タイトル未定2025/09/28 23:12
miu404というドラマの二次創作です。
どれだけメロンパン号なんてふざけた車に乗っていたとしても、車内はちらりと横目でこちらを見る歩行者くらいでしかそのことは意識しない。車の中にしては遠い横の運転席では、伊吹がハンドルに手を乗せ、ぼんやりと宙を見つめていた。なにかに目を凝らしているような、なにも見つめていないような。ゆらりと車体が揺れ、伊吹がハンドルを持ち直す。足早に通り過ぎる景色に目を凝らす。
「なんかお前、今日元気ないな」
子供の頃、友達と間違い探しをして見つけた間違いを友達に伝えるとき。友達はもう見つけたのに周りに気遣って伝えていないかもしれない、そんな優しい人の手柄を横取りするかもしれない、もうちょっと迷っていたいのかもしれない、この発言を煩わしいと思うかもしれない。伊吹と過ごしているとそんな幼い緊張が鮮明に蘇るような、そんな瞬間がある。
いつもより口数が明らかに少なくて少し上の空。そんな彼に独り言のように心配する言葉を投げかけるためだけに大幅に静寂の時間をつくってしまった。学生時代に置いてきたような大袈裟に飛躍した思考、それに加わる警官の一般常識としての相棒は気遣うべきという義務感やそんな言葉もかけなかった香坂への罪悪感が、月日が経った証だった。
「…まあ、ガマさんが、全然差し入れ受け取ってくれなかったからさぁ」
空気を沈ませないよう注意しながら、それでも耐えきれない痛みを吐露する伊吹が痛々しくてならなかった。
伊吹の恩人であるガマさんが殺人罪で逮捕されてから一ヶ月。伊吹にとってあんな今までの全てが覆るような出来事が起こっても現実はいつも通りを当たり前に続けて、あの日以来大きな衝撃もない日常がただ続いている。そんな、変わらない日常が、自分を暗い闇底から強引に引き摺り出して引っ張り回すような出来事のないただひとつの出来事がただ頭から離れない日々が、どれほど辛いかはあの夏痛いほど理解した。突き落としもしなければ掬い上げもしない、波のゆらめきさえ届かない深海で過ごす時間は閉塞感と孤独感で息もしにくいだろう。
「そうか」
車内はエアコンを稼働させていて、それでも入り込むギラギラとした陽光に、今日はなんだか魂の一部を吸われるようだった。伊吹と世界の輪郭が曖昧になって溶けてしまいそう。そんな危うさをも感じさせる告白に、俺は相槌しか打てなかった。大人になればなるほどその場を取り繕う言葉で毎日を彩って、だからだろう、ときにふわりと降ってくる、命の一部を差し出すような純粋な本音は、受け取るのも反応するのもときを経るたびに怖くなっていった。
ふ、と伊吹がゆるすように小さく笑った。
「俺好きだよ、志摩のそういう簡単に『わかる』とか言わないとこ」
「なんだよそれ」
「え、信じてないでしょ、ほんとだよー」
わからない、わかりたくなかった。その言葉を認めたら普段懸命に取り繕って社会を生きている自分を否定しかねない気がした。伊吹の言葉ではなかったら俺はきっと安易に『わかる』と言っていて、その対応を否定するにはそうやって積み重ねた時間や積み重ねていくであろう時間は長すぎた。
なにもしてないに等しいような些細で生産性の全くない会話にこんなに感情が揺れる。勝手に複雑に揺らいで苦しむ心を遠い国の出来事のように見つめて嗤ってしまいたかった。透明に近い思考をできている人とともにいると疲れてしまう。そうやって被害妄想のように他者を簡単に詰る、最初からそんな自分ばかりを蔑んでいたかったのかもしれない。
窓の外には秩序的な日常が広がっている。日々どこかで犯罪が起きている事実さえ見えなくなるような。仕事のために不幸を探す警官の存在をいらないと切るような。
時計を見ながら走る会社員、犬の散歩をする貴婦人、重い荷物を片手に抱えて片手で子供の手を握る母親。断片的な情報しか受け取れないことを速さのせいにできることに安堵しながら、視界を横切っては流れてしまう街の光景を見ていた。
幸せでいてほしい。
それは、刹那予感のように思考を貫いた。ただ目で見た情報を受け取ることしかできない速さで流れる景色に映る人たちの姿は、それでも確かにひとりひとりの人生の大切な1ピースだった。その行動の意図もその人の人生図もなにも見えないたった1ピースが、操作資料や本能のように叫ぶ現場の悲鳴より、その人の人生に近いもののように感じられた。
「祈ってるよ」
思わず口にしていた。祈りは誰かに伝えてはいけないとどこかできいた。それでも伊吹に届いてほしかった、意味もないのに他者の幸せを祈れていれる、そんな時間があと少し続いてほしかった。
「は?」
「あと少し、もう少し、この景色を構成する一部になれていること」
ほんの少しだけ形にしたくなったのだ。下を向いて奪われたものばかり見つめるような日々の中で、確かにどうしようもなく些細なことに心が満たされた瞬間があったのだと。この街を行く、現実を抱えて、忘れたくても頭にちらつく理想に毎日少しずつ背伸びして、疲れて傷ついて、それでも続いていく日々を生きる人々の『今』の構成の一部に自分がいることが幸せかもしれないと思ったのだと。窓を開ければ入り込むであろう暑く心地よい風にのせたい想いがあるとすれば祈りしかないのだと。
「俺はなんだかそれだけのことが、幸せかもと思ったから」
明るい未来も永遠の幸せも、願ったところで現実の嵐に簡単に飛ばされることをどうしようもなく知っていた。それでも、苦しいときに振り返りたくなる光景はきっとこんな瑣末な光景なんだ、そう思った。
「…志摩は優しいね」
眩しいものを見るかのように細めた目で伊吹は言った。そんなことはないなんて言葉の前に、それもただの建前かもしれなかった。
もちろん、優しいなんてことはなかった。結局この祈りは他者を想うような人間でありたいというエゴのために生まれたにすぎなかった。
全ての人に、光を、希望を。例えそれが、夜空に刹那煌めく幻だとしても。
そう願えている今、ときがとまってほしかった。