立ち上がった。ドアを開けた。廊下を歩いた。リビングに入った。ベビーベッドの前に立った。


 紬は眠っていた。


 仰向けで。顔を少し横に向けて。小さな胸が、上下に動いている。呼吸している。生きている。


 布団から小さな手が出ていた。指が開いて、何かを掴もうとしているように見えた。何もない空中に向かって。


 真帆はベビーベッドの柵に手をかけて、紬を見下ろした。


 可愛いとは——まだ思えなかった。


 でも。


「いなくならなくて、よかった」


 声に出していた。ささやくように。自分にしか聞こえないくらいの声で。


 可愛いとは違う。愛しているとも違う。もっと手前の、もっと原始的な感情。この子がここにいること。息をしていること。それだけが、今の自分に必要なことだった。


 紬の手が動いた。真帆の指に触れた——わけではない。真帆の手はベビーベッドの柵の上にあって、紬の手は布団の上にある。触れてはいない。でも、同じ空間にある。同じ部屋の、同じ空気の中に、二つの手がある。


「……きみは、戻ってきたね」


 ポムの声がした。背後から。小さな声だった。


 真帆は振り向かなかった。ポムの言葉を聞いていたが、その意味はわからなかった。何に対して「戻ってきた」なのか。どこから戻ったのか。


 ポムには、わかっていたのかもしれない。真帆が寝室のドアの向こうに行ったとき、戻ってこない可能性があったことを。泣き声を閉め出したまま、そのまま立ち上がれなくなる可能性があったことを。


 あるいはポムには、そんなことはわかっていなかったのかもしれない。「関係性」を持たないポムには、ドアの向こう側に行くことの意味が——壁一枚が断絶になりうることの意味が——わからなかったのかもしれない。


 ポムはただ、事実を言っただけなのかもしれない。きみは向こうに行って、こちらに戻ってきた。それだけ。


 真帆は紬を見ていた。


 眠っている。安らかに。泣き疲れた安らかさだ。本当の安らぎではないかもしれない。でも今は、眠っている。


 真帆は布団から出ている紬の手に、自分の小指をそっと近づけた。触れるか触れないかの距離。紬の指が反射的に閉じて、真帆の小指の先をかすめた。


 温かかった。


 それだけだった。温かかっただけだった。でも、それだけのことが、今の真帆には——何かの始まりのように感じられた。


 何の始まりかは、まだわからない。



第七章 はじめての"可愛い"



 数週間が過ぎた。


 何かが劇的に変わったわけではない。紬は相変わらず泣く。夜中に起きる。真帆は寝不足だ。部屋は散らかっている。シンクには洗い物が溜まる。


 でも、小さな変化があった。


 哺乳瓶を使うようになった。


 いつからかは覚えていない。ある朝、乳首の傷があまりにも痛くて、無意識に粉ミルクの缶を手に取っていた。お湯を沸かして、計量して、溶かして、冷まして。哺乳瓶を紬の口に近づけると、紬は——あっさりと咥えた。


 ごくごくと飲んだ。


 真帆の胸からはうまく飲めなかったのに。哺乳瓶からは、何の抵抗もなく飲んだ。


 その日、真帆は少し泣いた。自分の体では駄目で、道具を使えばいいのかと。今までの痛みは何だったのかと。でも翌日も哺乳瓶を使った。その翌日も。


 「母乳じゃなきゃ」という声が、頭の中でまだ小さく響いていた。でも以前ほどの力はなかった。声の輪郭がぼやけている。誰の声だったかも、もうわからない。自分の声か。母親学級の誰かの声か。ネットの記事の声か。どれでもあって、どれでもなかった。


 完全に母乳をやめたわけではない。朝、一回だけ。傷が少し治ってきた乳首で、短い時間だけ。紬がうまく咥えられたら。咥えられなかったら、哺乳瓶にする。


 それでいいのだと、自分に言い聞かせている。それでいいのだと——思えるようになりつつある。



◇◇◇



 紬の首が据わり始めた。


 抱き上げたとき、頭がぐらつかなくなった。真帆の肩に頭をもたれかけるのではなく、自分で持ち上げている。小さな力で、不安定に、でも確かに。


「あの小さいの、構造が変わったね」


 ポムが言った。


「首が据わったの」


「据わる?」


「頭を自分で支えられるようになるの」


「へえ。前は支えられなかったの?」


「赤ちゃんは最初、首の筋肉が弱いから、自分で頭を支えられないの。だから大人が支えてあげる」


「きみがずっと頭を支えてたんだ」


「……うん」


「大変だね。自分の頭と、別の個体の頭と、二つ分の頭を支えるの」


 真帆は少し笑った。最近、少しだけ笑えるようになっている。



◇◇◇



 何でもない朝だった。


 特別なことは何もなかった。よく晴れた日で、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。真帆はキッチンに立って、哺乳瓶にお湯を注いでいた。紬はベビーベッドの中で目を覚ましていて、まだ泣いてはいなかった。


 お湯の温度を手首の内側で確かめる。少し熱い。もう少し冷ます。


 紬が声を出した。


「あ」


 泣き声ではなかった。短い、明るい声。


 真帆は振り返った。


 紬が真帆を見ていた。


 今までも目が合ったことはある。でもそれは視線がたまたま重なっただけで、紬が「真帆を見ている」のかどうかはわからなかった。赤ん坊の目は、まだ焦点が定まらない。動くものを追う。光を追う。それだけだと思っていた。


 でもこのとき、紬は——真帆を見ていた。


 真帆の目を。真帆の顔を。確かに、真帆を。


 そして、笑った。


 口角が上がって、目が細くなって、頬が丸く膨らんで。歯のない口が大きく開いて。


 笑っていた。


 真帆に向かって。真帆を見て。


 今まで何度も紬の笑顔は見てきた。授乳の後、眠りかけのとき、おむつを替えた後。でもそれは反射だと思っていた。生理的な反応。意味のない筋肉の動き。


 でもこの笑顔は違った。これは——自分に向けられたものだ。自分がここにいるから、自分の顔を見つけたから、笑っている。


 哺乳瓶を持ったまま、真帆は動けなかった。


 紬がもう一度声を出した。「あう」。手を伸ばしている。真帆のほうに。


「……可愛い」


 言葉が出ていた。


 考えて言ったのではない。胸の中から、喉を通って、勝手に出た。


「可愛い」


 もう一度。今度は声が震えていた。


 哺乳瓶をテーブルに置いた。ベビーベッドに駆け寄って、紬を抱き上げた。小さな体。温かい体。首が据わったから、頭を支えなくてもいい。紬は真帆の胸に頬を押し当てて、また声を出した。


 紬の手が真帆の指を握った。小さな指。五本の指が、真帆の人差し指を包むように閉じた。


 握っている。この子が、自分を。


 真帆は紬を抱いて、泣いた。声を出して泣いた。初めて、声を出して泣いた。泣いていいのは赤ん坊だけだと思っていた。でも今、真帆は泣いている。紬を抱いて、可愛いと思いながら泣いている。


 朝日がリビングに差し込んでいた。紬の髪の毛が光っていた。産毛のような、細い髪の毛。



◇◇◇



 ポムの声が、遠くなった。


「真帆」


 真帆は紬を見ていた。


「真帆?」


 紬の目が、真帆を見ている。真帆の目が、紬を見ている。二つの視線が交差している。その間に、何かが生まれている。名前のないもの。ポムの星にはないもの。


「真帆」


 ポムの声が聞こえていない。真帆の耳には紬の声だけが届いている。「あう」「あー」。意味のない音。でも真帆には聞こえる。ここにいるよ、と言っている。存在証明。音波による存在証明。でもそれだけではない。それ以上の何か。


 ポムの体が薄くなり始めていた。


 最初は光が弱くなったように見えた。朝日が明るいから、ポムの光が目立たなくなっただけかもしれない。でも違った。ポムの輪郭がぼやけている。体を構成しているものが——何で構成されているのか真帆は知らないが——希薄になっている。


 ポムは自分の手を見た。


 透けていた。


 手の向こうに、本棚の背表紙が見えた。


「……なんで?」


 ポムの声は小さかった。疑問。純粋な疑問。何が起きているのか、わからない。


 ポムは真帆を見た。真帆は紬を抱いて笑っている。泣きながら笑っている。ポムのほうを見ていない。


「真帆。ねえ。ぼくの声、聞こえてる?」


 聞こえていなかった。


 真帆は紬の頬に自分の頬を近づけて、目を閉じている。紬が真帆の髪を掴んで引っ張る。痛いはずだ。でも真帆は笑っている。


 ポムの体がさらに薄くなった。足元から消えていく。光が弱まるのではなく、存在そのものが薄まっていく。


「なにかしたかな」


 ポムの声が震えていた——いや、ポムの声は震えない。振動が不安定になっていた。存在が不安定になっているから、声も不安定になっている。


「ぼく、なにか間違えた?」


 ポムは真帆に話しかけ続けた。返事はない。真帆の耳に、ポムの声は届いていない。


 この部屋で何が起きているのか、ポムにはわからなかった。真帆と紬の間に成立したもの——「関係性」という、ポムの星には存在しない概念。個体と個体の間に生まれる、目に見えない繋がり。それが今、この部屋の空気を塗り替えている。ポムが存在できる余白を、埋めていく。


 でもポムにはそれが見えない。感じられない。「関係性」のセンサーを持たない生命体には、この部屋で何が変わったのかがわからない。ただ、自分の体が薄くなっていくことだけがわかる。声が届かなくなっていることだけがわかる。


 なぜ。どうして。何が起きた。


「真帆」


 最後にもう一度、名前を呼んだ。


 真帆は聞こえていなかった。


 ポムは紬を見た。紬は真帆の胸に顔を押し当てている。でも一瞬だけ——本当に一瞬だけ——顔を横に向けた。


 ポムのほうを見た。


 そして——笑った。ように見えた。


 ポムには「笑い」の意味がわからない。でもあの小さな顔の筋肉の動きが、何かを伝えようとしていることは——わかった。


 紬の目がポムを捉えている。まだ見える。この小さいのには、まだ見える。


 ポムの体がほとんど消えていた。光の点が二つ——目だけが残っていた。丸い、ビー玉のような目。


 最後に。


 ポムは何か言おうとした。でも声が出なかった。


 光が消えた。


 朝日の中に、ポムがいた場所だけが一瞬だけ暗くなって——すぐに光に溶けた。


 真帆は紬を抱いて笑っていた。窓の外で鳥が鳴いていた。


 ポムがいたことに、真帆は気づいていなかった。



最終章 母子手帳のすみっこ



 紬が七ヶ月になった。


 お座りができるようになって、両手を自由に使えるようになった。おもちゃを掴んでは口に入れ、飽きたら投げる。投げたものを真帆が拾って渡すと、また投げる。その繰り返しが延々と続く。


 前はそれが苦痛だった。何の意味があるのか。いつまで続くのか。この単調な繰り返しの中で、自分は消耗していくだけなのではないか。


 今は、少し違う。投げる。拾う。渡す。投げる。紬がおもちゃを手放す瞬間、こちらを見る。見ているのだ。投げた先に真帆がいることを知っていて、真帆が拾うことを知っていて、それが嬉しくて投げている。


 遊びだった。これは、遊びだった。



◇◇◇



 健吾とのテレビ電話。


 紬をカメラの前に座らせると、画面の向こうで健吾が手を振った。


「紬ちゃーん! パパだよ! 可愛い〜!」


 紬は画面を不思議そうに見ている。手を伸ばして画面を触ろうとする。健吾が笑う。


「可愛いなあ。真帆、ありがとね」


 真帆は紬の背中を支えながら、画面を見た。


「……うん、可愛いよね」


 口から出た言葉を、自分の耳で聞いた。嘘ではなかった。


 健吾が少し驚いた顔をした。何に驚いたのだろう。真帆が「可愛い」と言ったことか。真帆の声のトーンが変わったことか。


「元気そうだね、真帆」


「……うん。元気かどうかはわからないけど。でも、大丈夫」


 今度は、嘘ではなかった。完全な本当でもないかもしれない。でも以前の「大丈夫」とは、違う重さの言葉だった。


 電話を切った。画面が暗くなって、自分の顔が映った。目の下の隈はまだある。でも、口元が少し上がっていた。



◇◇◇



 検診の帰り道、真帆は紬をベビーカーに乗せて歩いていた。


 紬の母子手帳をバッグにしまう。体重、身長、成長曲線。すべて「順調」。小児科医に「よく育ってますね」と言われた。よく育っている。真帆が育てた——とは、まだうまく思えない。でも、この子がここにいるのは事実で、大きくなっているのも事実で、それは誰かがやったことで、その誰かは自分だ。


 帰宅して、紬を下ろして、荷物を置いて。


 ふと、押し入れのことを思い出した。


 あの段ボール。あのアルバム。あの母子手帳。


 数ヶ月前に一度開いて、すぐに閉じた。母の字を見たくなくて。「よく泣く。理由がわからない」という記述に心を抉られて。ページの端に見えた、小さな落書きのようなものを、見ないふりをして。


 真帆は押し入れを開けた。段ボールを下ろした。アルバムの間に挟まっていた母子手帳を取り出した。


 今度は、閉じなかった。


 ページをめくる。母の字。几帳面で、硬い字。出生時体重。身長。分娩所要時間、十八時間。


 一ヶ月健診。「よく泣く。理由がわからない」。


 三ヶ月健診。「夜泣きが続く。寝不足」。


 四ヶ月健診。記録の字が少し乱れている。いつもの几帳面さが崩れている。何も書かれていない余白が、不自然に広い。


 真帆は知っていた。この余白が何を意味するのかを。書けなかったのだ。あの人にも、書けなかった時期があったのだ。


 六ヶ月健診。字が戻っている。「首すわり、寝返り、順調」。事務的な記録。でもその行間に——真帆は今なら読める。字が戻ったことの意味を。書けるようになったことの意味を。


 ページをめくっていく。事務的な記録が続く。感情の見えない、数字と事実の列記。


 最後のページに近づいたとき。


 真帆の手が止まった。


 ページの隅に、小さな絵が描いてあった。


 鉛筆の、素朴な線。丸い体。ふわふわした輪郭。大きな丸い目が二つ。体の周りに短い線が放射状に描かれている——光を表現しているのだと、すぐにわかった。


 その絵の横に、母の字があった。


 いつもの几帳面な字とは違った。小さくて、少し丸みを帯びていて。硬い字を書く人が、一瞬だけ力を抜いたような字。どこか震えているようにも見えた。


『ポム、ありがとう』


 真帆は母子手帳を持つ手が動かなくなった。


 ポム。


 その名前を、知っている。知っているはずだ。どこかで聞いた。どこかで呼んだ。でも思い出せない。記憶の端に手を伸ばすと、霧のように消える。確かにあったはずの何かが、指の間をすり抜けていく。


 真帆は絵を見つめた。丸くて、ふわふわしていて、光っている何か。この絵を描いたのは母だ。あの感情を見せない人が。あの事務的な字で記録を埋めていた人が。この隅っこにだけ、こんな絵を描いた。こんな言葉を書いた。


 ありがとう。


 あの人が「ありがとう」と書いている。この手帳のどこにも「可愛い」とは書いていなかった。「嬉しい」とも「幸せ」とも書いていなかった。でもここに、ありがとうと書いている。何かに向かって。誰かに向かって。ポム、という名前の、何かに。


 あの人も——同じだったのだろうか。


 泣き止まない赤ん坊を抱いて、夜中の部屋を歩いた夜があったのだろうか。可愛いと思えない自分を責めた日があったのだろうか。消えてほしいと思って、その直後に凍りついた瞬間があったのだろうか。


 そして——ポムに、救われたのだろうか。


 母子手帳のすみっこに「ありがとう」を書くくらい、救われたのだろうか。


 涙が出た。


 理由はわからなかった。あの人を赦したいのか。あの人に赦してほしいのか。あの人も同じだったと知って安心したのか。同じだったと知って悲しいのか。全部だった。全部が混ざって、涙になって、頬を伝った。


 真帆は泣いた。母子手帳を膝の上に置いて、長い間泣いた。


 隣で紬が声を出した。「あー」。真帆の顔を見上げている。泣いている真帆を見て、不思議そうな顔をしている。


 真帆は涙を拭いた。手の甲で雑に拭いて、紬を抱き上げた。


「ごめんね。大丈夫だよ」


 この「大丈夫」は本当だった。


 紬を抱きながら、もう一度母子手帳を見た。あの小さな絵。丸くて、ふわふわしていて、光っている生き物。


 見覚えがある。確かに見覚えがある。でも——思い出せない。記憶の底に沈んだ石のように、そこにあるのにつかめない。


 紬が真帆の首にしがみついた。小さな腕が、真帆を掴んでいる。


 真帆は母子手帳を閉じた。


 閉じて、棚の上に置いた。押し入れの段ボールには戻さなかった。手の届くところに、置いた。



◇◇◇



 母子手帳のすみっこに描かれたその絵は——真帆の記憶のどこかにいる「それ」と、少しだけ形が違っていた。



今日もどこかで、ポムが光る。

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