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第八話:現実になった世界と、最初のフラグ



 「本日のご予定についてですが――」


 という使用人の言葉を聞いた瞬間に、ああこれはいよいよ物語が本格的に動き出すやつだなと直感してしまった私は、その続きをまともに聞く余裕もなく、とりあえず曖昧に頷いてその場を切り抜けたあと、逃げるようにして部屋を出た。


 いやだって無理でしょ。


 今の状態で「では本日は○○大臣との会談が〜」とか言われても、頭に入るわけがない。むしろその場で「すみません私このあと世界を救う予定なんで」とか口走りかねない。


「……落ち着け、落ち着け私」


 ぶつぶつと呟きながら廊下を歩く。


 やけに広い。


 やけに静か。


 そしてやけに足音が響く。


 この屋敷、ほんとに無駄にスケールがでかいというか、いや無駄ではないんだろうけど、精神的に余裕がない状態だと空間の広さがそのままプレッシャーになるというか、とにかく今はこの“公爵様の家感”がしんどい。


「……とりあえず外」


 そうだ、外に出よう。


 こういうときは空気を変えるのが一番だ。


 深呼吸。リセット。現実確認。


 どんなに状況がヤバくても、まずは呼吸だ。人間、呼吸してればとりあえずすぐには死なない。


 ……たぶん。


 そうして私は、半ば勢いに任せるような形で、ほとんど考える暇もなく屋敷の外へと足を踏み出した。冷静に状況を整理してから行動すべきだという理性の声がなかったわけではないが、それ以上に、この閉じた空間に居続けることで逆に現実感を失いそうだったのだ。だから、とにかく一度、外の空気を吸って頭をリセットしたかった。


 重厚な扉に手をかける。見た目通りの重さが腕に伝わり、押し開けるというよりは“押し分ける”という表現のほうがしっくりくるような感触とともに、ゆっくりと視界が開いていく。


 そして、その瞬間。


「……あ」


 思わず、声が漏れた。


 意識するよりも先に、息が止まる。


 視界が、一気に開けた。


 閉ざされていた空間から解放されたことで、遠近感が急激に戻ってくる。奥行きという概念が一気に押し寄せてきて、思わず足を止めてしまうほどの情報量が視覚から流れ込んできた。


 空が、広がっている。


 ただ広いだけじゃない。


 どこまでも抜けるように澄み渡った青が、天井のように覆いかぶさるのではなく、むしろ“どこまでも続いている”と錯覚させるほどの深さを持って存在していた。


 青い。


 本当に、青い。


 形容詞としての青では足りないくらいに鮮やかで、それでいて目に優しい澄みきった色彩。


 その中を白い雲がゆっくりと流れている。急ぐ様子もなくただ風に身を任せるように、しかし確かな方向性を持って動いているその姿は、時間そのものが緩やかに流れている証明のようにも見えた。


 頬を撫でる風はほんのりと乾いていて、高原特有の軽やかさを含んでいる。湿気の少ないその空気は吸い込むたびに肺の奥まで一気に入り込み、内側から身体を満たしていく感覚を伴って、嫌でも「これは現実だ」と認識させてくる。


 呼吸がこんなにも鮮明に感じられることがあるのかと、ほんの少し驚く。


 さっきまでいた“白い空間”がいかに異質だったのかを、今さらのように理解させられる。


 そして、目の前に広がっていたのは――


 フェーンハルト公都。


 クリスの領地の中心都市。


 そして、『Over World』という物語の中で、幾度となく訪れ、幾度となく見てきた、あの場所。


「……ほんとに、来ちゃったんだ」


 ぽつりと呟いた声は、風にさらわれるようにして消えていく。


 高原の上に築かれたその城塞都市は、青灰色の石壁によって厳重に囲まれており、その外観は一見すると無骨で、装飾を削ぎ落とした実用本位の印象を与える。だけどその直線的で無駄のない造形の中に、長い年月をかけて積み上げられてきた歴史と、そこに住まう人々の誇りのようなものが確かに息づいているのがわかる。


 城壁の内側には整然とした街並みが広がっていた。石畳の道は無駄な曲がりを持たず、効率的に各施設へと繋がっている。建物もまた華美な装飾を競うようなものではなく、機能性と耐久性を重視した造りが多い。それでもなお全体としての統一感と完成度の高さが、結果的に“気品”という形で現れているのが、この都市の特異な魅力だった。


 遠くには白い風車がいくつも並んでいるのが見える。ゆっくりと回転するその羽根は、風というこの土地の象徴をそのままエネルギーとして利用している証でもあり、この都市が自然と共存する形で発展してきたことを雄弁に物語っていた。


 街の中へと視線を移せば鍛冶場から細く立ち上る煙、規則正しく行き交う人々の流れ、それぞれが自分の役割を理解し、無駄のない動きで日常を回している様子が目に入る。職人、学者、騎士――誰もがこの都市の一部として機能していて、その全体像はまさに“機能都市”という言葉がふさわしい完成度を持っていた。


「……すご」


 思わず、素直な感想が口から漏れる。


 いや、ほんとに。


 綺麗だ。


 整っている。


 無駄がない。


 そして、どこか落ち着く。


 見ているだけで、この場所が長い時間をかけて築かれてきたことがわかる。


「……好きだったんだよね、この世界」


 ぽつりと呟く。


 そう。


 プレイヤーとして。


 画面越しに。


 安全な場所から眺める存在として。


 私は、この世界が大好きだった。


 重厚な設定。


 緻密に練り込まれた歴史。


 キャラクターたちが抱える葛藤と、その選択の重さ。


 どれもが魅力的で、何度も物語を追いかけ、そのたびに新しい発見があって、時には涙して、時には考えさせられて。


 ただの娯楽として消費するには、あまりにも濃密な作品だった。


 だからこそ。


「……当事者になるのは話が違うって」


 思わず、苦笑が漏れる。


 いや、ほんとに。


 見るのと、やるのとでは、全然違う。


 これはもう、比べるまでもない。


 しかもこれは“ゲーム”ではない。


 リセットもなければ、セーブもない。


 選択肢はあったとしても、その先にある結果は一度きりで“やり直し”はきかない。


 つまり。


「……詰んでる気しかしない」


 空を見上げながら、正直な感想を吐き出す。


 いや、景色は最高だよ?


 空気も美味しいし風も気持ちいいし、環境としてはむしろ理想的と言っていい。


 でもさ。


 この一見平和そうな風景の下に、“マナ枯渇”だの“世界崩壊”だの“人類と魔族の対立”だの、重たい要素がこれでもかと詰め込まれているって知ってる状態で眺めると、どうしても素直に感動しきれないというか、情緒が変な方向に引っ張られるというか。


「……はぁ」


 深く息を吐き出す。


 そして、もう一度、意識して吸い込む。


 ゆっくりと。


 肺いっぱいに。


 空気を取り込む感覚に集中することで、ほんの少しだけ頭の中の混乱が整理されていく。


 ほんの少しだけ。


 思考が、クリアになる。


 そのときだった。


「――どうなされました?」


 不意に、すぐ間近から声がした。


 それは甘い、という一言で片づけるにはあまりにも完成度が高すぎる声音だった。ただ柔らかいだけじゃない。耳に触れた瞬間、するりと奥まで入り込み、そのまま静かに残り続けるような妙に後を引く響きを持っている。なのに決して軽くはなく、むしろその奥には芯の通った硬質さが隠れていて、聞いた瞬間に「あ、この人ただ者じゃないな」と直感させるだけの説得力があった。


 私はほとんど反射で振り向いた。


 というか、振り向かざるを得なかった。


 だってそんな声、私の低スペックな脳で無視できるわけがない。


 そして。


「……あ」


 またしても、間の抜けた声が口からこぼれた。


 いやこれは仕方ない。仕方ないと思う。だって、そこに立っていたのは――


 一人の美しい女性だった。


 長い黒髪を後ろで緩やかにまとめていて、風に揺れるその毛先は光を受けてわずかに青みを帯びて見える。艶のある髪質がやたらと現実離れしているのに不思議と作り物っぽさはなく、むしろ“こういう人間が本当に存在する世界なんだな”と納得させられてしまうような自然さがあった。


 顔立ちは整っている、なんて言葉では到底足りない。端正、というよりは洗練されているというべきか、余計な感情を削ぎ落としたような静かな美しさがあって、どこか中性的ですらあるのにその奥に確かな意志が宿っているのがはっきりとわかる。特にその目だ。まっすぐにこちらを捉える視線には一切の揺らぎがなく、観察しているようでいて、同時に値踏みされているようなそんな居心地の悪さすら覚えるほどの鋭さを持っている。


 服装は豪奢とは程遠いが決して粗末ではない。むしろ実用性を徹底的に重視した結果として洗練された騎士装束に近い衣装で、無駄な装飾を削ぎ落としたその佇まいはこの国――いや、このフェーンハルトという土地の気質そのものを体現しているかのようだった。飾らない強さ、みたいなやつ。うん、たぶんそういう感じ。


 そして何よりも、目を引くのは。


 その存在感だ。


 ただそこに立っているだけだというのに、空気が一段、ぴんと張り詰めるような感覚がある。圧倒される、というほどではないけれど、確実に“格が違う”と本能が理解してしまう類のそれ。なんというか、背景のモブと同じ画面にいていい人じゃない。


「……え、ちょっと待って」


 思わず、声が漏れた。


 というか、漏らさずにはいられなかった。


 頭の中で、カンカンカンカンと警鐘が鳴り響いている。いやもう警鐘っていうかサイレン。非常ベル。緊急事態。完全にアウト寄りのアウト。


 だって、この人。


 知ってる。


 いや、知ってるなんてもんじゃない。


 見覚えがあるとかそういうレベルじゃない。


 もっとこう、脳の深いところに刻み込まれている感じのやつだ。


「……序盤ヒロイン……?」


 思わず、ほとんど無意識に呟いていた。


 そう。


 間違いない。


 このタイミングでこの場所で、この立ち位置で現れる人物なんて、選択肢は一つしか存在しない。いや選択肢っていうか、もう確定イベント。スキップ不可。回避不可。強制発生。あ、ダメなやつだこれ。


 フェーンハルト公都における最初のメインヒロイン。


 クリスの側近にして、護衛役。


 そして。


 ――“攻略対象”。


「……終わった」


 心の中で、静かにそう呟いた。


 いやだって無理でしょ。無理無理。何が無理って、この人、確実に“落としに来る側”じゃん。しかも序盤ヒロインってことは、イベント発生率高め、接触頻度多め、好感度の上昇もわりと素直なタイプのやつ。つまりどう転んでも関わらないわけにはいかない、回避不能のストーリーラインにがっつり組み込まれているポジションである。


 ということは。


 つまりそれは。


 物語が。


 本当に。


 始まってしまった、――ということだ。

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