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第二十四話:こうなったらとりあえず記憶喪失ということにしよう




 ――無理では?



 私は机の上に広げた書類の束を前にして、心の底からそう思った。


 ちゃんと真面目に考えようとはしてたんだよ?公爵とは何か、アルヴェイン家は何を継いできたのか、フェーンハルトがどんな土地で、クリスがなぜその当主なのか。そういう、この世界で生きるうえで絶対に避けて通れないことを一つひとつ理解しようとしていたし、理解した以上は引き受けるしかないとも思った。思ったんだけど、問題はそういうレベルじゃなかったって話…


 理解するのとできるのとは、まるで状況が異なっていた。


 いや当たり前なんだけどね?


 当たり前なんだけど、改めてそこへ突きつけられると、思ってたより全然きつい。というか、腹を括ったからって急に中身まで公爵になるわけじゃないじゃないですか。わかってた。わかってたけど、せめてもうちょっとこう、気持ちの問題として乗り切れるかと思っていた。そこは甘かった。現実はそんなに優しくない。


 ついさっきまで、「公爵とは何か」という概念的な話を聞いて、「なるほど理解した、つまり私はめちゃくちゃ重い立場にいる」と一応の納得を得たはずなのに、その直後に目の前へ戻ってくるのがこの現実の書類群である。


 理論と実務の距離、遠すぎない?


 頭ではわかった。わかったけど、だからといって急にできるようになるかと言われると、それはまた別の話である。むしろわかったからこそ、「これ、わかった上でできないと普通に終わるやつでは?」という新しい恐怖が芽生えてしまって、結果としてメンタルの負担だけ増えている気がしないでもない。


 帝都からの照会文書。


 風路院からの調整依頼。


 領内有力家の会食確認。


 霊脈観測記録。


 学院の招待状。


 そのひとつひとつが、文字面としては読めるのだ。読める。そこは救いである。字は読めるし、言葉の意味も大枠では理解できる。だけどそれらがこのフェーンハルトという土地の中でどういう優先順位を持ち、どの案件がどれくらいの温度感で、誰にどう返すべきなのか、その“手触り”が圧倒的に足りていない。


 要するに私は、国語の文章問題は解けるけど、現場経験ゼロのまま部長決裁ハンコを押せと言われているような状態なのだ。


 押せるかそんなもん。


 怖いわ。


 そしてさらに問題なのが、最近どう考えても周囲の使用人たちが「旦那様、なんかちょっと雰囲気変わられました?」という空気を漂わせ始めていることである。


 いや、うん。


 そりゃそうなんだけどね?


 私だってわかってる。わかってるよ。自分としてはがんばってるんだ。声のトーンはなるべく低めに保ち、無駄にきょろきょろしないよう気をつけ、わからないことは“確認”という形で引き出し、内心ではパニックでも外面だけはどうにか公爵っぽく取り繕う、その涙ぐましい努力をこの数日で積み重ねてきた。積み重ねてきたつもりではある。


 でも、それで根本がどうにかなるほど甘くはないらしい。


 だって私は、もともとただの社会一般女子なんだから。


 異世界の格式高い公爵なんて、なれるわけがないのである。


 いや、身体はなってるよ?


 外見も声も、たぶん立ってるだけならそれっぽい。そこはむしろ厄介なほど完成されている。完成されているがゆえに、余計に中身のズレが目立つのだ。


 紅茶を置かれたときに「ありがとうございます」が一瞬だけ庶民っぽくなるとか。


 使用人が控えてる前で「えっそんなに人いるの?」みたいな空気が顔へ出そうになるとか。


 書類の量を前にしたときの絶望が、ほんのわずかな沈黙や視線の止まり方に滲むとか。


 廊下を歩いていて、いちいち屋敷の構造に感心してしまうとか。


 椅子の座り方、食器の扱い、返事の間、そういうものの総体として、「あれ、旦那様なんか最近……?」が、じわじわ蓄積している気配がある。


 隠しきれないんだ。


 どれだけ顔と声を取り繕っても。


 どれだけ上手く誤魔化しているつもりでも。


 雰囲気というか素の部分というか、そういうものは所狭しと列を組んで押し寄せてくるのである。


 そうなっちゃうよね、っていう場面が、一日に三回どころではなくある。


 朝の食事で銀器の置き方に一瞬迷う。


 昼の執務で「この件は例年通りに」と言われて内心死ぬ。


 夕方、領民へ会釈を返す角度が一瞬わからなくなる。


 夜、私室に戻って「ベッドでかっ……」と毎回ちょっと思う。


 もうだめでは?


 いやほんとに。


 さすがに限界では?


 私はペンを置いて、椅子の背へ深くもたれた。


 窓の外では、フェーンハルトの夕方がゆっくり夜へ移ろっていた。高原の風は昼よりも冷たいのに、街の明かりが増えていくにつれて人の営みの温度だけは静かに増していく。遠くに白い風車が見え、そのさらに奥には青黒く沈む尾根。風の大陸の景色は、本当にきれいだ。きれいで、澄んでいて、どこか厳しい。


 そんな景色をぼんやり眺めながら、私は真面目に考えた。


 どうする。


 このまま黙って演じ続けるか。


 それとも、どこかで打ち明けるか。


 いや、打ち明けるって何を?


 「実は私、異世界から転生してきました」?


 無理でしょ。


 どう考えても無理でしょ。


 仮に真顔でそう言われた側の立場になってみてほしい。昨日まで普通に公爵として振る舞っていた男が、ある日急に「中身は別の世界の一般女性です」とか言い出すのである。こわいわ。怪談としてもだいぶ嫌だし、政治的にも医療的にも霊的にも、あらゆる方向から「一回落ち着いてください」案件だろう。


 しかもこの世界、魔導も霊脈も神殿もあるから、前世日本みたいに「そういうのは現実じゃないよね」で流せないのがまた厄介なのだ。下手に話したら、「では霊的汚染か憑依の疑いがありますね」みたいな方向へ進む可能性がある。最悪、封印とか浄化とかいう単語が出てきてもおかしくない。


 いやだよそんなの。


 せっかく転生してきたのに、初手で除霊イベントみたいな扱い受けるの。


 私はぶるっと肩を震わせ、考えを切り替えた。


 打ち明けるのは無し。


 では誤魔化し続けるのは?


 これも厳しい。


 もう誤差が積もってきている。ルシエラはあからさまに観察の精度が上がっているし、ガルドンは何も言わないぶん余計に全部見ている感じがするし、マリエンヌはたぶん優しさで見守ってくれているけれど、見守るってことはつまり“違和感には気づいている”ということでもある。エミーリアなんて最近、私に何かを渡すたびにちょっとだけ「だ、大丈夫でしょうか……」みたいな顔をしている。いや、かわいいけど、そうじゃない。そうじゃないんだ。


 このままではだめだ。


 だめだとわかっている。


 わかっているのだけれど、解決できる糸口がこれっぽっちも見つからない。


 だから人は、追い詰められると資料を作り始めるのである。


 私は勢いよく立ち上がり、書棚から厚手の空白ノートを引っ張り出した。革表紙の、いかにも高そうなやつだ。いやほんと高そうだなこれ。前世なら「仕事のメモ帳にこんな立派なの使えない」と躊躇しただろうけど、いまはそんなことを言っていられない。


 必要なんだ。


 自分がわかるように、今の状況を整理した資料が。


 クリスという人間の立場。


 アルヴェイン家の構造。


 フェーンハルト領の主要人物。


 使用人の配置。


 日々の執務の流れ。


 帝都との窓口。


 危険人物リスト、ではなく要注意人物リスト。いやだいたい同じか。


 ヒロイン候補一覧。


 死亡フラグ候補。


 原作知識と現実のズレ。


 そういうものをとにかく自分向けの“取扱説明書”としてまとめなければ、もう頭だけでは無理なのだ。


 私は机にノートを広げ、深呼吸してから一ページ目へ書いた。


 「クリス・アルヴェイン周辺状況整理(暫定)」


 うん。


 なにこの会社の引き継ぎ資料みたいなタイトル。


 でも必要だから仕方ない。


 その下へ、とりあえず思いつくまま箇条書きを並べていく。


 ・現状:中身は元・現代日本の一般女性。外見はクリス・アルヴェイン。

 ・立場:フェーンハルト領を預かるアルヴェイン公爵家当主。

 ・周囲には未申告。最近の違和感はたぶん気づかれ始めている。

 ・地下神殿での異常修復後から、多少の“変化”があっても不自然ではない。

 ・リゼリアは異常現象の目撃者。比較的話を通しやすい可能性あり。

 ・使用人層は優秀。優秀すぎるので曖昧なごまかしは長く持たない。

 ・公爵業務は想像以上に重い。

 ・恋愛フラグ管理は引き続き最重要。

 ・ただしその前に社会的生存が必要。


 書きながら、最後の一行で自分でも笑いそうになる。


 そうなんだ。


 恋愛フラグ管理も大事だけど、その前に私は公爵として不審死ならぬ不審生活を回避しなければならない。自分が怪しまれて地位を失えば、フラグも何もない。まずは社会的生存。めちゃくちゃ現実的な言い回しだけど、本質である。


 次のページへ進み、今度は屋敷内の人員を書き出す。


 執事長ガルドン。年配。物静か。たぶん全部見えてる。怖いけど頼れる。

 家令補佐ルシエラ。灰銀髪。有能。仕事ができる。観察眼が鋭い。

 給仕方まとめ役マリエンヌ。やさしい。包容力。気づいていても慌てないタイプ。

 給仕見習いエミーリア。かわいい。緊張しがち。たぶん情報の伝達役にもなる。

 厨房長ほか、家政区画。まだ把握不足。

 外庭管理、厩舎係、警備騎士、文書係、会計係、洗濯場、医務室担当……。


 書いていて思う。


 多い。


 この屋敷、人が多い。


 もちろん公爵邸なのだから当たり前なのだけれど、こうして分類してみると、もはや“お屋敷”というより中規模の職場である。前世で働いていた会社よりも、たぶん部署の概念が明確だ。


 アルヴェイン公爵邸は、大きく分けて七つの区画でできているらしい。これはこの数日で歩き回った感覚と、会話の断片から推測したものだ。


 まず中央に、来客と公的儀礼のための正面棟。玄関ホール、大広間、応接間、会談用の小広間、階上には客間群。ここはいわば“公爵家の顔”であり、帝都からの使者や領内有力家の客人を迎える場所だ。天井が高く、石とガラスの使い方が綺麗で、風の抜けを計算した設計になっている。立っているだけで「ここ、偉い人の建物だ……」と感じる圧がある。


 その西側に執務棟。書庫、記録室、文書係の詰所、会計室、風路関係の地図保管庫、そして私の執務室もこちら寄りにある。公爵が“家の主”というより“行政の中心”でもあることが、歩くだけでわかる。静かだけど紙とインクと決裁の気配が濃い。ここを歩くと、自然と背筋が伸びるというより、伸びざるを得ない。縮こまると負けそうだから。


 東側には私的区画。私室、休息室、浴場、衣装室、小さな談話室など。とはいえ完全な私室というわけでもなく、必要があれば使用人が出入りするし、朝の準備も夜の整えもここで行われる。つまり“ひとりの空間”ではなく、“当主の生活機能が集約された区画”という方が近い。前世のワンルーム感覚で「ちょっと一人になりたいな」と思っても、なかなか難しい。


 さらに奥に家政棟。厨房、食糧保管庫、洗濯場、裁縫室、侍女たちの休憩所、各種備品の管理部屋。ここはまだあまり入り込んでいないが、通るたびに人の手で屋敷が回っている実感がある。温かい匂いと水の音と、きびきびした会話の連なり。貴族の家って、贅沢のかたまりみたいに思っていたけれど、実態は大量の労働で支えられた巨大システムなのだとよくわかる。


 南側には庭園と温室、礼拝用の小堂、そして来客用の馬車寄せ。北へ回れば警備棟と厩舎、騎士詰所、外門へ続く動線。公爵邸そのものが、居住と行政と防衛をひとまとめにした小さな城塞都市みたいな構造になっている。


 そして、問題の地下である。


 公的には貯蔵庫、古文書保管庫、非常用の避難通路、医務関連の一部区画がある程度。


 でもそのもっと奥、封鎖区画、古い霊脈回廊、神殿へ連なる古層は、もう“屋敷の地下”という認識では追いつかない。あそこは別物だ。家の下に家があるとか、地下通路があるとか、そういうレベルを軽く飛び越えて、土地そのものの深部へ家が根を張っている感じなんだ。


 なんなんだよこの家。


 歴史と責任が重すぎる。


 資料づくりを進めながら、私はふと気づいた。


 これ、かなり助かる。


 当たり前だけど、頭の中でぼんやりしていたものを文字に起こすと、一気に輪郭が出る。少なくとも、「何がわからないか」が見えてくるんだ。わからないものをわからないまま抱えるのと、「ここが未把握です」と棚卸しするのとでは、心の負担が全然違う。


 次のページへ、今度は大胆に書いた。


 対策案


 1. このまま何食わぬ顔で演じ続ける。

 → 限界が近い。たぶん長く持たない。


 2. 一部の信頼できる人物へ真実を話す。

 → リスク高。理解されない可能性大。最悪危険人物扱い。


 3. 地下神殿での異常を理由に、“部分的な変調”を認める。

 → 現実的。説明が通りやすい。周囲の違和感にも理由を与えられる。


 ここまで書いて、私は手を止めた。


 そうだ。


 それだ。


 思考が、そこで急に一本の線へ繋がった。


 地下神殿。


 あの出来事。


 死域、結節点、異常な継ぎ目、龍の記憶、マナの修復。


 あれだけのことがあったんだ。そこを“起点”にしてしまえば、多少の不具合が出ても不自然ではないのでは?


 たとえば、軽微な記憶の混線。


 あるいは一部の言語表現の違和感。


 あるいは以前よりも反応が鈍い、逆に細部へ妙に確認を入れるようになった、そういった変化。


 全部、「地下での異常接触以降、軽い記憶障害が出ている」に寄せてしまえば、かなり筋が通るのでは?


 私は思わずペンを握り直した。


 いや、待って。


 これ、普通にいけるのでは?


 幸いなことに、私は“表面的なクリス”ならそこそこ知っている。なんなら彼のこれからの半生、いや世界の大きな流れまで、だいぶ熟知していると言っていい。少なくとも、年齢や家格や人間関係の大枠を完全に見失っているわけではない。


 つまり私は、「全部忘れた」ではなく、「一部が曖昧になっている」くらいの軽微な記憶喪失なら十分に演じられるのだ。


 これ、かなり得策では?


 完全記憶喪失だと逆に大ごとになるし、公爵として業務継続不可能と判断されかねない。でも軽微なら違う。大枠の人格も役割意識も保っていて、ただ一部の記憶や言い回し、細部の判断へ支障がある。地下の異常と関連づければ、医務的にも霊脈的にもありえそうなラインに見える。


 しかもこのやり方なら、周囲に対して「最近少し様子がおかしい」ことを先回りで説明できる。


 おお。


 いける。


 いけるかもしれない。


 私は勢いよくノートへ書き足した。


 4. 地下神殿での出来事を起点に、“軽微な記憶喪失・言語の混線”ということにする。

 → 周囲の違和感に説明がつく。

 → 直接真実を語らずに済む。

→ 確認行動や発言のズレにも理由を与えられる。

→ 完全な偽装ではなく、あくまで“症状の一部を利用した説明”として処理できる。


 よし。


 方針は決まった。


 決まったはいいが、では誰へ最初に話を通すか。


 ここが問題である。


 ガルドンは堅実だけど、いきなりそういう話をすると屋敷全体の運営判断へ直結しすぎる。ルシエラも論理的には理解してくれそうだけれど、実務上の懸念から症状を細かく検証される未来が見える。マリエンヌは優しいけど、医療判断までは難しい。


 なら、先に医務側へ通すべきだ。


 医務室。


 そうだ、医務室だ。


 あそこには確か、“あの人”がいるはずである。


 思い出した瞬間、頭の中で最悪の記憶が蘇った。


 お兄ちゃんの声だ。


 忌々しいことに、ものすごく生々しいテンションで再生される。


 ――「ゲーム序盤のハーレムチュートリアルに相応しい人物」

 ――「とりあえず困ったらサーシャのところ行け」

 ――「あの人、いろんな体位でやらせてくれるから」


 …………。


 ほんとに同じ血が通ってるんですかねあの人。


 いやまあ、血は通ってるんだろうけど。戸籍上は兄なんだろうけど。人間性まで同じカテゴリに入れないでほしい。こっちはいま世界の傷口を預かる公爵の身体で人生やってるんですけど、その最中に実兄のゴミクズ発言が脳内リフレインするの、なんの罰ゲームなんだ。


 でも、その“サーシャ”という名前には、別の意味でも覚えがあった。


 サーシャ・ローウルフ。


 妖艶美女エルフ。


 医務室付きの治療師兼薬学顧問。長命種でありながら、なぜかフェーンハルト公爵邸へ腰を落ち着けている変わり者。原作『スターダスト』では序盤から接触可能で、怪我でも病気でも相談でも、何かと理由をつけて主人公が通いやすいポジションにいた。だからこそ兄みたいなプレイヤーに“ハーレム導線”として扱われていたわけだけれど、裏設定や本筋での役割を考えれば、あの人はむしろかなり重要な知識枠だったはずだ。


 医療。


 観察眼。


 霊脈異常への理解。


 そして、おそらく秘密をすぐ他へ漏らさないタイプ。


 うん。


 彼女なら事情を“それっぽく”理解してくれるかもしれない。


 少なくとも、「地下での異常接触後、軽微な記憶混線が起きている」と伝えたとき、他の使用人よりも自然に受け止められる可能性が高い。


 私は椅子から立ち上がった。


 そうと決まれば、行くしかない。


 医務室へ。


 この屋敷の中で、いまの私に一番必要なのは政治でも恋愛でもなく、症状に名前をつけてくれる人である。


 廊下へ出ると、夕刻の屋敷は昼とまた違う顔をしていた。


 正面棟の方角からは、今日の来客対応を終えた使用人たちが静かに行き来している。誰も走らない。誰も無駄に声を張らない。でも止まっている人は一人もいない。給仕係の若い侍女が銀盆を運び、文書係らしい青年が封書箱を抱え、警備騎士が外門側から配置交代へ向かい、庭師の一人が夕方の散水を終えて道具を片付けている。


 この家、ほんとに一つの生き物みたいだなと思う。


 それぞれの人が自分の持ち場を回り、知らないところで仕事が繋がり、結果として“アルヴェイン公爵邸”という巨大な機能体が動いている。前世の感覚で言えば、老舗ホテルと役所と研究施設と上流家庭が一体化したようなものだ。普通にやばい。


 私は階段を下りながら、なるべく自然な速度を意識した。速すぎると焦っているように見えるし、遅すぎるとそれはそれで不自然だ。公爵の歩速、難しい。誰かマニュアル化してくれないかな。


 途中、廊下の角でエミーリアとすれ違った。彼女は布類を抱えていて、私に気づくと慌てて足を止めた。


「だ、旦那様っ」


「ああ、急がなくていい」


 できるだけ穏やかに言うと、エミーリアはほっとしたように胸を撫で下ろした。その反応がかわいくて、同時にちょっと胸が痛くなる。こういう子にまで変な心配をかけているのかもしれない、と思ってしまうからだ。


「あの、旦那様……その、お加減は……」


 ほらきた。


 やっぱり。


 それ、多分というか絶対気のせいじゃないやつだ。


 私は一瞬だけ迷ったあと、あくまでさりげなく答えた。


「少し確認したいことがあって、医務室へ向かうところだ」


「そう、でしたか……」


 エミーリアは納得したようなしないような顔で、それでも深く頭を下げた。彼女の表情には、明らかな安堵が混じっていた。つまりやっぱり、周囲も「一回ちゃんと見てもらってほしい」と思っているのだろう。


 ……うん。


 ますます正解かもしれない、この方針。


 廊下をさらに進みながら、私は屋敷の医務区画について思い出す。


 公爵邸の医務室は、単なる応急処置部屋ではない。東側私的区画と家政棟のあいだ、比較的静かで水場に近い場所に置かれた一角で、怪我人や体調不良者の処置、常備薬の調整、薬草保管、時には領内上位使用人や騎士の健康管理まで担っているらしい。規模としては小さな診療所に近く、待機室、診察室、薬品室、簡易入院用の寝台室まである。公爵家というのはほんと、家の中でだいたい全部完結するように作られている。


 廊下の材質も、そのあたりから少し変わってくる。表の華やかな石床ではなく、足音を吸いやすい木と石の中間みたいな落ち着いた床。壁際には香りの強すぎない乾燥薬草が吊るされ、小さな棚には洗浄用の布や陶製の壺が整然と並ぶ。生活と治療の境目にあるような空気だ。


 途中ですれ違ったのは、洗濯場の女性たちと、腕に包帯を巻いた若い騎士、それから薬品箱を抱えた年配の補佐係。使用人にもほんとうにいろんな層があるのだなと思う。


 公爵邸の使用人、と一言で言っても、実態はかなり細かい。


 執事系統。来客応対、当主付き、儀礼補佐、文書取り次ぎ。

 侍女系統。衣装、室内整備、給仕、私的区画管理。

 家政系統。厨房、洗濯、裁縫、備品、掃除、物資管理。

 実務補佐系統。会計、文書、領内通信、日程管理。

 防衛系統。警備騎士、門番、夜警、馬車管理。

 医務系統。治療師、補佐、薬品管理。

 庭園・外回り系統。庭師、温室管理、厩舎、運搬。


 そのどれもが、ただの“モブ”じゃない。それぞれが役割の中に誇りを持っていて、アルヴェイン家という巨大なシステムの一部として動いている。原作ゲームで見たときは背景だった部分に、いまはちゃんと人間の暮らしが詰まっている。


 だから余計に、私はこの家を壊したくないと思ってしまう。


 転生してきた私が、よくわからないまま全部をぐちゃぐちゃにするのは違う。


 だから、まずは生き残るための嘘を整えるしかないのだ。


 廊下の先、半開きの扉から柔らかな灯りが漏れていた。


 医務室だ。


 近づくにつれて、かすかに甘いような苦いような、独特の香りが漂ってくる。乾燥させた薬草、煎じた液体、清浄な水、微量の香油。嫌な匂いではなく、むしろ落ち着く。病院の消毒臭というより、森と知識の匂いだ。


 扉の前で一度、深呼吸する。


 よし。


 ここから先は段取りが大事だ。


 いきなり「実は転生してて」ではない。


 まずは地下神殿後からの違和感。


 記憶の一部の混線。


 言葉選びのズレ。


 時折、自分の過去を遠く感じること。


 業務遂行に支障が出る前に確認したいことがある。


 このあたりを、真実七割嘘三割、いや実感九割説明一割くらいでまとめればいい。


 私は扉をノックした。


「どうぞぉ」


 返ってきた声だけで、私は一瞬、“ああこの人だ”と思った。


 柔らかい。


 けれど気の抜けた柔らかさじゃなく、人を安心させるために意図して温度を落としているような声だ。長く生きた人の余裕というか、こちらが構えていても「まあ座りなさいな」と言われたら少し力が抜けそうな感じがある。


 扉を開ける。


 医務室の中は、想像以上に明るかった。薬品棚が壁一面に並び、その間を埋めるように乾燥薬草の束や瓶詰めの標本が置かれ、窓際には簡易寝台が二つ、中央には診察用の長椅子と丸机、そして奥の作業台では、小さなランプの光に照らされてひとりの女性が何かを調合していた。


 長い髪が、まず目に入る。


 銀に近い淡金。光を受けると薄い月色に見えるそれが、肩から背へゆるやかに流れている。耳は長く尖り、肌は白磁みたいに滑らかで、けれど冷たい印象はない。瞳は森の深いところを思わせる静かな緑で、こちらを向いた瞬間、やわらかく笑った。


 そして思う。


 ああ、はい。


 これは確かに、攻略対象になるわ。


 いやもう、なるでしょそりゃ。


 わかる。


 兄が最低なのは大前提として、見た目だけなら「ゲーム序盤で出てくる妖艶美女エルフ治療師」という字面に一切の誇張がない。胸元の開きすぎていない医療衣にすら妙な色気が宿ってるの、なんなんだろう。露出で押してくる感じではないのに、立ってるだけで完成度が高い。しかもただの美人じゃなく、年齢不詳の落ち着きと、こちらの言葉の裏を一枚くらい見抜きそうな目をしている。これは厄介だ。


「まあ、旦那様。こんな時間に医務室だなんて珍しい」


 サーシャ・ローウルフは、手元の作業を止めてゆっくりと振り返った。仕草ひとつひとつが流れるようで、見ている側の呼吸まで落ち着かせるようなリズムがある。


「どこかお怪我でも?」


「怪我、というほどではない。少し相談したいことがある」


 そう言いながら、私は部屋を見回した。医務室の奥にはもう一つ仕切りがあり、その向こうは寝台室だろう。今は人の気配が少ない。補佐係らしい年配女性が一人、棚の整理をしていたが、サーシャが軽く視線を向けると「では、私は隣で」と空気を読んで姿を消した。


 ……やっぱりこの人、信頼されてるんだな。


 単に色っぽいだけじゃなく、場の空気を動かす権限みたいなものを持っている。


 サーシャは私へ椅子を勧めた。


「相談、ね。では診察というより、お話の時間かしら」


 私は腰を下ろし、彼女と向かい合った。


 近い。


 近いし綺麗だし、しかも相手は医療者だから目線がまっすぐだ。誤魔化しの効かない雰囲気がある。ここで変に取り繕うと、たぶんすぐ見抜かれる。


 それでも、全部を言うわけにはいかない。


 私は慎重に言葉を選んだ。


「地下神殿の件以降、少し違和感がある」


 サーシャは微笑みを消さないまま、しかし目だけを少しだけ真剣にした。


「どのような?」


「大きな記憶を失っているわけではない。だが、一部の事柄が妙に遠く感じることがある。言葉の選び方も、以前より少し噛み合わない気がする。……それに周囲の視線も、たぶん私の変化に気づき始めている」


 そこでサーシャは、ほんのわずかに眉を上げた。


「ご自身でそうお感じになるのね」


「感じる」


 即答だった。


「そして、たぶんそれは気のせいではない」


 サーシャはしばらく私を見つめた。


 長い沈黙ではない。でも、表面の言葉だけでなく、呼吸や間や声の落ち方まで見ているような視線だった。そのあいだ、私は心臓がいやに大きく鳴るのを感じていた。


 ばれたらどうしよう、ではない。


 もっと単純に、この人には下手な嘘が通じないかもしれないという緊張だった。


 やがて彼女は、ゆっくり頷いた。


「地下深層であれだけの異常へ触れたのですもの。記憶や感覚へ軽い揺らぎが出ても不思議ではないわ」


 ――よし。


 第一関門突破。


 私は内心で小さく拳を握った。まだ何も解決していないけれど、少なくとも「そんなことある?」で一蹴されなかったのは大きい。


「ただし」


 サーシャはそこで続ける。


「あなたが言う“違和感”は、単なる疲労や衝撃だけでは片づけにくい響き方をしているわね」


 どきりとした。


 いやほんと、この人やばいな。


「響き方?」


「ええ。忘れた、というより、少し立ち位置がずれたような話し方をしているもの」


 やめて。


 核心に寄りすぎないで。


 私は表情を崩さないよう全力で祈りながら、できるだけ平静な声を作った。


「だからこそ、相談に来た」


「ふふ」


 サーシャはそこで、なぜか少しだけ楽しそうに笑った。


「正直でよろしいこと。では、あなたがいま欲しいのは何かしら。診断名? 周囲へ通すための説明? それとも、もっと別の安心?」


 その問いに、私は一瞬だけ言葉を失った。


 鋭い。


 いやもう、ほんとに鋭い。


 でも同時に助かる。この人は話が早い。こちらが何を必要としているのかを、枝葉ではなく中心で掴みにきてくれている。


「……周囲へ通すための説明がほしい」


 私は正直に答えた。


「このままでは、違和感だけが積もる。だがすべてを語るわけにもいかない。地下での出来事を起点にして軽微な記憶混線が起きている、と見なしてもらえれば、一番助かる」


 サーシャは頬杖をつき、私を見た。


 その表情は笑っているのに、少しも軽くない。


「なるほど。つまり旦那様は、ご自身の変化を“病として整理したい”のね」


「そういうことになる」


「そして、その整理がなければ立場が危うい」


「そうだ」


 迷いなく言うと、サーシャはふっと息をついた。


「賢明な判断だと思うわ」


 私は、今度こそ本気で安堵した。


 よかった。


 この人、話が通じる。


 いや、まだ油断はできないけれど、少なくとも私の狙いを理解した上で否定してはいない。


 サーシャは椅子から立ち上がり、薬品棚の前へ歩いた。その背中を見ながら、私はあらためて思う。


 綺麗だなこの人。


 でも同時に、ただの美女じゃない。知識と経験が骨の中まで染み込んだ人の立ち姿だ。前世でお兄ちゃんがどういう目線でこの人を消費していたのかと思うと、ほんとに腹が立つ。いやもう、あの人の記憶は一回脳内から追い出した方がいいな。


「軽微な記憶障害、語彙選択の違和感、反応の遅延、注意の偏り。どれも、地下異常との接触後としては十分ありえる範囲よ」


 棚から瓶を取り出しながら、サーシャは続けた。


「もちろん、嘘を完全な真実として押し通すのではなく、“説明として最も自然な形を選ぶ”のがよいでしょうね。あなたの場合、実際に変化は起きているのだし」


 その言い方に、私は少しだけ救われた気がした。


 そうだ。


 これは全面的な虚偽じゃない。


 私の中で何かがずれているのは事実なんだ。理由の核心だけを言えないから、周囲に通じる形へ翻訳する。それだけだ。……たぶん。いや、だいぶ自分に都合のいい解釈かもしれないけど、それでも何もないところから話を捏造するよりはマシだ。


 サーシャは薬瓶を机へ置き、私へ向き直る。


「ただし、ひとつ条件があるわ」


「条件?」


「周囲へ通すなら、無理に“いつものクリス”へ戻ろうとしないこと。違和感を全部隠すのではなく、症状として一部は見せなさい。そうでないと説明だけが浮くわ」


 なるほど。


 たしかに。


 記憶混線を理由にするのなら、多少の確認や言い回しのズレは“症状”として認めた方が自然だ。全部を完璧に隠そうとすると、今度は逆に矛盾が増える。


「……難しいな」


「でしょうね」


 サーシャはくすりと笑う。


「でも、あなたはもう十分に難しいことをしているでしょう?」


 その一言に、私は思わず黙った。


 ……ああ、この人。


 もしかすると、思っている以上にわかっているのかもしれない。


 全部ではなくても。


 少なくとも私が“ただ少し疲れて混乱しているだけ”ではないことくらいは、もう察しているのではないか。


 でも彼女は、それ以上を暴こうとはしなかった。


 ただ目の前の困りごとに対して、一番生き残りやすい形を差し出してくれている。


 ありがたすぎる。


「では、診立てとしては?」


 私が問うと、サーシャは小さく顎へ指を当てた。


「“地下深層における高濃度霊脈異常接触後の軽微な記憶混線および感覚疲労”。このあたりかしら。長いけれど、いかにもありそうでしょう?」


「ものすごくありそう」


「でしょう?」


 なんかちょっと楽しくなってきたなこの人。


 でも助かる。ものすごく助かる。


 私は肩の力が抜けるのを感じながら、椅子へ深く座り直した。


 これでいける。


 これで、少なくとも第一段階は乗り切れるかもしれない。


 周囲の違和感には説明がつく。


 確認行動も増やせる。


 多少のズレも症状として飲み込んでもらえる。


 そのうえで、自分用の資料を作りながら少しずつ地盤を固めればいい。


 うん。


 見えてきた。


 突破口、ようやく見えてきた。


 サーシャはそんな私を見ながら、わずかに目を細めた。


「少し顔色が戻ったわね、旦那様」


「そう見える?」


「ええ。さっきまでは“このままだと崖から落ちる前の人”みたいな顔をしていたもの」


「そんなに」


「そんなに」


 即答だった。


 やめて。ちょっと面白いけどやめて。


 私は苦笑しながら額へ手を当てた。ほんと、ここ数日ずっと気を張り詰めていたのだろう。誰にも言えないし、わからないことだらけだし、周囲には優秀な人しかいないし、美人しかいないし、責任は重いし、世界は壊れかけてるしで、そりゃ顔にも出るか。


「ひとまず、今夜は私から“旦那様は地下異常の影響で軽い混線があるため、当面は過度な負荷を避けるべき”と伝えておきましょう」


「助かる」


「ただし、ルシエラあたりは質問してくるわよ」


「だろうね……」


「そのときは、わからないことを恥じずに確認なさい。混線を理由にするなら、知らないふりではなく、“確認し直したい”が正しい態度よ」


 それもまた、もっともだった。


 私は深く頷いた。


「ありがとう、サーシャ」


 その名を呼ぶと、彼女はほんの少しだけ意外そうに目を瞬かせたあと、ふっと微笑んだ。


「どういたしまして。旦那様が無理をして倒れられると、屋敷中が困るもの」


「私のため、ではなく?」


「もちろん旦那様のためでもあるわよ」


 さらっと言うのに、妙な含みがないのが逆にずるい。


 ああ、なるほど。


 これは確かに人気出るわ。


 でも私は流されない。流されないぞ。少なくとも今は。


 今はまず、生存だ。


 社会的にも、物語的にも。


 私は椅子から立ち上がり、胸の奥でひとつ深く息をした。


 こうなったらとりあえず記憶喪失ということにしよう。


 雑なようでいて、たぶんいまの私にとっては最善手だ。


 そしてその一歩目を、どうにか踏み出せた。


 医務室の扉の向こうでは、夜の屋敷が静かに動き続けている。給仕の足音、どこかの鐘、風の抜ける気配。アルヴェイン家という巨大な生き物は、今日も変わらず回っている。その中で私は、ようやく“全部を完璧に演じる”ことを諦めて、“症状込みで生き残る”方へ舵を切ったのだ。


 ……うん。


 だいぶ情けないけど、でも前進ではある。


 たぶん。


 少なくとも、昨日の私よりはずっとマシだ。


 そう思いながら医務室を出ようとしたその背へ、サーシャの声が追ってきた。


「旦那様」


「なに?」


「本当に困ったら、次は診察ではなく、もう少し“長い話”をしにいらっしゃい。薬より効くこともあるもの」


 私は一瞬だけ振り返った。


 サーシャはからかうような、でもそれだけではない目でこちらを見ていた。


 ああやっぱりこの人、ただの序盤ハーレム導線じゃない。


 ずっと、ちゃんと人の中身を見る側の人だ。


「覚えておく」


 それだけ返して扉を閉めたあと、私は廊下で小さく天を仰いだ。


 よし。


 ひとまず一歩。


 次はこの設定をどう自然に屋敷へ通すかだ。


 やることはまだ多い。


 というか相変わらず多すぎる。


 でも少なくとも今は、“このままじゃだめだ”から一歩進んで、“こうやってだましだましでも進むしかない”の地点には来られた気がする。


 上等だ。


 世界の異常も。


 公爵業務も。


 ヒロイン管理も。


 そして自分の中身が別人であることのごまかしも。


 ぜんぶまとめて面倒見てやる。


 ……もう少し優しい難易度でお願いしたいっていうのは、ここだけの話として。


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