新しい服
バルスタイン家が服飾店を経営していることを知ったのは、フェイが「今すぐ服を選びに行こう」と言い出した時だった。図書館の仕事までにはまだ数時間あったから、まあ先に済ませてしまってもいいかと考えた。
フェイに導かれて、俺はネヴァリアの混雑した街を進んだ。数キロの道のりを馬車で移動したあと、下車してからは徒歩での移動となった。すでに自分がどこにいるのか分からなくなっていた。俺が住んでいる北端の貧民街からは随分と離れている。
ネヴァリアの都市構造を意識したのは、これが初めてかもしれない。北門に近い貧民区、東西の門へは徒歩で八時間、馬車なら二時間。そこから南へ進めば皇宮。そして今、俺たちが向かっているのは――貴族区だった。
そこは、まさに贅沢の象徴だった。数千平方メートルを誇る屋敷が高い壁に囲まれ、それぞれが街から隔絶されていた。レンガで積まれた壁の上からは、荘厳な屋根や幾つもの尖塔が空へと突き出ているのが見えた。
屋敷だけではない。この区画には、貴族専用の商店も立ち並んでいた。看板には絵ではなく文字が記されている。これは識字率の低かった時代の名残を感じさせる造りで、今では完全に上流階級向けだと示す証でもあった。
フェイが俺を案内したのは、白いレンガと木製の柱で造られた一軒の建物だった。三角屋根には陶器のタイルが敷き詰められ、ガラス窓がその豪華さを物語っている。看板にはこう記されていた――『ヘレの仕立て屋』。
「ここよ!」
フェイは勢いよく扉を開け、俺の腕を引いて中へと入っていった。
中は想像以上に広く、シャツ、ダブレット、タイツ、チュニック、詩人シャツ、ダスターコート、グレートコート、インヴァネスケープ、ジャーキンなど、内衣や外套が種類豊富に並べられていた。
俺たちを迎えたのは、長い茶髪と青いブルンスウィック・ガウンを纏った女性だった。顔には幾筋もの皺と灰色の髪が見られ、五十代か六十代くらいだろう。
「久しぶりね、フェイ。まさかまた服をダメにしたんじゃないでしょうね? あなたの家がうちの後ろ盾だからって、タダで渡すわけにはいかないのよ」
「違います!」 フェイは笑顔で首を振り、俺の腕を掴んで前に出した。 「今日は彼の服をお願いしに来たの」
俺を見たその女性は、まず俺の服装に顔をしかめ、鼻をひくつかせた。そして、顔に視線が移ると、口元を噛んで小さく頷いた。
「……なかなかの美男子ね。女性的な雰囲気があって、下品な格好さえなければかなりの色男よ。とはいえ、あなたの家の人たちは、どれほど魅力的でも平民の男を愛人にすることを認めないと思うけど?」
「ち、ちがいますっ! そんな関係じゃないですっ!」
俺が呆然と立ち尽くす中、フェイの顔は真っ赤になり、今にも蒸発しそうな勢いで抗議した。
「……そうなの? じゃあ、どうして男を連れてきたの?」
「い、いろいろあるのよ! でもそういうんじゃないの!」フェイは必死に弁解しながらも、返答に困っていた。
「フェイは俺に恩返ししてくれてるだけです」 俺は一歩前に出て、袋を持ち上げながら言った。「少し前に俺が彼女を助ける機会があって、そのお返しに服を用意してくれるという話になったんです。今は金もなくて……」
「なるほど……それはそれで、少し残念だわ」
「何が残念なのよ!」フェイはまだ顔を赤くしながらも、しっかりと口を尖らせた。
「分かったわよ。詮索はやめましょう」 そう言ってその女性はドレスの裾を軽く持ち上げて一礼した。
「私はこの仕立て屋の店主、ヘレ。フェイお嬢様の頼みなら、できる限り協力させてもらいます」
そう言うと、ヘレはくるりと踵を返し、店の奥へと歩き出した。
「服は人を作るって言うでしょ?」 俺を一箇所に立たせて、ぐるぐると回りながら彼女は続けた。「いい服を着せれば、貧民でも王子様のように見えるもの。今のあなたは完全に貧民そのものだけど」
「正直な感想、ありがとうございます」 皮肉を込めた俺の言葉に、ヘレは楽しげに微笑んだ。
「でも素材は悪くないわ。いい服さえ着せれば、きっと見違えるはずよ」
ヘレが俺の周囲を歩きながら、顎に手を当てて何かをぶつぶつと呟いている間、フェイをちらりと見ると――
彼女は明らかに楽しんでいた。
俺が困っている姿を見て、その笑顔がさらに輝く。次の訓練で思い切りしごいてやると心に決めた。
数分後、ようやくヘレは頷き、いくつかの服を選んで戻ってきた。
「試着室を使ってちょうだい」
フェイを一瞥してから、俺は服を受け取って試着室へと入った。中で着替えを進めると、着心地の違いに驚かされた。
まず足に通したのは、伸縮性に優れた黒いズボン。動きを妨げることはなさそうだ。
次に着たのは淡い青のインナーシャツ。胸元には小さな三角形の切れ込みがあり、鎖骨と胸元が少しだけ見える。シャツの前身頃は後ろより長く、膝まで届いていた。
その上に羽織ったベストは変わったデザインだった。肩を覆い、高い襟がついていて、前面は大きく開き、シャツが露出するようになっている。丈は膝下まである。
それらの上から黒いベルトを締め、最後に黒いブーツと灰色の指なしグローブを身につけた。グローブは腕の中ほどまで伸びている。
試着室から出ると、裾がひらりと舞う。
「うん、なかなか様になってるじゃない」 ヘレが手を叩き、満足げに笑った。
「鎧と武器があれば、本当に王子様みたいになるわよ」
「そうか?」
自分の姿を見下ろしながらフェイを見ると、彼女は驚いたように見つめていた。どこか見覚えのあるその表情に、俺は内心で戸惑いを覚える。
「……この服、フェイの服と似てないか?」
「た、たまたまよ」ヘレは笑ってごまかした。
「偶然ね……」
「でもとても似合っていると思うわ。ねえ、フェイお嬢様?」
俺が視線を向けると、フェイは顔を赤らめながらも、俺を見つめ続けていた。その瞳に宿るものは、どこかで何度も見た感情だった――カリが見せていたあの眼差し。
フェイのそんな視線に、俺の胸が少しだけざわついた。そしてそのざわつきが、胸の奥に小さな罪悪感を生んだ。
「そんなふうに彼を見つめてたら、本当に“お抱えの男”って思われちゃうわよ?」
ヘレの軽口に、フェイは一気に顔を真っ赤に染め、視線を逸らして壁のひび割れを凝視し始めた。
「……似合ってるわよ」
彼女の小さな声に、俺は素直に礼を述べるのだった。
服の着心地は悪くない。柔らかく、耐久性もあり、動きやすい。唯一の問題は、これを川で洗うわけにはいかないという点だろう。これだけ上質な服なら、ちゃんと洗濯桶と石鹸を使って洗う必要がある。だが、それも今回の交渉が上手くいけば手に入るだろう。
フェイとヘレが価格の交渉を始め、俺はそのやり取りには口を挟まなかったが、最終的にかなりの量のヴァリスがやり取りされるのを目にした。おそらく、プラチナ貨がいくつも使われていた。服の代金は数千ヴァリスにはなったに違いない。
店を出ようとしたとき、ヘレがフェイに声をかけた。
「そういえば、ルヒト家がこの前バルスタイン家を訪ねたって話を聞いたわよ」
フェイの体がピクリと固まる。俺が振り返ると、ヘレは興味深そうに彼女を見つめていた。
「もしかして、彼に服を買ってあげたのは、何か……その、“手段”に使おうとしてるわけじゃないでしょうね? ルヒト家を怒らせるのは得策じゃないわよ」
フェイの体は緊張していたが、やがて力を抜き、静かに答えた。
「……彼に服を買ったのは、ルヒト家のせいじゃない。私は、そんなふうに人を利用するような女じゃない」
「そう。ちょっと気になっただけよ」ヘレは笑いながら言った。「最近の話を聞いて、てっきり交渉を乱すための駒かと思ってしまったのよ。でも違うなら、それでいいの」
「行きましょう」フェイは静かにそう言って、店を後にした。
最後にもう一度ヘレを見た。彼女は俺に向けて意味ありげな笑みを浮かべていた。
――この女、油断できない。
そう思いながら、俺はフェイの後を追って店を出た。
街道には数台の馬車が通り過ぎていた。牽いていたのはFランク魔獣の「メア」。完全に無害な魔獣だ。
俺たちは無言で歩いていた。
何か話すべきかと迷ったが、俺にはその“適切な言葉”が分からなかった。だが、それ以上に踏み込む資格が自分にあるかも分からなかった。
「ヘレのこと、ごめんなさい」フェイがようやく口を開いた。
「……あの人、口が軽すぎるの」
「いや、むしろ口が軽そうに見えて、実は狡猾な女に思えたけどな」 俺は言わなかったが、そう思っていた。
だからこそ、問いかけてみることにした。
「……ネヴァリアでは、“強さ”があれば、身分すら超えられるとされている」
俺が言うと、フェイは眉をひそめた。
「強き者は名声も富も手にし、人生を自由に選べる。だが、力なき者は今の地位に縛られる。貴族でさえも例外じゃない。お前も――」
「そのとおりね」フェイは認めた。「カリ王女だって、家族の意向には逆らえない。私も同じよ」
俺はうなずく。
「お前が強さを求める理由……ルヒト家がバルスタイン家に圧力をかけているのか?」
フェイの足が止まり、俺もそれに合わせて立ち止まった。彼女の眉がわずかに寄る。
「答えたくなければ、無理にとは言わない」
俺は続けた。
「ただ、知りたくなっただけだ。理由はそれだけだ」
フェイは眉をひそめ、顔をしかめたが、やがてため息をついて肩を落とした。
「……ううん、聞く権利はあるわ。今、あなたは私のために色々してくれているもの。だからこそ、ちゃんと理由を話すべきだと思う」
少し間を置いてから、彼女は続けた。
「あなたの言うとおりよ。ルヒト家は今、私の家に圧力をかけているの。オークションハウスの収益が落ち込んで、貴族としての地位すら危うい状況にあるわ」
「つまり、ルヒト家は手を差し伸べる代わりに――お前を要求してきたってことか。政略結婚か? 分家の誰かと結婚させられる予定なのか?」
「近いけど……違うの」
フェイは苦笑を浮かべた。
「グラント・ルヒトの“第二夫人”になれって言われてるの」
その名を聞いた瞬間、俺の中に怒りが奔った。長年憎んできた名だった。カリと俺を引き裂いた男。魔獣の侵攻時に彼女の家族を毒殺した男。――それがグラント・ルヒト。
だが、前世ではフェイが彼の第二夫人になったという話は聞いたことがない。
恐らく、前世の彼女は霊毒によって命を落としたのだろう。あの症状を治せる者はネヴァリアにはいなかった。俺がいなければ、助かる術はなかったはずだ。
――そんな結末、絶対に繰り返させない。
「……俺が、阻止する」
「え?」
フェイが驚いたように聞き返した。
「俺は、そんな結婚をさせない。お前が望まない未来には、絶対に進ませない。力をつけさせてやる。そして、もしオークションの件でお前の家と協力できたら、財政的にもルヒト家の干渉を防げるようにしてやる」
フェイはぽかんとした表情で俺を見つめていた。俺の言葉の意味がすぐには理解できなかったらしい。だが、徐々に彼女の目が見開かれ、やがて視線を逸らした。耳の先まで赤くなっていたのが見えた。
「……ありがとう」
声は小さく、視線は合わせてくれなかったが、その言葉だけで十分だった。
「どういたしまして」
俺は軽く肩をすくめた。
フェイがグラントに狙われていようがいまいが、俺の決意は変わらない。俺は最初から、彼女を強くするために訓練をしていたのだから。
そして――
グラント・ルヒト。
お前の命は、いずれ必ず俺が奪う。
今回の章、いかがでしたか?
エリックとフェイの距離が少し縮まりましたが、同時に彼は不愉快な事実を知ることにもなりました。
レヒト家と戦う理由が、また一つ増えましたね。
次回もぜひ楽しみにしていてください!




