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第二十話:風の記憶




 ――どくん



 広間の奥で脈打っていた霊脈の拍動と、私の胸の内側で鳴っていたよくわからない熱が、ぴたりと同じタイミングで重なった。


 あ、と思う間もなかった。


 視界が一瞬だけ白く弾ける。


 いや、白っていうより、光の層が何枚も何枚も内側へ折り畳まれて、そのあいだへ自分の意識ごと吸い込まれたような感覚だった。足裏の石の硬さも肺に入り込む地下の冷たい空気も、リゼリアがすぐそばで息を詰めた気配も、全部が一度遠ざかる。その代わりにもっと膨大で、もっと古くて、でも妙に懐かしい何かが洪水みたいに全身を駆け巡った。


 マナと、一体化した。


 ……とでも言うしかない感じだった。


 いや、正確には一体化したかどうかなんて知らない。そんな大仰なこと、いまの私に断言できるわけがない。でも少なくとも、これまで“外に流れているものを感じていた”はずの感覚が、急に“自分がその流れの中へ入っている”ものへ変わったのは確かだった。


 流れは一本じゃない。


 無数にあった。


 深層の本流。地表へ上がる補助脈。風脈。街へ渡る細い支流。死域に噛みつかれた濁り。古い神殿の制御路。全部が、線ではなく立体的な網の目のように広がっていて、その網の一点に私自身が触れているというより“触れられている”ような、奇妙に受け身で、でも逃れようのない感覚があった。


 そして、そのまま。


 私は誰かの記憶へ滑り込んだ。


 誰か、なんて言い方はたぶん正しくない。


 これは、――クリスの記憶だ。


 私がいま借りているこの身体の、もっと深いところに沈んでいたもの。知識として“そういう過去がある”と理解するのとは違う。あまりにも鮮やかで、あまりにも体温があって、無機質なモノクロの記録じゃなく、ちゃんと生きた記憶だった。


 最初に見えたのは、空だった。


 広い。


 どこまでも広い。


 いまの地下神殿の圧迫感が嘘みたいに、視界いっぱいに夜空がひらいている。風の大陸の高原らしい澄みきった空だ。断崖と草原が幾層にも重なり、その上を薄く青い夜が覆っていて、無数の星が手を伸ばせばこぼれ落ちてきそうなくらい近くでまたたいている。


 風が鳴っていた。


 この大陸の風は、いつだって音を持っている。谷を渡るときの長い笛みたいな響き。草を撫でるときの細かなざわめき。岩場の縁を回るときの、ひゅう、と喉を鳴らすような音。その全部が重なって、ただ吹いているというより、世界そのものが歌っているみたいに聞こえる。


 高原の先には、白い風車都市の灯が点々と浮かんでいた。夜の闇の中で、それらはまるで空に吊られた小さな星の続きみたいに見える。フェーンハルトの夜。けれど今の私が見ているそれは、公爵の視点でも、転生者の私の視点でもない。もっと低くて、もっと軽くて、まだ背負うものの少ない幼いクリスの視線だった。


 子どもの頃の、クリス。


 そのことを理解した瞬間、胸の奥が妙にきゅっとした。


 幼いクリスは、丘の上に立っていた。


 まだ身体つきは細く、肩も今ほど広くない。けれど立ち方に変な頼りなさはなくて、むしろ風の中に立つのが当たり前みたいに、自然にそこにいる。貴族の子らしく上等な外套を着ているのに、裾は土や草で少し汚れていて、きっと大人に見つかったら小言を言われるのだろうなって感じがするのも妙に生々しい。


 ――そして、歌っていた。


 ああ、そうだったのか、と私はその記憶の中で納得した。


 彼はよくひとりで歌っていた。


 訓練の合間に丘の上に立ち、風へ向かって声を乗せる。意味のある歌詞があるわけじゃない。ただ、旋律だけをなぞるような、不思議な響き。どこか古く、どこか懐かしく、なのに誰に教わったものでもないひとつの音。


 幼いクリスは、その歌をまるで呼吸みたいに歌っていた。


 うまい下手とか、そういうことじゃない。もっと素朴で、もっと無防備な声だった。子どもの声なのに、風とぶつからない。風に押し流されるのでもなく、逆に飲み込むのでもなく、ただ風の流れにすっと溶け込んで、少しだけ向きを変えるみたいに響いていく。


 そして不思議なことに。


 歌うたびに、風が応える。


 高原の草が一斉に同じ方向を向く。遠くの白い花が、風の拍子から半歩遅れて揺れる。空気がわずかに“静かになる”。完全な無風じゃなく、――ただ、それまでばらばらだったものが一瞬だけ揃う。聞く側が意識しなければ気づかない程度の変化だけど、…でも、それはたしかに起きていた。


 へえ。


 いや、へえじゃない。


 幼少期から既に片鱗出てたんだ、この主人公。


 しかも自覚なしに。


 いやそれ、周囲の大人たちはちゃんと気づいてなかったのかな。いや気づいていても説明がつかないから放置したのかもしれないけど。


 そのころのクリスにとっては、きっとそれはただの癖だったんだろう。


 意味も理由もなく、風に向かって歌ってしまう。


 風が好きだったのかもしれないし、風の音がひとり遊びの相手になっていたのかもしれない。幼馴染たちがからかう気持ちも少しだけわかるような気がした。だって、同い年の子どもが風に向かって変な旋律を歌うとか、ちょっと変わってるっていうか、素直に変だもん…


 それでも。


 その風景は、とても自然だった。


 子どもたちは風と遊び、風に笑い、風の中で走る。断崖の上で声を張り上げ、白い風車の影を追いかけ、高原の草へ転がり込む。風の大陸に生まれた子どもたちにとって、風っていうのは環境であり遊び相手であり、神秘である前に、まず当たり前のものだった。


 ――あの夜までは。


 記憶の空気が、そこで変わる。


 昼の名残をすべて吹き飛ばすように暗い雲が高原の空を覆っていく。風の鳴り方が変わる。さっきまで草を撫でていた音が、今度は岩の隙間で噛み砕かれたみたいに荒くなる。雨の匂い。いや、それよりもっと金属っぽい、嵐が来る前の空の匂いだ。


 嵐の夜だった。


 訓練の帰路。馬で戻るには危険なほどに天候が崩れ、周囲の大人たちの怒声や馬のいななきや、風に裂かれる旗の音がごちゃごちゃに混ざる。幼いクリスは誰かと一緒にいたはずなのに、気づけばひとりだった。視界は雨と風に塞がれ、前も横もわからない。足元の泥は重く、外套はずぶ濡れで、顔へ当たる雨粒が針みたいに痛い。


 でもその混乱の中で、彼だけはひとつの感覚を掴んでいた。


 “呼ばれている”。


 そうとしか言えない感覚だった。


 吹き荒れる風は乱れているのに、その中にたったひとつだけ、“違う流れ”がある。風に似ているけれど、風じゃない。流れっていうより、意志に近いもの。けれど怖くはなかった。むしろ、そちらへ行かなければいけない気がしていた。


 いや普通に危ないよ!?


 と、記憶の中の幼いクリスへ突っ込みたくなる。でも子どもの勘って、たまにそういう大人の安全基準をすっと飛び越えていくんだよね。しかもこれはただの勘じゃない。クリス自身の中に、もうすでに“流れを読む”性質があったからこその選択だったんだと思う。


 導かれるように辿り着いた先にあったのは、崩れかけた古代神殿だった。


 風の大陸には、こういう古い神殿跡がいくつもある。今では地図にも載らず、土地の古老が言い伝えとして知っているだけのものも多い。けれどその夜クリスが辿り着いたそこは、単なる廃墟とは違っていた。


 嵐の中なのに、静かだった。


 山肌の一部が裂け、その奥に風すら入り込まない静寂がぽっかりと口を開けている。嵐の音はすぐ外で暴れているのに、そこへ一歩足を踏み入れた途端、世界が急に音を失う。その静けさが、子どもの足には少し怖い感じがした。でも、彼を呼ぶ“流れ”は確かにそこから来ていた。


 そして、その最奥で。


 幼いクリスは“それ”と出会う。


 龍だった。


 ただし私たちが物語でよく想像するみたいな、“巨大な鱗のドラゴンがどーん”っていう感じじゃない。いや、形としてはたしかに龍なのだ。長い身体。翼。鋭い頭部。けれどそのすべてが、物質というか「存在」として固定されていない。輪郭は風のように揺らぎ、鱗は光の膜みたいに重なってそこに在るのに、“どこにも属していない”感じがする。


 形を持ちながら、形に縛られない。


 風と同化し、霊脈と共鳴し、時間の層そのものへ溶け込んでいるみたいな存在。


 “記憶そのもの”とでも呼ぶしかない何か。


 神々が分かたれる以前――世界がまだひとつの座標だった時代を知る、最後の証人。


 その言葉の意味が、いまなら少しわかる。


 龍は喋らない。


 少なくとも、声帯を使った“言葉”では。


 でも、幼いクリスはちゃんと受け取っている。流れで。風で。脈で。歌と同じ響きで。


 かつて世界には境界がなかったこと。


 マナも、時間も、意思も、すべてがひとつの連続した存在だったこと。


 だがその完全性は停滞を生み、変化なき永遠はやがて“死”と同義になること。


 だから神々は、自らを切り分けた。


 有限を与え、終わりを生み、分断という形で世界に“流れ”を取り戻した。


 そして今。


 分かたれた世界は、再び臨界へ近づいている。


 流れは淀み、境界は歪み、やがてすべては“元に戻ろう”としている。


 龍はまだ幼いクリスに、使命だとか救世だとか、そういう大仰なものを伝えようとはしていなかった。ただ静かな問いだけを残していた。


 風の中に、あの歌と同じ響きで。


 ――お前は、失われるものを受け入れるか。


 その問いは、どこか優しい。


 けれどそれ以上に残酷だった。


 ――それとも失われる前に、手を伸ばすか。


 その瞬間、幼いクリスの中で何かが繋がった。


 私はその“繋がる感じ”を、いまの自分の身体の共鳴とほとんど同じものとして受け取っていた。ああ、そうだったのか。あの頃、風に向かって歌っていた旋律はただの癖じゃなかった。風に触れていたのでもない。風と対話していたのだ。もっと言えば、分断される前の“流れ”にほんの少しだけ触れていた。


 そしてそのとき。


 龍が、ほんのわずかに翼を広げる。


 それは本当に翼なのか、あるいは風そのものが形を取ったものなのか、はっきりとした判別はつかない。けれど幼いクリスは、目を見開いてそれを見上げていた。その眼差しの中に恐れはある。あるけれど、それ以上に強いのは、強い憧れだ。


 この羽を持って、世界を歩き回ろう。


 なぜだかわからないのに、その言葉が約束の形を取って胸の中へ残る。


 そう彼と約束したのだから。


 ……彼。


 龍のことを、そう呼んだのか。


 あるいは記憶の中で、もうそういう感情だったのかもしれない。


 私はその約束の手触りを、自分のものでもないのに、やけに切実な温度で感じ取っていた。胸が少し痛い。これは私の思い出じゃない。――なのに、悲しいくらいに近い。


 そして記憶はそこでほどける。


 風が吹く。


 星が遠ざかる。


 龍の輪郭が、風と霊脈の光の中へ溶けていく。


 気づけば私は、再び地下神殿の広間に立っていた。


「――っ、は」


 喉の奥から息が漏れる。肺がようやく空気を思い出したみたいにひりつく。視界の端で、リゼリアがはっとしたようにこちらへ一歩寄ったのが見えた。


「閣下!」


「大丈夫、です」


 反射的にそう言ったものの、正直大丈夫かどうかは自分でもよくわからない。


 でも奇妙なことに、さっきまでの混乱は少し静まっていた。


 むしろ逆だ。


 ものすごく、はっきりしている。


 さっきまで私の内側で鳴っていた共鳴の正体が、少しだけわかった気がしていた。クリスは昔から“流れ”へ触れていたんだ。歌として。風として。問いとして。だからこの場所で共鳴したのも、きっと偶然じゃない。もともとこの身体は、こういう深層の流れに応答できるような回路を持っている。


 手のひらの内側に、あの夜の風の感触が残っていた。


 幼いクリスが歌っていた旋律の余韻が、まだどこか耳の奥にある。


 そして何より、いま目の前にある異常な継ぎ目をどうすればいいのかが、理屈じゃなく感覚としてわかるような気がする。


 あれは壊すものじゃない。


 押し戻すものでもない。


 “繋ぎ直す”ものだ。


 死域に噛みつかれ、書き換えられてしまった中和層を本来の流れへ戻す。汚れたものを全部浄化するなんて、たぶん今の私には無理だ。でも、少なくとも“こっちへ流れるはずだったもの”と“向こうへ落ちてしまったもの”のあいだに、もう一度橋をかけることはできるかもしれない。


 私は息を整え、広間の奥の継ぎ目へ意識を向けた。


 さっきまで耳障りだった脈動音が、今は少し違って聞こえる。死域に噛みつかれた接点。そこを通るたびに流れが軋み、青銀の霊素が濁りへ変わる。だけどその奥には、まだ死んでいない本流がある。太く重く揺るがない、――星そのものみたいな流れ。


 そこへ手を伸ばす。


 いや、伸ばすっていうより、自分の中の“繋がる感覚”を開いてその【通り道】を用意する。


 幼いクリスが風に歌ったみたいに。


 龍が流れで語ったみたいに。


 私は、手のひらをそっと前へ向けた。


 リゼリアが何か言いかける気配があったが、次の瞬間には黙る。たぶんいまの私の周囲で何かが起きているのだろう。自分ではよく見えない。けれど皮膚の表面が、薄い風に何層も撫でられているみたいにざわざわする。髪がないのに、髪の毛一本一本が逆立つような妙な感覚。空気が静かに震え、床溝の青白い光が順に明るくなる。


 私はその明滅を、呼吸の拍子に合わせる。


 吸う。


 深層の本流が鳴る。


 吐く。


 継ぎ目の軋みが少し緩む。


 吸う。


 濁りの縁が、ほんのわずかに剥がれる。


 吐く。


 地上側へ上がる軽い流れが、一瞬だけ本来の色へ戻る。


 いける。


 たぶん、いける。


 けれど同時に、これはものすごく繊細だともわかる。雑に引っ張れば切れる。力づくで押し込めば、死域側の歪みが逆流してもっとひどいことになる。必要なのはぴたりと噛み合う角度と、位相と、わずかな圧の差。その全部を、感覚だけで合わせていかなければならない。


 無茶では?


 無茶だよね?


 そう思うのに、なぜか身体の方は“できるはずだ”と知っている。


 私は目を閉じた。


 頭の中に、回路図みたいなものが浮かぶ。深層本流。中和層。表層風脈。死域へ落ちた横流れ。いま必要なのは、切れたところを一本線で繋ぐことじゃない。何層かに分かれた流れを衝突させず、でも離しすぎず、互いが互いの意味を失わない距離で重ね直すこと。


 中和。


 繋ぎ目。


 ――そうだ。


 壊れた配線をそのまま直結するんじゃなくて、あいだに抵抗と変換を挟んで、正しい電圧で通し直すようなものだ。オタク的に言えば、暴走した回路をショートさせずに再同期する、みたいな感じ。ああ、わかりやすい。いや、全然わかりやすくないかもしれないけど、私にはいまそれが一番しっくりきた。


 私は、異常な継ぎ目の少し上を“持つ”。


 持つ、っていう表現しかできない。そこに物理的な何かがあるわけじゃないのに、確かに掴める感じがする。濁りと本流のあいだで、意味を書き換えられている層。その位相を、ほんの少しだけ戻す。


 すると。


 広間の奥で、鈍く濁っていた霊素が一筋だけ青銀へ戻った。


 リゼリアが息を呑む音がした。


 私はさらに集中する。


 今の一本だけでは足りない。継ぎ目は多層だ。ひとつ戻ると、別の層がまたずれる。だから戻した流れが再び落ちないよう、そのすぐ隣へ二本目、三本目の細い橋をかけていく。


 幼いクリスが歌っていた旋律が、なぜか頭の奥でまた鳴る。


 ああ、これ。


 ――歌だ。


 術式じゃなく、胸の底から滲み出る歌に近い。


 意味がある言葉じゃなく、それよりももっと前、――流れに応える拍と高低の並び。声には出していないのに、呼吸と意識の中であの旋律をなぞっていた。すると流れが、その拍に合わせて少しずつ揃っていく。


 …なんなのこれ。


 ロマンチックすぎない?


 いや、そんなこと考えてる余裕あるのかって話なんだけど、だってほんとにそうなんだもん。古代神殿の深部、死域の根元、壮大な霊脈の結節点で、私はいま、半ば歌うみたいにして世界の流れを繋ぎ直そうとしている。絵面だけ切り取ったら相当エモい。中身は必死すぎて全然それどころじゃないけど。


 継ぎ目が、鳴る。


 さっきまで不快な軋みだったものが、今度は少しずつ違う音に変わっていく。完全な調和じゃない。でも、壊れたまま悲鳴を上げていたものが、「あ、そっちに戻れるかも」と気づいたみたいな、そんな弱い応答が返ってくる。


 そして、死域が揺らいだ。


 劇的に消えるわけじゃない。黒い霧が一気に晴れることもない。けれど縁の部分から少しずつ、濁りがほどけていく。死んでいたはずの石の表面に、ほんの薄く本来の青灰色が戻る。灰色へ褪せていた苔がすぐに緑を取り戻すわけではないけれど、少なくとも崩れ落ちるのをやめていく。


 広間の空気が変わった。


 喉に張りついていた嫌な重さが、少しだけ軽くなる。


 奥から吹いていた風とも霧ともつかないノイズが減り、代わりに青白い本流の深い脈動がはっきり聞こえるようになる。


 …うそ。


 ほんとに、戻ってる?


 私は集中を切りたくなくて、でも動揺は止められなくて、半分泣きそうな気分でひたすら流れを整え続けた。だって手を離したらまた落ちそうだし。でもこの手応えは、間違いなくここにある。


 隣では、――いや少し後ろでは、リゼリアが完全に息を呑んでいた。


 彼女が驚いているのはわかる。そりゃそうだ。普通の魔導でも霊術でもない方法で死域が“修復されていく”様子なんて、そうそう見られるものじゃない。しかも術式陣を展開したわけでも、大規模な詠唱をしたわけでもなく、私がただそこに立って流れへ手を差し入れているだけで、広間そのものの状態が変わっていくんだ。


 でも、驚いているのは私の方も同じだった。


 いや驚きっていうより、もっと奇妙な感覚かな?


 手ごたえがある。


 確かにある。


 でもそれは“私がすごい力で押し返した”みたいなものじゃない。むしろ逆で、世界の側にもともと戻ろうとする力があって、私はそこへ指を添えて方向を示しただけ、――みたいな感じなのだ。


 中和。


 繋ぎ目。


 その言葉の意味が、いまようやく身体の中へ落ちてくる。


 私は世界を支配するんじゃない。


 ただ、切れたものが渡るための橋を一時的につくるだけだ。


 その感覚が、妙にしっくりきた。


 やがて広間の奥の継ぎ目が、ひときわ強く青白く脈打った。


 それはたぶん、“繋がった”ってことの合図だった。


 次の瞬間、死域の縁に残っていた濁りが、まるで呼吸を終えたみたいにふっと薄くなる。完全には消えない。深い部分にはまだ黒ずみが残っている。でも少なくとも、さっきまでみたいに新しい濁りを地上側へ吐き出している感じは消えた。


 私はそこでようやく、張りつめていた意識を少し緩めた。


 とたんに、膝が笑いそうになる。


 あ、やば。


 思った以上に力使ってた。


 でもその直前、リゼリアがすっと横に立ち、何も言わずに私の肘の少し手前を支えた。その動きがあまりにも自然で、あまりにもさりげなくて、私は一瞬だけ反応が遅れた。


「無理は禁物です」


 低く、でも前よりずっと柔らかい声だった。


 私は苦笑しそうになる。


「……それ、さっきも言われました」


「さっきより重みがあるつもりです」


 え。


 なにそれ。


 ちょっとずるくない?


 いやその、こういう緊張感のある場面で微妙に冗談っぽいこと言うの、反則では? しかも顔は真面目なのに声の端だけ少し柔らかいの、反則すぎるんですけど。心臓に悪い…っていうか、別の意味でも悪い。


 私はなんとか立ち直り、広間の奥を見た。


 死域は修復されていく途中にある、といった状態だった。濁りはまだ深く残る。けれど中心へ噛みついていた異常な継ぎ目は、本来の位相へかなり戻っている。少なくともこれ以上、地上側へ同じ規模の異常が流れ出すことは当面ないだろう。風鳴花も、風車も、風溜まりも、少しずつ正常へ戻るはずだ。


 それを確認したのか、リゼリアも剣をゆっくり鞘へ納めた。


 その所作を見て、私はやっと少しだけ実感する。


 終わった。


 少なくとも、この場の最悪は終わったのだ。


 私たちはしばらくその場に立ち尽くし、死域が静かに修復されていく様子を見ていた。


 青白い霊脈光が、本来の滑らかな拍を取り戻していく。濁りの中に細い銀の筋が増え、黒ずんでいた霧が淡く透け、石床の色が戻る。壮大な地下の深層世界が、ようやく自分の呼吸を思い出したみたいに少しずつ静けさを取り戻していく様子は、怖いのに美しくて、そしてどうしようもなく神々しかった。


 なんなんだろうね、この世界。


 ほんとに。


 綺麗で残酷で、――理不尽で、でも見惚れるほど美しい。


 プレイヤーとして大好きだった理由が、いまなら痛いほどわかる。でも同時に、その美しさの内側にいる側のしんどさも同じくらいわかってしまう。


 やがてリゼリアが、静かに言った。


「戻りましょう」


 その一言がやけに現実的で、だからこそほっとした。


「はい」


 私は頷いた。


 そしてもう一度だけ、広間の奥を振り返る。


 龍の記憶。

 風に歌う幼いクリス。

 遠い記憶の向こうにある“誰かと交わした”約束。

 そして今自分の中に残る、流れへ手を伸ばした確かな感覚。


 全部が一度に胸の中へ沈んでいく。


 まだわからないことだらけだ。あの龍が何だったのかも、クリスが本来どこまで知っていたのかも、この力の正体も、何ひとつ完全には掴めていない。


 でも、ひとつだけ確かなことがある。


 私はもう見て見ぬふりはできない。


 失われるものを受け入れるか。

 それとも、失われる前に手を伸ばすか。


 あの夜、幼いクリスへ投げかけられた問いは、いまの私にもまっすぐ繋がっていた。


 私はリゼリアと並んで、ゆっくりと神殿の出口へ歩き出す。


 帰り道、地下深層の空気はまだ冷たいままだったけれど、さっきまでの息苦しさは薄れていた。床溝を走る霊脈光はやわらかく、どこか安堵したように明滅している。遠くで聞こえる本流の拍動ももう不快な圧迫ではなく、ちゃんと“生きているもの”の音に戻っている。


 その隣を歩くリゼリアは、何度か私の方を見た。


 何かを言いたそうにして、でも結局は言わず、ただ静かに視線を戻す。その沈黙の意味を私はまだ測りきれずにいた。驚きか警戒か、あるいはもっと別のものか。でも少なくとも、さっきまでより私を見る目が変わったことだけはわかった。


 そして私自身も。


 自分の中に、確かな手ごたえが残っているのを感じていた。


 奇妙で、少し怖くて、でもはっきりとした手ごたえ。


 この世界の流れに、私は触れられる。


 壊れた繋ぎ目に、手を伸ばせる。


 それはたぶん、これから先の運命を大きく変える力なのだ。


 ……うん。


 めちゃくちゃ大変そうだな、これから。


 でも、とりあえず今は。


 リゼリアが生きてる。


 それが何より大事だ。


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