そのヘビ、どうした?
鍛冶屋から帰宅した俺は、自室に入ると、ベッドの上で図々しく寝そべっているヘビに目をやった。あの全長六メートル以上の身体は、二メートルもないベッドからはみ出している。俺が入ってくると、ヘビは頭を持ち上げてこちらを見つめ、軽くシューッと挨拶のような音を出してから、また枕の上に頭を戻した。
俺はベッドに腰を下ろし、ヘビの頭を撫でた。正直、こいつがこの扱いを気に入っているのかどうかはわからない。ヘビは表情というものを持たない——少なくとも俺がわかる範囲では。しかし、俺の手が鱗のある頭をなぞるたびに、尻尾の先が床を何度も軽く叩いていた。
「これから修行に行くけど、お前も来るか?」
俺がそう声をかけると、ヘビはまた頭を持ち上げ、しばらくじっと見つめてから、ゆっくりと一度だけ頷いた。
俺は微笑みながら立ち上がり、重り付きの修行服と「三重霊拡丹」の袋を手に取った。その間にヘビはベッドから滑り降り、俺の体に巻きつきながら肩の上へと移動した。あまりに長いので、地面に引きずらないよう、体を何重にも巻きつけている。
俺が訓練場へ向かう道中、人々は特に反応を見せなかった。どうやら、「ヘビを巻き付けた緑髪の中性的な変人」にも慣れてしまったらしい。嬉しいような、悲しいような気分だ。ちなみに、ヘビは今、俺の頭の上に顎を乗せていて、時折舌が髪に触れるのを感じる。
馬車を使い西門近くまで移動したあと、ネヴァリアの外に出て、森や岩を通り過ぎながら土の道を歩いていく。ふと、俺は自分の手に目をやった。薬指を覆う黒い紋様は、いまだに消えていない。薔薇のような模様は以前と変わらず存在している。普段は忘れているが、ヘビと一緒にいると、どうしても思い出してしまう。
「なあ、お前がくれたこれ、一体なんなんだ?」
俺は手を持ち上げ、ヘビの目の前にかざして聞いた。ヘビはシューッと音を立て、舌で俺の手を軽く舐めたが、当然返事はなかった。そもそも、こいつが人語を喋れるとは思っていない。
俺がいつも使っている訓練場の開けた場所に到着すると、そこで誰かの姿を見つけて足を止めた。真紅の髪を革の紐で束ねた少女が、中央に立っていた。彼女はポケットだらけの黒いズボンに、同じくポケットだらけのベスト、そして腕にはポケット付きの籠手をつけている。つまり、俺と同じ訓練服だ。
軽く驚いたあと、俺は歩みを再開した。少女が振り向く。その動きに合わせて、赤髪が肩越しに舞った。
「エリック」と、彼女は静かな声で言った。
「フェイ……」俺は何と言えばいいのかわからなかった。ここに来たということは、彼女の目的は修行の再開だろう。実際、修行服を着ているし。しかし、最後に会ったときの出来事が頭をよぎり、思わず視線を逸らした。
「どうして目を逸らすの?」とフェイが腰に手を当てて言った。「訓練するんじゃないの?」
振り返ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。いつものような明るい笑顔ではなかったが、それでも笑顔を浮かべてくれたこと自体が良い兆候だ。もっとも、フェイは強い。ほんの九十日しか知り合っていない男に振られたところで、本気で落ち込むような性格ではないだろう。
「そうだな」と俺は頷いた。「訓練のために来たんだ」
「じゃあ、始めよう」とフェイの笑顔が少しだけ大きくなった。
肩に巻きついていたヘビは、ゆっくりと俺から離れ、近くの岩の上に移動して、まるで怠け猫のように陽の光を浴び始めた。身体が自由になった俺は、修行の準備に入る。衣服の中に仕込んだ金属シリンダーの符文に霊力を流し込むと、服全体が一気に重くなった。さらに負荷を上げ、動くのが困難になるほどにまで高めてから、ようやく手を止める。
フェイも同じようにしていた。
「行くよ!」フェイは振り向きざまに言い、駆け出した。
彼女の走る姿を見ながら、なんとなくフェイの気持ちが少しだけ軽くなったように感じた。汗を流すことで心が晴れる人間は意外と多い。理由はわからないが、それが事実であることは否定できない。俺自身、いい汗をかいた後は気分が晴れることが多い。
いつものように、障害物競走と筋力トレーニングを終えた後、俺たちは「三重霊拡丹」を服用し、地面に胡座をかいて霊力の制御と拡張の訓練に移った。
俺の霊力の制御は、もはや完璧に近い。これ以上の精度は望めないと思う。つまり、次の段階——霊力の総量を増やし、霊術第二段階を目指すべき時が来たということだ。
「あなたに振られた後、色々と考えたの」と、数分の沈黙の後にフェイが口を開いた。
一瞬だけ反応しそうになったが、なんとか平静を装った。
「あなたとこのまま修行を続けるべきか、正直迷った」と、彼女は俺の胸を重くするような言葉を続けた。「また会ったら、もっと傷つくだけじゃないかって、何度も思った」
「わかるよ」俺は低く、静かな声で言った。そして深く息を吸い込んだ。「それで、決心はついたのか? これからどうしたいか」
フェイは目を開けて、俺の方を見た。緑の瞳には、カリとは違う、色っぽさと強さがあった。恐らく本人には自覚がないのだろう。
「ついたわ」彼女の目に、揺るがぬ決意の光が宿る。「私は諦めない。あなたが別の誰かを愛しているってことはわかってる…でもね、私…」彼女は途中で頬を赤らめ、目を逸らした。「ゴホン……私はあなたのことが好きなの。だから、たとえ他の人を愛していたとしても、私は諦めない。必ずあなたに、私を好きにさせてみせる」
その言葉には、思わず心を打たれた。認めたくはないが、胸の奥がじんわりと熱く、そして締め付けられるような感覚があった。
「……そうか」俺は少し言葉を引き延ばしながら返した。「諦めないと決めたなら、俺には止められないよな……」一息ついて、眉をしかめた。「でも、できればやめておいた方がいいと思う。お前が傷つくのを見たくない」
なぜだかわからないが、俺がそう言った時、フェイは嬉しそうに微笑んだ。彼女は脚を崩し、両手を後ろにつき、身体を仰け反らせるようにして俺を見つめ続けた。その視線は、一瞬たりとも俺から外れなかった
「私を傷つけたくないと思ってくれる時点で、まだチャンスはあるってことだよね」
フェイは静かな自信をもって言った。「あなたは、私のことを大切に思ってる」
「もちろん大切に思ってるさ」
もう精神修行どころではなかった。必要性も感じなかったので、俺は手を止めた。指の上に乗せていた葉や枝が、ひらひらと地面へと落ちる。
「お前はいい奴だし、友達として信頼している。そして、強くなろうとするその意志と決意も尊敬している。でも――俺が思っているのは、友達としての好意だけだ」
「それは信じられないな」
フェイはまるで何かを知っているような笑みを浮かべた。その笑みは一瞬で消え、彼女は唇を噛んで深呼吸し、再び自信に満ちた表情に戻った。
「あなたが私を見るとき、たまに視線に色があるのを私は知ってる。言葉にはしなくても、あなたは私に惹かれているでしょう?」
「まあ、そうだな」
俺は素直に認めた。「お前を魅力的だと思ってるよ。だが、それは男として自然なことだ。魅力を感じるからといって、それが即ち『愛』とは限らない。……グラント・ロイヒトだって、お前を魅力的だと思ってるはずだ。けど、あいつがお前を愛してるとは思えない」
「彼はそうかもしれない。でも、あなたの気持ちはそんなに浅くない。あなたはグラント・ロイヒトとは違う人だもの」
その言葉に、俺は返す言葉がなかった。フェイの瞳をまっすぐ見ることができず、視線を空へと逸らした。
頭の中ではさまざまな思考が駆け巡る。ここまで来たのなら、いっそ自分の過去を少し語って、彼女が諦めてくれるかもしれない――そんな淡い期待があった。
「俺が本気で愛した女は、たった二人しかいないんだ」
そう、静かに口を開いた。
「二人?」フェイが首を傾げる。
俺は頷いた。
「ひとりは、ずっと昔から想い続けてきた女だ。彼女は俺にとって、すべての存在だ。……もう一人は――正直、誰なのかすらわからない」
フェイの顔に困惑が浮かんだ。
「誰かもわからないのに、どうやって愛するの?」
「説明が難しいが……」
俺は少し考え、言葉を整えてから再び口を開いた。
「昔、俺がどん底にいたとき、顔も名前も知らない女に助けられた。彼女は俺の命を救ってくれたんだ。約一年間、一緒に過ごした。彼女からは多くのことを学んだ。お前が見たことのあるあの錬金術の薬――あれのいくつかは、彼女に教わったんだ」
フェイの目が大きく見開かれた。その反応に、俺はわずかに笑みを浮かべる。
あの女は、カリが殺された直後に俺が出会った存在だった。
心を闇に染め、世界を彷徨い、あらゆる霊術を学び、人を殺し続けた――すべては第七界層の魔王への復讐のためだった。その途中、俺はネヴァリアに戻り、無謀にも魔獣たちに襲いかかり、逆に瀕死に追い込まれた。あの女は、そんな俺を助けてくれた。そして、心まで救ってくれた。
「教えてくれた薬は一部だけだ。まだ作っていない薬もある。でも『霊浄丹』――あれは彼女から教わった薬の一つだ」
そう語る間に、肩に乗っていた蛇が俺の膝に頭を乗せてきた。俺は無意識にその頭を撫でる。
「彼女の顔も身体も、いつもマントで隠れていて一度も見たことがない。それでも、彼女がいなければ、俺の命も、そして心も、もうこの世にはなかった。彼女のおかげで、俺は最大の苦難を乗り越えることができた。だが……」
「だが?」フェイが促すように尋ねた。
俺は首を振る。
「彼女は死んだ。体が病に蝕まれていて、もうどうしようもなかった。お前がかかっていた霊毒――あれと同じ病だが、彼女のはもっと進行していた。どんな薬でも、ただ寿命を延ばすことしかできなかった。最期は、体が限界を迎えて……眠るように息を引き取った」
「そうだったんだ……」
フェイは俯き、静かに悲しみをにじませた声でそう呟いた。
俺はため息をついた。胸の奥が重く締め付けられるような感覚に包まれていた。
「なぜ謝るのか分からないけど、その必要はないよ。これは、お前に分かってほしくて話しているんだ。俺の心に入れた女は、今までの人生でたった二人しかいない。信じないかもしれないが、俺は多くの女性と出会ってきた。それでも、心に入れたのはその二人だけ。……お前がそこに辿り着ける可能性は、限りなく低い」
「でも、“ゼロ”じゃないよね?」
フェイはわずかに目を細めて、わずかに含みのある笑みを浮かべながら前屈みになった。手を後ろから膝の上に移しながら。
「まだ、チャンスはあるってことよね」
その言葉に、俺は思わず吹き出した。
「まあ……確かにゼロじゃないな。でも、お前の時間は、もっと愛情を注いでくれる相手のために使った方がいいと思うけどな」
「その忠告は、ありがたく無視させてもらうわ」
その一言を聞いて、俺はただ首を振るしかなかった。
彼女が俺の心に辿り着けるとは思えなかった。カリがいなければ、もしかしたら――本当に“もしかしたら”だけど――可能性はあったかもしれない。
だが、カリは生きている。
そして、今度こそ俺は彼女を守ると決めている。
二度と、あの悲劇を繰り返さない。
「ところでさ……」
フェイが、どこか不安げな声で話しかけてきた。
「気のせいかもしれないけど、あなたの蛇……なんか怒ってない?」
俺は膝の上に頭を乗せている蛇へと目を向けた。
そして眉をひそめた。
蛇はフェイに向かってシューシューと威嚇音を立てていた。
理由は全く分からないが、明らかに不機嫌そうだ。
どうしてそんなに怒ってるのか、俺には皆目見当もつかない。
「こいつ、たまにこうなるんだ」
そう呟いて、俺は蛇の頭を軽く撫でた。
「気にするな」
「う、うん……あなたがそう言うなら」
「言ってるだろ」
俺が確信を持って言い切ると――まあ、実際にはそんな確信なんてなかったのだが――
蛇は「侮辱でもされたのか?」というような目で俺を見上げてきた。
……爬虫類の考えることなんて、永遠に理解できそうにない。
あの蛇、一体何なんだよ?
次回をお楽しみに。
もしかしたら真相が明らかになるかも――いや、ならないかも!?
期待せずに期待しててくれ。




