フェイの父との対面
翌朝、俺は久しぶりに風呂に入った。汚れをしっかり落とした後、貴族街の店で買った香り付きの石鹸で身体を洗った。値段は予想より高く、250バリスもしたが、貴族家の当主に会うのだから必要経費だと思った。
体を拭いてから、フェイが買ってくれた服を身に着ける。袖なしのシャツとベストの皺を丁寧に伸ばしながら、鏡がないのが少し残念だったが、フェイとヘレが認めた服だ。女性が認めた服に間違いはない。
ちょうど支度が終わったころ、扉をノックする音が聞こえた。案の定、フェイだった。その日は黒いショートパンツに青のシャツという格好をしていた。シャツはノースリーブで、高い襟が白鳥のような首元を包んでいる。左右の脇で留められており、左胸には縫い目が見えた。袖は長く、手の甲を覆っていたが、シャツにはつながっておらず、肩下に結ばれた金の紐で固定されていた。
深呼吸をして、速くなっていた心拍を落ち着ける。十分に平静さを取り戻したところで、俺は笑顔を作った。
「よく似合ってるな。その服装は、やっぱり俺が父上に会うからか?」
フェイはいつも通りよく頬を染める。その淡い紅潮が、どこか魅力的だった。目を逸らしながら、小さく答えた。
「ま、まあ……そんなところです」
何か隠しているような気もしたが、詮索はしなかった。女には秘密が必要だと、カリがかつて言っていた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
俺はベッドでだらけている蛇に目をやった。
「出かけてくる。留守の間に部屋を荒らすなよ」
蛇は気怠げにシューッと鳴いた。俺は呆れたように頭を振り、錠剤と霊術巻物が入った袋を確認した後、部屋を出て扉に鍵をかけた。
フェイに先導を促し、俺たちは街へと出た。
貿易街に着いた後、フェイは通りかかった馬車を呼び止め、貴族区へと向かうように指示した。馬車から降りて歩き出すと、彼女が案内したのは他の屋敷と似たような荘厳な邸宅だった。
鉄製の大きな門が目の前に立ちはだかっていた。中心には「逆四」という商人が家紋代わりに使う記号が描かれており、その周囲には龍と虎が彫られていた。
「そういえば、お前の家って、商人系の貴族なんだな」
「違います」フェイは首を振った。「確かに商売は多いですけど、我が家は本来、武を重んじる家でした。今では他の貴族、特にレヒト家のような天上家に比べると、戦闘技術も劣っていますけど」
「ふむ……」
「ともかく、ついてきてください」
門の前には若い男が一人立っていた。彼の服の紋章は門に描かれているものと似ており、おそらくヴァルスタイン家の分家筋の者だろう。
俺たちの姿を見た彼は、頬を赤らめながら挨拶してきた。
「フ、フェイお嬢様っ! お、お会いできて光栄ですっ!」
「こんにちは、ケイン。今日は父が会いたがっていた人を連れてきました。門を開けてくれる?」
「も、もちろんですっ!」
ケインは慌てて門を開け、俺たちは中へと入った。門が閉まる音を背に、俺はフェイに向かって言った。
「彼、お前に気があるみたいだな」
「見た目だけです」フェイは少し寂しそうに呟いた。
「でも、お前は確かに綺麗だからな」俺は軽くからかった。
だがフェイは赤面せず、悲しげな笑みを浮かべた。
「綺麗だからって、それだけで好かれても嬉しくありません。本当の私を好きになってくれる人がいいんです」
その言葉に、俺も真剣な表情になる。「分かる。女って大変なんだな」
「覚えておきなさい」フェイは初めてと言っていいほど、得意げな顔で微笑んだ。
屋敷は一棟構成で、かなり広かった。見える窓の数からして三階建てだろう。形は正方形や長方形ではなく、複数の形が融合したような造りだった。中心部は防御用のクレネレーションがある塔で、左右にはL字型の建物が接続されていた。
庭もなかなか見事だった。まっすぐ伸びた道の両側には、小さな庭園や東屋が点在している。ネヴァリアの土地事情を考えると、この規模でも贅沢な部類に入るだろう。
玄関の前には、皺だらけの老人が一人立っていた。年齢は分からないが、相当の高齢だろう。黒の上品なチュニックとズボンを着ており、手袋もしていた。執事かもしれない。
「戻ってきたか。あの少年が、例の人物か」
老人はかすれた声で言った。鋭い目で俺を見つめ、その視線に猛禽のような鋭さを感じた。まるで高山に棲むAランク魔獣――グレーター・ホークライオンのようだ。
「貴様が、我が家を再び栄光に導くという若者か。見たところ、面識はないが……その目はいい。強い意志を感じる」
「えっと……ありがとうございます、多分」 何と返していいか分からず、俺は肩をすくめるしかなかった。
「こちらがエリック・ヴァイガーです」 フェイが手を軽く振って紹介した。
「お会いできて光栄です」 俺は一礼した。
「こちらこそ光栄だ。フェイ嬢にはこの一ヶ月、随分と助けられたと聞いている」 老人はどこか含み笑いをしながら言った。「霊力の詰まりが解消されたと知ったときは、我々一同、心底驚いたよ。しかし、誰がそれを成したのか、フェイ嬢はなかなか教えてくれなかった。お父上は、お前を尾行させようかと考えていたくらいだ」
「お父様は、私の霊路が治ったことさえ数日前まで知らなかったんですよ」 フェイは苦々しい声で返した。「そんな状態で、どうやって私を尾行できるんですか」
老人は彼女に宥めるような微笑を浮かべた。 「お父上も色々と重要な問題を抱えておられる。あまり責めないであげなさい」 フェイが険しい表情を崩さないのを見て、老人は小さくため息をついた。
「とにかく、ヴァルスタイン様はお前との対面を心待ちにしておられる。ご案内しよう」
老人は扉を開けた。中には広々とした玄関ホールが広がっていた。
俺たちは中へと足を踏み入れた。白い大理石の床が輝いていたが、装飾は意外なほど少ない。壁には一枚のレリーフ画が飾られ、柱が天井を支え、中央には控えめなシャンデリアが吊るされていた。
老人に導かれ、俺たちはホール奥の階段に向かった。階段は二手に分かれていたが、そこには行かず、横の扉を抜けて幅の広い廊下へ入った。
「当主様は現在、私室にてお待ちです」 そう言いながら老人は歩を進めた。「ところで、私はベルターンと申します。ヴァルスタイン家の分家の者です」
「ここ、随分静かですね。ほかの人たちは?」 俺が尋ねると、ベルターンは頷いた。
「現在、家を支えるために多くの者が市場で活動しております。オークションハウスが機能していない今、我が家の威信は大きく損なわれており、老若男女問わず、皆が奔走しているのです」
なるほど。それで屋敷内が閑散としていたのか。
それ以上は話さず、俺はベルターンの後に続いた。いくつもの扉を通り過ぎ、何度か曲がり角を曲がった後、ついに一つの扉の前で立ち止まった。
「当主様、ベルターンです。フェイ嬢と、約束された若者エリック様をお連れしました」
「……通せ」 低く重厚な声が扉の向こうから返ってきた。
ベルターンは扉を開き、俺たちに入るよう促した。 「どうぞ」
俺が先に部屋へ入り、フェイがその後に続いた。
部屋は広く、贅沢な応接室だった。長机の周囲には幾つものソファや椅子が並び、一方の壁には書棚が設置されていた。雷属性の魔獣核を使った照明が部屋の各所に設置され、柔らかな光を放っていた。
右手には豪華な漆仕上げの机が置かれ、その上にはいくつかの本が積まれていた。 その机に座っていたのが、ヴァルスタイン当主だった。
彼は大柄ではないが、広い肩幅と厚い胸板、鍛え抜かれた腕を持つ男だった。フェイと同じ赤毛だが、より茶色味が強く、赤銅色といった印象だ。顎には豊かな髭が蓄えられており、黒のローブを纏っていた。そのローブの内側には毛皮が縫い込まれているようだった。
机には彼の大きな手が乗せられていたが、左手のすぐそばには剣が置かれていた。常に戦えるよう準備を怠らぬ姿勢に、俺は自然と身を引き締めた。
「お前が、フェイを助けたという若者か」 扉越しではない声は、まるで遠雷のように重々しかった。 「礼を言うべきかもしれんな」
「礼なんて要りませんよ」 俺は背筋を伸ばした。「俺はあなたのために助けたわけじゃない。フェイを助けたかったから助けただけです」
「ずいぶんと生意気なガキだな」
男は腰を上げ、全身を現した。
俺は十七歳にしては背が高い方だった。同年代で俺の背丈に並ぶ者はいない。 だが、この男は俺よりも頭一つは高く、肩幅もがっしりしていて、圧倒される体格だった。
「礼が不要というなら、言わんでもいいだろう」 男の緑の瞳が鋭く光る。
「父様!」 フェイが驚きと怒りを込めて声を上げた。
「何だ」 父親は肩をすくめた。「本人が要らんと言ったんだ。なら、言う必要もあるまい」 その目が鋭く俺に向けられ、底知れぬ意志が宿る。「それに、お前の目的は感謝を受けることではなかろう?」
「その通りです」 俺は頷いた。
「フェイの話では、お前がオークションハウスを立て直せる品を持っているらしいな」
言葉には出さなかったが、その意味は明白だった。
俺は机に歩み寄り、持ってきた袋の中から瓶を一つずつ取り出していった。男の目が興味に輝き、全神経を注いで俺の動きを追っていた。
「だが、この丸薬だけでは貴族たちの興味を引くには弱い。もっと大きな目玉が必要だ」
俺の口元が緩んだ。「分かってます。それも用意しています」
俺は山羊皮の巻物を取り出し、男に手渡した。
「これはAランクの火属性術『五指炎鞭』です。火の鞭を五本生成し、鋼鉄をも溶かすほどの高温で敵を焼き払います。熟練すれば、温度と密度を調整し、殺傷力を抑えることも可能です」
男は巻物を読みながら、その目に明らかな欲望の色を宿した。
「……これが本物なら、間違いなく貴族たちは血眼になるだろうな」
「それが狙いです」俺は素直に認めた。
「確かに、我が家には大きな助けになるだろう。ただし、これは一時しのぎに過ぎん」
「それも承知の上です。ですから、このオークションが成功した暁には、錬金術協会との提携もご検討いただければと思っています」
(中略:提案と説明)
「我が家の商隊と錬金術協会が連携できれば、確かに新たな収益の道になるな」
男は俺に手を差し出した。
「俺の名はステリス・ヴァルスタイン。よろしく頼むぞ」
「エリック・ヴァイガーです。こちらこそ、よろしくお願いします」
俺たちは力強く握手を交わした。
「最後に一つ、聞きたいことがある」
「なんですか?」
「……娘のこと、どう思ってる?」
「父様!」 フェイの顔が爆発しそうな勢いで真っ赤になった。
エリックとステリスの間で取引が成立した。しかし、それがステリスがエリックに娘を譲ることにつながるかどうかは、また別の話である。