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第十六話:エンカウントしたくありません



 肺の奥に入ってきた空気は冷たくて、少しだけ石の匂いがした。高原の乾いた風とは違う、もっと重たくて湿り気を含んだ風だ。断崖の風溜まりまで来た時点で、もう地表の風だけを相手にしている感じではなくなっていた。崖の下、あるいはそのもっと奥の、見えない深みから押し上げられてくる気配がある。地上を撫でる風のふりをしているけれど、たぶんこれはもう、地下の霊脈異常が表へ滲んでいる“息”みたいなものなのだ。


 つまり。


 ……行くしかないんですね、はい。


 わかってた。わかってたよ。ここまで来た時点でそうなるだろうなってことくらい、さすがの私でも理解していた。風鳴花の群生地で音がずれ、風車停止区域で真ん中の羽根だけがぴたりと止まり、断崖の風溜まりでは循環が閉じていた。ここまで全部見てしまった以上、「今日はこのへんで解散にしましょう」とはならない。ならないどころか、ここから先へ進まなければ領主としても監察官としても不自然だし、何より放置した先にろくでもない未来しかないことを、私はゲーム知識込みで知りすぎるほど知っている。


 だから進む。


 進むんだけど。


 とにかくリゼリアは絶対に死なせるな。


 私は半ば呪文みたいに、心の中でその一文を繰り返していた。ここまで、かなりいい感じに進んできている。外周調査への切り替えにも成功したし、前兆体の処理も、わりと奇跡寄りではあるけれど一応戦闘回避という形でやってのけた。リゼリアの警戒も、完全に解けてはいないにせよ、少なくとも「意味不明な公爵」から「異常に対して独自の観測を持つ当事者」くらいには改善している気がする。


 いい流れだ。


 わりといい流れなのだ。


 だからこそ、ここで油断して全部台無しにしたくない。


 ……でも。


 でもさ。


「ほんとにどうしよう……」


 喉の奥でほとんど音にならないくらいの小声が漏れた。


 情けないことは言いたくない。いや、実際かなり情けないと思う。中身はもう立派に成人した人間なんだし、転生先では公爵だし、見た目は超絶イケメンだし、ここで「怖いです」って泣き言ばかり言っていたら格好がつかないどころの話ではない。ないんだけど、だからといって恐怖が消えてくれるわけではないのである。


 ゲーム画面越しで見た“アイツ”が、この先にいる。


 その事実が、胃に来る。


 いや、来るとかいうレベルじゃない。キリキリするとか、ひゅっと縮むとか、そういう可愛い表現では済まない。もっとこう、胃袋そのものが「お客様、こちらの案件はお取り扱いできません」と悲鳴を上げている感じで、内臓の奥からじわじわと嫌な冷たさが広がっていく。


 だって“最初のボス”だよ?


 しかも『Over World』の最初のボスだよ?


 この作品、王道RPGっぽい顔してるくせに、序盤ボスのビジュアルがわりと全力で悪夢寄りなんだよね。


 思い出すだけで嫌だ。


 いやほんと、嫌なんだけど。


 でも思い出さないと対策も立てられないから、結局思い出すしかない。


 最初のボス――名称はプレイヤー間でもちょっと表記揺れがあった気がするけど、公式寄りには《逆風の喰界》だったか、《反響する歪み》だったか、そんな感じの呼び名だったはずだ。地下霊脈回廊の最深部近く、結節点の手前で成立する異常存在で、純粋な生物ではない。だから余計に気持ち悪い。人型のようにも見えるのに、人ではない。獣じみた四肢のようにも見えるのに、完全な獣でもない。黒い風と濁った光と、霊脈から剥がれた膜みたいなものが無理やり形を持ったような、そんな怪物じみたビジュアルをしている。


 輪郭は常にぶれているのに、中心だけは妙にくっきりしていて、そこにある“口”みたいな裂け目が、声なのか風鳴りなのかもわからない不快な音を吐き出すんだよね。しかもでかい。無駄にでかい。序盤ボスとは思えないくらいでかい。プレイヤーにインパクトを与えるためとはいえ、さすがに序盤にしてはツヨツヨ感満載じゃない……? って、当時も思った気がする。


 いや、思った。絶対思った。


 初見で画面見て、「えっ、これほんとに最初で出していいやつ?」って引いた記憶あるもん。


 もちろん演出的にはすごくよかった。序盤から世界のヤバさが伝わるし、“ただの盗賊退治ではない”って一瞬でわかる。プレイヤーの心に刻み込む意味では満点だ。満点なんだけど、いざ自分がその怪物と向き合う側になると、満点どころかクレーム案件である。


 いやまじで、アイツを倒す未来が見えないんだけど。


 そう思うのも無理はない。


 だって私はついさっき、前兆体をひとつ、感覚だけで“ほどいた”ばかりなのだ。あれはたぶん、小規模だったから何とかなった。歪みの核も薄く、流れもまだ固定されきっていなかった。だから通り道を作れば崩れた。でもボスは違う。あれは前兆ではなく、完全に“成立してしまった異常”だ。結節点の歪みと結びつき、局所的な意思みたいなものまで持ち始めている。そういう存在に対して、私のさっきの即席理論がそのまま通用する保証、ある? ないよね? ないんだよ。


「……はぁ」


 ため息が漏れる。


 まさかこのゲームを憎む日が来るとは。


 いやほんとに。


 プレイヤーとしては大好きだった。今でも作品そのものは好きだ。世界観も、演出も、キャラも、何ならこういう容赦ない序盤ボス配置すら、“作品としては”正しいと思っている。


 でも、当事者になると話は別だ。


 制作側の「うわっ、最初からすげえ世界観!」「この作品、ただのRPGじゃないぞ!」っていう意図が、いまは全部「なんでこんなもん序盤で出すんですか?」に変換されている。やめて。もっとこう、最初はコウモリとか、ちょっと強い狼とか、そういうのでよかったじゃん。なんでいきなり世界の歪みを体現したような異常存在をぶつけてくるの。重いよ。濃いよ。胃が持たないよ。


 とはいえ、逃げ出すわけにもいかないし、放置するわけにもいかない。


 ここがいちばん厄介なところだ。怖いからやめます、という選択肢を取れない。公爵としても、クリスとしても、そしてゲーム知識を持った転生者としても、それは悪手だとわかっている。地下を見ないまま戻れば、異常の進行は止まらない。リゼリアは別働で再調査を申し出るかもしれないし、帝国は追加の監察官や騎士団を送り込むかもしれない。そうなれば現場が増えて、把握すべき変数も増えて、むしろ悲劇ルートに近づく可能性すらある。


 だから今の最適解は、怖くても進むこと。


 でも進みながら、できるだけ原作どおりの地雷を踏まないこと。


 そして何より――


 リゼリアを絶対に死なせないこと。


 唯一の救いは、やっぱりリゼリアの存在だった。


 いや、うん、いろんな意味で。


 まず単純に強い。この人、めちゃくちゃ有能だし、戦闘力も高いし、現場判断も早い。序盤ヒロインの中では特に“実務面で頼れる”タイプだから、隣にいる安心感がかなり大きい。私一人だったら、たぶん風鳴花の群生地で既に心が折れていた自信がある。


 ただ問題は、彼女がまだ私のことを完全な味方としては見ていないだろう、ということだ。


 護衛対象。


 監視対象。


 観測対象。


 それが今の私の立ち位置だ。


 もちろんさっきの前兆体処理で彼女の認識は少し変わったはずだし、会話の空気も最初よりはだいぶ柔らかくなった。それでも、だからといって「一緒に戦って世界を救おう!」みたいな仲良しムーブをいきなりかませるほど距離が縮まったわけではない。むしろあの人、そういう急な距離詰めをいちばん警戒するタイプである。


 なので、ここから先も地道にいくしかない。


 職務を尊重する。


 判断を共有する。


 必要以上に踏み込まない。


 でも必要なところではきちんと止める。


 信頼値、地道に稼いでいこうね……って、いや本当に何のゲームなんだこれは。乙女ゲーなのかRPGなのかサバイバルなのかはっきりしてほしい。いや全部なんだけど。


 私は崖沿いの細道を進みながら、今のうちにさっきのおさらいでもしておこうと頭を切り替えた。


 そうだ。


 こういうときこそ整理だ。


 私はクリスだ、と思い込み続ければ、さっきみたいにうまいこと魔力を扱えるはず。


 ……たぶん。


 いや、そこを曖昧にしてる場合じゃないな。


 整理しよう。ちゃんと。


 まず、さっき私ができたことは何だったか。


 前兆体そのものを攻撃したわけではない。火を出したわけでも雷を落としたわけでもない。ただ、歪みの核になっていた“反転した流れ”を見つけて、そこへ別の通り道を作った。結果として、維持されていた異常構造がほどけた。


 つまり私がやったのは、“破壊”ではなく“小規模修復”だ。


 そしてそれは、たぶんクリスの本質にかなり近い。


 クリスの能力は、一般的な魔導とは少しずれている。マナを術式で加工して撃ち出すというより、流れそのものの繋がりを読んで、途切れたものを仮接続したり、歪んだものを本来の通路へ戻したりする力。もしそうなら、私がこの先やるべきなのは、無理に“攻撃魔法が使える主人公”を目指すことじゃない。少なくとも今すぐは。


 大事なのは。


 流れを読むこと。

 結節を見ること。

 歪みの支点を見つけること。

 そして、そこへ通り道を作ること。


 よし。


 文字にするとちょっとそれっぽい。


 それっぽいけど、実践難易度は高い。


 でも、方向性はこれでいいはずだ。


 私はクリスだ。


 私はクリスだ。


 私はクリスだ。


 ……うん、自己暗示っぽくてかなり怪しいけど、今はこれが必要なのだ。だって本当に、そう思い込んだ瞬間の方が体の感覚と世界の感覚が噛み合う気がするんだもん。逆に「私は中身だけ借りてる一般人です」って意識すると、急に全部が遠くなる。足の長さも、呼吸の深さも、視界の高さも、自分のものではない感じが強くなってしまう。


 だから今は、都合のいい自己暗示でも何でも使う。


 この身体はクリスのもの。

 この視界も、呼吸も、マナへの感覚も、全部クリスの側にある。

 私はそこへ乗るだけでいい。


 ……たぶん。


 そのとき、前を歩いていたリゼリアが振り返った。


「閣下」


 その呼びかけに、私は反射的に顔を上げる。


「この先、地下へ降りる側道があります。足元が悪くなりますので、ご注意ください」


 あ、はい。

 現実に引き戻された。


 私はできるだけ自然に頷いた。


「わかりました」


 返事をしつつ、視線を先へ向ける。


 断崖の途中に、岩肌へ沿うように細い降り口が口を開けていた。人工的に削られた石段と、自然の亀裂が半分混ざったような、不安になるくらい頼りない通路だ。上から見ると影が深く、途中から先はほとんど見えない。周囲には古い風除けの石壁が崩れかけた状態で残っていて、その下に、もっと古い時代の刻印みたいなものがうっすら見える。


 ああ、ここだ。


 ゲームで見た入口と、かなり近い。


 もっとも、画面越しの印象よりずっと狭くて、ずっと湿っていて、ずっと“現実に転げ落ちたら普通に死ぬ高さ”があるけど。


 私たちはそこから地下へ向かった。


 最初のうちは、断崖沿いの傾斜路だった。片側は岩肌、片側は谷へ落ちる空間。足元の石段は長年の風雨で角が丸くなっており、ところどころに苔がついている。上から差す光はまだ届いているけれど、下へ行くにつれてだんだん色が薄くなり、空の青が灰色へ変わっていく。風の音も、開けた高原のそれとは違い、細い通路の中で擦れて、どこか笛みたいに聞こえた。


 さらに降りると、石段は人工的な回廊へと繋がった。


 壁面は青灰色の石で組まれていて、継ぎ目には古い封止術式の痕がある。完全に消えているわけではなく、ところどころに白く擦れた線が残っていて、それが妙に生々しい。誰かが昔、ここを封じたのだ。あるいは、閉ざした。理由はきっと単純な立ち入り禁止ではなく、もっと切実で、もっと歴史の重い事情があったのだろう。


 空気が変わる。


 冷たい。


 でも地下水の冷え方とは違う。もっと乾いていて、鼻の奥を少し刺激する感じがある。たぶん、空気の中にわずかなマナ偏差が混じっているのだと思う。匂いにするには曖昧だけど、石と金属と、あと何か焦げた紙みたいな、不思議な気配。


 足音も変わった。高原では土と草を踏んでいたのに、いまは硬い石の上だ。しかも回廊が細いせいで、音が軽く反響する。私の靴音。リゼリアの靴音。装備の金具が触れるかすかな音。それらが一定のリズムで続くと、逆に無音の時間が妙に怖くなってくる。


「……ゲーム画面で見るのと全然違うな……」


 思わず心の中で呟く。


 そりゃそうだ。画面ではBGMが流れるし、照明もプレイヤーが見やすいよう調整されているし、道幅だって“移動しやすいダンジョン”としてある程度整理されている。でも現実のここは違う。狭い。暗い。天井が低い場所では圧迫感があるし、曲がり角の先が見えないだけで神経が逆立つ。これ、普通にホラー寄りなんだけど。いやそうだった、元がエロゲーだったから演出の趣味がちょっとそっち側なんだよな。やめてほしい。


 とはいえ、完全に暗闇というわけではなかった。


 回廊の下層へ進むにつれ、壁の継ぎ目や床の溝に沿って、淡い青白い光が見え始める。最初は気のせいかと思うくらい薄かったそれが、少しずつ輪郭を持ち、やがてまるで地中に流れる川みたいにうっすらと発光しているのがわかるようになる。


 霊脈。


 あるいは、それに接続する細いマナ流。


 きれいだった。


 いや、きれいという感想が適切かはわからない。でも、目を奪われるのは確かだ。人工物の石組みの隙間から、古代から今までずっと流れ続けてきた何かが光として見える。その光は電灯みたいに均一じゃなく、脈動している。弱く、強く、弱く。まるで地面の下で巨大な心臓がゆっくりと拍動しているみたいだ。


 ……ああ。


 これが“星の血流”って言われる理由、わかるかもしれない。


 画面で見ていたときも綺麗だと思っていた。けれど実物は、その何倍も“生きている感じ”が強い。ただのファンタジー演出じゃない。ここを流れるものが世界の一部で、自分たちの上にある街や風や花の音と繋がっているのだと、嫌でもわかってしまう。


 そして、それが少しずつおかしくなっていることも。


 光の筋は本来、滑らかに続いているはずなのに、ところどころでわずかな濁りがある。青白い中に、墨を一滴落としたみたいな暗い揺らぎが混じるのだ。しかもその濁りは、近づくと消えるのではなく、逆に“見ているこちらを避ける”みたいに位置をずらしていく気さえする。


 うわ、嫌。


 これ絶対、よくないやつ。


 私は無意識に唾を飲み込んだ。


 ここまでいい感じに進んできた。

 あとは油断せずに進むだけ。

 リゼリアは絶対に死なせるな。

 私はクリスだ。流れを見ろ。結節を見ろ。通り道を作れ。


 そう、心の中で何度も反復する。


 でも、その一方で別の声も頭の中にいる。


 エンカウントしたくありません。


 ものすごく、したくありません。


 ほんとに、ほんとに嫌です。


 ゲームのボス部屋へ向かう通路って、プレイヤー時代は「お、来るな」ってテンション上がるんだよ? BGMも変わるし、演出も不穏になって、マップも少し広がったり狭まったりして、いよいよかって感じがする。あれは“安全圏から物語を楽しむ側”だからこその感情なんだよね。


 いまは違う。


 いよいよか、じゃない。


 来るな。

 頼むから来るな。

 でも来るんだろうな。

 知ってる。

 知ってるけど来ないでほしい。


 そういう祈りしかない。


 回廊は途中で分岐していた。


 片方は崩落で塞がれ、片方だけが辛うじて通れるようになっている。ゲームではイベント都合で一本化されていたけど、実際にはもっと広い構造なのかもしれない。塞がれた方の奥からは風のような、声のような、何とも言えない低い唸りが漏れていて、私は全力でそちらを見ないようにした。見たら絶対ろくでもない想像するもん。


 リゼリアは立ち止まり、壁に手を触れて何かを確かめる。


「こちらです」


 短い言葉。


 迷いがない。


 そういうところが本当に頼もしい。頼もしいんだけど、その頼もしさが序盤ヒロイン死亡フラグ持ちという事実と同居しているの、本当に勘弁してほしい。強い人ほど先に前へ出るし、強い人ほど守る側に回るから、そういう役回りになりやすいんだよね。物語としてはわかる。わかるけど納得はしない。


 私は少し歩幅を速めて、リゼリアと極端に距離が開かないようにした。


 たぶん今の私は、見た目だけなら落ち着いた公爵に見えている。内心では「離れないで離れないで絶対に単独で前へ行かないでお願いだから」という必死な祈りを百回くらい唱えているけど、そこは顔面偏差値と育ちの良さっぽい所作で隠すしかない。ありがとうクリスの外見。中身の小心者をだいぶごまかしてくれている。


 そうして。


 私たちは、ついにダンジョンの深部へと近づいていった。


 天井が少し高くなる。


 回廊の幅も広がる。


 代わりに空気はさらに冷え、青白い霊脈光の明滅が強くなる。足元の石には古い紋様が円を描くように刻まれていた。封印術式か、霊脈制御用の補助陣か。どちらにしてもここがただの通路ではなく、“何かを通すための場所”であることがわかる。


 そして、遠く。


 本当に遠くの方から。


 何かが、鳴いた。


 それは獣の咆哮ではなかった。

 風鳴りに似ている。でも、風ではない。

 石の隙間を無理やり通された空気が、どこかで人の呻きと重なったみたいな嫌な音だった。


 私は思わず立ち止まりそうになる足を、どうにか前へ出す。


 …来る。


 たぶん、もう近い。


 胃がまたきりきりと痛んだ。


 でも、逃げない。


 逃げられない、じゃない。いまは逃げない。


 リゼリアは前を見たまま、右手をそっと剣の柄に添えた。


 私はその横顔を見て、胸の奥で静かに決意を固める。


 リゼリアは絶対に死なせない。


 アイツとエンカウントしたくなんてこれっぽっちもない。


 でも、したくないからって避けられないなら。


 せめて原作どおりの最悪だけは、ここでねじ曲げてやる。


 そう思いながら、私は青白く脈打つ地下回廊の奥へもう一歩だけ踏み込んだ。

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