第二十三話:公爵とはなんなんですか?
人は、わからないものに対して二種類の態度を取るらしい。
一つは、「まあそのうちなんとかなるでしょ」と見て見ぬふりをすること。
もう一つは、「なんとかなる前に一回ちゃんと把握しないと死ぬのでは?」と青ざめること。
そしていまの私は、完全に後者だった。
……いや、ほんとに。
クリスとしてこの世界で目を覚ましてから、気づけばもう数日が経っていたのである。数日。文字にすると短い。でも精神的にはもう二ヶ月くらい働いた気分だし、体感では転職して即管理職に放り込まれた新人が、会議と社内ルールと人間関係とシステムの仕様書のなさに泣きながら生き延びた最初の一週間、みたいな濃度がある。
というか、だいたいそういうことなのだ。
私はいま、公爵である。
いや、その言葉自体の意味はわかるよ?
わかる。そりゃわかる。貴族。えらい。領地持ち。たぶん金持ち。偉い順に並べたらかなり上の方。そういう雑な認識はある。あるんだけど、それって要するに「大統領って国のトップだよね!」とか「総理大臣ってすごい人だよね!」とか、そのへんの小学生でも言えそうなざっくり理解と本質的にはあまり変わらないのである。
問題はそこじゃない。
問題は、その“えらい人”が、具体的に何を、どこまで、どういう根拠で、誰と、どんな責任のもとに、毎日やっているのか、という話なのだ。
たとえば現代日本で言うなら、内閣とか省庁とかって、言葉としては知っているじゃないですか。厚生労働省とか財務省とか外務省とか。ニュースでも聞くし、社会の授業でも習うし、存在は知ってる。でもじゃあ具体的にどこがどう繋がっていて、何がどの範囲で、最終的に誰の判断で決まっていて、その現場がどれだけ泥臭く回っているのかを一から説明しろと言われると、たぶん私はわりと早い段階で「えっと……とりあえず国を回してる偉いところ……?」みたいな極めてふわっとした返答しかできないと思うのである。
いまの“公爵”も、まさにそれだった。
言葉は知ってる。
立場もだいたい知ってる。
でも中身がわからない。
具体がない。
説明しろって言われても、「お金持ちで領地があって、貴族の中でも一番偉い方で……たぶん政治にも関わってて……」みたいな、何ひとつ手触りのない答えしか出てこない自信がある。
そしてその“よくわかってない立場”を、私はいま、顔色ひとつ変えずに演じなければならない。
怖すぎない?
朝の執務机に座りながら、私は目の前の書類を見つめて本気でそう思った。
机の上には、帝都から届いた文書が三通、領内有力家からの伺いが二通、風車整備に関する予算見直しの報告が一通、霊脈観測の簡易記録が一冊、そしてアルカディア貴族学院からの招待状が一通。たぶんこれでも“今日の優先度が高いものだけ”なのだろう。怖い。机ってこんなに静かな顔をして人を追い詰められるんだな、というどうでもいい発見をしつつ、私は書類の束と向き合っていた。
なお、向き合っているだけで中身はまだ全部わかっていない。
社会人スキルその一、まず見た目だけは「把握しています」みたいな顔をする、がいまここで全力稼働している。
「旦那様、本日は午前に風路院地方監督官からの使者、昼に霊脈監理庁からの照会、午後にサーヴェル家当主代理との会食準備確認、夕刻に監察官殿との再度の情報整理が入っております」
横からルシエラの声が飛んできて、私は危うく机へ突っ伏しそうになった。
多い。
今日も多い。
なにが怖いって、彼女の言い方からして、これは忙しい特別日程ではなく、たぶん“普通にありうる一日”なのだろうということだ。つまり公爵の生活って、朝から晩までこういう予定でぎっしり詰まってるの? それでいて地下神殿へ行ったり剣の鍛錬したり攻略対象と出会ったり世界の謎に接続したりするの? 体力どうなってるの。元のクリス、相当がんばってない?
「……確認したいのだけれど」
私はゆっくり口を開いた。
こういうとき、いきなり「公爵って何?」とは聞けない。そんなことを言ったら、さすがに周囲も真顔になる。地下神殿の影響で記憶が飛んだのでは、と心配されるかもしれないし、それはそれで今後の立ち回りに支障が出る。だから、質問はあくまで確認として、小さく、自然に、しかし核心へ寄るように投げる必要がある。
異世界公爵生活、妙なところだけ高度な会話スキルを要求してくるのやめてほしい。
「近頃、領内案件と帝都案件の線引きについて、改めて整理しておきたいと思っている」
うん。
自分で言っててそれっぽい。
私すごい。中身ただの混乱した転生者なのに、外側だけは一応できる大人みたいな質問になってる。
ルシエラは頷き、机の脇に控えていたガルドンへ視線を送った。年配の執事である彼は、前へ一歩進み出ると、落ち着いた声で答えた。
「かしこまりました。では、まず前提から整理いたしましょうか。フェーンハルト公爵位とは、単なる高位貴族の爵位ではございません」
――きた。
その言い回しだけで、もう重い。
私は表向き無表情を保ちながら、内心で姿勢を正した。こういうのだ。こういう前提説明がいまの私には必要なのだ。もっと早く聞きたかったし、できれば転生初日に配ってほしかった。天使、そういう説明資料はなかったの?
「ウェスタロス帝国における公爵家は、皇統に次ぐ格式を持つ大貴族家であり、単なる富や血筋だけでその位を保っているわけではありません。各公爵家は、帝国の成立以前から続く古い権威と、帝国成立後に制度化された統治責務の双方を担っております」
ほう。
格式だけじゃない、と。
なんとなく「すごくえらい貴族です」で止まっていた認識に、さっそく具体の輪郭がつきはじめる。
「つまり、公爵とは?」
私はあくまで淡々と促した。
ガルドンは少しだけ間を置いてから、実にわかりやすい言葉を選んだ。
「一言で申せば、帝国の“柱”でございます」
柱。
うわ、重い。
なんか急に建物の耐震構造みたいな話になった。でも比喩としてはすごくわかりやすい。柱ってことは、飾りじゃなくて、抜けたら困るやつだ。
「帝国そのものは皇帝陛下を中心として成り立っておりますが、広大な風の大陸全土を、帝都だけで直接統治することはできません。そこで、古来より霊脈・空路・交易路・辺境防衛・宗教圏との緩衝を担ってきた有力家が、それぞれ公爵家として帝国構造へ組み込まれたのです」
なるほど。
つまり、ただの爵位じゃなくて、昔から重要地域を支えてきた強い家を、帝国側がまとめて“柱”として制度化した感じか。
それでアルヴェイン家は、その柱の一本。
……いや、やっぱり重いな?
私は机の上に置かれたペーパーウェイトを見つめながら、脳内でせっせと整理した。
皇帝が頂点。
でも全部は直接見られない。
だから重要地域ごとに有力家が支える。
それが公爵。
うん、少しわかってきた。
少しわかってきたけど、わかったぶんだけ、「じゃあ私は何をどこまで判断しなきゃいけないの?」という別の不安も膨らんでくる。
「アルヴェイン家の場合、その“重要地域”がフェーンハルト、ということですよね」
「はい」
答えたのはルシエラだった。
「ただし旦那様、フェーンハルトは単に領地名ではありません」
そこだ。
そこなのだ。
数日前からずっと、私はその違和感を感じていた。フェーンハルト公都、フェーンハルト領、フェーンハルト地下神殿、フェーンハルトの風脈。人々の口からその名が出るたび、土地の呼称以上の重みがある気がしていたのだ。というより、ゲーム知識の断片でも、その地名には妙に“古いもの”の気配が付随していた。
「フェーンハルトは、まず土地の名です」
ルシエラはそう前置きしてから、机上の地図を広げた。高原、断崖、風車谷、神殿跡、地下回廊、いくつもの風脈線。見れば見るほど“ただの一地方”ではない。
「風脈交差点の名称であり、古代神殿圏域の呼称であり、霊脈結節地帯の総称でもあります。ゆえに、まず第一に“フェーンハルト”とは場所そのものを指す固有名なのです」
うん。
地理・霊脈層。
そこは理解できる。
つまりフェーンハルトとは、ただの行政区画名ではなく、もっと古い意味を持った土地の名前なのだ。風が交わり、霊脈が結ばれ、神殿が置かれた場所。世界の流れに直接触れるような地。その時点で、普通の“領地”より危険度も重要度も一段上な感じがする。
「その次に、歴史上の家名としてのフェーンハルトがございます」
ガルドンが引き取る。
「かつてこの地を統治していたのは、フェーンハルト家。古い風座の流れを汲み、神殿と霊脈管理を世俗の統治へ繋げた一族でした」
風座。
それは以前にも聞いた。神殿時代、風の大陸各地で霊脈と風脈を調停していた巫覡共同体。王や貴族というより、“役割”として土地を支えていた人々。つまりフェーンハルト家は、その“役割”が家として固定化された初期の支配者なのだろう。
「では、フェーンハルト家がこの地のもともとの主で、アルヴェイン家は後から入ったのですか」
口にした瞬間、自分でも少しだけ身構えた。ここはたぶん重要な部分だ。ゲームでも、こういう“もともとの主”と“現当主家”のズレはだいたい後から効いてくる。土地が人を選ぶとか、継承に秘密があるとか、滅んだ旧家が地下で何かやってたとか、そういうやつだ。ファンタジーとして非常に香ばしい。
ガルドンとルシエラは一瞬だけ視線を交わした。
そのやり取りだけで、「はい単純な話ではありません」と言われた気がする。
「外から来た、という表現は正確ではありません」
ガルドンが静かに言った。
「アルヴェイン家は、古くからこの地方の霊脈管理へ関わってきた傍流の一つであり、完全な外来者ではございません。むしろ、フェーンハルト家断絶ののち、この地を支えうる血と適性を持つ家として、管理権を継承した家です」
きた。
重いやつだ。
私は表情を崩さないよう努力しながら、頭の中で赤線を引いた。
外から征服した家ではない。
もともと関わりがあった。
フェーンハルト家が断絶したあと、継承した。
つまりアルヴェイン家は“奪った家”というより“引き受けた家”に近い。
「断絶、というのは」
なるべく自然に問うと、今度はガルドンではなくルシエラが答えた。その声は事務的だったが、完全に無感情というわけではなく、古い傷口を不用意に開かないよう慎重に選んだ音だった。
「原因は一つではないとされています。古い記録では、霊脈暴走、神殿封印、一族の内紛、帝都との調整失敗、継承権を巡る分裂――複数の要因が重なったと」
「要するに、めちゃくちゃ揉めてめちゃくちゃ壊れた、と」
思わず本音が口をついて出た。
ルシエラはほんのわずかに目を丸くし、それから「……かなり大雑把に要約なさるなら」と返した。危ない。つい現代日本の雑な感想が出た。でもまあ、意味としてはだいたい合っているのだろう。
霊脈暴走があり、神殿が封じられ、一族内でも統制が崩れ、外交もうまくいかず、結果として家が持たなかった。なるほど、それなら“断絶”も納得ではある。
そして、おそらくそれはただの過去話では終わらない。
だってフェーンハルト地下にはいまも封鎖された霊脈回廊があり、この間私たちは死域とボスと異常な継ぎ目を見てきたばかりなのだ。旧フェーンハルト家の崩壊と、いま起きている異常が、無関係なわけがない。
うわあ。
掘れば掘るほど嫌な予感しかしない。
「その空白を、アルヴェイン家が埋めた」
「はい」
ガルドンは頷いた。
「ただし、これは武力による代替ではございません。継承です。少なくとも帝国と諸侯の公式記録上は」
その“少なくとも”が気になるなあ。
でもいまはそこを突っつきすぎない方がよさそうだ。たぶん掘れば古文書とか禁書庫とか封印記録とか、そういう章をまたぐ情報が出てくる。いま必要なのは、私が立っている足場の理解だ。
「アルヴェイン家が選ばれた理由は」
そこは聞かなければならない。
公爵であることが怖いのは、責任の重さもそうだけれど、もっと根本的には“なぜ自分なのか”がわからないからでもある。もちろん私は転生者だから、その“自分”には二重の意味がある。でも少なくとも、クリス・アルヴェインがこの地の当主であることには、ただの長男だから以上の何かがありそうだった。
「霊脈適性です」
ルシエラが迷いなく答える。
「アルヴェイン家は代々、“流れを感じる”血統として知られております。風脈だけでなく、より深い層の乱れにも感応しやすい。制御というより、異常の兆しを先に拾う家系です」
ああ。
それは、わかる。
この数日、自分の中へ少しずつ流れ込んでくるクリスの感覚や記憶の破片が、その言葉を裏づけていた。風の流れのわずかな濁り、空気の抜け方、石床の下を走る何かの痛みみたいなもの。私自身はもともとそんな繊細な感覚を持っていたわけじゃない。でもクリスの身体は、それを拾ってしまうのだ。
つまりアルヴェイン家の血は、もともとそういう方向に“選ばれている”。
「だから預かったんですね。この土地を」
口にすると、ガルドンが静かに頭を下げた。
「ええ。言い換えるならば、フェーンハルトを完全に支配するのではなく、預かっているのでございます」
その瞬間、胸のどこかへすとんと落ちる感覚があった。
預かっている。
その言葉は、たぶんアルヴェイン家を理解するうえで一番大事なのだ。
公爵家。大貴族。領主。
そういう言葉だけ並べると、どうしても“自分の土地を持つ支配者”みたいなイメージになる。でも本質は違う。フェーンハルトという土地は、もっと古く、もっと危うく、もっと個人の所有に収まりきらない何かであり、アルヴェイン家はその傷口みたいな場所を縫い留めるために置かれた手なのだ。
それなら、クリスがただの金持ちイケメン公爵では済まないのも当然だった。
むしろこの人、ずっと重いものを背負ってたんじゃん。
原作『スターダスト』のクズ男仕様の印象が強すぎて忘れがちだったけど、土台の設定だけ見るとだいぶしんどい人生では?
「公爵というのは、では、領主であり、帝国の柱であり、霊脈の預かり手でもある……?」
確認するように言うと、ガルドンが「左様でございます」と答えた。
「さらに申し上げるなら、公爵家当主は、諸侯と帝都、土地と制度、古い信仰と現行政治、そのあいだを繋ぐ存在でもあります」
はい重い。
また増えた。
仕事が増えた。
いや増えたんじゃなくて、もともとあったものが説明された結果、私の精神的負担だけが増えた。
繋ぐ存在。
繋ぐ、か。
それもまた、クリスの能力と不気味なくらい一致している。
マナを“使う”のではなく、“繋ぎ直す”。
土地の傷を預かる家。
帝都と地方を繋ぐ柱。
古いものと新しいもののあいだに立つ当主。
……偶然ではないよね、たぶん。
「旦那様」
ルシエラが少しだけ口調を和らげた。
「ご不安でしたら、現実の実務から申し上げることもできます」
うわ、バレてる。
いやでも、ありがたい。非常にありがたい。私はいま完全に世界観の深部を摂取して若干ぼんやりしていたので、ここで実務へ戻してもらえるのは助かる。
「頼みます」
「公爵としての日常は、簡潔に言えば五つです」
ルシエラは帳面を一枚めくった。
「一つ、領内統治。税、治安、災害対応、物資流通、各有力家の調停。二つ、対帝都窓口。勅令への返答、諸会議への出席、他公爵家との折衝。三つ、霊脈と風路の管理。これはフェーンハルトでは特に重要です。四つ、家の維持。使用人、人事、財務、婚姻、後継、名誉。五つ、社交と象徴。公爵がそこに在ること自体が、政治的安定の一部となります」
なるほど?
なるほど、だけどなるほどでは済まない。
要するに全部じゃん。
生活も政治もインフラも家政も対外も象徴も、ぜんぶじゃん。
公爵って何ですか、という問いへの答えが、「地域国家のトップ兼大企業の社長兼宗教と古代遺産の管理責任者兼顔が良い看板役」みたいになってきたんだけど、やばくない?
人ひとりの守備範囲ではない。
もちろん実際は補佐官や執事や各担当がいるのだろう。でも最終的な顔と責任は当主へ集まる。そういう構造なのだと、数日のあいだに少しずつわかってきてはいた。
それでも、こうして言葉で並べられると胃が縮む。
「ちなみに」
私は恐る恐る聞いた。
「クリスは、それを普通にこなしていたわけで?」
「旦那様は幼少より後継として教育を受けておられました」
ガルドンの答えはやさしいようでいて、事実としては容赦がない。
「古文書の読解、風路法、貴族礼制、剣術、帝国史、霊脈観測、会計、諸言語、交渉術。必要とされるものは一通り」
やめて。
完全エリート育成コースやめて。
私は前世でコンビニスイーツに癒やされていた一般職女性なんですけど、急にそんなハイスペック後継者の椅子へ座らされても困るんですけど。
しかも、だからこそ、周囲が私をできる人として扱うのも当然なのだ。元のクリスはちゃんと教育され、ちゃんと期待され、それなりにこなしてきたからいまこの位置にいる。つまり私は、積み上げられた信頼ごと引き継いでしまっている。
なんてこった。
責任って、こういう形でも重くなるんだな。
しばしの沈黙のあと、私は別の方向から切り込んだ。
「では、なぜ私が――なぜクリスが、正式に公爵位を継いだのか。そこも確認しておきたい」
ここも重要だ。
“公爵家嫡子だから”だけでは終わらない気がする。前世知識でも、クリスがただの予定調和な後継というより、“土地に選ばれている”ような空気があった。
ガルドンは少しだけ表情を改めた。
「先代公爵、すなわち旦那様のお父上は、数年前より病を得て公務を縮小されておりました。ゆえに実務の多くは既に旦那様へ移っておりましたが、正式継承の決定打となったのは、三年前の高原嵐の夜の件でございます」
高原嵐。
その言葉で、胸の奥にざらりとした感覚が走る。
龍の記憶だ。
幼いクリスが風に導かれ、嵐の夜、崩れかけた古代神殿へ辿り着き、龍と出会ったあの記憶。あれはただの夢や象徴ではなく、現実の出来事だったのだろう。
「その夜、フェーンハルト一帯で異常な風脈乱流が発生しました。風車群は停止し、霊脈井戸の一部は逆流し、古い神殿圏域の封印にも揺らぎが出た。多くの者が手を尽くしても収まらぬ中、旦那様だけが……その、中心へ至られた」
至られた。
なんだその貴族的に包んだ言い方は。たぶん実際には、幼いクリスが危険地帯へ迷い込んだのだろう。でも結果として、彼は戻ってきた。そしてその後、風は静まった。
そういうことか。
「その事件以後、旦那様はフェーンハルトの“徴”を持つ者と見なされるようになりました」
今度はルシエラの声だ。
「血統上の嫡子であることに加え、土地側からの適性を示した、と」
うわあ。
なんかもう、後戻りできない感じがすごい。
つまりクリスは、アルヴェイン家の嫡子だから公爵になっただけではない。フェーンハルトという土地そのものに“選ばれた”と人々に認識されたから、公爵としての正統性が決定的になったのだ。
血統だけじゃない。
土地の応答があった。
それは政治的にも強いし、霊脈管理の家としては決定打にもなるだろう。
でも当人の負担としては最悪レベルに重い。
だって「家柄がいいので継ぎます」じゃなくて、「土地があなたを選びました」なんて言われたら、逃げる余地がほぼ消えるではないか。
私は思わず天井を仰ぎたくなったが、なんとか耐えた。公爵が急に天井を見て遠い目になったら、それはそれで心配される。
「……つまり、私はアルヴェイン家の血と、フェーンハルトの選定、その両方でここにいる」
「はい」
静かだがはっきりとした答え。
その一言に、妙な納得と重圧が同時にのしかかる。
血統はアルヴェイン。
土地はフェーンハルト。
二重帰属。
なるほど、これはもう普通の貴族の後継とはかなり意味が違う。私はいま、公爵家の長として振る舞うだけでなく、世界の傷口みたいな土地の“手”として立つことを求められているのだ。
……いや、待って。
それ、難易度高すぎない?
「旦那様」
マリエンヌが、少し心配そうに茶を置いた。
いつの間にか部屋へ入ってきていたらしい。ああ、タイミングが優しい。たぶん私は見た目にはだいぶ無表情を保てているはずなのに、空気で消耗を察されている。気遣い力が高すぎる。
「少し休まれますか?」
「……いえ、大丈夫です」
本音はちょっと大丈夫じゃない。でも、ここで切ると私の中で消化不良になりそうだった。むしろ今のうちに知れるだけ知っておきたい。人は、わけのわからない恐怖には弱いけれど、ある程度輪郭の見えた恐怖にはギリギリ耐えられるものだ。ギリギリだけど。
「フェーンハルトについて、もう少し詳しく」
私は地図へ目を向けた。
「この地は、いまも完全には支配できていない。そういう理解でいいですか」
ルシエラが、今度は迷わなかった。
「はい。支配という言葉は適切ではありません」
「公都と周辺集落、風車谷、断崖街道、風脈観測塔群、このあたりの地上行政はアルヴェイン家の統治下にあります。しかし神殿圏域深部、封鎖回廊、古い結節層、その全てを人の制度だけで把握できているわけではありません」
だろうな、と思う。
だってこの間自分で行ったし。地下深層なんて、あれもう“土地”というより“世界の内臓”みたいな場所だった。行政地図に載せて「ここが何番街です」みたいに処理できるわけがない。
「ゆえに、フェーンハルト領主とは支配者である以上に、管理者であり、調停者であり、封じ手でもあります」
封じ手。
その単語で、空気が少しだけ冷えた気がした。
そうだ。ここは守るだけの土地じゃない。何かを押さえ込み、何かが噴き出さないようにし、異常を見張り続ける土地でもある。
つまりアルヴェイン家は、繁栄の家であると同時に、封印の番人でもあるのだ。
きついなそれ。
華やかな公爵家のイメージからどんどん離れていくな。
いや、正しいんだけど。
私が前世でぼんやり思っていた「公爵」という言葉が、キラキラした舞踏会とか上流階級の恋愛模様とか豪華なドレスとか、そういうもの寄りの連想だったせいで、余計にギャップがすごい。現実の公爵業務、思ったよりずっとインフラ寄りだし、しかも地下が神話レベルで危ない。
「ではフェーンハルトという名は、いまも土地に残っているけれど、家としてはもう存在しない」
「公式には、その通りです」
ルシエラがそう答えたとき、“公式には”という部分だけほんのわずかに重かった。
気になる。
すごく気になる。
でも、いま掘るとたぶんこの話は別章の伏線へ飛ぶ。私はそれを本能的に察した。長年オタクとして物語に触れてきた勘が告げている。“公式には”は後で効くやつだ。いま無理にこじ開けると、世界観がさらに三段階くらい重くなる。
ただでさえ胃が忙しいので、今日はここまでで勘弁してほしい。
「……なるほど」
私は息を吐いた。
「ようやく、公爵というものの輪郭が少し見えてきました」
それは偽らざる本音だった。
公爵とは何か。
その答えは、どうやら「偉い貴族」では終わらない。
帝国の柱であり、地方統治者であり、霊脈と風路の管理者であり、古い信仰と現行制度のあいだを繋ぐ者であり、家の顔であり、政治の窓口であり、場合によっては封印の番人ですらある。
そしてアルヴェイン家は、そうした役目を、フェーンハルトという土地の傷口に手を当てる形で継いできた家。
その現在の継承者がクリスであり、私はいま、その身体の中にいる。
ああ、やっぱり逃げられないんだな、と思った。
でも同時に、少しだけ腹が据わる感覚もあった。
わからないまま怖がるよりは、わかったうえで怖がる方がまだましだ。
少なくとも、“何を背負わされているのかも知らない”状態ではなくなったのだから。
「旦那様」
ガルドンが、深く頭を下げた。
「この家は、旦那様お一人に全てを背負わせるためにあるのではございません。アルヴェイン家とは、当主を中心に役目を分かち持つ構造そのものでもあります」
うっ。
それはちょっと、ずるい。
やさしい言葉として刺さりすぎる。
前世で仕事に追われていた頃、「最終責任者だから仕方ないですよね」で全部投げられる空気に疲れていた身としては、その“分かち持つ”という言葉だけでちょっと泣きそうになる。いや泣かないけど。公爵だし。見た目が超絶イケメンだから、ここでうるっとしたらたぶん破壊力がおかしなことになるし。
「……覚えておきます」
なんとかそれだけ言うと、ルシエラがほんの少しだけ表情をゆるめた。ほんの少しだ。でもこの人にしてはだいぶやわらかい。
「では、今日の実務に戻りましょう。理解した上で見る文書は、理解せずに見るより幾分ましです」
「それは本当にそう」
思わず素で返してしまった。
ルシエラは一瞬きょとんとしたあと、わずかに目元だけで笑ったように見えた。いや、気のせいかもしれない。でも、その反応だけで少し空気が軽くなる。
よし。
やるしかない。
公爵とはなんなんですか、という問いに対する答えは、たぶんまだ全部ではない。きっとこれから先、帝都との軋轢や旧フェーンハルト家の影や、土地そのものの意志みたいなものまで絡んできて、もっと重く、もっと複雑な意味を持つのだろう。
でも少なくとも、いまの私は知った。
公爵とは、偉い人という雑な一言で済ませてはいけない立場だ。
アルヴェイン家とは、ただ贅沢な暮らしをする名家ではない。
フェーンハルトとは、地図の上の領地名ではなく、世界の深部へ触れる傷口そのものだ。
そしてクリスとは、その血と土地の両方からここへ立たされている人間なのだ。
……いやほんとに。
こんな重い設定の主人公を、原作『スターダスト』はよくあんな感じの女好きルートにもできたよね?
どういう情緒なの。
壮大な神話の傷口を背負った公爵が、「今日はどの宿で?」みたいなテンションになる仕様、いま改めて考えてもだいぶ狂ってるでしょ。いやだからこそ売れたのか? ギャップ萌えとかそういうやつ? いやでもやっぱり兄の倫理観が最悪だっただけな気もする。うん、そのへんはもう混ぜるな危険として心の棚にしまっておこう。
私は深く息を吸い、机の上の帝都文書へ手を伸ばした。
公爵とはなんなんですか、という疑問に対して、ようやくスタートラインの答えは得た。
なら次は、それをやる側の番だ。
怖い。
すごく怖い。
でも、たぶんこれが、クリスとして生きるということなのだろう。
世界の傷口に手を当てながら、書類も読む。
ヒロインの死亡フラグも警戒しながら、会食にも出る。
地下神殿の異常にも向き合いながら、領内の風車予算にも目を通す。
ロマンチックなのか現実的なのかよくわからないけど、少なくとも暇ではない。
私は封を切りながら、心の中で小さく呟いた。
天使。
あのとき私は、ハーレム学園ライフを希望したはずなんですけど。
なんで現実に渡されたのが、“世界の傷口を預かる高難度公爵業務パッケージ”なんですかね。




