楽園の問題
汗が体中を太い筋となって流れ、重り付きの服に染み込んでいく。呼吸は荒く、息を吐くたびに肩が上下する。激しい速度でパンチやキックを繰り出すたびに筋肉が痛みで悲鳴を上げていたが、それでも俺は決して手を止めなかった。
昨日、無事にオークションが終わったばかりだった。図書館での勤務は午後遅くからだったので、まだ時間はあった。今は昼過ぎで、太陽は空高くにあった。
俺は朝からこの空き地にいた。ここは以前、フェイと一緒に訓練した場所でもある。拳を振るうたびに汗が飛び散り、肺の中の空気を吐き出しながら、胴をひねって全体重を乗せて打ち込む。
二歩前に踏み出してからパンチを繰り出し、次にキック。影を相手に見立てた“シャドースパーリング”だ。誰がそう呼んでいたかは思い出せない。足を地面に擦りつけながら砂利を動かし、土の上に模様を描く。左脚を上げて回転し、見えない敵にかかと落としを叩き込む。
足を地面に叩きつけて踏み直し、さらに二歩踏み込み、腕を胴体に引き寄せてから前方に突き出す。掌から吹き出した空気が、地面から舞い上がった埃や落ち葉を散らす。これは霊力によるものではない。ただ、両腕にかかった負荷と俺自身の筋力が生み出した結果だ。
深く息を吸い、姿勢を正して両手を体側に下ろす。肩で息をしながら空を見上げると、太陽は思っていたよりもずっと西へ傾いていた。
「うっ……スパーリングに時間をかけすぎたな。急いで体を洗って行けば、なんとか図書館に間に合うだろう」
この場所から数分歩いたところに小さな水場がある。大きくはないが、体を洗って着替えるには十分だった。空き地を一瞥してから、俺はその水場へ急いだ。
フェイは今日は来なかった。
数日前の出来事を考えれば、彼女が姿を見せなかったのは驚くことではなかった。むしろ当然だと思っていた。たとえ俺が真実しか語っていなかったとしても、心は痛んでいた。冷たい言葉で、俺は友情すら壊してしまったのかもしれない。
体を洗って着替えを済ませたあと、俺は図書館へと歩きながら、昨日のことを避ける方法がなかったかと考えていた。しかし、何も思いつかなかった。ステリスが結婚の話を持ち出した時点で、俺に選択肢はなかった。真実を伝えるしかなかった。フェイをそのまま勘違いさせて希望を抱かせることこそ、何よりも残酷だっただろう。ならば、今傷つけるほうがマシだ。
「はあ……」と俺はため息をつき、胸元をさすった。感じていた痛みは物理的なものではなかったが、それでも痛みだった。
図書館に到着し、ナディーンさんと交代すると、俺はひたすら仕事に没頭した。フェイのあの絶望的な表情を思い出さないようにするために。本を整理し、利用者の手助けをし、必要なくても掃除をした。とにかく、手を動かし続けることで、考えないようにしていた。
「エリック?」
背後から声をかけられ、俺は一瞬だけ硬直してから振り返った。
カリは淡いピンク色の肩出しドレスを着ていた。上からは肩を覆うマントを羽織っている。ドレスはやや短く、太ももの中ほどで止まっていたが、彼女は白いストッキングを履いていた。ドレスの裾とストッキングの間には、彼女の陶器のような肌がわずかに露出している。その装いは、前面にレースアップが施されたブーツで完成されていた。
「カリ…」
「どうしたの?」
カリは首をかしげながら俺を見つめてそう聞いた。
「それは――」
「“なんでもない”じゃないでしょ。」
俺の言葉を遮るようにカリが微笑んで言った。
「もうあなたのことは十分わかってるつもりよ。何か悩みがあるときのあなたって、すぐにわかるもの。さっきも、あなたに声をかけてから六分間も反応がなかったのよ? それが“なんでもない”わけないでしょ?」
そう言って彼女の瞳が優しくなる。
「話してくれない?」
彼女に今の悩みを話すことに躊躇した。話せば、俺の想いが彼女に伝わってしまうかもしれない。俺たちはとてもいい関係を築けていた。間違いなく“友達”としては最高だった。けど――俺が彼女に恋をしていると知ったら、どう思うだろう?
前の人生で、カリが俺に恋をしたのはいつだっただろう? 彼女が結婚するという話をした時、俺は感情に任せて彼女にキスしてしまった。あの時、彼女も俺を愛しているとわかった。でも、それは六ヶ月も一緒に過ごした後のことだ。
今回は、まだ一ヶ月半も経っていない。
今、彼女は俺に好意を持ってくれているのか? それとも、俺が自信を持てるまで待つべきなのか?
「俺は……」
「無理に話さなくてもいいよ。」
俺の様子に気づいたカリがそっと言葉を添えた。
「あなたが話す気になった時に、話してくれたら嬉しい。でも……もし私にできることがあるなら、あなたの力になりたいの。」
彼女の優しい表情と、真剣な青い瞳に、俺は抵抗する意志を失いかけた。
俺は心の中でため息をつく。
カリに「ノー」と言えたことなんて……たぶん一度か二度あるかないかだった。
「上で話そうか。」
俺は静かにそう言った。
カリの瞳が一瞬見開かれる。だがすぐに頷くと、俺の手を取って引っ張り始めた。周囲の視線をものともせず、彼女は俺を階段へと連れて行き、二階の奥にある長テーブルの前で立ち止まった。
「ほら、座って。」
彼女は俺の肩を軽く押して座らせると、自分のマントとドレスを整えてから隣に腰掛けた。
「それで、何がそんなに悩ましいの?」
カリは心なしか、少し楽しげな様子で聞いてきた。……もしかしたら、俺の悩みを聞くことにちょっとテンション上がってないか? まあ、嫌じゃないけどさ。正直、嬉しかった。
俺は深いため息を吐いた。
「友人の父親から、その娘と結婚してくれって言われたんだ。」
「なっ……!?」
カリは立ち上がり、テーブルに両手を叩きつけた。俺は思わず目を見開いて彼女を見た。彼女の顔は真っ赤に染まり、目も大きく見開かれていた。
すぐに自分が取り乱したことに気づいたのだろう。
カリは咳払いをしながら腰を下ろし、落ち着いた声で言った。
「その……誰かと結婚を考えてるなんて、全然知らなかった。」
「考えてないよ。」
俺は無表情で言った。
「それは、あくまで向こうの父親の提案で、俺が言い出したことじゃない。」
「そ、そうなんだ……」
カリの頬がほんのり赤く染まる。
「じゃあ……その子と結婚するつもりはないの?」
俺は首を横に振った。そのわずかな動作の間に、考えを整理して口を開いた。
「彼女が魅力的じゃないとか、結婚相手として考えられないってわけじゃない。状況さえ違っていたら、俺はたぶんその話を受けてたと思う。彼女は素晴らしい人だし、美人だし、尊敬している。でも――結婚はできない。」
「どうして?」
カリは唇を噛み、ドレスをぎゅっと握りながら尋ねた。
「だって、俺は他の誰かを愛してるから。」
それを言いながら彼女を見つめるのは危険だとわかっていた。でも、俺の視線は揺らがなかった。カリの瞳としっかり見つめ合いながら、俺はその想いを口にした。彼女の目が大きく見開かれる。
「そ、そう……」
「ああ。」
俺は自嘲気味に笑った。
「その友達は今、辛い状況に置かれてる。誰かが彼女の家族に圧力をかけて、ある家の跡継ぎの“第二夫人”として嫁がせようとしてるんだ。彼女の父親は、たぶん彼女が俺のことを好きなのを知ってて、俺と婚約させればその縁談を断る理由になると思ったんだろう。でも、俺はできない。彼女と結婚しても、それは結局、愛のない結婚をもう一つ増やすだけだから。」
俺は黙り込んだ。
ファイと結婚した場合のことを考えると、どうしても心が重くなった。それは、彼女がグラント・ロイヒトと結婚するのと何ら変わりはない。想いを返せない相手と結婚させられる――それを許すことなどできなかった。
……まして、その相手が“俺”だなんて。そんなの、余計に耐えられない。
俺には、彼女をそんな目に遭わせることなんてできなかった。
「その友達のこと、本当に好きじゃないの?」
カリが問いかけてきた。
俺はカリに向かって眉をひそめ、口を開いて「もちろん違う」と言おうとした――だが、直前で言葉を飲み込んだ。
ゆっくりと口を閉じ、自分の気持ちを改めて見つめ直す。
カリは静かに俺の様子を見守っていた。少し寂しげな笑みを浮かべながら。
「……たとえ、もし俺が彼女に想いを抱いていたとしても……一緒にはなれない。」
俺は一語一語慎重に言葉を紡ぎながら話す。これは、それほど大切なことだった。
「たとえ何を感じていたとしても――俺には、もっと大切な人がいる。誰よりも、命よりも、大切な人だ。その人がいないと、俺の人生は成立しない。だから、どんなに申し訳なくても……彼女の気持ちには応えられないんだ。」
俺は再びカリを見つめていた。
彼女は、俺の言葉に少しずつ気づき始めたようだった。視線も言葉も重くなっていたし、俺は一度も彼女から目を逸らしていない。
……さすがに、もう気づいたはずだ――俺が誰のことを愛しているのか。
カリは俯いてテーブルに目をやる。
その頬は、まるで「霊火術」で火照っているかのように赤く染まっていた。
視線を逸らしたくなったが、俺は逸らさなかった。
怖かった。彼女がどんな反応をするのか……何を言うのか。でも、それでも俺は見続けた。
「その……あなたが愛している“その子”って、どんな子なの?」
「金の糸のような髪と、透き通るような青い瞳を持った、息を呑むほど美しい少女だ。」
俺は彼女の問いに、少し冗談っぽく答えた。
「どんな服を着ていても――全身を隠すマントでも、黄金で編まれたドレスでも――彼女はいつだって俺の心を奪ってしまう。」
カリは恥ずかしそうに身を縮めた。だが、俺は続ける。
「冒険小説に夢中で、遺跡を巡り、新しい世界を見てみたいってずっと言ってる。でも、彼女の家はとても厳しくて、ネヴァリアから出ることすら許してもらえない。それでも俺は、彼女と冒険について語るのが大好きだ。それに……彼女はとても強い。俺が知っている誰よりも、ずっと強い。」
……さすがにちょっと言いすぎかもしれない、とは思った。
でも、一度話し始めた気持ちは止められなかった。
これまでの九十六日間、つまり一ヶ月半――ずっと胸の内に秘めていた想いだ。ここまで来てしまったら、もう抑えるなんて無理だった。
「……でも、その子はたぶん、そんなに強くないと思う。」
カリが小さな声で言った。耳まで真っ赤だ。
「だって、本当に強かったら……とっくに家を抜け出して、冒険に出てるはずだもの。」
「それは違う。」
俺は意を決して、そっとカリの手に手を重ねた。
カリは驚いて飛び上がったが――その手を引っ込めることはなかった。
「彼女はとても強い。自分では気づいていないだけで……本当は、誰よりも強いんだ。その強さに、彼女自身が気づいたとき――俺は彼女と一緒に遺跡を巡って、世界を旅するつもりだ。」
「エ、エリック……」
カリの瞳が、まるで宝石のように輝いていた。
俺はよく、彼女の瞳を“宝石のよう”だと表現していた。強い感情を抱いた時、カリの瞳はいつもよりもずっと鮮やかになって、まるで純粋なサファイアのように輝くからだ。
「……気持ちに応えてほしい、とは言わない。」
自分が見惚れているのに気づいて、俺は慌てて視線を逸らした。
「ただ……どうしても、気持ちだけは伝えておきたかった。」
カリは、俺の顔を見つめた後、自分の手――今も俺の上にある手を見下ろす。
そして、もう一方の手をそっと重ねた。
カリって、ドジなときは本当に可愛いよな。