霊技の巻物を売る
ネヴァリアの賑やかな街を霊術士学院へ向かって歩きながらも、胸の鼓動は未だに収まらなかった。まさか、あんなに早くカリと再会するとは思わなかった。彼女が生きているのを見て、安心感と同時に胸を引き裂くような感情の嵐に襲われた。それはまるで、心臓が肋骨から飛び出そうとしているかのような痛みだった。
頭を振って感情を振り払い、簡単な呼吸法で心を落ち着ける。
霊術士学院はネヴァリアに存在する建造物の中でも最大規模を誇っていた。あの平らな山の上にある皇宮よりも大きい。建物はすべて石造りで、まるで要塞のような威圧感があった。学園を囲むように多数の尖塔が建ち並んでおり、それぞれの塔を二百人以上で囲まなければ抱えきれないほど巨大だった。そして何よりも目を引くのは、広大な敷地に広がる巨大な城のような校舎だった。
誰でも霊術士学院には入ることができる。正門を抜けると、色とりどりの花が咲き誇る広大な庭園に沿って道が続いていた。だが俺は花を眺める余裕などなかった。今は任務中だ。
学院の巨大な扉はすでに開かれていたので、そのまま中へと足を踏み入れる。そこは広いエントランスホールだった。石造りの床が奥へと広がり、無数の扉や、どこに繋がっているのかわからない階段があちこちに伸びている。実を言えば、人がいる時間帯にここへ来たのは初めてだったので、何をすればいいのかわからなかった。
だが幸運なことに、俺のような来訪者のために配置されたらしい人がすぐ近くにいた。
「いらっしゃいませ、お嬢様。学院への入学をご希望ですか?」
茶髪の地味だが愛想の良い女性が、にこやかに声をかけてきた。
「申し訳ありませんが、入学できる年齢は通常十二歳から十四歳までと決まっておりますので…お嬢様は少し年齢が…」
右目がピクッと痙攣した。
「まず最初に言っておくが、俺は『お嬢様』じゃない。男だ。性別を間違えないでいただけるとありがたい。」
「まあ! 申し訳ありません、若旦那様…」
その女性は口元に手を当てて、慌てた様子で謝罪する。
「それと、俺は入学しに来たんじゃない。」
俺は話を本筋に戻すように続けた。
「実は、最近霊技と思われる巻物を手に入れてな。霊術士学院がこういった物に関心を持っていると聞いたので、鑑定してもらいたくて来た。それと、もし可能なら売却も検討している。」
「霊技の巻物だと?」
女性は驚いたように目を見開いたが、それをすぐに笑顔で取り繕った。「それでは、少々お待ちいただけますか?私にはその巻物を鑑定する知識がございませんので、学院の講師をお呼びしてまいります。」
「了解した。ここで待たせてもらう。」
俺はそう返事をした。
「ありがとうございます。」
彼女が足早に立ち去ったあと、俺は近くの壁まで歩いていき、腕を組んで背中を預けた。この広間には人の数はそれほど多くなかった。時折、隣接する扉から誰かが出てきたり、部屋の向こう側の階段を下りてくる者もいた。だが、誰一人として俺に話しかける者はいなかった。視線を向けられるだけだ。まるで俺が何か珍しい生き物ででもあるかのように。
ようやく、さきほどの女性が一人の老人を連れて戻ってきた。
その男は派手な紫がかったチュニックを身にまとい、杖を片手に持っていた。少し赤ら顔で、大きくて丸い鼻をしている。髪はすべて白く、額は後退していて、見た目はかなりの年寄りだった。
だが――霊感を使ってその男の実力を探った俺は、すぐに気づいた。この男、見た目に反してなかなかの使い手だ。体内には霊力がしっかりと流れている。俺の基準でいえばそこまで強くはないが、Cランクの魔獣くらいなら簡単に倒せる実力はあるだろう。
俺はそっと気配を消す《気配遮断》を使いながら、壁から離れて二人に向き直った。
「私はインフィル・ドゥエンダス。霊技の巻物を所持していると聞いたが、間違いないかな?」
「はい。」
俺はチュニックの袖から巻物を取り出した。「これがそうだ。」
「見せてもらってもよろしいか?」
インフィルは手を差し出してきた。
俺は無言で巻物をその手の上に乗せた。彼はそれを受け取ると、じっと観察し始めた。
一般的な霊技の巻物は、時間の経過によって黄ばんで擦り切れたような見た目になる。俺はわざと少し古びた質の羊皮紙を買って使っておいた。外見から少しでも歴史があるように見せかけるためだ。
男は表面を眺めながら、明らかに年季の浅さに気づいた様子だったが、それと同時に何か別のものにも感づいたのか、目をわずかに見開いた。
「これは…確かに強力な霊気が宿っていますな。」
彼はそう判断を口にした。「とはいえ、これが本当に霊技であるかどうかは、まだ確認できません。中身を拝見してもよろしいですか?」
「どうぞ。」
俺は手で促した。
インフィルはうなずくと、巻物を結んでいた紐をほどき、中身を広げた。俺は彼の動きを観察しながら、じわじわと大きくなっていくその目に注目した。最終的には、これ以上開かないんじゃないかというくらい見開いていた。
…そこまで驚くか?
俺が反応する前に、彼は巻物を丁寧に巻き直し、俺の方へと視線を戻してきた。
「これは間違いなく霊技の巻物です。」
興奮を隠しきれない声で彼は言った。「しかも、かなりの高位技術と思われます。この巻物の真の価値を見極めるために、学院長にも鑑定していただきたい。ご同行いただけますかな?」
少し考えてから、俺はうなずいた。「構わない。」
「では、ついてきてください。」
そう言って男は向きを変え、別の階段へと歩き出した。それは先ほど通ってきたものとは異なり、外壁に沿ってらせん状に続いていた。一定の高さまで登ったところで、彼は脇にある扉を開けて広い廊下へと進んだ。
今日は授業がないようで、廊下にはほとんど人影がなかった。
もし授業があったのなら、カリは図書館になんていなかったはずだ。
彼女が十四歳のときから四年間、貴族の子弟としてこの学院に通っていたという話を聞いたことがある。
やがて俺は大きな扉の前まで案内された。
外見こそ他の扉と大差なかったが、サイズだけは別格だった。
インフィルがその扉を一度、コンコンと叩いた。
「誰だ?」
反対側からは年老いた男の声が返ってきた。
「インフィルです。」
老師はちらりと俺に目を向けた。
「こちらの若者が、なかなか興味深い霊技の巻物をお持ちでして。鑑定および譲渡の相談に来られました。」
しばしの沈黙。
「入れ。」
扉を開けると、インフィルが手で促してくる。
俺はそのまま彼に続いて部屋へと入った。
部屋の中は思ったよりも狭く感じられたが、それはおそらく物が多すぎるせいだろう。
天井からは鳥型の魔獣の骨格が吊るされており、壁際には本があふれ返るほど詰まった本棚が並んでいた。
部屋の中央には噴水のようなものが設置されていて、その中では透明な液体がまるで生きているかのように波打っていた。
部屋の最奥にいたのは、インフィルよりもさらに年老いた男だった。
深く刻まれた皺に包まれたその顔は、まさしく“老賢者”と呼ぶに相応しい風格を放っていた。
純白の髪が乱れるままに流れ落ち、黒地に金の文様が刺繍されたチュニックを纏っている。
その金の文様はルーンのようだったが、機能性はなさそうだ。
衣類に有効なルーンを刻める者など、世にどれほどいるか――限られている。
男は本を読み込んでいたようだったが、俺たちが入室すると、顔を上げた。
縁なしの眼鏡越しに、薄く濁った水色の目がこちらを見据えてきた。
その下には立派な白髭がたっぷりと蓄えられていた。
老人の目はまずインフィルに向けられたが、すぐに俺の方へと流れた。
その瞬間、霊感による探査が俺を包み込んだ。
まるで体中に薄い油膜が張られたような感覚。
だが俺はすでに〈隠密〉を使っていたため、内心ほっと胸を撫で下ろした。
「霊技の巻物があると聞いたが?」
老人は再び視線をインフィルへ戻しながら、低く問うた。
「はい、こちらです。」
インフィルは数歩前に出て、机の上に巻物を置いた。
その机の上は様々な雑貨で溢れていたが、彼は迷いなくその一角に置いた。
「非常に強力な霊技のようですが、私の知識では評価が難しく…」
学院長は巻物を一瞥し、皺だらけの手を伸ばしてそれを取ると、器用な手つきで巻物を開いた。
俺は黙って一歩下がり、彼が読み込む様子を見守る。
学院長は読んでいた本の上に巻物を広げ、内容に目を走らせた。
次第にその眉間が寄っていき、数秒後、驚きの声が漏れた。
「こ、これは……!」
「どうかされましたか?」
インフィルが身を乗り出して問う。
学院長は深く息を吸い込んだ。
「間違いない。これは強力な霊技の巻物だ。
雷属性のAランク霊技――《雷刃》だ。」
「A、Aランクの雷霊技ですって?!」
インフィルは目を見開き、思わず声を裏返らせた。
「若者よ、この巻物……どこで手に入れた?」
学院長が再び俺に視線を向ける。
彼の霊感が再度俺を撫でた。
今度はまるで頭上から生卵を落とされたような、ぬるりとした感触だった。
「家族が遺した古い荷物を整理していたら、封印された箱の中から偶然見つけました」
俺は即座にもっともらしい嘘を口にした。
「家伝の霊技というわけか…」
学院長はぽつりと呟いた。
「君の家はどこの出身だ?」
俺は肩をすくめて答えた。
「分かりません。俺は孤児です。その箱もずっと手元にあったもので、たぶん家族の遺品だと思いますが…」
学院長は俺の言葉に眉をひそめ、まるで嘘を見抜こうとしているようだった。
その間にも、俺の頭の中では別の疑問が渦巻いていた。
――そんなに騒ぐほどのことか?
Aランクの霊技は確かに強力だが、俺がかつて創設した《ブレイブ・ヴェスペリア宗》には、Aランクの霊技なんていくらでもあったぞ。
……まあ、ほとんど俺が自分の元素操作を基に創作したものだったし、
テストにはカリや他の仲間も協力してくれていたけど。
それでも、この学院にだってそれくらいの技はあるだろう――そう思っていた。
「まあ、いずれにしてもこれは非常に貴重な霊技の巻物であることは確かだ」
学院長はそう言って、俺に向き直った。
「君はこれをヴァリスに交換したいのだな?」
「ええ。最近ちょっと生活が厳しくて、何か手っ取り早く稼げる方法を探していたところでして」
俺は適当な理由をつけて答えた。
学院長はもう一度巻物に目を落とし、再び俺の方を見据える。
指を組み、机の上に肘をついて言った。
「これほどの霊技であれば……六万ヴァリスで買い取らせてもらおう」
「ろ、六万ヴァリス!?」
インフィルは仰天したようにその場で気絶しかけた。
俺はその金額がどれほどのものかを頭の中で計算し始めた。
パン一斤が十ヴァリス。ということは、家賃はたぶん三十から四十倍……つまり月に四百ヴァリス前後か。
六万ヴァリスなら、百五十ヶ月分の家賃――
年換算で九ヶ月としても、ざっと十一年分は暮らしていける計算になる。
食費も加味すれば、まあ十年は余裕だな。
頭の中でざっと計算を終えた俺は、小さく頷いた。
「それで構いません」
「では、契約成立だな」
学院長は机の引き出しを開け、ジャラッという音と共に大きな袋を取り出した。
――こんなところに大金を置いてるとは…と一瞬思ったが、次の瞬間、彼は袋から白銀色のプラチナ硬貨を取り出し始めた。
「すみませんが、そのうちいくつかは金貨や銀貨に両替していただけませんか?」
ふと思い出して、口を開いた。
「プラチナ硬貨じゃ日常の買い物に使いにくいもので」
学院長は動きを止め、考える素振りを見せた後で頷いた。
「ふむ、ならば二枚を金貨と銀貨に替えよう。十枚の金貨と百枚の銀貨でどうだ?」
「それで十分です。ありがとうございます」
俺は礼を忘れずに頭を下げると、学院長は五十八枚のプラチナ硬貨を取り出し、その袋をしまった。
そして別の袋を二つ取り出し、それぞれから十枚の金貨と百枚の銀貨を丁寧に取り出して手渡してくれた。
「どうぞ、約束通りだ」
「感謝します」
受け取った金貨と銀貨は、肩掛けの革製コインパースにしまった。
――財布の中身は、今やパンパンに膨れ上がっている。ご機嫌なもんだ。
そのまま俺は再び礼を述べ、二人に別れを告げて学院長室を後にした。
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インファイルは静かに扉が閉まるのを見届けた。若者が完全に姿を消したのを確認してから、彼は机の奥に座る老人――学院長の方へと顔を向けた。
「学院長……」
学院長は手を上げて彼の言葉を遮った。
「言いたいことは分かっている。しかしな、あの技術に払った金は決して無駄ではない。霊術がどれほど貴重かは、君もよく分かっているはずだ」
その口調は落ち着いていたが、どこか熱を帯びていた。
「CランクやBランクの霊術でさえ、二万から三万ヴァリスの価値がある。だが、Aランクとなると、その威力は倍どころか、希少性に至っては百倍にもなる。今現在、この国でAランクの霊術を所持しているのは、三大貴族家とアストラリア皇族だけだ。しかも……」
「しかも?」
インファイルは首をかしげた。
「……いや、なんでもない」
学院長は小さく首を振った。
「とにかく、できればあの若者を監視しておくように。孤児だと言っていたが、あれほどの霊術を所持しているのだ。その出自、只者ではあるまい。もしかすると、“大災厄”以前の古き家系に連なる血筋かもしれん」
インファイルはその言葉に目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻して深く頷いた。
「承知しました。可能であれば、信頼のおける者を選んで監視をつけましょう、学院長殿」
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俺が家に戻ったときには、すでに夜になっていた。霊術の巻物を売る件に、思っていた以上に時間がかかってしまった。
扉を閉め、ブーツを脱ぎ捨て、シャツを引っ張って脱ぎ、ベルトを外してズボンを下ろす。脱いだ衣類はそのまま床に放り投げた。拾い上げる気力なんて、今の俺にはない。
ベッドに顔から倒れ込んだ瞬間――「ぐっ…」と思わずうめいた。ここは、カリと共に〈ブレイブ・ヴェスペリア〉を結成した頃の寝床でもなければ、最初に加入したギルド――〈探索者のギルド〉の宿舎にあったベッドでもない。ただの硬いマットレスに、鼻を思いきり打ちつけたような感触だった。
仰向けになって寝返りを打ち、なんとか寝やすい体勢を整える。だが、眠るのは簡単じゃなかった。
目を閉じたまま、明日の予定を頭の中で整理し始める。買わなきゃいけないものが山ほどある。錬金術セット、風呂桶、薬草と材料、修行用の加重服、ネヴァリアの地図――考えただけでため息が出るほどだ。
……まぁ、それでも今日は、またカリと再会できた。それだけでも、良い一日だったのかもしれない。
今回は色々と準備の段階ですね。
エリックは修行に必要な物資を手に入れるため、お金を集める必要があります。
彼は未来の知識を持ち、かつては最強の霊術師の一人でしたが――今の体はたった十七歳の若き自分。
今の彼は「弱い」と自覚しています。
だからこそ、学院に霊術書の巻物を売るという決断をしました。
ですが、それが学院に怪しまれるきっかけになったかもしれません……。
果たして、目標を達成する前に何かが起こってしまうのか――!?
次回もぜひ、お楽しみに。
ちなみに、今このアフターワードを書いているのは大阪です!
実は大阪に来るのは今回が初めてなんです。東京や京都とはまた違って、すごくリラックスした雰囲気がありますね。