比類なき美しさ
カリ・アストラリアは、自室の浴室にある石造りの湯船に静かに浸かっていた。
湯面から立ち上る蒸気が、彼女の鼻先を優しくくすぐるように漂い、目を閉じた彼女の心をそっと癒していた。
湯気は肌を包み、胸元に水滴をつくっては、谷間をなぞるように流れていったが、カリはそれに気を取られることはなかった。
彼女の意識は、もっと遠くにあった。
最近になって、湯浴みの時間が格段に心地よく感じられるようになったのは、ひとえにエリックが調合してくれた錬金薬のおかげだった。
身体のこわばりを解してくれるだけでなく、心の疲れすらも軽くしてくれる。
さらには、体調そのものも整えてくれるように思えるのだ。
もしかしたら、それはただの錯覚かもしれない。
けれど、湯に浸かっているこのひととき、カリは確かに、自身の身体が少しずつ強くなっていくのを感じていた。
やがて湯船の赤みが消え、薬湯の成分がすべて彼女の肌に染み込んだ頃、カリは静かに立ち上がった。
石の床に濡れた足音を響かせながら、ゆったりと歩き、タオルを手に取って柔らかく身体を包む。
さらにもう一枚のタオルを手に取り、濡れた髪を丁寧に拭いはじめた。
浴室の床に埋め込まれた石造りの湯船からは、まだ湯気が立ち上っていた。
そのため、体を拭くには少し難があった。
カリはバスタオルを軽く巻いたまま、私室の浴室を後にして、寝室へと足を運んだ。
タイル張りの床は、カーペットへと変わる。
素足が柔らかな繊維を踏みしめるたびに、小さな音が響いた。
ひんやりとした空気が火照った肌に触れた瞬間、カリの身体には鳥肌が立ったが、彼女はそれを気にせず、そのまま衣装箪笥へと歩みを進めた。
足元まで届く淡い桃色のナイトガウンを身にまとい、カリはようやく鏡の前に立って、自分の姿を静かに見つめた。
多くの人から「絶世の美女」と称されたことは、一度や二度ではない。
貴族たち、友人たち、平民までもが、彼女の容姿を賞賛してきた。
一日として、誰かから美しさを褒められない日はなかった。
けれど──その言葉が、彼女の心に響いたことはなかった。
エリックだけが、彼女に「美しい」と思わせてくれた。
客観的に見て、彼女は確かに美しかった。
それは本人も理解している。
だが、彼に出会うまでは、その美しさに何の意味も見いだしていなかった。
以前の彼女は、目に入った服をそのまま身に着けていた。
でも今は──図書館に行く前に、何を着るべきか考えるようになった。
彼の前では、綺麗でいたい。
そう思うようになったのだ。
最近、少し肌の露出が多い服を選んでいたのも、そのためだった。
そのことを思い出し、カリの頬はほんのりと赤く染まった。
だが、その感情もすぐに消え、代わりに小さなため息と共に口元に陰りが浮かぶ。
「フェイも彼のことが好きなのよね……」
その事実は、彼女の胸を締め付ける。
たしかに、エリックがフェイの想いを断ったと知った時は、心が高鳴った。
でも同時に、胸の奥がチクッと痛んだ。
彼が迷っているのは明らかだった。
何より──フェイは、かつての親友だったのだ。
あの燃えるような赤髪の少女と、また心を通わせたい。
エリックとの関係以上に、そう思う気持ちが彼女の中にはある。
「チャンスがあれば、ちゃんと話してみよう」
そう自分に言い聞かせて、鏡から視線を外すと、カリは部屋の奥にある窓辺へと向かった。
窓枠にそっと手を添えて、遠く下に広がるネヴァリアの街を見下ろし、そしてさらに視線を上げる。
その先にそびえるのは、彼女がいつか訪れてみたいと願う「魔獣山脈」だった。
「いつか、エリックとフェイと一緒に、あそこを旅できたらいいな……」
ぽつりとつぶやく彼女の顔に、双つの月の淡い光が優しく降り注いでいた。




