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第二十五話:次の作戦は



 “記憶が少しなくなっている旦那様”



 ――うん、文字にするとだいぶ便利である。


 もちろん便利って言い方はよくないし、実際にはかなり綱渡りな方便なのだけれど、それでも「最近なんだか様子がおかしい」「前より確認が多い」「妙に言い回しがずれる」「突然庶民みたいな顔をする」みたいな、これまで私が全力で誤魔化そうとしていた違和感の数々に、とりあえず一応の説明がついたのは事実だった。


 サーシャ・ローウルフ、偉大すぎる。


 いやあの人ほんと何者なんだろう。見た目は妖艶美女エルフで、兄の最低な記憶が邪魔して一瞬いろいろ脳内が荒れたものの、実務能力だけで見たら完全に救いの女神だった。薬草と診断と人心掌握の配分がどうなってるのか知らないけれど、少なくともいまの私にとっては、あの人が「地下深層における高濃度霊脈異常接触後の軽微な記憶混線および感覚疲労」などという、長いくせに異様にそれっぽい診立てを用意してくれたおかげで、首の皮一枚どころか三枚くらいは繋がった気がする。


 そのおかげか、翌朝から屋敷の空気は、わずかに、しかし確実に変わった。


 誰も露骨には何も言わない。


 けれど、そこにある視線の質が変わったのだ。


 今までは「旦那様、なんだか最近……?」という観察と戸惑いが混じっていたものが、今は「旦那様は地下での件以降、少しお加減がよろしくないのだな」という理解と配慮へ寄っている。要するに、“怪しい人を見る目”ではなく“調子の悪い身内を見る目”に少し近づいたのである。


 これは大きい。


 ものすごく大きい。


 なにせ私は、この数日ずっと「私、何か変なことしてないかな」「いまの言い方、公爵としてズレてなかったかな」「その表情、庶民すぎなかったかな」と、常に自分の外見と空気感を内側から監視するみたいな状態で生きていたのだ。それが多少なりとも緩むだけで、精神の消耗具合が全然違う。


 朝、給仕のタイミングが少し遅れても「旦那様、本日はお加減を考慮して、食事は軽めにいたしました」と先回りで説明がつく。


 書類を前にして少し長く沈黙しても、「必要でしたら、前提から再整理いたします」とルシエラが言ってくれる。


 ガルドンの口数は相変わらず少ないが、そのぶん茶の出し方や、来客順の組み方、休息を挟む間の取り方に、以前より露骨ではない形の調整が入っている気がする。


 マリエンヌにいたっては、もともと優しいのに、最近はその優しさへ「無理をさせない」という一本の芯が通った感じがあって、こちらの言いよどみを急かさず、でも必要なときにはちゃんと話を前へ押してくれる。


 そしてエミーリアは、相変わらず緊張しがちなのに、最近は私へ何かを渡すたびに「えっと、もしご確認が必要でしたら、もう一度申し上げますね……!」みたいな、かわいいくせに実用的な気遣いを見せてくる。やめて、かわいすぎる。いや違う、そうじゃない。いま大事なのはそこじゃない。


 つまり。


 ひとまず、屋敷の中で変な疑惑の目を向けられることは少なくなった。――とは思う。


 思う、なのだ。


 ここ重要。


 確信ではない。


 あくまで“とは思う”なのである。


 なぜなら、この屋敷には優秀な人しかいないからだ。優秀な人というのは、表面の説明を受け入れつつ、その下にある違和感も別口で記録していたりする。つまり「サーシャ様の診立てだからひとまずそう理解しますね」と受け止めながら、内心では「でも旦那様、地下へ行く前から微妙に……」とか「記憶混線にしては反応が……」とか、そういうメモを心の中で取っていても全然おかしくないのである。


 特にルシエラ。


 あの人絶対、心の中に十段階くらいの観察チェックリスト持ってるでしょ。


 いやまあ、屋敷の実務を回してる立場なら当然なんだけど。調子の悪い当主がいたら、その症状が業務にどう響くか、どこまで負荷を減らすべきか、どこから先は本人へ戻すべきか、その見極めは必要になる。必要になるのはわかる。でも、わかるからこそ、こちらとしては気が抜けない。


 つまり、疑惑がゼロになったわけではない。


 ただ、「地下の件以降、少し混線がある」という説明によって、不審の色が薄れ、今後の変化へ猶予が生まれた、というだけだ。


 そして、猶予が生まれたからこそ、次にやるべきことが見えてきた。


 そう。


 次の作戦は、協力者の確保である。


 私は朝の執務前、窓際の長机に広げた自作ノート――題して『クリス・アルヴェイン周辺状況整理(暫定)』を見下ろしながら、深く息を吐いた。


 この数日、空いた時間を見つけては少しずつ書き足してきたそれは、もはやメモというより、異世界転生者の生存マニュアルみたいになっていた。公爵位の意味、フェーンハルトの構造、アルヴェイン家の立場、主要使用人の名前と役割、領内有力家のざっくり勢力図、帝都の主要窓口、今後起こりそうな原作イベントのメモ、リゼリアとの関係、サーシャの診立ての文言まで、かなりの情報が雑多に詰め込まれている。


 ものすごく大事なのだけれど、ものすごく他人に見られてはいけない代物でもある。


 特に「兄の記憶由来の最低な原作知識」とか「この子たぶん攻略対象」みたいな書き込みが混ざってるページ、ほんとに見つかったら終わる。公爵の秘密手帳としてはだいぶ終わってる。なのに私の頭の整理には必要なのだから困る。


 私はノートをぱたんと閉じ、机へ肘をついて考え込んだ。


 問題は山積みだ。


 書類は積み上がる一方だし、公爵としての業務も政務も、理解したからといって勝手に回り出すわけではない。むしろ理解した今だからこそ、どこがわからなくて、どこで足を踏み外すと危険なのかが余計に見えるようになった。


 帝都からの文書には、下手な返答をすれば余計な介入を招きそうなものが混ざっている。


 領内有力家との会食は、単なる顔合わせではなく、ここ数年の風路税負担と修繕費配分の空気まで引きずっているらしい。


 霊脈監理の記録は、表面だけ読めても意味がない。過去数年分の流れの変遷と異常値のクセを知らないと、数字の重みがつかめない。


 学院からの講義会招待ひとつ取っても、断るか出るかで人脈の温度が変わるかもしれない。


 要するに、全部が“なんとなく処理していいやつ”ではないのである。


 しかも私は、いまだに公爵の一日のリズムへ身体が完全には慣れていない。朝起きれば整えられた衣服と食事があり、その直後から執務と人の出入りが始まり、昼は会食か軽食か案件処理、午後は視察や面談や文書決裁、夕刻にまとめ、夜は報告や翌日の調整。どこに“ぼーっとしてていい時間”があるんですかねこれ。前世の私、仕事終わりにコンビニ寄ってスイーツ買うくらいの余白はあったんだけど?


 いや、ないか。


 終盤はわりと余白なかったかもしれない。


 でも少なくとも、公爵よりはマシだった。


 私は再びノートを開き、新しいページへこう書いた。


 次の作戦:信頼できる使用人たちへ状況を説明し、協力体制を作る


 うん。


 方向性はこれだ。


 変な疑惑の目が薄れた今のうちに、こちらから一歩踏み込んで、最低限の協力者を作る必要がある。サーシャの診立てという“正式な説明”が手元にある以上、それを軸にして、どこまで何を共有するかを計画立てれば、今後の生存率はかなり上がるはずだ。


 なにせ、公爵の業務は一人で回すものではない。


 これはもう、この数日で骨身に染みてわかった。


 元のクリスが優秀だったとしても、全部を一人でこなしていたわけではない。ガルドンがいて、ルシエラがいて、マリエンヌがいて、文書係がいて、会計係がいて、屋敷中の人々が機能を分担している。その“分担された仕組み”の中へ、私も今の状況に合わせて入り直さなければならないのだ。


 完璧な公爵を演じるのではなく、混線がある当主として、どう補佐を受けるか。


 そこへ意識を切り替えないと、この先はもたない。


 よし。


 そうと決まれば、まずは対象の選定である。


 ここで大事なのは、“信頼できる”と“仕事上必要”が一致している人を選ぶことだ。なんでもかんでも屋敷中へ共有するわけにはいかない。軽微な記憶混線とはいえ、当主の変調は政治的な意味を持つ。使用人の間で必要以上に広まれば、それはそれで余計な不安を招く。


 だから、最初に話を通すべきは少数。


 まず、ガルドン。


 執事長であり、屋敷運営の要。年配で、口が堅く、感情を表へ出しすぎない。たぶん今の時点でもだいたい察してる。察してるけど、こちらが正式に言葉にしない限りは踏み込まないタイプだ。こういう人には、逆に最初から筋を通した方がいい。


 次に、ルシエラ。


 これは外せない。実務補佐の中心で、執務や日程や書類の流れを握っている。私が何を理解していて、どこから確認が必要かを一番現実的に調整できるのは彼女だろう。ただし、そのぶん最も厳しくもある。中途半端な話では通らないし、甘えた言い方も逆効果になりそうだ。


 そして、マリエンヌ。


 彼女は表向き家政寄りだけれど、実際には私室周りや生活導線を支える中心にいて、日常的な違和感の吸収役として非常に重要だ。しかも優しい。優しいだけじゃなく、人が疲れているときにどこまで口を出し、どこで引くかのバランス感覚がある。今後“当主が少し変わった”空気を屋敷の中でやわらかく受け止めるためには、彼女の存在が大きいはずだ。


 ここまでが最低ライン。


 エミーリアは、正直かわいいし、悪い子じゃないし、むしろ一生懸命で応援したくなるんだけど、まだ若いし、いきなり重たい話を共有する相手としては荷が重いかもしれない。伝言や実務補佐の上では頼れるが、核心へ入れるには少し早い。


 サーシャはもちろん別枠だ。医療と診立ての立場として、すでに協力者に近い。だから今回の“説明会”にわざわざ入れる必要はない。むしろ後ろ盾として控えてもらった方がいい。


 リゼリアは……うん。


 そこはまだ早い。


 彼女には彼女で話すべきことがあるし、地下神殿の件を共有した相手でもあるけれど、帝都側の人間であることは変わらない。いま必要なのは公爵邸内部の基盤固めだ。彼女を頼りたい気持ちはあるけど、現段階では線引きが必要だろう。


 私は対象者の名前をノートへ書き、二重丸をつけた。


 第一段階:ガルドン/ルシエラ/マリエンヌ


 ……うん、怖いな。


 すごく怖い。


 でも、ここでやらなければ結局あとで詰む。


 私はそこまで考えたところで、ふと頭を抱えた。


 いや待って。


 “事情を説明する”って、具体的にどこまで?


 ここが難しい。


 当然ながら、「中身は別人です」は言えない。そこはサーシャにも言っていないし、ここで出す気もない。では何を言うか。


 地下神殿以降、記憶や感覚へ軽い混線がある。


 大枠の人格や役割意識は保たれているが、一部については以前より確認を要する。


 無理に隠しながら進めるより、補佐を前提に再整理したい。


 業務優先順位の可視化と、日常導線の補助がほしい。


 ――このあたりか。


 うん。


 言葉にすると、わりとまともだ。


 つまり私は、“全部忘れた可哀想な旦那様”になるわけではない。“重要な役割は果たす意思があるが、細部の再整理が必要な当主”として位置取りをしたいのだ。それなら相手も仕事として受け止めやすいし、こちらの尊厳もまだ守れる。


 よし。


 筋は見えた。


 そこまで決めたところで、ちょうど扉がノックされた。


「失礼いたします」


 ガルドンだ。


 なんなのこの人、タイミングが心を読んでいるのでは?


「どうぞ」


 声をかけると、彼はいつも通り無駄のない所作で入ってきた。黒を基調にした執事服は一分の乱れもなく、銀の髪には年相応の落ち着きがあり、姿勢は静かにまっすぐだ。見ているだけで「ちゃんとしてる人」という圧がある。こういう人が家にいると安心だろうなと思う反面、私みたいな内面ガタガタ人間にはちょっと緊張もする。


「朝食の準備が整っております。その前に、本日の文書優先度を簡単にご確認いただければと」


「……ちょうどよかった」


 私はそう言って、机の前へ立ったままガルドンを見た。


 彼はわずかに首を傾げたが、すぐに言葉を待つ姿勢になる。この“問いを急かさない”感じ、ほんとに助かる。


「本日の執務へ入る前に、あなたとルシエラ、マリエンヌに話しておきたいことがある」


「かしこまりました」


 表情は変わらない。


 でも、たぶんこの人、すでに中身の半分くらいは察してるな?


 そんな確信めいたものを抱きながら、私は続けた。


「地下以降の私の状態について、改めて共有したい」


 そこで初めて、ガルドンの目がほんの少しだけやわらいだ。


「承知いたしました。皆、必要としていたお話かと存じます」


 うっ。


 そう言われると、ちょっと刺さる。


 必要としていた、か。


 つまりやっぱり、周囲もかなり気にしていたのだろう。何がどうとは言えなくても、当主の変化を見て、でも深入りしすぎず、診立てが出るのを待っていた。そういう空気があったのだと思うと、申し訳なさとありがたさが同時に来る。


 私は小さく頷いた。


「朝食後、時間を取れる?」


「整えます」


 その短い返答だけで、会はもう半分決まったようなものだった。ガルドンは一礼して退室していき、その背を見送りながら私は胸の奥に変な緊張が増していくのを感じる。


 いよいよだ。


 本格的に、屋敷の中へ“今の私”を通し始める。


 いや、全部の私じゃないけど。


 でも少なくとも、前よりはずっと本当寄りの形で。


 朝食は、相変わらず丁寧に整えられていた。


 高原乳で作ったやわらかいスープ、薄く焼いた雲麦パン、軽く火を通した野菜と香草、温かい茶。以前よりも量が少し控えめなのは、たぶんサーシャの診立てが反映されているのだろう。地下から戻った後は胃に負担をかけない方がいい、という名目があるにしても、こうして生活の細部へ気遣いが落ちてくるのを見ると、この家がどれだけ“当主の状態”を前提に回っているかがよくわかる。


 怖いけど、同時に助かる。


 前世の会社だったら、体調悪くても「でも締切が」で終わってたかもしれない。いや、たぶん終わってた。そう思うと、アルヴェイン家、組織としてはかなり人道的なのでは……? いやその分、背負う責任が重いから単純比較はできないんだけど。


 食事を終えた頃には、もう逃げ道はなくなっていた。


 ……いや、逃げるつもりはないけど。


 ないけど、やっぱりちょっと胃は痛い。


 応接というほど大げさではない、小さめの談話室が用意されていた。公的空間と私的空間のあいだみたいな部屋で、深い青の椅子と小卓、書き物用の脇机、窓際には淡いレース越しの光。格式ばりすぎず、それでいて当主が使用人と立ち話するよりはちゃんとしている。その絶妙な位置づけが、今日の話にちょうどよかった。


 先に入っていたのは、ルシエラとマリエンヌ。


 ルシエラはいつも通り姿勢がよく、帳面を抱えている。どうしてこの人は話し合いの場でも最初から記録体勢なのだろう。仕事ができすぎる。そして怖い。いや助かるんだけど。


 マリエンヌはやわらかな色のドレスエプロン姿で、しかし表情にはいつもの穏やかさだけでなく、少しだけ真剣な気配があった。人の心配をするときの、静かな強さだ。


 遅れてガルドンが入り、扉が閉まる。


 よし。


 もうやるしかない。


 私は席につき、三人を順に見た。


 改めて思う。


 顔面偏差値が高いなこの屋敷。


 いやいまはそこじゃないけど。そこじゃないんだけど、緊張すると脳がこういう方向へ逃げようとするのかもしれない。ルシエラは無駄なく綺麗だし、マリエンヌは安心感のある美人だし、ガルドンはガルドンで渋い。なんなんだこの家。採用基準に“顔立ち整ってること”とか入ってる? 入ってないよね? さすがに入ってないよね?


 私は心の中で無駄なことを考えつつ、声を整えた。


「集まってもらってありがとう」


「いえ」


 代表して答えたのはガルドンだった。


「旦那様からのお話であれば、当然のことにございます」


 うっ。


 こういう丁寧な忠誠、いまだにちょっと気圧される。私は中身一般女子なので、「当然のことにございます」と真顔で言われると、ありがとうございますというより、すみませんという気持ちが先に来るのだ。


 でも、今日ばかりはそこへ引っ張られてもいられない。


「結論から言う」


 私は自分の膝の上で指先を組み、なるべく簡潔に切り出した。


「サーシャの診立て通り、地下神殿の件以降、私の中には軽い混線がある。大きな判断や、自分が何者であるかを見失っているわけではない。けれど、一部の記憶や感覚が以前より曖昧で、確認を要することが増えている」


 三人は黙って聞いている。


 急かさない。


 否定しない。


 そこにあるのは、判断を留保しつつ最後まで聞く姿勢だ。


 ありがたい。


 そして、ありがたいからこそ、ごまかしすぎるわけにもいかない。


「この数日、私なりに何とか普段通りを保とうとしてきた。けれど、正直に言えば限界が近いと感じた。今のまま何も共有せずに進めれば、いずれ執務にも、屋敷運営にも、支障が出る。だから、皆に協力を頼みたい」


 そこまで言って、私は一拍置いた。


「今後しばらくは、“以前なら即答できたことでも確認を要する場合がある”前提で、補佐の形を調整してほしい。隠し通すより、その方が結果として自然だと思う」


 静かな沈黙が落ちた。


 ここで、誰が最初に何を言うかで、この先の空気がかなり変わる。


 そう思っていたら、最初に口を開いたのはマリエンヌだった。


「……それを、旦那様ご自身の口から聞けて安心いたしました」


 やさしい声だった。


 でも、ただ甘いだけじゃない。ちゃんと重みがある。


「安心?」


 思わず聞き返すと、マリエンヌは小さく頷いた。


「皆、心配しておりました。けれど、どこまで踏み込んでよいのかもわからず……。地下へ行かれる前と後で、お疲れの質が少し違って見えましたから」


 ああ。


 そうなんだ。


 やっぱり、見えていたんだ。


 隠せているつもりで、たぶん全然隠しきれていなかったのだろう。いやまあ、そりゃそうか。家の主を日常的に見ている人たちなのだ。声の間ひとつ、視線の流れひとつで、違和感くらい拾えて当然だ。


 マリエンヌは続けた。


「けれど、それが一時的な揺らぎであれ、旦那様が役目を放り出すおつもりでないことも、わかっておりました。ですから、必要でしたら支え方を変えるだけです」


 うう。


 その言い方、沁みるなあ。


 私は本気でちょっと泣きそうになったけれど、なんとか耐えた。イケメン公爵が談話室でうるっとしてる絵面、たぶん破壊力がおかしいからやめた方がいい。いや見てる側はそうでもないかもしれないけど、少なくとも自分の精神に来る。


 次にルシエラが口を開いた。


「確認したい点がございます」


 ですよね。


 そりゃそうだ。


 私は内心で姿勢を正した。きたぞ、実務の鬼。


「どの程度までの混線があるのか、線引きを明確にしたいのです。たとえば、対外文書の文脈把握は可能か。領内有力家の関係性はどこまで保持されているか。霊脈管理の概念理解はあるか。日常生活上の手順に支障はあるか」


 うわあ。


 すごい。


 質問が全部具体的で助かるし、同時に逃げ場がない。


 でも、ありがたいのは本当にありがたい。こういう人がいるから屋敷が回るのだろうなと納得する。


「概念理解はある」


 私はひとつずつ答えた。


「自分がアルヴェイン家当主であること、フェーンハルトを預かる立場であること、霊脈管理や帝都との関係が重要であること、その大枠は把握している。対外文書も字義としては読める。だが、以前の自分なら迷わず掴めた細部の優先順位や、人間関係の肌感覚のようなものは、以前より確認が必要だ」


 ルシエラはすぐに言葉を継いだ。


「では、知識が失われたというより、“接続が鈍い”に近い」


「……そう表現するのが、一番近い気がする」


 これはかなり本音だった。


 別世界の女が入っているとは言えないけれど、感覚としては本当にそうなのだ。情報がゼロではない。むしろある。なのに、それが“自分の身体に馴染んだ当たり前”としては出てこない。何か一枚隔てたところから見ている感じがする。


 ルシエラは帳面へさらさらと書きつけた。


「承知しました。であれば、今後は“前提の再確認”を恥としない形へ調整いたします。要点整理と選択肢提示を増やし、即答を要する場面を減らします」


 すごい。


 もう実務に落としてくれてる。


 助かる。


 めちゃくちゃ助かる。


「ただし」


 うん、続きますよね。


「対外的には、“旦那様は地下異常後の軽い混線があるが、当主としての判断能力は保持している”という線で統一すべきです。弱く見せすぎるのは危険です」


「それは同意する」


 これは本当にそうだ。屋敷内の補佐体制を強めるのと、外へ“当主が不安定です”と見せるのはまったく別問題である。そこを履き違えると、帝都や有力家が余計な勘繰りを始めるかもしれない。


「では」


 ガルドンが静かにまとめに入った。


「内向きには再整理を前提とした補佐、外向きには揺らぎを見せすぎない運用、ということになりますな」


「そうなる」


 私は頷いた。


 話が通じる。


 ものすごく通じる。


 やっぱり、早く共有すべきだったのかもしれない。もちろん今だから言えた面もあるけれど、少なくとも“全部一人で抱えて何とかする”方針が無理だったのは間違いない。


 そこで、私は次の一歩を出した。


「もう一つ、頼みたいことがある」


 三人の視線が集まる。


 緊張する。


 でもここで言わないと、今日集まってもらった意味が半分になる。


「私の今の状況を前提に、公爵としての業務をもう一度、実務単位で組み直したい」


 ルシエラの目が少しだけ鋭くなる。興味を持ったときの目だ。怖い。でも良い意味で。


「具体的には?」


「何を私が必ず直接見るべきで、何を補佐判断で進められるのか。何を毎日確認し、何を週単位で押さえればよいのか。人、書類、会食、視察、霊脈記録――全部が一気に来ると、混線の有無に関係なく処理効率が落ちる」


 そこで私は正直に言った。


「要するに、今の私にも回せる形へ、やるべきことを可視化したい」


 ふう、と息が落ちる気配がした。


 ガルドンではない。


 ルシエラでもない。


 マリエンヌだ。


 彼女は少しだけ肩の力を抜いて笑った。


「それは、とても良いご判断だと思います」


 うっ。


 また刺さる。


 やめてほしい。そうやって“弱音ではなく判断として受け止めてくれる”の、ほんとに効くから。


 ルシエラも頷いた。


「賛成です。むしろ今のうちに整理すべきでしょう。これまで旦那様は、多くを頭の中で処理しすぎておられました」


 えっ。


「そうなの?」


 思わず素が出た。


 ルシエラは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに続けた。


「はい。以前の旦那様は、把握力が高いぶん、段取りの一部を暗黙のまま進める傾向がおありでした。こちらが補佐できる部分までご自身で抱え込まれることも少なくなく」


 ああ……。


 なんか急に元のクリスがしんどく見えてきたな。


 優秀な人ほど全部見えてしまって、結果として手放せなくなる、みたいなやつだろうか。前世の職場でも、できる先輩ほど仕事を抱え込みがちだったし、そういう人が限界になって初めて周囲が「あれも頼ってよかったのに」と言う構図、まあまあ見た気がする。


 まさか異世界公爵も同じとは。


 いや、規模は違うけど、人間社会の構造としては近いのかもしれない。


 ガルドンが深く頷いた。


「旦那様が再整理を望まれるのであれば、よい機会にございますな」


 つまりそれ、前のクリスにも必要だったけど、今まで流れで来てしまっていた、ってことでは?


 うわあ。


 なんか申し訳なさと同時に、「じゃあ私が混線をきっかけに業務改善を入れるの、普通に意味あるのでは?」という気持ちも湧いてくる。罪悪感だけじゃなく、ちゃんと前向きな変化にできるかもしれない。


 よし。


 ちょっと元気出てきた。


「では」


 私は前へ身を乗り出した。


「今後の方針を決めたい。まず執務の整理、次に日常導線の確認、そして対外向けの振る舞いのすり合わせ。その三つを軸にしたい」


「承知しました」


 ルシエラがすでに帳面へ書いている。


「執務は、今日中に“当主決裁必須/補佐経由可/後日確認可”の三段階へ仮分類いたします」


 早い。


 仕事が早い。


「日常導線は私どもの方で調整いたしますわ」


 マリエンヌが穏やかに引き取る。


「食事、休息、衣装、来客前の確認事項など、混線のある状態でも負担の少ない流れを整えます」


 ありがたい。


 ほんとにありがたい。


 前世の私は自分の生活導線を整えるのも下手だったので、こういう人が近くにいると本気で泣きそうになる。いや泣かないけど。


「対外向けの振る舞いについては」


 ガルドンが言う。


「屋敷内で言葉を統一いたしましょう。旦那様は地下異常接触後、軽い感覚疲労を残しておられるが、判断能力に大きな問題はない。過度な負荷は避けるが、公務は継続される。その線で」


「それでお願いしたい」


 私は素直に頭を下げたい気分だったが、そこはぎりぎり公爵の矜持が止めた。いや内心ではかなり下げてる。ほんとに助かる。


 話がひと段落したあと、小さく茶が運ばれてきた。たぶん部屋の外で待機していた誰かが、空気を見て入れてくれたのだろう。公爵邸、こういう連携がほんとすごい。


 湯気の立つ茶杯を手にしながら、私はふと気になっていたことを尋ねた。


「ちなみに、屋敷全体へはどこまで共有されている?」


 この質問は大事だ。情報が広がりすぎていないか、でも必要な範囲には届いているか、その塩梅を知っておきたい。


 ガルドンが答えた。


「現時点では、“地下の件以降、旦那様はご無理を避ける必要がある”程度にとどめております。詳細な診立てを共有しているのは私どもとサーシャ殿のみです」


 よかった。


 それくらいがちょうどいい。


 全部を屋敷中へ言い回す必要はないし、逆に広まりすぎると今後の立場に響く。必要な人に必要な分だけ。うん、やっぱりこの家、運営がしっかりしている。


 しかし、ここで問題は終わらない。


 むしろここからが実働だ。


 私は茶を一口飲み、意を決した。


「では、最初の実務整理に入りたい」


 ルシエラの目が、さっと仕事モードへ切り替わる。ほんとに早いなこの人。


「本日分の優先案件を持ってまいりましょうか」


「お願いしたい」


「その前に一点」


 ルシエラは帳面を閉じた。


「旦那様が“わからないことを確認する”ことについて、私どもは今後それを異常とは見なしません。ですから、曖昧なまま決めるくらいなら、何度でもお尋ねください」


 ――うわ。


 それ言われるの、かなり救われるな。


 私はほんの少しだけ視線を落としてから、頷いた。


「助かる」


 それはきっと、今日いちばん素直な声だった。


 ガルドンは「では整えましょう」とだけ言い、マリエンヌは「昼までに少し休息の時間も入れますね」と笑い、ルシエラはすでに段取りを組み始めている。


 なんだろう。


 ものすごく現実的な意味で、チームができた感じがする。


 もちろん、まだ全部が万全なわけじゃない。私は依然として中身が別人だし、世界の異常は進んでいるし、ヒロインたちは相変わらず攻略対象級の完成度だし、公爵業務は普通に多い。けれど、少なくとも「全部を一人で抱えて沈むしかない」フェーズからは抜け出せた気がした。


 それは大きい。


 本当に大きい。


 談話室を出た後、私は執務室へ戻りながら、妙な高揚感と緊張がないまぜになった気分を抱えていた。


 いや、やること自体は減ってないんだけどね?


 書類の量は相変わらずだし、午後には風路院の使者も来るし、夕刻にはリゼリアとの情報整理もある。仕事としては普通に山積みだ。でも、山積みの書類の前で「ひとりで全部を理解したふりをしなくては」と怯えるのと、「どこをどう補佐してもらうかを前提に動ける」のとでは、心の削れ方が全然違う。


 机の前へ戻ると、そこにはすでに三つの束へ分けられた文書が置かれていた。


 いつの間に。


 仕事が早い。


 札にはそれぞれ簡潔な文字で書かれている。


 本日中に旦那様確認必須

 補佐整理後に確認可

 優先度低・後日可


 わあ。


 見える化されてる。


 めちゃくちゃ助かる。


 私はその場で本気で感動しかけた。これだよ。こういうのが欲しかったんだよ私は。前世でも仕事が詰まってるとき、誰かが勝手に重要度で三分けしてくれたら泣いて喜んでたと思う。異世界公爵生活、ようやく人間らしい足場が見えてきた気がする。


 もっとも、その第一束の上に載っている文書を見た瞬間、私はすぐに現実へ引き戻されたのだけれど。


 帝都からの照会。


 風路院地方監督官の使者。


 領内有力家サーヴェル家との会食確認。


 ――うん、重い。


 やっぱり重い。


 でも重いことと、どうしようもないことは違う。


 私は椅子へ座り、深く息を吸った。


 よし。


 次の作戦は始まった。


 信頼できる使用人たちに事情を説明し、できる限り自然な形で今の私を理解してもらう。


 そして、その理解を足場にして、公爵としての仕事を軌道へ戻していく。


 正式な診断書もある。


 補佐体制も整い始めた。


 ちゃんと計画立てていけば、なんとかなるはずだ。


 ……たぶん。


 いや、なってもらわないと困る。


 世界の異常も、リゼリアのことも、これから増えるであろう厄介なヒロインたちのことも、その全部は公爵として最低限やるべきことが回って初めて対処できるのだから。


 私は一枚目の文書へ手を伸ばしながら、心の中で小さく呟いた。


 よし、クリス。


 中身は私だけど。


 外側はお前だけど。


 とりあえず今は、二人三脚ということにしておこう。


 その方が、少しだけやれそうな気がするから。


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