第二十ニ話:バリエーション豊かすぎない?
人間、いくら大変な状況でも、目の前に美人が並ぶと脳の処理能力の一部がそっちへ持っていかれるんだな、というどうでもよくて切実な学びを、私はフェーンハルト公爵邸の玄関ホールで得ることになった。
いや、ほんとに。
世界の崩壊とか、死域とか、霊脈とか、龍の記憶とか、そういう壮大なワードをついさっきまで全身で浴びてきた直後なのだ。普通ならもっとこう、「いま見たものは何だったのか」とか、「自分の力は結局何なのか」とか、「帝都に知られたらまずいのでは」とか、考えるべきことは山のようにある。実際、ある。あるんだけど、それと同時に、いやそれと同じくらい切実な問題として、目の前に並んだ女性陣の完成度が高すぎるという現実が、ものすごい勢いで私の理性を横から殴ってきたのである。
どうして。
なんでこんなに粒ぞろいなの?
いや待って、語弊があるな。語弊はあるんだけど、でも本音としてはそうとしか言えない。粒ぞろいって何。野菜の品評会じゃないんだから。けどほんとにそんな感じなのだ。落ち着いた年上系、勝ち気な有能系、守ってあげたくなる癒やし系、それぞれが「担当属性はこちらです」と言わんばかりに違う魅力を携えて、しかしどの方向から見てもちゃんと美人という、あまりにも贅沢すぎる布陣でこちらを迎えている。
ここは何ですか。
オークション会場ですか。
それとも貴族屋敷の皮をかぶった大型恋愛シミュレーションの初期配置エリアですか。
そう心の中で全力ツッコミを入れながらも、外側の私はあくまで涼しい顔を保たなければならなかった。なにせ私はいま、超絶イケメン公爵クリス・アルヴェインである。ここで「えっ、なにこの人たち全員かわいくない!?」みたいな顔をしたら、それはそれで終わる。公爵として終わるし、人としても終わる。なので私は必死で表情筋を統制しつつ、執事らしき男性の案内に従ってホールを進んだ。
玄関ホールは朝見たときよりも広く感じた。
いや実際に広いのだろうけど、朝はそれどころではなかったのだ。転生直後で、男の身体で、しかも鏡を見て自分の顔面がゲーム主人公のクリスそのものだと知ったばかりで、脳みその容量がほぼ限界だったから、周囲の豪奢さを味わう余裕なんてなかった。だけどいまは多少なりとも状況に慣れたこともあって、この屋敷がただの「でかい貴族の家」ではなくアルヴェイン公爵家という巨大な役割の器なのだとわかる。
磨き込まれた白灰色の床石には夕方の光が長く差し込み、二階の回廊を支える柱には風を象った繊細な彫刻が巻きついている。壁際に置かれた燭台は華美というより静謐で、光を競うというより空間の呼吸を整えるためにそこにあるように見えた。吹き抜けの高窓には薄青の硝子がはめ込まれており、外の風が通るたびにかすかに鳴る仕掛けでもあるのか、ほんのわずかに澄んだ音が混ざる。装飾はある。でも、ただ派手なだけの金持ち趣味ではない。風を読む家、風を迎える家、風の大陸の名門として「空気の流れすら設計の一部にしている」感じがした。
ああ、なるほど。
こういうところなんだな、アルヴェイン家って。
見栄で固めた貴族の館じゃない。
役目を背負った家の空間だ。
……いや、だからこそ余計に困るんだけど。
私は中身一般人だからね?
その“役目を背負った空間”にいま住人として立ってるの、普通に事故だからね?
「旦那様、まずはお着替えと医師の診察を」
きびきびとした声が飛んできて、私は現実へ引き戻された。声の主は、玄関でちらりと見かけた勝ち気そうな灰銀髪の美女である。近くで見るとさらに顔が強い。切れ長の目元に隙がなく、口調も無駄がない。実務補佐官というより、もはや「この屋敷の実務を八割回してます」みたいな空気を全身から放っている。服装も使用人というよりは補佐官寄りで、襟元はきちんと閉じられているのに、そのぶん姿勢と体のラインの美しさがやけに際立つという、神様ちょっと配分ミスってませんかと言いたくなるタイプだった。
「ルシエラ、閣下はお疲れです。まずは少しお休みいただいた方が」
今度はやわらかい声音。振り向けば、栗色の髪をまとめた大人っぽい女性が控えめに一歩前へ出ていた。笑い方まで包容力がある。声の温度が高い。なにその「温かい食事と毛布と優しい言葉で人をだめにする能力」みたいな気配。こういう人、前世でコンビニ帰りに会ったら泣いてた自信ある。しかも大人の余裕がある顔立ちのくせに、給仕服の上からでもわかる程度にわかるところがわかってしまう体つきなの、反則では?
そしてその横で、おろおろとこちらを見上げているふわふわした明るい髪の少女。年齢は少し下くらいだろうか。大きな瞳が忙しなく揺れていて、緊張しているのが丸わかりなのに、それがむしろ庇護欲を刺激してくる。いや庇護欲って何。私は女子だぞ。女子なんだけど、この子みたいに「見てるだけで守りたくなる成分」が強い相手を見ると、性別とか関係なく心がふわっとするというか、これはもう生物としての本能に近い何かなのではないかと思えてくる。
だめだ。
ほんとにだめだ。
なんでこんなにバリエーション豊かなの。
大人っぽいお姉さん枠、ツンめの有能秘書枠、守護欲直撃の見習い枠って、序盤から並べるラインナップじゃないでしょ。ソシャゲの初期実装か何か? もうちょっと小出しにしない? 運営、配布が豪華すぎるんだけど。
「……旦那様?」
灰銀髪の美女――ルシエラが、わずかに眉を寄せた。いけない。完全に意識が飛んでいた。
「失礼。少し、考え事をしていた」
なんとかそう返すと、声が自分でもびっくりするくらい落ち着いていた。低くてよく通る。ああそうだった、私いま顔だけじゃなく声までイケメンなんだよな、と、こんな状況でもどうでもいい確認が脳裏をよぎる。
ルシエラは一瞬だけ私を観察するように見たあと、すぐに目を伏せた。
「ご無事で何よりです。地下調査の件、詳細は後ほど伺いますが、まずは身体を休めていただくべきかと」
「ええ、そうしてくださいませ。お湯もすぐご用意できますし、軽く召し上がれるものもお持ちします」
栗色の女性がそう言って柔らかく微笑む。やめて。そういう「何も言わなくても全部整えてくれる人」の顔をしないで。中身が限界社畜だった女には効きすぎるから。
私はどうにか頷き、ついでに三人の名前を記憶から探った。探ったというか、クリスの中にある朧げな既知感と、ゲーム知識由来の断片的な印象とが、最近少しずつ噛み合い始めている感じがあるのだ。
灰銀髪の有能美女はルシエラ・ノークス。公爵家の実務補佐を担う家令補佐官。若いのに異様に仕事ができ、フェーンハルトの財務整理から屋敷人員の配置まで幅広く手を回している切れ者。原作だと、最初は主人公に厳しくて距離があるのに、特定ルートでめちゃくちゃ面倒見がよくなるタイプの人だった気がする。うわ、覚えてる。やだなその情報。
栗色の女性はマリエンヌ。たしか侍女長補佐、あるいは給仕方の取りまとめ役に近い立場だったはずだ。公爵家の内向きの生活を支える中心人物で、領内出身者からの信頼も厚い。やさしい。とにかくやさしい。やさしいのに芯があるタイプ。こういう人、ルートに入ると“包容力”で殴ってくるんだよな。あのゲームそういうとこあった。
ふわふわした見習いの子は、たぶんエミーリア。給仕見習い兼、屋敷内の連絡係みたいな立場。年若いぶん失敗も多いが、だからこそイベントも多かったはずで、プレイヤー人気もなんか高かった記憶がある。いやなんで覚えてるんだろう私。そんなに詳しく遊んでないはずなのに。これが兄のオタク語りを横で聞かされ続けた副作用なのだろうか。最悪すぎる。
私は内心で頭を抱えながら、表面だけは公爵らしい無風の顔を維持した。
でも、真面目な話。
これはちょっとまずい。
いや、いやらしい意味ではなくて。そこはほんとに違う。下半身がどうこうとか、男の身体になったことで誰かを見て勝手に反応してるとか、そういう直球の話ではまったくない。ないんだけど、それとは別のベクトルで、かなりまずいのだ。
なにがって、この環境。
周囲の女性のレベルが高すぎる。
あまりにも高すぎて、「自分は中身が女だから大丈夫」と胸を張れない瞬間があるのである。
いやほんとに、ここ重要なんだけど。
私は女だ。中身は現代日本で働いていた普通の女だ。イケメンに囲まれて甘やかされたいという欲望は確かにあったし、だからこそ転生時にあんなふざけた願いを口走ったわけだけど、それはあくまで“男に愛される側”としての話であって、いまみたいに美人のお姉さんやらかわいい見習いちゃんやら有能秘書美女やらに囲まれて、「さてこの中から誰と恋愛しますか」みたいなゲーム的配置に立たされるのは想定外にもほどがある。
なのに。
なのにである。
女子として見ても、みんな普通に魅力的すぎるんだよ。
なんなのこの世界。
女性向けハーレムに行きたかったはずなのに、気がついたら男女両方向へ危険なビジュアルの人材が供給される世界に放り込まれてるんですけど。これって仕様バグじゃない? あるいは天使の解釈違いにもほどがない?
私がそんなくだらないのに深刻なことを考えているあいだに、リゼリアが静かに一礼した。
「私は客間で簡易報告をまとめます。閣下、夕刻以降にお時間をいただけますか」
「もちろん」
即答してから、ああこの人ほんとに仕事人間だなと思う。さっきまで地下神殿で死域相手に生死の境を踏んでいた人間が、戻ってきたらまず報告書の整形を考えているの、強すぎるでしょ。いや実際その姿勢に助けられてるんだけど。彼女が保留してくれたおかげで、少なくとも私の能力については帝都の上層部に即時で筒抜けにはなっていないのだから。
けれどその一方で、私はちゃんと理解していた。
彼女が保留したのは、私を全面的に信じたからではない。
まず自分の手で確かめたいからだ。
分類不能だからこそ、他人に渡す前に自分の目で見ておきたい。そういう理性と責任感が彼女にはある。そして、そこへ個人的な関心も少しずつ混ざっている。危うくて、でも自然な距離感だ。だからこそ厄介でもある。
だってこの人もヒロイン枠だからね。
いやもうほんとに。
序盤から仕事ができて美人で強い監察官に興味を持たれ、そのうえ屋敷に帰れば屋敷で属性違いの美女たちが待っているって、これ普通に考えたらウハウハの天国では? 前世の私が外から見たらたぶん羨ましさで泡吹いて倒れるわ。でも中身がいまの私だから困るのだ。羨ましいより先に「これ全部管理しなきゃいけないの!?」が来る。
恋愛フラグ管理をする、とは確かに言った。
言ったけどさ。
なんで初期配置から難易度ヘルモードなの?
私はリゼリアを見送り、執事――名前はたしかガルドンだったか――に案内されて私室へ向かった。廊下を歩くあいだにも、この屋敷の造りが少しずつ見えてくる。
広い。とにかく広い。
無意味に広いわけじゃない。玄関ホールを中心に、公的空間と私的空間、来客用の区画と家人用の動線が明確に分かれていて、しかもそれが露骨な権力誇示としてではなく、機能の積み重ねとして自然に配置されている。西側は執務と会議のための部屋が多く、東側は私室と休息のための空間が中心、さらに奥へ進めば書庫や記録室、家政を司る区画、使用人たちの詰所、厨房、倉庫、そして地下へ続く封鎖区画へと連なっているらしい。なるほど、朝の時点で「屋敷」としか認識できなかったものが、いまは「小さな行政機構を内包した公爵家中枢」に見えてくる。
嫌な言い方をすれば、ここは家であると同時に役所でもあるのだ。
しかもかなり偉い方の。
……終わってない?
私は歩きながら本気で不安になってきた。
だって公爵だよ?
公爵って何するの?
いやざっくり偉いのはわかる。貴族の中でも相当上、領地持ち、軍や行政にも発言権あり、帝都の政治にも関わる。そこまではわかる。わかるけど、それってつまり何をどこまで自分で判断する立場なのかがいまいち掴めていない。税は? 裁定は? 土地管理は? 人事は? 軍備は? 霊脈の監理は? 諸侯会議とかいうやつでは何を話すの? 誰と敵対してて、誰と組んでて、どの家と婚姻がどうとか、私にわかるわけなくない?
ゲーム知識がある、とは言っても、それはあくまで物語としての知識だ。大イベントの流れとか、主要人物の背景とか、世界の崩壊構造とか、そういう“大きい意味での設定”は知っている。でも、公爵の一日の実務がどう回るかとか、領内の農地調整でどこの有力家が揉めているとか、今年の風車保守予算がどれくらいで、霊脈監理庁への提出書類が何枚必要かとか、そんな具体的で泥臭い部分なんて当然知らない。
つまり私はいま、ストーリーは少し知ってるけど現場実務は何も知らない状態で、たまたま大会社の社長席に座らされているようなものなのだ。
怖すぎるでしょ。
しかも社員が全員優秀で美人。
それはそれで別の意味で怖いでしょ。
私室へ入ると、朝よりもいくらか見慣れたはずの豪奢さが改めて押し寄せてきた。高い天井、大きな窓、重厚な寝台、壁一面に広がる書棚、地図、飾り剣、そして手入れの行き届いた執務机。特に目を引いたのは、窓際へ向けて置かれた長机だった。そこには風の大陸全域の地図と、フェーンハルト領の詳細図、霊脈観測の記録板らしきもの、未処理の書簡の束、数本のペン、封蝋、そして整理された報告書類が置かれている。
うん。
寝室兼オフィスだこれ。
完全に社長室だこれ。
わあ、見なかったことにしたい。
「旦那様、お召し替えをお持ちします」
マリエンヌがそう言って控え、ルシエラは机の上に積まれた書類を一瞥した。
「本日中にご確認いただきたいものは後ほど選別いたします。急を要するもののみ、休息の後に」
やめてその“急を要するもののみ”って言い方。あるんだよね、そういうの。あるよね、きっと。公爵の仕事って休んでるあいだにも勝手に積み上がるタイプのやつだよね。
「……普段、私はどの程度を自分で見ている?」
気づけばそんなことを口にしていた。かなり危うい聞き方だと自分でも思う。記憶喪失を疑われてもおかしくない。でも、何も知らないままでいる方がもっと危ない。
ルシエラはわずかに目を細めたが、幸い、不審よりも疲労を気遣う方を選んでくれたらしい。
「案件によりますが、霊脈関連と対外文書、領内有力家との調整、帝都からの勅令に関わる事項は旦那様ご自身で。日常の会計と人員管理、物資搬入、屋敷内の運用は主にこちらで整理しております」
あ、うん。
普通に重い。
霊脈関連を自分で見るのはまあわかる。アルヴェイン家が“交差する風”を司る家系で、フェーンハルト地下には巨大な霊脈が走っているのだから、公爵がそこへ関与しないわけがない。対外文書も公爵本人の署名や判断が必要だろう。領内有力家との調整も、最終的な顔はやはり領主でなければならない。帝都の勅令なんて、触れるだけで胃が痛くなりそうな言葉だ。
つまり私は、わりと本格的に重要なことを日常的に決める立場らしい。
詰んでない?
いや、ほんとに。
いままで「リゼリアを死なせない」とか「異常の根源を追う」とか、大きくて物語的な目標は持っていた。でもその前に、「今日届いた勅令にどう返事するか」とか「領内の風車修繕の予算をどう配分するか」とか、そういう地味で現実的な判断をこなせなかったら、公爵として足元から崩壊するのでは?
しかも、クリスはたぶん今までちゃんとこなしていたのだ。
少なくとも屋敷の人々の反応を見る限り、もともとのクリスが極端な放蕩者だった気配はない。むしろ節度があり、理性的で、淡々と役目を果たすタイプだったのだろう。だからこそ、いまの私が変な振る舞いをし始めると違和感が出る。
つまり、元のクリスが優秀であればあるほど、転生した私のハードルは上がる。
しんどい。
優秀な前任者が残したポストに、説明書もなく放り込まれた新人みたいで、しんどい。
私が内心で盛大にへこんでいるあいだに、マリエンヌが温かい濡れ布と着替えを用意してくれた。手際がいい。気配りが細かい。ついでに近い。いやそうだよね、着替えの世話をする立場の人なんだから距離は近いよね。わかる。わかるけど、いまの私は中身が女なので、美女がさも当然みたいな顔で身の回りを整えようとしてくる状況にいちいち心臓が変な跳ね方をする。
男としてじゃなく、別の意味で。
これ伝わるかな。
同性の綺麗なお姉さんが、余裕たっぷりに「どうぞこちらへ」とか言いながら手を伸ばしてくるのって、なんかこう、変に意識しない方が難しくない?
いや別に恋とかそういうんじゃなくてさ?
美って暴力なんだなって、純粋に思う。
しかも私はいま男の身体で、そのうえ相手から見たら雇い主の公爵で、たぶんこれまでの日常ではこれが普通だったのだ。クリス、よく平然としていられたな。いや慣れか。慣れなんだろうな。慣れてるからあの仕様に繋がるのか。やっぱりだめでは?
私はそこまで考えて、はっとした。
いや、待って。
こんなふうに「女子でもワンチャンいけちゃうんじゃないか」とか考え始めてるの、普通にまずくない?
もちろん実際に何かする気はない。ないし、そこは断じて違う。だけど、環境として危険すぎるのは確かだ。周囲のレベルが高すぎるせいで、女性として見ても惹かれうる相手が多すぎる。しかもこちらは男の身体。相手からは最初から“男”として認識される。つまり万が一こちらが変な空気を出したら、事故が起こりうる土壌が最初から整っているわけで。
待って待って、だめだ。
恋愛フラグを管理する側が、環境の豪華さに圧倒されてる場合じゃない。
私は心の中で両頬をぺちぺち叩いた。落ち着け。いま必要なのはときめきでも動揺でもなく、情報整理だ。
アルヴェイン家。
まずはそこを把握しなければ。
着替えを済ませ、軽い食事を摂ったあと、私は窓際の長椅子へ腰を下ろした。外では夕闇が深まりはじめ、風車の羽根がゆっくりと回る影が遠くに見える。フェーンハルトの街に灯りが点り、石造りの街並みのあいだを細い金の線のように明かりが走る。その景色をぼんやり見ていると、マリエンヌが温かい茶を置いてくれた。
「少し甘めにしてあります。地下から戻られた日は、旦那様はいつもこちらを」
その言葉に、私はわずかに目を見開いた。
地下から戻られた日。
つまりクリスは、地下や霊脈絡みの調査に日常的に関わっていたのだ。
まあ当然と言えば当然か。この領地の根幹がそこにあるのだから。だがその“当然”が、私にはまだ重い。
「……いつも?」
「はい。霊脈観測や古い遺構の確認の後は、あまり食が進まれませんので」
ああ。
そうなんだ。
その一言だけで、少しだけクリスという人物の輪郭が見えた気がした。表向きは理性的で端整で、いかにも公爵然としていて、でも地下の流れや遺構に触れた後は、少し食欲が落ちる程度には神経を削っていたのだ。生まれつきそういうものに感受性があったのかもしれないし、公爵家の役目として幼い頃から関わってきたせいかもしれない。いずれにせよ、彼はただの攻略対象量産型主人公ではなく、ちゃんとこの家の重さを背負って生きてきた人間だったのだ。
そう思うと、なんだか少しだけ申し訳なくなる。
私はこの身体を借りている。
この立場も、この信頼も、この日常も。
それならせめて、雑に壊すわけにはいかない。
たとえ中身が一般人でも、わからないなりに踏みとどまるしかないのだろう。
茶をひと口飲むと、やさしい甘さがじんわりと広がった。たしかに、地下から戻ったあとの空っぽの胃にはこれくらいがちょうどいい気がする。
私は息をつき、マリエンヌへ視線を向けた。
「少し、家のことを確認したい。今日のうちに把握しておくべきことがあれば教えてほしい」
我ながらぼかした言い方だ。直接「何もわかりません」とは言えないので、確認という形を取るしかない。
マリエンヌは穏やかに頷き、横に控えていたルシエラへ視線を送った。するとルシエラが、すでにそう来ると思っていましたと言わんばかりの動きで小さな革表紙の帳面を開く。
「本日以降の優先事項を簡単に申し上げます。第一に、地下異常に関する内部整理。第二に、帝都からの定期書簡への返答。第三に、今週末の領内有力家との会食準備。第四に、アルカディア貴族学院から届いている次期講義会への出欠確認。第五に――」
待って待って待って。
多い多い多い。
なにその、ゲームならイベントログに箇条書きで出てきそうな用件群。しかも全部“放置すると悪化する中規模フラグ”の匂いがする。
帝都の書簡は政治だろうし、有力家との会食は派閥調整だろうし、学院はたぶん若手貴族ネットワークとかそういう将来の人脈案件だ。地下異常なんて言わずもがな最重要。つまりどれも避けられない。
私は心の中で崩れ落ちながらも、外側の顔だけはなんとか保った。
「順に見よう。まずは内部整理から」
「承知しました」
ルシエラが淡々と応じる。その顔を見て、私はふと思った。
この人たちは、クリスがわかっている前提で話してくる。
当然だ。昨日今日やってきた外部の人間ではなく、ずっとこの家で領主をしてきたクリスなのだから。ならば私にできるのは、全部を知ったふりをすることではなく、重要事項を“確認”という形で引き出しながら、少しずつ現実へ適応することだ。
要するに、下手に万能を装わない方がいい。
元のクリスが慎重で理性的なら、多少確認が多くても「地下から戻った直後でお疲れなのだろう」で通る可能性はある。
……うん。
社会人仕草だな。
わからないときは、知ってる前提を崩しすぎないように確認する。前世で嫌というほど覚えたやつだ。まさか異世界公爵業務で活きるとは思わなかったけど。そう考えると少しだけ落ち着いてきた。
クリスに転生したことは、もう変えられない。
私は静かに茶杯を置き、窓の外の風車群を見た。フェーンハルトの夜風は、昼のそれより冷たいのに不思議と澄んでいる。遠くで鳴る鐘の音、どこかの作業場が店じまいをする気配、そして屋敷の中を行き交う人々の足音。そのすべてが、ここが生きた場所であることを伝えてくる。
アルヴェイン家は、ただ偉い家なのではない。
風と人を繋ぎ、領地を支え、帝都と辺境のあいだを調停し、霊脈の安定を背負う家なのだろう。
クリスの日常は、たぶん華やかさより先に、その積み重ねでできていた。
朝は報告書と領内の確認。日中は訪問者や会議、視察、調停。ときに霊脈観測や古代遺構の確認。夜は帝都への返答や家としての判断。貴族らしい社交もあるだろうし、学院との繋がりもあるだろう。剣の鍛錬だっておそらく欠かしていない。原作では華やかなイベントの舞台装置に見えていた“公爵”という肩書きの裏側には、こんなふうに途切れない日常の責任が敷き詰められていたのだ。
それを思うと、少しだけクリスのことを見直す。
そして少しだけ、自分の先行きが怖くなる。
……いや、少しじゃないな。
かなり怖い。
でも、逃げられない。
逃げられない以上、やるしかないのだ。
世界の異常も追う。
ヒロインの破滅ルートも回避する。
アルヴェイン家もできるだけ壊さない。
そしてこのバリエーション豊かすぎる美人環境に、変な意味で飲まれない。
うん。
最後のやつが地味に一番大変かもしれない。
そんなことを思っていると、扉の外から控えめなノックがした。開いて顔を覗かせたのはエミーリアだった。小さな盆に封書を載せていて、緊張したように姿勢を正している。
「あ、あの……帝都からの急ぎのお手紙が、追加で……」
きたよ。
もうきたよ。
公爵業務、待ってくれないタイプだ。
私は内心で盛大に天を仰ぎながら、外側だけは落ち着いた声で「こちらへ」と告げた。
エミーリアがそろそろと入ってくる。近くで見ると本当に可愛い。なんなのこの屋敷。ほんとに。
でも、いま大事なのはそこではない。
いやそこも大事だけど、もっと別の意味で大事なのは、この封書の中身だ。帝都からの急ぎ。嫌な予感しかしない。物語的にも、公爵業務的にも。
私は封を見つめながら、心の中でもう一度だけ深く息を吸った。
よし。
来るなら来い。
バリエーション豊かな美女も、公爵の仕事も、政治も、恋愛フラグも、まとめて面倒見てやる。
……できれば、順番に来てほしいけど。




