リン姫の過去
「たしか……この姫が襲われて逃げる羽目になったのは、一年前くらいのことだと思うわ」
そう言って、彼女は小首を傾げた。
「少なくとも、一年くらい……だと思う。怪我をしてからは、時間の感覚がもうよくわからないの。場所は果てなき砂漠よ。護衛たちと一緒に狩りをして、帰る途中だったの」
「狩り……?」
俺は眉をひそめた。
「まさか……人間を狩ってたんじゃないだろうな?」
彼女は首を横に振って否定した。
「この姫は、砂漠を出るまで人間を見たことすらなかったのよ。でも、逃げ続けていたときに、砂漠の外に出てね。その先で、妙な建物に住んでる人間たちをたくさん見たわ。あの大きな街に着くまでに、さらにたくさんの人間がいて、驚いたの。こんなにたくさんいるなんて、思ってもみなかったわ」
彼女の答えに、俺は小さく安堵の息をついた。
もし彼女が人間を狩って殺していたなんて話だったら――どれだけ好意的に見ても、今みたいに同じ空間で落ち着いて過ごすことはできなかっただろう。
とはいえ――問題が消えたわけじゃない。
問題は――
俺には、この娘と結婚する気なんて、さらさら無いということだ。
「この“マルジの指輪”が意味することについては、また後で話し合おう」
そう言いながら、俺は決意を口にした。
「今はトレーニングの時間だ。たぶんもう遅れてると思う」
「トレーニング?」
ラミアの少女――リンは細い目をさらに細めた。
「……あの娘と一緒に、ってこと? 炎のような髪を持つ、あの娘でしょ?」
「ファイって名前だ」
俺は何気なく返す。
「ファイ……」
リンは顔をしかめたが、すぐにその表情は晴れ、ふふんと得意げに頷いた。
「この姫が、あの娘との交際を許してあげるわ。あの娘、強そうだし礼儀もある。あれなら側室にしても良い。王には複数の妃がいて当然。この姫が許可するわ」
「ありがとな……」
俺は疲れた声で呟いた。
朝からテンションの高い相手は、本当にエネルギーを吸い取っていく。
俺はベッドを降り、水盆のところへ向かい、顔を洗って身体を拭いた。
昨夜の艶めかしい夢――というより記憶――と、彼女の尻尾に巻きつかれていた影響で、身体にはうっすらと汗がにじんでいた。
洗っている最中も、彼女の熱い視線がずっとこちらに向けられているのを感じる。
ペチ、ペチと床板を叩く音が聞こえた。尻尾で遊んでいるらしい。
服を探しながら、俺は声をかけた。
「そういえば、君の名前をまだ聞いてなかったな。俺はエリック・ヴァイガーっていうんだ」
「この姫の名はリン」
ラミアの少女が、誇らしげに名乗った。
「リンか……可愛い名前だな」
「この姫の名前を気に入ってくれて嬉しいわ。母上が付けてくれたのよ」
「父親は?」
床に落ちていたズボンとベスト、そして篭手を拾い上げながら、俺は何気なく尋ねた。
「この姫にも、あなたの言い分は理解できるわ。でも――この姫、もう蛇の姿には戻れないのよ」
リンは顎に指を添えて、考え込むように言った。
「あなたが見たあの姿は、身体も精神も弱りきっていた時のもの。この姫、あなたの薬湯のおかげで本来の力を取り戻したの。でもそのせいで、今はもう変身できないのよ」
「なるほど、それでか!」
俺は思わず目を見開いた。
彼女が俺の風呂の水をやたら飲んでいた理由――ずっと変な癖かと思っていたが、そうではなかったらしい。
錬丹で作った“鍛体丹”が、彼女の身体を修復し、本来の姿へと戻す手助けをしたのだ。
だがそのせいで、今では変身能力を失ってしまったらしい。
「じゃあ、変身できないっていうなら……しばらくここに残ってもらうしかないな」
「それは却下よ」
リンは目を細めて、ぴしゃりと言った。
「あなたがいないと、暇で仕方がないのよ。この姫、一日中ベッドでゴロゴロしながら、あなたの枕に残る匂いを楽しむしかないの」
「……それは聞きたくなかった」
俺はじりじりと後ずさりしながら答えた。
「でもさ。変身できない以上、連れていくわけにはいかないんだよ」
「この姫を甘く見ないで。たとえあなたが、姫の主であり、命の恩人であり、夫であり、ダーリンであったとしても――この姫が黙って従うと思ったら大間違いよ。今日はあなたと一緒に出かける。それで決まり」
「決まってねぇよ」
「決まりよ!」
「違う」
「違わない!」
「……」
「この姫は絶対に引かないわ!」
――その時、俺は思った。
この娘……グラント・ロイヒトよりも面倒な存在かもしれない、と。




