過去の夢
いつものように図書館の本を棚に戻していたとき、彼女を初めて見かけた。
そのときは、彼女が誰なのかなんてまったく知らなかった。ただ、いつも図書館の二階にある同じテーブルに座っていて、本を静かにめくっている姿が印象的だった。
ページをめくるたびにきらきらと輝くその瞳に、思わず言葉を失ってしまう。というより、もとから話しかける勇気なんてなかった。まるで神のような美しさを持つ彼女の前では、舌が絡まって動かなくなってしまったのだ。
時は流れ、俺は相変わらず図書館で働き続け、彼女も変わらず本を読みに来ていた。
毎日というわけではなかったが、後に知ることになるのは――彼女は霊術学院に授業がない日だけ、ここへ来ていたということだった。
だが、授業がない日には、必ずと言っていいほど彼女はそこにいた。あのテーブルに。
その日も、彼女がやってきた。
俺は本を何冊か片手に、できるだけ目立たないように棚に戻していた。
彼女は本に夢中だった。読書に没頭している人に話しかけられるのがどれほど嫌かは、自分も読書好きだからよくわかっているつもりだ。
だが、俺はうっかり彼女が読んでいる本のタイトルを目にしてしまった。
そして、思わず本を落としそうになった。
「それ、『アンダリル物語』じゃないか!」
彼女の体がびくりと震え、驚いたようにこちらを振り向いた。その瞬間、俺は自分の失言に気づき、慌てて口を開こうとした。謝ろうとした――はずだったのに。
彼女が振り返ったその瞬間、俺の心臓が止まるかと思った。
遠くから見ても綺麗だと思っていたけど、近くで見る彼女の美しさはまるで別物だった。
百倍にも増した魅力に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
「『アンダリル物語』、読んだことあるの?」
彼女は目を輝かせて、そう聞いてきた。
どうにか声を取り戻した俺は、口を開いた。
「あるに決まってるだろ。もう十回以上読んだよ! 村を出た青年が――」
「旅をして――」彼女が続ける。
「遺跡を探索して、」俺が頷く。
「危険に立ち向かい、」彼女の声に熱がこもる。
「冒険への渇望を満たすために――」
最後は二人、同時に言葉を紡いで、笑い合った。
「私はカリっていうの。よくここに来るの?」
「俺はエリック。ここで働いてるから…まあ、よくいるよ。」俺は気恥ずかしくなって、首の後ろをかきながら答えた。
「えっ、働いてるの?」
彼女の目が一瞬で輝きを増す。その勢いに思わず一歩下がろうとしたけど、後ろには本棚があってそれもできなかった。
「だったら、おすすめの本をいくつか教えてくれない? 読みたい本がもうほとんどなくて困ってたの。」
彼女を改めて見つめる。
澄んだ青い瞳、透き通るような白い肌。まるで金糸を束ねたような美しいブロンドの髪。
服装は意外なほど質素だった。紫色のシンプルなドレスに、普通のサンダル。
……不思議だった。なぜか、彼女にはもっと豪奢な服のほうが似合う気がした。
俺より少し背が低いくらいの彼女だったが、その体には目を引かれるほどの膨らみがあった。
正直、サイズなんてわからない。でも――二握り以上は確実だった。
…必死に視線をそらした。
「おすすめ? もちろん、いくらでもあるよ。」
俺は微笑みながら答えた。
「ありがとう!」
彼女はまるで宝物でも見つけたかのような笑顔を浮かべた。
その笑顔を見て、俺の頭の中は真っ白になった。
もう、完全にとろけていたと思う。
――そして、それが俺とカリの出会いだった。
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翌朝、俺は早起きした。
ネヴァリアと魔獣山脈の間を踏破したときに着ていた服は、泥だらけでズタズタだったから、家の近くの小川で洗濯する必要があった。
ネヴァリアにはいくつもの小川があり、それらは用水路や灌漑用の水路によって繋がれている。服を洗ったり、水を汲んだりするには便利だ――そう思いたいところだが、正直言って、ミッドガルドの水道設備と比べればまるで不便だ。
建物に備え付けられたパイプから直接水を引き、しかも加熱用のルーンまである。あれほど便利なものはない。
……まあ、余談だな。
小川で服を洗いながら、昨夜見た夢のことを考えていた。
いや、夢というより――記憶だった。魔獣襲撃以前の、過去の記憶。
カリと初めて出会ったときの記憶だった。
そして驚いたことに、今回の出会いとよく似ていたのだ。
もしかすると、俺が時間を遡ったその日は、ちょうど彼女と初めて会話を交わした日だったのではないだろうか?
そう考えると、俺たちの人生は「赤い糸」で繋がれているのかもしれない――なんて、ちょっとロマンチックな考えが浮かび、思わず微笑んでしまった。
だが、現実的ではないな。
この時間に戻ってきたのは、運命でもなんでもない。
それでも、なぜカリとの最初の出会いを夢に見たのか――考えなくはなかったが、そこに大した意味はないとも思っている。
今、俺は過去に戻ってきた。
そして、未来を変えるチャンスを手に入れたのだ。
それだけでいい。他に理由などいらない。
服を洗い終えた俺は、それを部屋の中の物干しに掛けて干し、清潔な服に着替えた。
黒いズボンと、少し大きめの白いシャツ。
そして、図書館へと向かった。今日は俺が開館当番だ。
その日の仕事は、はっきり言って退屈極まりなかった。
だが、それ以上に、落ち着かない気持ちが常に心の中をうろついていた。
いくら本を整理したり、棚を拭いたりしても、どうしても集中できない。
今日やるべきことが山ほどある。
まずは買い物。必要なものを一式そろえなければならない。
その後、修行のための場所を探す。静かで、ネヴァリアから十分に離れていて、誰にも見つからない場所――できれば滝のある場所が理想だ。
その買い物にどれほど時間がかかるかわからないし、修行場所が見つかる保証もない。
だが、それでも、今の俺にとっては一歩一歩が確かな前進なのだ。
一日を早く終わらせるために、できることはすべてやった。
本を元の場所に戻したり、棚の埃を払ったり、探し物をしている人を手伝ったり――やることがないときは本を読んで時間を潰した。
カリは今日は現れなかった。だが、それは分かっていた。今日は《霊術士学園》の授業がある日だったからだ。
彼女は来なかったが、代わりに何人かの若者たちが図書館に訪れた。大体が十代前半から後半といったところか。たぶん、低位の学校に通っている学生たちだろう。
女帝ヒルダが政権を握って以来、ネヴァリアでは教育が義務化された。
ほとんどの学生は三年間の基礎教育を受けるだけで、読み書きと簡単な計算を習う。
俺は、そんな学生たちに本の場所を案内したり、質問に答えたりしたが――まあ、たいていは俺のことを無視していた。
やがてナディーンさんがやって来て、俺のシフトは終わりを迎えた。
俺はさっさと立ち去った。
多分、あの人は俺の行動にちょっと驚いていたかもしれない。
さて、まず最初にやるべきこと――それは「風呂桶」を買うことだ。
一見、後回しにしても良さそうな物だが、俺の修行には必要不可欠な道具だった。
風呂桶――つまりバスタブは、基本的に貴族や裕福な商人の家庭にしかない高級品だ。
ミッドガルドでは多少普及していたとはいえ、それでも風呂がある家は一部の門派や、金持ち、上級旅館などに限られていた。
自宅に風呂があるというのは、それだけで「贅沢」の象徴なのだ。
庶民の多くは濡れた布で身体を拭くか、共同浴場で身体を洗う。
ちなみに、北方平原では共同浴場がとても人気らしい。
……それはさておき、バスタブを買うにはそれなりの場所に行かねばならない。
ネヴァリアには《商業区》と呼ばれるエリアがある。
屋台や路上商人は各地に存在するが、商業区はとにかく規模が違う。
商人や役人など、裕福な市民が集まるこの場所では、多くの店舗が店構えを構えていた。
日用品から高級品まで、何でも手に入るネヴァリア随一の繁華街――それが商業区だった。
《商業区》の建物はどれも横幅が広かった。そして「区画」とは言っても、実際のところは「町の中心広場」……いや、「円形広場」と言った方が正しいかもしれない。
このエリアは、石造りの広い円形道路を中心に建てられており、その中心には、ネヴァリアの建国者の巨大な像がそびえ立っていた。
俺は、その像の険しい表情を見上げた。
像に彫られているのは、背が高く、分厚い胸板を持った屈強な男。たくましい顎髭を蓄え、今にも戦いを挑まんとするような迫力に満ちた姿勢で立っていた。
片手には巨大な戦斧――敵の頭蓋を今まさに叩き割ろうと振り上げられたその斧は、まさに威圧そのものだった。
首を横に振って視線を逸らすと、俺はまた歩き出した。周囲の店を眺めながら、行き交う人々の間を縫うように進む。
この区画の建物は、どれも横にも奥にも広々としていた。
たぶん、扱っている商品が多く、それを並べるためにスペースが必要だからだろう。
薬草屋のように一階建ての店舗もあったが、ほとんどは二階建て。
そして、どの建物にも「窓」がない。
その点が妙に気になった俺は、しばし立ち止まり、理由を思い出そうとする――
そうだ、ネヴァリアでは《ガラス》の製造にかなりの手間と時間がかかるため、窓のある建物自体が少なかったのだ。
……なんというか、この街はやっぱりちょっと時代遅れに感じるな。
やがて、俺は目当ての店に辿り着いた。
建物は幅広く、二階建てで、壁はすべて赤褐色のレンガ造り。屋根には赤い陶器の瓦が並んでいた。
もちろん、ここにも窓はなかった。だが、入り口の上にぶら下がっている木製の看板には《浴槽》の絵が描かれていた。
……たぶん、ここで間違いないだろう。
店内に足を踏み入れた瞬間、最初に感じたのは――「外観より広いな」という印象だった。
もちろん、それはこの店が横に広がっているのではなく、奥行きがあるからだ。ざっと見積もって、正面から一番奥までの距離は百二十メートルほどだろうか。
店内の大半を占めていたのは、やはり《浴槽》。
木製のものが多かったが、石でできているような浴槽もあった。その中には、十人は余裕で入れそうな巨大サイズのものも――あれを運び込むだけで、どれだけの苦労があるのか想像するだけで頭が痛くなる。
たぶん、あれはあくまで《展示用》なのだろう。実際は家の中で造られるモデルかもしれない。
他にもいくつかの風呂用設備が並んでいたが、どれも日常的な風呂文化がある家庭向けのものに見える。
受付に人はいなかった。どうやら、店員は皆、他の客の対応で忙しいようだ。
まあ、それで問題はない。俺は単純に《浴槽》を一つ買うだけなのだから。
ゆっくりと店内を歩きながら、並んでいる浴槽を見て回る。
大半は四角い形をしていたが、俺が求めていたのは丸型の浴槽。
サイズも、そこまで大きくなくていい――部屋に置ける範囲で、全身を湯に沈められる程度で十分だった。
「お客様、何かお探しでしょうか?」
ようやく声をかけてきたのは、年配の男性だった。灰色の髪に、あご髭。そして痩せこけた頬に、妙にくるんとした眉毛。
……なんだ、その眉。動き出しそうだな。
「……今、俺のことを“お嬢さん”って呼びましたか?」
眉をひそめて尋ねると、商人の男は一瞬固まり、それからじっと俺の顔を見て、顔を赤く染めた。
「し、失礼いたしました、旦那様。私の勘違いで……」
「まったく、困ったもんだな。」
仕方がないとは思っている。顔立ちが女に間違われやすいのは、今に始まったことじゃない。
痩せすぎたこの体型も相まって、余計に女性っぽく見えるんだろう。
それでも、間違われるたびに少しイラッとくるのは止められない。
だからこそ――早く鍛錬を始めて、この《女っぽさ》を吹き飛ばしてやりたい。筋肉をつけ、顔に残る幼さを消せば、もう誰にも間違われることはないはずだ。
「浴槽を探してる。できれば丸形で、大きくなくていい。ただ、座ったときに肩まで浸かれる深さは欲しい。」
「ふむ……」
商人は顎髭をさすりながら俺を見てきた。その視線は俺の着ている安っぽい服を見ているのが分かった。
貧乏人――そう思われただろう。
だがこの男、見かけによらず心得があるのか、あるいはそれを言葉に出さないだけの良識があるのか、すぐに笑顔を浮かべた。
「お客様のご要望に合うものがございます。こちらへどうぞ。」
彼に続いて、展示された大型の浴槽や器具の棚、そして他の客たちの間をすり抜け、店の奥へと進む。
そこには――ぽつんと、一つの浴槽が置かれていた。
作りは簡素。余計な装飾は一切なく、木でできた頑丈な桶のような風呂桶だった。
……丸というよりは楕円に近いか。
だが、中に足を伸ばしても余裕がありそうなサイズ感。
両端が少し反り返っていて、背を預けてリラックスできる形状。
さらに、縁の中央部分にはU字型のくぼみがあり、出入りもしやすそうだ。
俺は風呂桶をじっと見つめ、静かに頷いた。
「丸形のものはあいにくございませんが、こちらの浴槽でしたらご希望に近いかと存じます。」
商人がそう言って、微笑みながら手を広げた。
「漆を塗った杉材でできておりまして、軽くて丈夫、なおかつ作りがしっかりしております。一枚の木材からくり抜いておりますので、継ぎ目がなく、水漏れの心配もございません。」
俺は彼の説明に頷きながら、浴槽をじっと見つめた。
理想とは少し違うが、この店の中で俺の希望に近い形は、これだけだった。
他の店を回れば、もっと望みに近い品が見つかるだろうが――今日はやることが多すぎる。
浴槽一つに数時間かける暇はない。
「いくらだ?」
そう尋ねると、商人は嬉しそうに手をこすり合わせた。
「この浴槽は丁寧に仕上げたものですが、実を言えば人気がないんです。みなさん、大きめの浴槽をお好みでして……本来なら二万ヴァリスほどですが、今なら――一万二千ヴァリスでどうでしょう?」
なるほど、悪くない。
だが、俺は風呂桶だけに金を使う余裕はなかった。
錬金術用の器具、薬草の材料、修行用の衣服、そしてネヴァリアと周辺森林の地図――買わなければならないものは山ほどある。
今、俺の手元には六万ヴァリス。
この風呂を買えば、残りは四万八千ヴァリスになる。
「ちなみに――この風呂、今までに売れたことはあるか?」
ふと気になって聞いてみると、男の顔がぴくりと引きつった。それだけで十分だった。
思わず口元が緩む。
「じゃあ、九千ヴァリスでどうだ?」
商人の眉がひそまる。
「それでは、店の利益が出ませんな。」
「でも、そのまま誰にも買われなければ、製作費すら回収できずに終わるだろう?」
俺は肩をすくめて、軽く言った。
彼の頭の中で、電卓が回っているのが見えるようだった。
売りたくはない――でも、売れないよりはマシ。
そんな葛藤がその顔に浮かんでいた。
「他の店を見てみてもいいんだがな。」
俺がそう追い打ちをかけると、ついに商人は小さく笑って、肩を落とした。
「若いのに、見事な商才ですな。いいでしょう、そのお値段で。」
「感謝する。」
俺たちは固く握手を交わし、取引成立となった。
――と、その瞬間、俺にある妙案が浮かんだ。
「ところで、家までの搬入を手伝ってくれる者がいれば、三千ヴァリス追加で払ってもいい。」
商人の顔が一瞬驚き、すぐにほころんだ。
「いやはや、本当に見事な商人魂。参りましたよ。」
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金銭の受け渡しが済むと、商人は屈強な男たちを数人呼び出し、俺の部屋まで浴槽を運んでくれた。
そのうちの一人が、なぜか俺にちょっかいをかけてきたのは、まあ…忘れられない出来事だ。
「悪いけど、俺にはチンコがついてるから、男は趣味じゃねえよ。」
そう言った時のあいつの顔は、今でも鮮明に覚えてる。
きっと仲間たちにも一生ネタにされるんだろうな。
ともあれ、浴槽は無事に部屋へと搬入された。
搬入代も前もって払っておいたし、彼らに礼を言って、それぞれの道へと分かれた。
…で、俺にはまだまだ買い物リストが山ほど残っている。
一番大きな買い物は終わったので、次は簡単なものから――地図を買うことにした。
これは手間がかからないし、すぐに終わるはずだ。
地図屋の店は小ぢんまりとしていた。
壁には様々な種類の地図がずらりと並んでいる。
地理的地図、方位図、空間図、地形図、そして一般用の地図。
地図製作は芸術の一つとされていて、描ける人は少ないが、その分、儲かる仕事だった。
店内の奥、四角い作業台の前に一人の老人がいた。
大きな羊皮紙に羽ペンでカリカリと線を引き続けている。
まったく、客が入ったことにすら気づいてない様子だ。
俺は構わず、壁に並ぶ地図を見て回った。
目的は、ネヴァリアとその周辺にある自然地形の情報が網羅された一般用の地図。
地図はだいたい地上から一メートルの高さで展示されており、その下の棚には同じ内容の地図が巻物として収められていた。
おそらくサイズ違いだろう。
一番詳細な地図の中から、持ち歩きやすいサイズの巻物を選び、歩きながら中身を確認。
そのまま老人のもとへと向かった。
……まだ気づいてないらしい。
「この地図を買いたいんだが。」
声をかけると、ようやく羽ペンの動きが止まり、老人は顔を上げた。
虫眼鏡のような巨大なレンズ付きの眼鏡が、彼の小さな目を妙に大きく見せていた。
地図職人特製の拡大鏡――細部を描くためには、ああいうのが必要らしい。
彼はじっと地図を見てから、短く答えた。
「五百ヴァリスだ。」
交渉の余地はなさそうだった。
俺は素直に五百ヴァリスを渡し、彼は金を受け取るとすぐにまた羽ペンを動かし始めた。
「愛想のないジジイだな…」
そう呟きながら、俺は店をあとにした。
今回もまた一章をお届けします!本当はもっと早く投稿したかったのですが、今日はなんと――万博に行ってきました!すごく楽しかったです!各国のパビリオンは本当に見応えがあって、特にJALの「SkyDrive」に心を奪われました。
見たことありますか?空飛ぶタクシーなんですよ!いつか、あれに乗ってみたいなぁ…。
ちなみに、明日は奈良に行く予定です!次の章もできれば朝早くに投稿したいと思ってます!
奈良に住んでいる方へ――もしエヴァンゲリオンのTシャツに、イクミのスウェットパンツを履いて、鹿にお辞儀している変なアメリカ人を見かけたら、それはたぶん僕です(笑)。
日本語はまだまだですが、全力でがんばって話しますので、ぜひ声をかけてくださいね!