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エリックの過去を壊した男、グラント・ロイヒト

この二ヶ月は、僕の人生で一番幸せな時間だった。カリはいつも通り図書館に通っていたけど、最近では僕を見かけると声をかけてくれて、一緒に話すようになったんだ。彼女との会話はすごく楽しかった。読んでいる物語のこと、僕たちの夢、将来のこと――そんな話をするだけで、心がふわふわ浮かんでいるような気がした。

だけど、カリの周りにはいつも、どこか寂しげな雰囲気が漂っていた。ときどき彼女の目が遠くを見つめるようになって、ぽつりと何かを呟いたかと思えば、それを冗談みたいに笑ってごまかすこともあった。何を考えていたのか聞いてみたかったけど、もし聞いて嫌われたり、話してくれなくなったらどうしようと思って、結局聞けなかった。今思えば、聞くべきだったのかもしれないけど――あのときは怖かったんだ。

その日も、僕はいつものように図書館を閉めたあとで帰っていた。カリは今日は来なかったけど、学院の授業がある日だから心配はしてなかった。明日は休みだし、きっと来てくれるだろう、なんて思ってたんだ。

角を曲がったそのときだった。ほんの一瞬、風が僕の身体をかすめたと思った直後、何かが勢いよく僕の腹にめり込んだ。

「ぐっ…!」

思わず膝をついて、腹を抱えたまま倒れ込んだ。息が、できない――! 何度も咳き込みながら、口からは変な音が漏れた。呼吸しようとしても、肺が動かなくて、酸素が入ってこない。パニックになりそうだった。

「こいつがカリが夢中になってるって噂の相手か?」

頭の上から、そんな声が聞こえた。

痛みで視界がぼやけていたけど、僕は顔を上げてその人を見た。金髪がかった暗い髪と、青い目を持つ若い男。肌は明るく、ネヴァリアに住む人の典型みたいだったけど、彼の肌には上品な柔らかさがあって、すぐに貴族なんだってわかった。貴族の人たちって、どうしてあんなに肌がつやつやしてるんだろう。まるで絹よりも柔らかいみたいだ。

着ている服もすごかった。陽の光にきらめく美しい革のチュニックに、上質そうな絹のズボン。誰が見ても立派な家の出だって分かる。

そんな彼は、今、軽蔑に満ちた目で僕を見下ろしていた。

「カリがこんな情けないやつと一緒にいるなんて、どうかしてるだろ?」

彼は続けた。「こいつ、本当に男か?お前ら、カリが最近仲良くしてる女じゃないって確認したんだろうな?」

「間違いありません、グラント様」

今度は別の声。さっきより少し年上に聞こえた。たぶん二十代くらい?でも僕の目はまだぼやけてて、顔までははっきり見えなかった。

「ふん。じゃあ、ちょっとこいつに教えてやるか」

“グラント様”と呼ばれたその若者は、指を鳴らしながら僕を睨みつけた。僕は必死に立ち上がろうとしたけど、そのとき――

「ぐっ!」

彼の足が突然僕の顎に当たった。頭の中に衝撃が走って、視界がぐるぐる回った。何が起きたかもわからないまま、背中から地面に倒れた。

口の中に血の味が広がった。きっと、頬の内側を噛んでしまったんだ。それよりも、頭の奥がズキズキして、意識がふわふわしてた。

「ううっ…」

呻きながら、僕は腹ばいになって、腕に力を込めてゆっくりと起き上がろうとした。

何かが僕の胴にぶつかった。

「ぐっ……!」

空気が全部押し出されて、息ができなかった。喉が勝手に痙攣して、乾いた嘔吐音が漏れた。僕の脚は本能的に体を守ろうと丸まり、胸のあたりまで引き寄せられた。

「こいつ、マジで情けねえな。カリはこんな奴のどこがいいんだ?」

“グラント様”はそう言うと、もう一度僕を蹴った。その蹴りで僕の体は簡単にひっくり返って、仰向けに転がった。

「がっ……けほっ……!」

咳き込みながら呼吸を整えようとしていると、グラント様は僕の胸に足を乗せて、ぐっと体重をかけてきた。

「うっ……!」

あばらがきしむ。骨が、ゆっくりと折れていくような痛みが、胸の奥で広がった。思わず呻きそうになったけど、なんとか歯を食いしばって耐えた。

誰も助けてくれなかった。視界の端で、何人かがこっちを見ているのは分かった。でも目が合いそうになると、皆すぐに視線をそらした。見なかったふりをする人ばかりだった。

――たぶん、この男はそれだけ立場が上なんだろう。

でも、そのときだった。

突然、まばゆい光が一直線に飛んできて――

「なっ――!?」

“グラント様”の顔に直撃した。

ビキィンッと音を立てて、何かが砕けた。

彼の足が僕の胸から離れたと思ったら、そのまま後ろへ吹き飛ばされて、尻もちをついた。

「エリック!」

誰かが駆け寄ってきて、僕の隣に膝をついた。

「エリック、大丈夫!?」

それはカリだった。

今日の彼女は、シンプルな白いドレスを身にまとい、ウエストには金色の紐が巻かれていた。

その青い瞳が、心配そうに大きく見開かれていた。

「だ、大丈夫……」

僕は咳き込みながら答えた。

「ケガしてるじゃない……待って、すぐ癒すから!」

カリはそう言いながら、僕の胸に手を当て、奇妙な動きをし始めた。

――あれは、スピリチュアル・テクニックを発動するための動きだ。

彼女がどんな技を使っているのか考えていると、彼女の指先からやわらかな光が漂い始めた。

その光がふわりと僕の胸の中に染み込んでくる。

すると――

痛みが、すっと消えた。

さっきまで全身を襲っていた苦痛が、まるで最初から存在していなかったかのように。

「……!」

息がしやすくなった。

体が軽くなった気がした。

彼女がヒーリングを終えると、カリは僕の手を取り、そっと立ち上がらせてくれた。

もう一度、僕の体をくまなく確認してから、安堵のため息をついた。

そして――

振り返って、睨みつけた。

“グラント様”と呼ばれていたあの若者は、鼻から血を垂らしながら立ち上がったところだった。

彼の表情はひどく歪んでいて、まるで獣のような目つきをしていた。今にも飛びかかってきそうな雰囲気すらあった。

けれど、その視線がカリに向いた瞬間、彼の顔に浮かんでいた凶暴さは消え、代わりにわざとらしい笑みが浮かんだ。

「カリ様」

彼は手を打ち合わせ、一礼した。

「またお会いできて光栄です。お美しさは相変わらず。ご家族とは、あれから順調に――」

彼の言葉と「ご家族」という響きが、僕の背筋をひやりとさせた。

けれど、カリは彼の馴れ馴れしい言葉に一切反応せず、火山さえ凍らせるような冷たい視線を向けた。

「あなたでも、あなたの取り巻きでも、あるいはあなたに少しでも関わりのある誰かが、エリックに再び手を出したら――」

カリは静かに、しかしはっきりと告げた。

「それは、私への侮辱と見なします。そのときは――アリーナであなたに決闘を申し込みます」

その言葉に、グラントの顔から偽りの笑顔が消えた。

残ったのは、冷たく怒りに満ちた目だった。

「……いいだろう」

彼は吐き捨てるように言った。

「もう手は出さない。出すまでもないさ。俺たちの間に何かが変わるわけじゃない。話は順調に進んでる。あとは二ヶ月後のスピリチュアリスト・グランドトーナメントで、俺が優勝すれば終わりだ」

カリは奥歯をギリリと噛み締めたが、それ以上何も言わず、“グラント様”は年上の男を従えてその場を去っていった。

彼女は猛禽類のような鋭い目でその背中を見送っていた。

やがて二人の姿が完全に見えなくなると、彼女はふうっと小さく息を吐き、僕の方へと向き直った。

「本当に……ごめんなさい」

そう言って、カリはかすれるような声で謝ってきた。

「え? なんでカリが謝るの?」

僕は首をかしげた。

「悪いことをしたのはあいつらでしょ? カリは何もしてないよ。それどころか助けてくれたんだから、僕の方こそお礼を言わなきゃいけないのに」

僕の言葉に、カリは首を横に振った。そして、なにか言いかけて……結局、飲み込んだ。

当時の僕には分からなかったけど――

どうして“グラント様”と呼ばれていたあの若い貴族が、あそこまで僕に敵意をむき出しにしていたのか。

その理由を、僕が知るのは……もう少し先の話だった。


今回の章は、いつもより少し短めです。これはエリックの過去の夢のひとつであり、今後の物語展開に関わる大切な情報を伝えるためのものです。できるだけ読み応えのある内容になるように頑張って書いているので、楽しんでいただけたら嬉しいです!

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