第一章 第一話 男
暇で作ったんで暇だってみててっておくれ
秋葉陽次郎は、静かに椅子にロープをかけた。
この部屋にもう、思い残すものはなかった。
両親を失ったのは、二十三年前の冬だった。
恋人、智子を失ったのも、その年の秋。
愛するものすべてを喪ったあの日から、陽次郎の時計は止まったままだった。
生きる意味を問い、働き、ただ年を重ねた。何の実感もない。
同僚には「疲れてるんじゃないですか」と気遣われ、上司には「君は覇気がない」と一蹴された。
そんな言葉すら、もうどうでもよかった。
冷たいロープの感触が手に馴染む。首にかける
間、ふと匂いを感じた。
懐かしい匂い。陽だまりの中で眠っていたときのような……いや、もっと鮮やかで、もっと深く胸を刺す感情。――智子だ。
振り返ると、そこに彼女がいた。
紺色のワンピース、優しく微笑む唇、まっすぐな黒髪が肩に落ちていた。確かに彼女は、二十三年前、交通事故で即死だった。火葬の煙をこの目で見た。骨壷をこの手で抱いた。
だが、今、目の前に立っている。
「……智子……?」
声が震えた。恐怖ではない。あまりにも、あまりにも懐かしかった。
膝から力が抜ける。床に崩れ落ち、彼女を抱こうと手を伸ばした。
だが、その瞬間――ドアが激しく開いた。
誰だ――と思う暇もなかった。
黒ずくめの男が、一瞬の迷いもなく智子へ駆け寄り、何かを突き立てた。
「……やめろッ!!」
陽次郎は反射的に男に飛びかかった。
だが、次の瞬間、男の手が彼の首筋を打ちぬき――視界が、闇に沈む。
倒れる意識の中、はっきりと声が聞こえた。
「君には、これが“人間”に見えるのかね?」
そして陽次郎は気を失った――
みてくれてありがと