カリの訓練
カリは槍をくるりと回しながら後退した。相手の剣が彼女の防御を突き破ろうと前へ突き出されるたびに、地面の上で優雅に舞う。金属と金属がぶつかり合う音が周囲に響いた。その剣の突きは人間の目では追えないほど速かったが、カリには見えていた。彼女はその速さに対応できるよう、懸命に訓練を積んできたのだ。迷うことなく、彼女は槍をひらひらと回し、その攻撃を次々と弾き返していった。
朝の早い時間だった。彼女と教官は王宮の中庭で稽古をしていた。澄んだ朝の空気が肺を焼くように冷たく感じられる中、カリはひたすら動き続け、守り続けていた。
「防御だけでは、私には勝てないわよ!」
教官の厳しい声が耳に響いた。でもカリは反論できなかった。だって、この女性はまったく隙を見せてくれないのだもの!
舞は続いた。相手は一歩踏み出し、再び剣を突き出してくる。カリはぴくりと反応し、ランスを素早く構えてその攻撃を受け止めた。しかし今回はただ防御するだけではなかった。槍の先端をうまく動かして、三又の隙間に剣を滑り込ませる。そのまま押し込むと、槍は相手の剣の鍔にぶつかり、二つの武器は絡まり合った。
そのまま彼女は引いた。
ガリガリという金属音のあと、風を切るような「シュッ」という音が中庭に響いた。そして、剣は空中をくるくると回転しながら数メートル先の地面に落ちた。
カリはその剣を見つめたまま、信じられないように目を見開いた。
「やった……」そうつぶやき、興奮がこみ上げてきた。「やった、わたし——うぐっ!」
鋭い一撃が胸を打ち、カリは地面に倒れ込んだ。何度も息を吸い込みながら、手を胸に当てて痛みを和らげようとした。
「確かに私の武器は奪ったわ。でも、それで戦いが終わったと思った?」
厳しい声が彼女をたしなめる。「覚えておきなさい、戦いの中では相手が死んだか、攻撃不能になるまで気を抜いてはいけない。武器を一つ落とさせたくらいじゃ、終わりにはならないわ。二つ目の武器を隠し持っているかもしれないし、スピリチュアリスト相手なら、霊術が残っている場合もあるのよ。」
カリは照れくさそうに笑いながら顔を上げた。「はい、すみません、ブリュンヒルド教官。」
彼女が呼んだ「ブリュンヒルド教官」は、まるで岩で彫られたような四角い顔をした、力強さにあふれる女性だった。鋭い顎と灰色の瞳が、厳格で近寄りがたい印象を与え、さらに左頬を走る鋭い傷跡が彼女の恐ろしさを引き立てていた。
第65章
賭け
目を覚ますと、何かに包まれている感覚があった。体が締めつけられていて、まるで誰かが巨大なロープで俺を縛り上げたかのようだった。だが、それはロープとは明らかに違っていた。腕、脚、胸に巻きついているそれは、なめらかで柔らかく、しかも……やたらと太い。正直、他に言いようがなかった。
目をうっすら開けると、数センチの距離に蛇の顔があった。何度か瞬きをして、この蛇がなぜこんなにも近いのかと疑問に思っているうちに、ようやく状況を理解した。俺は横になってこの蛇を抱きしめており、蛇もまた俺を抱きしめていたのだ。いや、正確には六メートルはあるその長い体を、俺の体にぐるぐる巻きつけていた。…まあ、ハグと言えなくもない。
「おい…」俺はうめくように呟いた。「ちょっとほどいてくれないか? お前が絡みついたままだと、ベッドから出られないんだよ。過剰な愛情表現のマフラーかよ…」
蛇は起こすのにかなりの苦労が必要だった。二又に分かれた舌をぺろぺろ出しながら、寝息のようなシューという音を立てていた。話しかけるだけでは起きないようなので、俺は体内に雷属性を巡らせ、ごく弱い電気を流して軽く刺激を与えた。傷つけたくはなかったからな。
「起きろってば」と言うと、蛇はきょろきょろと周囲を見回し、困惑しているようだった。やがて俺の方を見てシューと鳴いた。「そう、今だ。今日は図書館は休みだけど、やることはまだあるんだ」
納得していないような目を向けてきたが、それでも蛇は渋々体をほどき、俺はようやくベッドから出られた。冷たい床に足をつけ、腕を大きく伸ばして、盛大にあくびをした。俺は全裸だった。だが、まあ気にする者もいない。ここにいるのは俺と蛇だけだし、そもそも相手は蛇だ。
洗面台で顔を洗い、濡れた布と石鹸で体を拭いたあと、小さなタオルで体を乾かしてから、数日前にフェイが買ってくれた服に袖を通す。ブーツを床に何度か踏み鳴らしてフィット感を確かめ、ひとつうなずいた。
「よし」と呟き、蛇の方を見た。「お前も来るか? それともここにいるか?」蛇は首を横に振り、枕に顔をうずめた。俺は肩をすくめた。「好きにしろよ」
部屋を出ると、朝食代わりにハチミツがかかったパンを買い、それをかじりながら朝の街を歩く。この時間はまだ人通りが少ない。パン屋や屋台の店主くらいしかいない静けさだった。
さて、今日は何をするか。図書館は休み。フェイは家族行事で外出中。錬金術師協会に行く用事もない。こんなふうに完全に自由な日なんて、本当に久しぶりだ。
俺が十七歳の体に戻ってから、ついに二ヶ月が経過した。この短い間に、本当に色々あった。カリと再会し、修行を始め、フェイの霊毒を治療し、一緒に鍛錬し、錬金術師協会と取引をし、カリに想いを伝え、フェイから告白された。まったく、目が回るほどの出来事だ。
気ままに歩いていたら、気づけば足が自然と図書館へと向かっていた。驚きはなかった。ネヴァリアでは図書館こそが、俺が最も訪れる場所であり、そしてカリと会える場所でもある。まるで体が勝手に動いたかのようだった。
図書館の前に立ち、入るかどうかを悩んでいたところに、優しい声が耳に届いた。
「エリック?」
振り返ると、そこにはカリがいた。白いノースリーブのワンピースが太もものあたりで揺れている。膝上数センチで止まるその丈は、なかなか大胆だ。今日はマントを羽織っておらず、その豊満な胸元がよく見える。明らかに胸当てで抑えているが、それでも服の布地が張っていた。視線を下げると、足元にはサンダル。そしてその可愛らしい指先が、ちょこちょこと動いていた。
「ブリュンヒルド教官が、訓練の休暇をくれたの」
カリは嬉しそうに笑いながらそう告げると、大きな胸を誇らしげに突き出した。わずかに上下に揺れ、その仕草に思わず視線が引き寄せられる。
「訓練の成果が予想以上だって言ってくれて、それで少し休むようにって」
「それで、ここに来たんだな」
俺はうなずき、からかうように微笑んだ。
「ひょっとして、俺がいると思って来たのか?」
カリは少しだけ頬を赤らめて視線を逸らした。
「そうだとしたら…図々しいかしら?」
「全然」俺は首を振った。
「実は俺も、お前に会えるといいなと思ってたところなんだ。今日は俺も自由でな。仕事もないし、訓練も休みだ。特にやることもない。だからさ、せっかくだから一緒に過ごせたらって思ってたんだ」
俺の言葉が終わると、カリの瞳がきらめき、胸の奥がじんわりと温かくなった。彼女の薄桃色の唇が繊細に微笑み、頬はほんのりと赤く染まっていた。
「もしよかったら…ネヴァリアの街を案内してくれても、構わないわ」
彼女の丁寧な声は少し震えていた。抑えていた感情が、わずかにこぼれ出ていた。
「じゃあ、のんびり歩きながら話そうか」
そう言って手を差し出すと、カリは数秒間じっと見つめてから、ふわっと笑みを浮かべて手を伸ばしてきた。
「うん!喜んで一緒に歩きたいわ!」
手と手をつないで、俺たちは街の中を歩き出した。
たぶん、どちらも特別な目的地なんて考えてなかった。足の向くままに歩きながら、最近読んだ本の話や、魔獣山脈で発見された新旧の遺跡のニュース、ちょっとした雑談まで、色々と語り合った。
俺は時折、彼女を軽くからかったり、突然褒めてみたり、好奇心旺盛な彼女の性格をいじったりした。そのたびに彼女は頬を赤らめて俺の頬をつつく。でもその笑顔は、嬉しそうだった。
気がつけば商人街に辿り着いていた。正午が近づいてきた時間帯で、人通りも賑やかになっていた。果物から宝石まで、様々な品を売る屋台が立ち並び、その中から、香ばしくて少し塩気のある香りが漂ってきた。
同時に、俺たちの腹がぐうっと鳴った。そういえば、今日はまだ何も食べてなかったな。
「何か食べようか?」俺が言うと、
「うん、それがいいわ」カリはうなずいた。
匂いの元は、串焼きを売る屋台だった。肉と野菜が串に刺さり、軽く焦げ目がつく程度に焼かれていて、塩・胡椒・少しスパイスの効いた味付けがされている。きゅうり、ズッキーニ、ナス、そしてパイナップルといった野菜も見覚えがあった。
「いくつ欲しい?」と俺が尋ねると、
「わたし、自分で払うわ」とカリが言った。だが、それは許せなかった。
「払えるのは分かってる。でも、今日は俺のおごりだ」
カリは口を開きかけたが、それをすぐに制した。
「今日は俺が誘ったんだ。だから今日は俺に払わせてくれ。次はお前が誘ってくれれば、その時はお前のおごりってことで、どう?」
カリはしばらく考えた後、可愛らしく鼻をしかめて、ふくれっ面を見せた。俺はその小さな鼻をつまみたくなる衝動に駆られたが、さすがに我慢した。
「…わかったわ。でも次は、必ず私が払うから」
「もちろん」俺は笑顔でうなずいた。
「で、いくつ食べる?」
「…三本」カリは小さく呟いた。
微笑みを浮かべたまま、俺は屋台の男に近づいた。男は丸々とした腹を突き出した大柄な人物で、俺は串焼き――たしか「ケバブ」と呼ばれていた――を七本注文した。
渡された串を受け取ると、男はにやりと笑いながら言った。
「お前ら、いいカップルだな」
ネヴァリアの王女であるカリに気づいていない様子に、少し驚いた。まあ、全員が王族の顔を知っているわけじゃないのかもしれない。
「…か、カップルって言われたわ」
串を手に歩き出したカリが、ぽつりと呟いた。
「否定はしないのか?」俺が聞くと、カリは俺をちらっと見て、それから目を逸らして、首を横に振った。
俺はくすりと笑った。
「俺も、けっこうお似合いだと思ってる」
カリは控えめながらも優しい笑みを浮かべて、
「わたしも、そう思うわ」
と囁いた。
そのまま歩き続けていると、いくつかの屋台が錬金薬を売っているのに気づいた。かなり人気があるようで、周囲にはスピリチュアリストたちが群がり、前に出ようと押し合っていた。スピリチュアル・パーセプションを使えば、彼らから流れ出る霊力がはっきりと分かった。どうやら、錬金術師協会が精製した薬は評判になっているようだ。
「…あの薬」
カリが歩きながらつぶやいた。
「どうした?」
「それ、あなたが作ったの?」
俺はゆっくりとうなずいた。
「ああ。訓練資金を稼ぐ必要があったからな。錬金術師協会と契約を結んだんだ。俺が薬の製法を教える代わりに、彼らが稼いだ利益の一部を分けてもらうっていう条件でな」
「賢いのね」
カリは微笑みながら言った。
街を歩いていると、何人かの人々がカリに気づいたようだった。俺たちを指さして何かを囁いている者もいた。声は聞き取れなかったが、その視線からして、彼女の正体に気づいたのは明らかだった。
少し不安になった。平民と一緒にいることが知られたら、何が起こるか分からない。もっとも、今の俺の服装はそこらの平民には見えないほど高級だが、それでも世間からすれば“無名の男”であることに変わりはない。
この国では、強さと名声こそが全て。名も実力もない者に価値はない――それが現実だ。
そして、それは数時間後に証明されることになった。
カリと俺は、食べ歩きをしながら街中をぶらつき、屋台の料理を堪能していた。
彼女は何か面白そうな宝石があればといくつかの店を覗いたが、結局買うには至らなかった。
そんな折、三人の人物が俺たちの前に立ちはだかった。
中央の若者は見覚えがあった。忘れたくても忘れられない顔だ。
「やはり噂は本当だったようだな」
その男――俺と同じ年頃に見える青年は、肩までの金茶色の髪をかき上げ、不快そうな笑みを浮かべた。
「王女が下町の図書館で働く平民とつるんでいると聞いたが、まさか本当だったとは。そんな馬鹿なことあるわけないと思っていたのに、ここにいるとはな」
彼は青い目を細め、俺とカリを交互に睨みつけるように見た。
「…本当にがっかりだよ、カリ様」
いかにも貴族らしい、無駄に派手な服装をしていた。
胸元に金色のカラスの刺繍が入った上質な革のチュニック。巨蚕から取れた最高級の絹で仕立てた黒のズボンと白のシャツ。白い手袋をはめ、腰には立派な剣を提げている。
カリは一瞬唇を噛みしめたが、すぐに毅然とした表情になった。俺の腕に両腕を絡ませ、青年――グラントをまっすぐに見つめた。その途端、彼の顔が赤く染まる。
「失望したと言うけれど、それが私にとって何の意味を持つのか、あなたは勘違いしているわね、グラント」
カリの声は、丁寧ながらも芯のあるものだった。
「私が誰と時間を過ごそうと、それは私自身の自由よ」
グラントは耳まで赤くなり、目を細めた。
「今だけの話だ。お前もわかっているだろう。ヒルダ皇帝と我が家が結んだ取り決めを。来月には、お前は俺のものになる」
この時点で、すでに俺たちの周囲には人だかりができていた。人々が俺たちを中心に円を描くように集まり、指さしながらひそひそと話していた。その光景に、俺は自然と眉をひそめた。
事件が起これば誰もが興味本位で見物しに来るくせに、助けに入る者など一人もいない――それが人という存在の嫌な一面だ。
「何であれ、今の君には、カリに何かを強制する権力も力もない」
俺は静かに言い放った。
「貴様…レディ・カリを敬称もなく呼び捨てにするとは何事だっ!」
グラントは突然、怒りに満ちた表情で俺に向き直った。
「身の程を弁えろ、下賤の者め!ここが公衆の面前でなければ、今すぐ貴様に礼儀というものを叩き込んでやっていたところだ!」
「それなら、別の形で決着をつけないか」俺は提案した。
「君が来月と言っていた件、もしかして『霊術師大武闘会』のことか?」
カリもグラントも、俺の言葉に驚愕したように目を見開いた。
彼らの頭の中で何かが激しく動いているのが、はっきりと分かる。
カリの瞳には明らかな不安が浮かんでいた。
一方、グラントはまるで顔面を殴られたかのような表情だった。
「…まさか、武闘会で決着をつけようと言っているのか?」
彼は信じられないといった口調で問うた。
俺は肩をすくめた。
「それでお互いの問題が解決するなら、悪くないだろ?」
グラントは顔を手で覆い、頭を後ろに反らして高笑いした。
「信じられん!平民ごときが、霊術を学んだ貴族に勝てるとでも!?これは滑稽だな!」
だが、その笑い声はすぐに消え、目が鋭く冷たい光を放つ。
「いいだろう。貴様と俺、両方が大会に出場する。もし俺が勝ったら――二度とレディ・カリに近づくな」
「エリック…」
カリが不安そうに俺の名前を呼んだ。
俺は彼女に微笑みかけたあと、グラントを真っ直ぐに見据えた。
「それで構わない。ただし、俺が勝ったら、こちらからも条件を出させてもらう」
「条件?」
グラントが目を細めた。
「二度とカリやフェイに政略結婚を強要しないと誓え」
俺の口元に浮かんだ笑みは、決して穏やかなものではなかった。
「君のしつこい求婚と望まぬ接触は、彼女たちをうんざりさせている。誰も、発情した野獣みたいな奴に好意なんて持たないさ」
カリはその言葉に驚愕して俺を見つめていたが、グラントの顔は一気に真っ赤に染まった。拳を固く握りしめていたが、彼は貴族らしく、公衆の面前では怒りを爆発させなかった。
「…いいだろう。その条件で手を打つ。だが、貴様が俺と対戦するまで生き残れればの話だ」
そう言い残して、グラントはくるりと踵を返し、振り返ることなく去っていった。
後に続いた二人の従者は、俺とグラントを交互に見比べながら、ゆっくりと後を追っていった。
俺はしばらくその背中を見送ったあと、カリのほうを向いた。
「騒ぎを起こして悪かったな」
「…どうしてあんなことを?」
カリは悲しげな声で問うた。
「なぜ彼に挑戦なんてしたの?わかっているの?あの人が誰か――グラント・ロイヒトよ。ロイヒト家の若き当主で、『三大天家』の一角。王族に次ぐ力を持つ家の後継者なのよ。それに…彼は弱くない。本当に強い霊術師よ。あんな相手に挑んだら、あなたは――」
彼女が、自分よりも俺の身を案じていることが伝わってきた。その気持ちが胸に響く。
彼女の言葉と、俺を見つめるその瞳――ただ俺の無事を願う、その優しさに満ちた視線――思わずキスしたくなるほどだった。
…だが、それは今の俺には相応しくない。まだ、俺はただの平民だから。
「相手がどれほど強かろうが関係ない」
俺はカリの正面に立ち、彼女の手を握った。
「グラントが君に政略結婚を迫っていると知った時から、いつかあいつとは戦うことになると思っていた。誰にも、他人に結婚を強制する権利なんてない。誰と一緒になるか――あるいは誰とも一緒にならないか――その自由は君自身のものだ。俺は、そんな自由を奪わせたりしない」
カリの頬はほんのり赤く染まっていたが、それでもまだ不安そうな表情を浮かべていた。
「でも、ロイヒト家はとても強大なの。あの家が黙って見過ごすとは思えないし、たとえトーナメントでグラントと対峙できたとしても、彼は強敵よ」
「君は、俺を信じるか?」
「えっ?」
「信じてくれるか?」
カリは一瞬ためらったが、やがて静かにうなずいた。
俺は彼女の手を取って、自分の胸に当てた。彼女の頬がさらに赤く染まるが、手を引こうとはしなかった。
「ならば信じてくれ。グラント・ロイヒトなど、俺の敵じゃない。大会で必ず奴を叩きのめして、二度と君の前に現れないようにしてみせる」
俺は真剣な眼差しでカリを見つめた。この想い、この決意が彼女に伝わってほしい。
その思いが届いたのか、カリの顔に小さな笑みが浮かぶ。まるで雨雲の隙間から差し込む光のように、優しく、温かい微笑みだった。
「うん。信じてるよ」
「よかった」
うなずいた俺は、手を離して一歩下がる。
「君をがっかりさせたりしない。……でも、ちょっと不思議なんだけど。君自身が大会に出れば、グラントに勝てたんじゃないか?」
カリは小さく首を振った。
「勝てる保証なんてないよ。さっきも言ったけど、グラントはロイヒト家によって徹底的に訓練されてきた強力な霊術師なの。
それに、私はアストラリア王家の一員だから、霊術師大武闘会に参加することが許されていないの」
「王族ってだけで参加できないのか? それ、ちょっと理不尽じゃない?」
俺は頭をかいた。
――今になって分かったけど、それでグラントが優勝できたんだな。
もしカリや彼女の兄弟が大会に出ていたら、グラントなんて到底敵わなかっただろう。
王族が参加できないのは、きっと『強すぎる』という理由で公平性を保つためだ。
「少し、悲しいことだけどね」カリはぽつりとつぶやいた。
「もし大会に出場できれば、お母様に、自分の力を証明できるのに。
ネヴァリアの外に出る許可も、きっと――」
「じゃあ、俺が君の代わりに戦ってもいいか?」
「え…どういう意味?」カリが困惑した表情で俺を見る。
「聞いた話では、霊術師大武闘会で優勝した者は、アストラリア王家に一つだけ願いを叶えてもらえるらしい」
俺は静かに続けた。
「つまり、君の代わりに俺が出て、優勝して、君がネヴァリアの外に出られるよう願いをかけるってことだ」
カリは一瞬、何も言わなかった。俺は何か間違えたかと不安になったが、顔を上げると、カリは目を大きく開いて俺を見ていた。
その目は潤んでいて、今にも涙がこぼれそうだった。
「そんなこと…私のために、してくれるの?」
声はかすれていた。
「俺が君のためなら何でもするって、もう言っただろう?」
俺は優しく微笑んだ。
「それに君のお母様にも、そろそろ娘を閉じ込めるのはやめてほしいと思ってたんだ」
カリの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
彼女は口元を手で覆いながら、笑っていた。
「…泣くほどのことじゃないよ」
俺は彼女の頬に手を伸ばし、そっと両目の涙を親指でぬぐった。
彼女の肌は温かくて柔らかくて、触れた瞬間に胸が高鳴った。
「分かってる…でも…うれしくて…」
カリは目を閉じたまま、微かにささやいた。
「あなたみたいに…私のためにそこまで言ってくれた人、今までいなかったの。
エリックといると、ずっと昔から知ってるような気がするの…心が繋がってる感じ」
――実際、そうなんだ。
でも、それはまだ言うべきことじゃない。
「君がそんなに嬉しそうで、俺も嬉しいよ」
そう言いながらも、俺は少し苦笑いを浮かべていた。
「……だけど、そろそろ移動しないか? 見物人が増えてきてる」
「えっ?」
カリはきょとんとした顔をしていたが、ようやく周囲の様子に気づいたらしい。
人々がこそこそと囁きながら、こちらを見ている。
その視線に気づいた瞬間、彼女の顔はぱあっと赤く染まった。髪の生え際から首筋まで、まるで桃のように。
彼女は俺の手をぐいっと引っ張って走り出した。
どこまで走ったのかは覚えていないが、気づけば人混みの少ない通りに出ていた。
「ごめん、目立っちゃって…」
カリは小さく息を整えながら言った。まだ俺の手を握っていることに気づいていないようだった。
「気にしてないよ」
俺は自然に答えた。
カリはこくんとうなずいたが、ふと何かを思い出したように俺を見た。
その視線には、少しだけ警戒心を感じた。
「エリック」
カリは小さく眉を寄せて言った。
「ちょっと聞きたいんだけど……どうして、グラントがファイにも政略結婚を迫ってたって知ってたの?
それ、私…あなたに言ってないよね?」
――ああ、だからさっきから胸騒ぎがしてたのか。
小さく息をついた俺は、ファイとの出会い、共にした訓練、そして数日前の告白について、ありのままをカリに話し始めた。
今回の章はけっこう長くなっちゃいました。楽しんでもらえたら嬉しいです!
次の章はもうちょっと短めになりますが、そちらもぜひ楽しみにしていてくださいね。