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第十九話:霊脈の結節点



 「……行きましょう」


 自分でも驚くくらい、声はちゃんと落ち着いていた。


 リゼリアがわずかにこちらを見て、すぐに頷く。…ああこの人、もう私を止める気ないんだなって一瞬でわかるくらいには、その動きに迷いはなかった。


 つまり――完全に戦力カウントされている。


 うわあ、逃げ道がなくなった。


 いやでも逆に言えばそれって、ちゃんと“隣に立ててる”ってことでもあるわけで。


 ……うん。


 弱音なんて言ってられないよね。


 私は一度だけ小さく息を吸って、それからゆっくり吐いた。まだ心臓はうるさいくらい暴れているけど、足はちゃんと動く。なら大丈夫。たぶん大丈夫。いや大丈夫ってことにする。


 剣を握り直す。さっきよりほんの少しだけ、重さの感じ方が変わっている気がした。怖いのは怖いままだけど、完全に何もできないわけじゃないって、身体のほうが先に理解してくれたみたいな感覚。


 リゼリアの一歩後ろ、でも離れすぎない距離を意識して、私はその背中についていく。彼女の外套がわずかに揺れるたびに、「ああ、この人が前にいるならまだなんとかなるかもしれない」なんて、ちょっと都合のいいことを考えてしまう自分がいた。


 ――ほんと、頼りすぎるのもよくないんだけどね。


 そう思いながらも、視線は自然と前へ向く。


 そこには、ただ“奥がある”というだけでは済まされない気配があった。


 広間の中央でいったん形を失った怪物の残滓は、まだ死域の縁で黒ずんだ霧のように渦を巻いている。けれど、いま私の意識を強く引っ張っていたのはそっちではなかった。もっと奥。祭壇跡のさらに向こう。崩れた石橋と捩れた柱列の隙間から、まるで地下世界そのものが口を開けているみたいに、深く、広く、静かに続いている“何か”の方だ。


 その奥から、脈が来ていた。


 どくん、どくん、という心臓の拍動に似ているのに、もっと遅くて、もっと巨大な、石の海そのものが息をしているみたいな律動。耳で聞いているのか、骨で感じているのか、もう自分でもよくわからない。ただその脈動が空間全体へじわじわと沁み出していて、足裏から脛へ、脛から背骨へと、冷たい振動みたいに這い上がってくる。


 リゼリアも同じものを感じているらしく、剣を構えたままいつもよりわずかに低い声で言った。


「……まだ、終わっていません」


「ですね」


 いや、見ればわかる。わかるんだけど、改めて言葉にされると胃がきゅっとなるんだってば。


 私はどうにか平静を保ちながら頷きつつ、広間の奥をもう一度見た。死域の霧が濃くて、ただの視界では奥行きの把握が難しい。けれど、ぼんやりと輪郭だけは見える。祭壇跡の背後で、床はさらに一段落ち、その先には巨大な縦穴のようなものが口を開けている。壁面には人工的に刻まれた古い溝が幾層にも走り、それが途中から自然岩盤の裂け目と混ざり合って、最終的にはひとつの巨大な構造物というより、“大地の内部で発生している現象そのもの”に近い形へ変わっていた。


 つまり。


 あそこがたぶん、“根っこ”だ。


 この異常の根元。


 ボスが成立した理由も、死域がこの風の大陸で不自然に育っている理由も、全部あの先へ繋がっている。


 そして、その“根”の存在感が、思った以上に大きい。


 ゲームのマップでは、ここはもう少し“奥へ進めるボス部屋”みたいな印象だった気がする。もちろん広かったし、演出として十分すごかった。でも現実のスケール感は、そんなものじゃなかった。いま目の前にある広間はただの戦闘ステージじゃない。神殿と鉱脈と断層と、そして霊脈の本流が、長い時間の中で無理やり重なってできた地下の“地形そのもの”だった。


 天井は高いどころじゃない。暗闇の中へ溶けていって、どこまで続いているのか見当もつかない。途中、古代神殿の名残と思しき半壊した梁や石造の桁が、吊られたまま忘れられた橋みたいに突き出しているけれど、それすらこの空間全体の大きさから見れば、細い肋骨の一本みたいな存在感しかない。壁面は滑らかな人工石の面と、荒々しく割れた自然岩盤が層をなしていて、そのあいだを青白い霊脈光が縫うように走っている。場所によっては光が滝みたいに流れ落ち、またある場所では逆に、空中へ浮かぶ糸の束のように幾筋も絡み合っていた。


 霊脈の結節点。


 この言葉を、私はいまようやく景色として理解しかけているのかもしれない。


 それまでは正直に言って、どこか抽象的な単語だった。霊脈の要所。マナの交差点。はいはい、重要拠点ね、くらいの認識でいた。設定としては好きだったし、むしろそういう用語を嬉々として読み込むタイプのオタクだったけれど、それでも“本物の結節点”がどういうものかなんて、想像の限界がある。


 でも目の前のこれは、違う。


 ここでは本当に、“複数の流れが同時に意味を持っている”んだ。


 上方の細い光は、おそらく地表近くの補助風脈に繋がっている。青白く、軽く、揺らぎやすく、気流とよく似た拍を刻んでいる。下方の深いところを這う太い光は、もっと重い。青銀というより白に近く、ゆっくり、しかし圧倒的な密度で脈打っている。たぶんあれが深層霊脈の本流。そしてその中間には、都市機能や建築、古代神殿の制御術式と接続している人工補助脈がある。人の手で整えられた流路。祭壇を通し、風車群を支え、フェーンハルトの街へ風の秩序を受け渡していた回路。


 それらが全部、ここで重なっている。


 だから結節点なんだ。


 ただ流れが“ある”だけなら、霊脈は霊脈で終わる。でも、いくつもの層の流れが、地形や人工構造を介してここで意味を交換し始めたとき、その場所は単なる通り道じゃなく世界の一部を“定義する場所”になる。


 風の大陸なら、風そのものを定義する場所。


 フェーンハルトなら、風の街として成り立つための根。


 だからここが壊れれば地上の風は止まるし、風車は回らなくなるし、花の音はずれる。


 ……で。


 そこに死域が食い込んでるんだから、そりゃもう最悪である。


 私はしばらくその壮大な地下世界を見上げたまま、ぼんやりとそんなことを考えていた。いや、ぼんやりしてる場合じゃないのは重々承知なんだけど、こういうのって一回、脳が景色の規模に追いつく時間が必要なんだよね。ゲームだと演出として飲み込めても、現実のスケールでいきなり叩きつけられると、「はい理解しました」ってすぐにはならない。


 リゼリアが一歩前へ出る。剣先はまだ下ろしていないけど、どこか妙に落ち着いている。さっきみたいに即応戦闘の構えじゃなく、観測と警戒の中間くらいの姿勢だった。彼女は祭壇跡の縁に残る刻印と、その向こうの死域化した石面を交互に見ていた。


「……ここは、古代の制御場だったようですね」


 独り言みたいに呟いたその声を、私はちゃんと拾う。


「制御場」


「ええ。神殿というより、神殿の機能部に近い。祀るための前殿が別にあって、ここは……もっと実務的な層だったのかもしれません」


 ああ、それわかる。


 祭壇跡はある。あるんだけど、いわゆる礼拝用の広場にしては配線じみた溝や橋が多すぎるんだ。儀式空間というより、霊脈流を整理し、必要に応じて絞り、逃がし、分配するための機構が剥き出しになっている感じが強い。神殿の“神秘”というより、神殿の“設備”が奥へ隠れていたものを、死域が侵食して剥がしてしまったような印象。


「……風の街の地下に、こんな場所があるなんて」


 うっかり本音が漏れた。


 でも、それはクリスとして言ってもそこまで不自然ではない気がする。公爵家の嫡子だからって地下深層のすべてを把握しているとは限らないし、むしろ古代神殿由来の施設なら、今の時代には伝承だけ残って詳細が失われている方が自然だからだ(…多分)。


 リゼリアは頷いた。


「表に出る性質のものではありません。帝都の監理記録にも、ここまで深層の図面は残っていないはずです」


 それを聞いて、私は少しだけぞくっとした。


 帝都にも図面がない。


 つまりここは、現代の管理体系からも半ば切り離されたまま、“それでも動き続けていた根”なんだ。そんな場所が異常を起こしているなら、そりゃ対応も遅れるし、地上では最初に風の違和感しか見えない。だって根っこが深すぎるから。


 私はゆっくり息を吸い、また周囲の霊脈光へ意識を向ける。


 改めて見れば、この空間のマナの流れは本当に大陸そのものの縮図みたいだった。


 地表へ近い細く速い流れは、風の大陸らしく軽く循環的で、表層現象との結びつきが強い。空気を巻き込み熱を交換し、植物や人の生活へ反応を返す。いわば“息をするマナ”だ。


 対して深層の本流は遅く、重く、圧倒的に静かだ。そこには気象の軽やかさはない。もっと鉱脈や水圧や地殻変動に近い、星そのものの代謝としての重みがある。いわば“血を流すマナ”。


 その二つを繋ぐ中間層には、土地ごとの性質が現れる。


 そう、マナって大陸ごとに性質が違うんだよね。


 『Over World』の設定資料でもそこはかなり力を入れて描かれていた。七大陸は政治的に分断されているだけじゃなく、そもそも優勢なマナの流れ方そのものが違う。第一大陸アストリア連邦は、抽出と変換に向いた直線的で制御しやすい流れが多く、だから魔導科学が発達した。第二大陸ヴァルガ帝国は圧と励起の強い粗暴な流れが多く、兵器化に向いている。第三大陸シルヴァナ教国では、流れの安定と共鳴性が高く、祈祷や霊術体系が育った。第五大陸ノルド氷域では流量そのものが少ない代わりに、残留層が長く安定するから代替エネルギー技術が進んだ――みたいに、それぞれの文明や思想がマナの“使い方”だけではなく“流れ方そのもの”と密接に関わっている。


 つまりこの世界では、マナはただの便利エネルギーじゃない。


 土地の癖であり、文化の母体であり、国家の価値観すら形づくる前提なんだ。


 そしてその根源にあるものは何かといえば――結局、星そのもの、なんだと思う。


 “かつて神々が一なる世界を分かち、有限で変化する世界を選んだ”


 確かそんな感じの一節がゲーム中のどこかで出てた気がするけど、そんな神話的な話を抜きにしても、いま目の前にある霊脈の本流を見てるとマナは“誰かが作った魔力資源”なんかじゃなくて、もっと生々しく、この星が自分を維持するために流している血のようなものだって感じる。熱を運び、情報を運び、生命の条件を地上へ渡し、また死んだものや使われたものを深部へ還していく。


 だから枯れる。


 だから歪む。


 だから、使いすぎれば世界が病む。


 ……うわ。


 改めて考えると、だいぶヤバい前提だなこの世界。


 プレイヤー時代は「重厚な設定だなー」くらいで楽しんでいたけれど、当事者になるとしゃれになってない。だって“世界が病む”って比喩じゃなく、いま目の前の死域みたいに具体的な景色として現れるんだもん。


 私は思わず肩をすくめそうになるのをこらえた。いけない。いまはクリス。外面だけでも落ち着け。


 そのとき、広間の奥――死域のさらに向こうで、ふいに光が脈打った。


 青白い本流のはずなのに、その一拍だけ、妙に強く、異様に近く感じられた。


「……っ」


 息が詰まる。


 …なに、今の


 見えたっていうより“響いた”に近い。


 視覚だけじゃなく、胸の内側に直接同じ拍が返ってきたみたいな感覚。どく、と一瞬だけ心臓が強く打ち、そのすぐあとに自分の身体のどこか別の場所――喉の奥でも肺でも腹でもない、もっと中心に近いところで、細い光が立ち上がったような気がした。


 私は思わず一歩、前へ出る。


「閣下?」


 リゼリアがすぐに反応する。けれどその声も、いまは少し遠く感じた。


 まただ。


 広間の奥で、霊脈が脈打つ。


 すると今度は、私の内側で別の何かが、それに応じるように震えた。


 共鳴。


 その言葉が、ほとんど反射で頭に浮かぶ。


 Over Worldのストーリー上では、このあたりでクリスはすでに自分の能力の可能性には気づいていたんだよね。明確に言語化はできなくても、自分が普通の術者みたいにマナを“使う”んじゃなく、もっと別の形で流れに触れられるんじゃないかって、うっすら自覚し始めていた。旅に出る前の段階でも“風の違和感”や地脈の偏りに異様に敏感であることは、本人も認識していたはずだ。


 そしてこの死域の根本に近づくことで、その感覚が一気に前景化する。


 体内から異常な共鳴みたいなものが起き、自分がマナの異常な流れを繋ぎ直せるかもしれない、と気づく。


 ……って、知識としてはそうなんだけど。


 いざ自分の身体で起きると、ちょっと待って聞いてない、って感じではある。


 いや聞いてたけど!


 聞いてたけど、こんなに“身体の内側で鳴る”ものだとは聞いてない!


 胸骨の裏がじわじわ熱い。熱いのに痛くはない。むしろそこに“通路”があるみたいな、妙に自然な感覚がある。そして広間の奥から来る本流の脈動が、その通路を通るたびに私の中のどこかへ輪郭を与えていく。


 …これ、なんなんだろう。


 いや、なんとなくわかる気が…する?


 わかるけど、わかりたくないような、…でも知りたいような、すごく変な感じだ。


 だってこれ、私 (クリス)が“魔法を使う”っていうより、私自身が“繋ぎ目”として使われているみたいなんだもん。


 リゼリアが一歩近づく。


「どうされました」


「……少し、待ってください」


 声は出た。よかった。完全に呆けているわけじゃない。


 私は片手で壁へ触れ、どうにか呼吸を整える。壁面の石は冷たい。けれどその奥では、細い補助脈が走っているのがわかる。わかる、って表現しかできないのがもどかしい。見えないのに、位置がわかる。流れている方向がわかる。しかもそれが一本や二本じゃなく、この広間全体を巨大な回路図みたいに埋めているのが、なんとなく感じ取れてしまう。


 やめて。


 とりあえず情報量が多い。


 でも、たぶんこれを見ないと先へ行けない。


 私は目を閉じた。


 すると逆に、視界が広がる感覚があった。


 暗闇の中に、青白い線が何層も走っている。太いもの、細いもの、速いもの、遅いもの。地上へ向かう風脈寄りの軽い流れ。地下深くを這う重い本流。古代神殿が人工的に分岐させた補助路。そして、その全部のあいだに食い込むように、黒ずんだ濁りが絡みついている。


 死域は、本流そのものを殺してはいない。


 そこまでは届いていない。


 でも、本流と地上側を繋ぐ“中和層”に噛みついている。


 中和層。


 ああ、そうか。


 急に腑に落ちた。


 マナの流れって、深層の本流をそのまま地上で使えるわけじゃないんだ。重すぎるから。密度が高すぎるから。だから途中で、土地や人工構造や自然環境を介して“中和”される必要がある。深いものを浅いものへ、重いものを軽いものへ、生命圏が扱える形へ変換する“繋ぎ目”がいる。


 そしてクリスの能力は、たぶんそこに近い。


 破壊でも制御でもなく、中和。


 切れているものをつなぐ。


 激突しているものの位相をずらし、流れが渡れる橋をつくる。


 それが、さっき前兆体でできたことの本質であり、いまこの広間で自分の内側が共鳴している理由でもある。


 私はゆっくり目を開けた。


 広間の景色はそのままだった。けれど、さっきより“意味”が見える。死域の縁で濁っている霊素は、ただそこに溜まっているだけじゃない。中和層へ食い込み、正常な流れが地上へ上がる直前で噛み砕き、その結果として風の大陸の表層へ逆流と停滞を起こしている。だから外周の風鳴花も、風車も、風溜まりも、全部ひとつの異常として繋がるんだ。


 リゼリアが慎重にこちらをうかがうような視線を向けていた。


「……見えているのですか」


 その問いは、驚きと警戒と、ほんの少しの期待が混ざった声音だった。


 私は一瞬だけ答えに迷った。見えている、という表現が正しいのか自分でもわからないからだ。でもごまかしても意味がない気がした。


「見えている、というより……感じている、に近いです」


「何を」


「流れを」


 私は広間の奥を見た。


「本流と、地上側へ上がる前の繋ぎ目。そこに異常が噛みついています」


 言いながら、自分でも驚くくらい自然に言葉が出た。


 これはゲーム知識だけじゃない。さっきから自分の内側で鳴っている共鳴が、言葉を引っぱり出している感じがある。知らないはずのことが、わかる。いや正確には、知らないのに“身体が知っている”と言った方が近い。


 リゼリアは息を呑み、すぐに広間の奥へ視線を走らせた。


「位置は」


 うわ、この人切り替え早い。


 でも助かる。ここで「なぜそんなことが」みたいな哲学対話を始められると、私の頭が先に爆発する。


 私は祭壇跡の右奥、死域の濃い霧のそのさらに向こう、崩れた半円柱の根元あたりを指した。


「たぶん、あの先です。見た目の中心じゃなく、もっと下。死域を支えている接続点」


 リゼリアは数秒だけ目を細めたあと、静かに頷いた。


「行けますか」


 それは確認であり、同時に覚悟を問う声だった。


 私はそこで、ほんの一瞬だけ本音を言いたくなった。


 行けるわけないでしょ怖いんですけど!

 っていうか中身は一般人なんですけど!

 さっきから胃はずっと限界なんですけど!


 でも、もちろんそんなことは言わない。言えないというより、言っている場合ではない。ここで私が揺れたら、リゼリアはひとりで前へ出るだろう。そうなったら困る。困るどころじゃない。


 だから私は、できるだけ落ち着いた顔で答えた。


「……試してみます」


 試す。


 うん、すごく弱そうな返答だな。


 でも今の私にはそれが精いっぱいだ。確信なんてない。あるのは、広間の奥へ近づくほど、自分の内側の共鳴が強くなっているという事実だけ。それが助けになるのか、逆に私を壊すのかもわからない。


 それでも進むしかない。


 私たちは祭壇跡の縁へ沿って、広間のさらに奥へ進み始めた。


 そこから先の道は、もはや“道”と呼んでいいのか微妙だった。古代神殿の石橋が半ば崩れ、その残骸を自然の岩棚と死域に侵された石面が辛うじて繋いでいる。足場は細く、場所によっては青白い霊脈溝が露出していて、そこへ死域の濁りが薄皮みたいに被さっていた。踏み外せば落ちる、という意味じゃない。もっと嫌な意味で、“変な場所を踏むと流れそのものに触れてしまいそう”な危うさがある。


 霊素はあちこちから湧いていた。


 本流の近くでは、地面の裂け目から青銀の光が霧のように立ちのぼり、壁の隙間では細い糸みたいに滲み出している。それは綺麗だ。びっくりするくらい綺麗だ。水晶の粉を光の中で溶かしたみたいにきらきらしていて、静かで、触れれば指先が冷えそうな透明感がある。


 でも、その美しさの中へ死域の濁りが混じると、一気に嫌な感じになる。青銀だった霊素が、途中から鈍く翳り、重たくなり、流れ方そのものが遅くなる。まるで綺麗な水へ泥を混ぜるんじゃなく、“水の意味そのものを変える”みたいに、霊素が別のものへ書き換わっていくのがわかる。


 うわぁ……。


 これ、世界の病巣をそのまま見せられてる感じだ。


 私は思わず背筋をぞくりとさせた。


 でも同時に、共鳴はさらに強くなる。


 広間の奥へ行けば行くほど、私の身体の中心にある見えない“通路”みたいなものが、はっきり輪郭を持ち始める。胸の奥、背骨の前あたり、心臓とは少し違う場所で、細い光が何本も交差し、その交点が熱を帯びる。その熱は苦しいような、でも懐かしいような、変な感覚だった。


 私は知らない。


 知らないはずなのに。


 この感覚だけは、なぜか“あるべきものに近づいている”気がする。


 クリスは、きっとこれにもう少し早い段階から気づいていたのだろう。自分の中に、普通の術者とは違う何かがあること。大地の流れに、他人よりずっと深く触れてしまうこと。そしてその先に、自分がただの貴族でも、ただの剣士でもいられない未来があるかもしれないこと。


 ……うわ、しんど。


 わかってくると、クリスの人生のしんどさまで急に実感が出てくるのやめてほしい。プレイヤーのときは「宿命背負ってる主人公、エモい!」で済んでたものが、体感としてこっちへ流れ込んでくるの、しんどいにもほどがある。


 けれど、感傷に浸っている暇はない。


 そのとき、私たちはついに、異常の根元に近い場所へ辿り着いた。


 祭壇跡の奥、半円柱の崩れた基部の先。そこだけ床の構造が違っていた。古代神殿の石組みと自然岩盤が重なり合う境目で、複数の溝が一点へ吸い込まれるように集まっている。そこには円形の窪みがあり、窪みの中心から青白い本流が本来なら上へ立ちのぼるはずなのに、その上に黒ずんだ“継ぎ目”が噛みついていた。


 継ぎ目。


 まさにそんな形だった。


 本来なら接続を助けるはずの位置に、何か別の論理が無理やり差し込まれ、正常な中和層を“死の側の変換器”へ書き換えている。だからここを通った霊素は地上へ上がる前に性質を変え、死域の濁りを抱えたまま風脈へ混じってしまうんだ。


 私はその光景を見た瞬間、思わず足を止めた。


 ぞわっ、と身体の内側で何かが鳴る。


 共鳴が一気に跳ね上がる。


「……っ、うそ」


 小さく漏れた声は、半分以上本音だった。


 だって、近づいただけでわかる。


 あそこに触れれば、たぶん私は“できる”。


 何をどこまで、どういう代償でできるのかはまだわからない。でも少なくとも、あの継ぎ目に対して自分の中の何かがはっきり反応している。拒否ではない。嫌悪でもない。むしろ逆だ。切れた回路を見つけたときの“そこを繋げば通る”みたいな、奇妙に具体的な感覚がある。


 中和。


 繋ぎ目。


 それが私の――いや、クリスの力。


 その可能性がここへ来て、初めて輪郭を持った。


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