オークションの終焉
「45,000ヴァリス!」
「55,000ヴァリス!」
「62,000ヴァリス!」
Aランク霊術の入札価格が、俺が霊術学院長に売った時の金額を超えていくのを見て、思わず頭を振った。それだけでなく、価格はまだ上がり続けていた。
「65,000ヴァリス!」
「73,000ヴァリス!」
今や入札はすべてバルコニー席、つまり貴族や有力者たちが座るVIP席から行われていた。誰がどのバルコニーにいるのかまでは分からなかったが、少なくともルヒト家のバルコニーの位置だけは覚えていた。現在、そのバルコニーと、もう一つの威厳ある女性の声が響く席とで入札が激しく競り合っていた。
「76,000ヴァリス!」
「80,000ヴァリス!」
『五指火鞭』は、俺にとっては全く使い道のない霊術だった。俺には火属性の適性がないから、使うことすらできない。それに、俺の戦闘スタイルにも合わない。扱うには繊細なコントロールが求められるし、俺はそもそも戦闘中に鞭を使うのが好きじゃない。
だが、Aランク霊術はそれだけで価値がある。他人の注目を集めるには十分すぎる代物だ。たとえ強者が集うミッドガルドであっても、これほどの霊術は垂涎の的だ。
「120,000ヴァリス!」
その冷たく威厳に満ちた女性の声が響いた瞬間、思わず我に返った。カーテン越しで姿は見えなかったが、俺はそのバルコニーをじっと見つめた。
――いつの間に、そんな額まで跳ね上がったんだ…!?
「現在、120,000ヴァリスです!」
ステリスは興奮を抑えきれない様子で叫んだ。霊術がこれほどの高値で売れるのを見て、明らかに嬉しそうだった。まあ、俺も同じだ。
「他に入札はございませんか?…では、Aランク霊術『五指火鞭』は、ヒルダ・アストラリア皇妃陛下に落札されました!」
その言葉を聞いた瞬間、俺は目を見開き、反射的にそのバルコニーへと顔を向けた。
あの溶岩すら凍らせそうな声の主が…ヒルダ皇妃だったのか?
まったく知らなかった。名前は当然知っていたが、前世では一度も会ったことがなかったし、声すら聞いたことがなかった。
だが今、その声がカリの母親のものだと知った今、確かに似ていると感じた。
その声色は冷たく、堂々としていて、カリの礼儀正しくも温かみのある話し方とは正反対だ。だが、声の高さや音の響きには、確かに共通するものがあった。
「これをもちまして、オークションは正式に終了となります」
ステリスは両腕を大きく広げ、場を包み込むようなジェスチャーをした。
「落札された方々は、裏手の部屋までお越しください。必要であれば、案内の者を差し向けます。他の皆様、本日はご参加いただき、誠にありがとうございました」
オークションが終わると同時に、下の観客席は一斉にざわつき、人々が立ち上がって出口へと向かっていった。興奮した声があちこちから聞こえてくる中、俺はそのまま椅子に座っていた。VIP客たちが先に退席するのを待っていたのだ。別に俺の顔を見たところで誰も気にしないとは思うが――それでも、十七歳の若者がバルコニー席を一人で占有していたら、それなりに目立つだろう。できれば、そういう注目は避けたかった。
俺はまだ自分自身を守れるほどの力がない。だからこそ、力を得るまでは目立たずに過ごすのが最善だ。
どれほど時間が経ったかはわからないが、やがてドアが開いた。その音に反応して顔を向けると、フェイがバルコニーへと入ってきた。足取りは軽く、明るい笑顔を浮かべていた。オークションが終わって、ほっとしているのだろう。
「舞台の上ではずいぶん緊張してたみたいだな」
俺が軽くからかうと、フェイの足がピタリと止まった。
「だって…あれだけ大勢の人に見られてたら、誰だって緊張するでしょ」
「そうかもな。いや、どうだろうな。俺はあの場に立ってなかったから、実際のところは分からないけど」
頬をぷくっと膨らませるフェイの様子に、これ以上からかうのはやめておいた。
「落札者たちの引き渡しはもう終わったのか?」
「終わったわ。最後の落札者――ヒルダ皇妃様も、数分前にお帰りになったところ」
「だから迎えに来たのか」
「そう。まだここにいるだろうと思って」
「よく分かってるな」
冗談交じりにそう言ったが、内心では少しだけ動揺していた。フェイは、俺の性格をよく見抜いている。その事実が、胸の奥に小さなざわめきを生んだ。同時に、どうしようもない罪悪感のようなものも湧き上がってくる。
「もう一ヶ月以上、あなたのことを見てきたんだもの」
フェイは微笑みながら言った。
「俺のことを見てたのか?」
思わず眉を上げると、フェイの顔が一気に真っ赤になった。
「そ、それは…その…べ、別に…! もういいから行きましょ。父が待ってるの。あなたの取り分を渡さないといけないから」
「そうか…」
それ以上は突っ込まず、彼女の言葉を受け入れることにした。今さらどうこう言っても仕方ない。
フェイに導かれてバルコニーを出ると、廊下を通って階段を降り、一階の奥へと進んでいった。奥まった小さな通路の先に、扉が一つだけある。
「お父様?」
フェイがノックする。
「エリックを連れてきました」
「入れ」
と、渋い声が中から返ってきた。
フェイが扉を開け、中へと進んだ。俺もその後に続く。
部屋の内装は質素ながら整っていた。装飾は少なかったが、床の石灰岩は丁寧に磨かれており、本棚には本が並び、机の上にはいくつもの大きなヴァリス袋が置かれていた。
ステリスは机の後ろに座っており、俺たちの姿を見るとにっこりと笑った。
「今回のオークションは、なかなかの成果だった」
彼は感慨深げに言った。
「三大天家と比べれば大した額ではないが、ヴァルスタイン家がしばらく生き延びるには十分すぎる金だ。錬金協会との取引が正式に始まるまでの繋ぎとしては、これ以上ない結果だな」
「それは何よりです」
俺も微笑みながら応じる。
「今、錬金協会の錬金術師たちは、今回オークションに出した薬のいくつかをすでに製造できる状態です。数日もすれば、本格的に量産体制に入れるでしょう」
「よし、よし」
ステリスはうなずきながら、少し大きめの金袋を手に取り、俺に差し出した。
「これは今回のオークションで君が得た報酬だ。取り分の六割――77,900ヴァリスになる。中身が正しいかどうか、ここで数えてくれても構わんよ」
俺は袋を受け取りながら、そっと首を横に振った。
「あなたはフェイの父親ですから、信用します」
男は笑った。
「娘に対して、かなりの信頼を寄せているようだな。いいことだ。…君のこと、私は気に入ったぞ。頭も良さそうだし、強さもある。どうだ、うちのフェイと結婚してみないか?」
「ちょっ…と、父さん!? 何を言ってるの!?」
フェイはまるで魔獣に突き飛ばされたかのような表情で叫んだ。
「何をそんなに慌ててる?」
ステリスはまるで当然のことのように返した。
「この少年は、あのグラント・ロイヒトなんかよりずっといい。彼と結婚してくれれば、ロイヒト家との婚姻話もきれいに断れる。私としては有望な後継者が得られるし、お前は好きな相手と一緒になれるし、ロイヒト家に無理を押しつけられる心配もなくなる。まさに一石三鳥ってやつだ」
俺はフェイの方へ目を向けた。彼女もそれに気づいたのか、視線を逸らしながらも、何度も俺の方をちらちらと見ていた。その目には、淡い期待のような光が宿っていた。それが、これから口にしようとしている言葉を、さらに言いづらくしていた。
「すみません」
俺は視線を逸らしながら口を開いた。
「けれど…フェイとは結婚できません」
俺の言葉を聞いた瞬間のフェイの顔は、心の奥をえぐるような衝撃を与えてきた。表情には出さなかったが、心が強く揺さぶられたのは確かだ。それでも、これは彼女のためでもあった。俺は、彼女が望む未来を与えることはできない――そう、自分に言い聞かせていた。
「理由を聞いても構わんか?」
ステリスは表情を崩さず、静かに尋ねてきた。
「もう心に決めた女性がいます」
俺は息をつきながら答えた。
「フェイと結婚してしまえば、彼女に対して不誠実になる。それに、フェイにだって相応しい相手がいるはずです。誰かに本気で愛されて、幸せになれる相手が。俺では、それを与えることはできません」
俺は人生のすべてを、たった一人の女性に捧げてきた。たとえ時を遡ったとしても、それが変わることはない。
フェイを、心から愛せないまま傍に置くのは酷だ。ましてや、カリがそのことをどう思うかも分からない。特に、今ロイヒト家の継承者との婚約を無理やり進められそうになっている最中に、俺が彼女と同じことをするなんて、到底許されることではない。
「…そうか」
ステリスは重いため息をついた。
「仕方ないな…それが君の本心なら、無理強いはできん。ただ、正直言って残念ではある。君とフェイなら、きっといい夫婦になれただろうに」
その言葉は、腹を槍で貫かれたかのような痛みをもたらした。俺だって、フェイとならうまくやっていける未来を想像できてしまうのだ。それでも、心に芽生えそうな情を、俺は無理やり押し潰した。
たとえ彼女と相性が良くても、たとえ彼女を尊敬し、好意を持っていても――
俺の心は、すでに別の女性に捧げられている。
裏切るわけにはいかない。そして、フェイを愛されないままの結婚相手として縛りつけるような真似も、絶対にしない。
ロイヒト家の圧力からフェイを救うために、俺はすでに多くのことを動かし始めていた。
その俺自身が、フェイを追い詰める存在になってどうする。
フェイの方をもう一度見ると、彼女の瞳には今にも溢れそうな涙が滲んでいた。しかし、その一滴もこぼれることなく、彼女は必死に耐えていた。その姿を見て、胸の奥が震える。
…もうここにいてはいけない。そう思った。
「ごめん…」
俺はフェイに小さく呟いて、踵を返し、部屋を後にした。
屋敷への帰り道、俺の脳裏にはフェイのあの表情が焼きついて離れなかった。
他の女性に想いを寄せていると告げたときの、彼女の顔。
認めたくなかった。
けれど――
あの時のフェイの瞳に浮かんだ涙を思い出すたび、心が揺らいでしまいそうになる自分が、確かにそこにいた。
この章は前のものより少し長くなりましたが、これでオークション編は一区切りです。
楽しんでもらえたなら嬉しいです。