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「二度目の初対面」

翌朝、目を覚ました瞬間、俺は首に違和感を覚え、背中は痛み、内臓は焚き火で炙られたかのような感覚に襲われていた。

さらに、尻は泥でびっしょりと濡れており、最悪の目覚めだった。

……まあ、昨夜隠れていた木の下でまだ眠っていたと気づいた瞬間、その理由はすぐに分かったけどな。

「……体がガタガタだ……」

呻きながら木の根の間から這い出る。

背筋を伸ばし、腕をぐいっと上へ伸ばした瞬間、バキバキッと骨の音が小さな林に響いた。

霊力感知スピリチュアル・パーセプションを使って周囲を探る。

幸いにも、誰の気配も感じられなかった――よし、今が帰るチャンスだ。

問題は、門をどう通るかだ。

泥まみれの若者がのこのこと街へ戻ってきたら、門番に怪しまれるのは当然だろう。

だが、うまくやればバレずに済む……はずだ。

朝日が空に昇る中、俺はネヴァリア市内へと向かって歩き出した。

******************************************************************

カリ・アストラリアは、十二人は楽に座れそうな長いテーブルの端に一人、静かに腰掛けていた。

今は誰もいないが、やがて母や父たち、兄たちがやってくるだろう。

……兄たちは、まあ、ほぼ確実に来る。

けれど、両親――特に母と三人の父の誰が現れるかは、まったくの未知数だった。

もしかしたら、母はもう仕事を始めているかもしれない。

彼女は、この広すぎる食堂の静けさに、心が少しだけ寂しくなるのを感じた。

感じないふりをして、目の前のスプーンを手に取る。

木の器に盛られた温かいお粥の上には、切りたての果物が乗っていた。

ハチミツの甘さと果物の爽やかな香りが鼻をくすぐる。

普段なら大好きな香りのはずだった。

でも今は、思考がまったく別の場所を彷徨っている。

――あの夜の霊力。

眠っていたはずなのに、あの霊圧を感じた瞬間、心が震えて目が覚めた。

強大で、圧倒的で、それなのに、なぜか怖くなかった。

何かが――そう、何かが胸の奥を優しく叩いたような、不思議な感覚だった。

……でも、なぜそんな風に感じたのかが思い出せない。

どうしてあの霊力が、あそこまで懐かしく感じられたのだろう?

考えれば考えるほど、霧の中に手を伸ばすような気持ちになる。

そのとき、食堂の扉が音を立てて開いた。

入ってきたのは三人の男性。

先頭に立つのは、カリより二歳年上の青年――十八歳。

彼は彼女より頭二つ分ほど背が高く、跳ねた茶髪に鮮やかな青い瞳をしていた。

赤いチュニックが広い肩と逞しい胸板を隠していたが、隠しきれないほどの自信と傲慢さがその眼差しに宿っていた。

まさに、まだ「本物の大人」にはなりきれていない少年特有の輝きだ。

続いて入ってきたのは、二十三歳と二十五歳の兄たち。

二十三歳の方は、赤い長髪を革紐でポニーテールにまとめ、緑の瞳とそばかすが特徴的。

そして最年長である二十五歳の彼は、暗めの茶髪に、まるで石を彫ったかのような厳格な顔立ち、戦士のように広い肩幅。

左頬にある十字の傷が印象的だったが――

カリはその傷の由来を知らなかった。

彼は、一度もそのことを話してくれなかったのだ。

「おっ、我らが妹殿じゃないか!」

三兄弟の末っ子――ゲイロルフがそう叫び、カリの方に小馬鹿にしたような笑みを向けてくる。

カリは眉をひそめた。

「部屋から出てくるなんて珍しいな? いつも亀みたいに引きこもってるくせに」

……殴ってやろうかしら。

カリの頬がピクリと引きつる。心の中でその衝動を押さえ込むのに少し苦労した。

「妹をからかうのはやめたらどうだ、ゲイロルフ」

そう言ったのは、次兄のミッケルだった。

ゲイロルフは肩をすくめた。

「お前が擁護するのは、最近ずっと家にいなかったからだろ、ミッケル兄さん。

ルヒト家から縁談の話が出て以来、こいつずっと落ち込んで部屋に閉じこもってたんだぜ?

あれじゃあ、俺が小馬鹿にしたくなるのも当然だろ」

ミッケルとゲイロルフが言い合っている間に、三兄弟の長兄――エアランドは何も言わず静かに部屋へ入ってきて、テーブルの端に座った。

カリはそっと唇を噛む。

……何か、挨拶した方がいいだろうか?

礼儀としては、声をかけるべきだと分かっている。

でも、彼の冷たい雰囲気と無言の圧力に、カリは昔から苦手意識を持っていた。

何を言っても、怒らせてしまうような気がしてならない。

そのとき――

「気に病むな」

低く、抑えた声が部屋に響いた。

「えっ……兄上、エアランド……?」

カリは思わず声を詰まらせた。

エアランドはそれ以上何も言わず、ただ前を見据えたまま沈黙を貫いた。

そのタイミングで、キッチンの扉が開き、一人の女性が姿を現した。

白のチュニックに黒のビスチェを重ねた彼女は、いくつものお粥の入った木製の器を乗せたトレイを押していた。

彼女の登場に気づいた他の兄たちも、ようやく席についた。

三人の兄たちに朝食が運ばれてくる間、カリはなるべく「急いでいるようには見えない程度に」早く食べ終わるよう努めていた。

ミッケル兄さんはまだいい。

けれど、エアランド兄さんの冷たい雰囲気はやっぱり苦手だったし、ゲイロルフ兄さんに至っては……正直、あまり好きではなかった。むしろ、全然好きじゃない。

黙々とスプーンを動かしていたカリだったが、末っ子の兄が口を開いた瞬間、思わず反応してしまった。

「結局、あの霊力について何も分からなかったって信じられないよな~」

ゲイロルフは口をとがらせながら言った。「あれだけの力を持ってる奴が、スッと消えるなんてさ、普通じゃないだろ?」

……思わず、手が止まった。

早く席を立ちたい気持ちはあったけれど、話の内容が気になってしまい、自然と耳を傾けていた。

「確かに、あれほどの霊力を放った人物が、煙のように消えたのは不可解だな」

ミッケルがそう頷きながら、お粥の入った器を手元に引き寄せた。

「だが、それ以上に気になるのは“なぜ”だ。なぜ、あんなにも強大な霊力を解き放ったのか。

誰かに気づいてほしかったのか? だとすれば、誰に? そして、なぜそのまま姿を消したのか? どうにも釈然としないな」

「もしかしたら、目的なんてなかったのかもな」

ゲイロルフはスプーンを器に突っ込み、そのままお粥を口に運びながら、もごもごと続けた。

「そもそも人間じゃない可能性だってあるだろ? BランクやAランクの魔獣でも、あれくらいの霊力なら出せるし」

「人間だ」

ふいに響いた低く静かな声に、三人全員がぴたりと動きを止めた。

エアランド兄さんが、お粥を食べながら淡々と呟いていた。

感情の読み取れない冷たい瞳と無表情――それは、まるで感情を忘れたかのような顔だった。

「え? なんだって?」ゲイロルフが聞き返す。

「人間だった」

エアランドは再びそう繰り返す。

「昨夜、霊力を放ったのは人間だ。それも、母上と同等の力を持っていた。

誰だったのか、あるいは何を目的としていたのかは分からない。

だが――お前たち二人は祈っておけ。その人物がアストラリア王家に敵意を持っていないことをな」

重たい沈黙がテーブルを包み込む。

カリは静かにスプーンを口に運びながら、兄の横顔を見つめた。

一方でゲイロルフとミッケルは、それぞれ困惑と警戒が入り混じった表情を浮かべていた。

「……ふん、別にどうでもいいさ」

沈黙を破ったのは、やっぱりゲイロルフだった。

「そのうち正体が分かるだろ? 出てきたら俺が真っ先に剣で歓迎してやるよ」

エアランドは肩をすくめただけだった。

まるで、「もう忠告はした。あとは好きにしろ」と言いたげに。

食べ終えたカリは、器とスプーンを持って立ち上がり、キッチンへと向かった。

カウンターに置いて、料理担当のメイドへ微笑みかける。

「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」

「ありがとうございます、お嬢様」

中年の女性――ところどころ白髪の混じる黒髪を結ったその女性は、優しい笑みを返してくれた。

部屋に戻ったカリは、クローゼットを開けてサンダルを手に取る。

(今日は……図書館に行ってみようかな)

そう呟きながら、彼女はサンダルを履いた。

******************************************************

濡れた布で体を拭いたあと、俺は新しい服に着替えた。

茶色いズボンは肌に擦れて少しチクチクするし、オフホワイトのシャツは明らかに数サイズ大きい。

とはいえ、上に羽織った茶色のチュニックがシャツを隠してくれるおかげで、外見的にはそこまでおかしくは見えないはずだ。

靴に関しては選択肢がなかった。昨夜の泥だらけのブーツしかなかったから、それを履くしかなかった。

できるだけ泥を落としたが、専用の道具も洗剤もない状態では、限界がある。

準備を終えた俺は、図書館へと向かった。

今日は仕事の日じゃない――ちゃんと勤務表を確認しておいた。

だが、今の俺にとって、頭を整理するにはあそこが最適だった。

道中、朝食代わりにパンを一本買った。十ヴァリス。

……結果として、財布の中身がほとんど空になった。

思わずため息が漏れる。

その後、近くの雑貨店で羊皮紙と羽ペン、それにインクを買った時には、本気で泣きそうになった。

だが、それらを手に入れたことで、ようやく図書館へと辿り着く。

中に入ると、すぐにナディーンさんが出迎えてくれた。

俺の姿を見るや否や、腕を組みながら眉を片方だけ持ち上げる。

「なにしてんの、エリック? 今日は仕事の日じゃないでしょ」

「考え事したくてさ、ここに来たんだ」

俺は苦笑いを浮かべながらそう返した。

だが、ナディーンさんの腕組みは解けず、むしろそのままの姿勢で眉をひそめる。

「考え事? ……家でできないの?」

「家でもできるけど、俺は本に囲まれてる方が落ち着くんだよ」

「まったく……あんたって、本当に本が好きよね」

ナディーンさんはため息をついた。

「まぁいいわ。どうせ止めても無駄だし。

でも、ちゃんと他の利用者の邪魔にならないようにしてよね。

ここは“勉強する場所”なんだから」

「心配すんなよ。俺はあんたみたいにうるさくないから」

「……なによその口の利き方?」

ナディーンさんはジト目で睨んできた。

「いや、今のは冗談だって」

俺が笑うと、彼女はふんっと鼻を鳴らして仕事に戻っていった。

その隙に、俺は階段を上って二階へ向かう。

ナディーンさんは――俺の様子に何か気づいてるのかもしれない。

変だと思ってるのは確かだろう。でも、それが“何”なのかまでは分かってないはずだ。

……まあ当然か。

だって俺自身だって、昔の“俺”がどんな性格だったのか、いまいち思い出せないんだから。

ネヴァリアが滅びる前――

魔獣襲撃が起きる前の俺って、一体どんなだったんだっけな?

二階の造りは一階とほとんど同じだ。

本棚がいくつも並んでいて、棚と棚の間には机が設置されている。全部で六つくらいあるだろうか。

……だが、今は誰も座っていないようだった。

一階には主にノンフィクション系の書籍が置いてあるから、大抵の利用者は下の階に留まっている。

俺は一番近くの机に腰を下ろし、買ってきた羊皮紙とインク、それに羽ペンを机の上に置いた。

だが、まだインク瓶の蓋は開けなかった。

まずは――頭の中を整理する必要がある。

最優先の目標は、ただ一つ。

ネヴァリアを滅ぼした「魔獣襲撃」を防ぐこと。

どうして魔獣たちがネヴァリアを襲ったのか、その理由はまだ分からない。

だが、今の俺にできる対策は一つしかない。

――力を得ること。

かつて俺が到達した、あの頂点の力さえ取り戻せれば、

数十万の魔獣だって蹴散らすことができるはずだ。

――とはいえ、力を得るといっても、簡単なことじゃない。

まず、静かな修行場所が必要だ。

できれば滝があると理想的だ。あれがあると、鍛錬の効率が格段に上がる。

それから、錬金術の器具一式と、各種材料を揃えなければならない。

そして最後に――身体を鍛えるための特注の“重り付き修行服”も必要だ。

……要するに、何を始めるにしても、金が要る。

記憶を手繰り寄せながら、ネヴァリアで金を稼ぐ手段を思い出してみた。

いくつか、確かに“効率のいい稼ぎ方”がある。

一つは、魔獣を倒して、その魔核をトレーダーや錬金術師に売ること。

二つ目は、魔獣山脈にある遺跡でお宝を見つけ、それを競売所で売り捌くこと。

三つ目は、地下闘技場で戦って賞金を得ること。

……だが、この三つはいずれも“力”が必要だ。

今の俺には、その力がない。

この体は弱々しいし、霊力の制御すらままならない。

……それにしても、今の霊力は、俺が大人だった時と比べて十分の一にも満たない。

過去に戻るというのは、それほどの“代償”を必要とするのか?

あるいは、肉体が霊力に耐えきれず、自動的に放出してしまったのか?

……正直、分からない。

そもそも時を遡った例なんて聞いたことがないし、誰に聞けばいいのかも分からない。

そして、上記以外で金を稼ぐ手段――それが一つだけある。

それは、“霊術”を貴族の家や霊術士学院に売ることだ。

これが、最も安全かつ現実的な選択肢かもしれない。

俺には、いくつかの強力な霊術があった。

それも、霊術士学院じゃ絶対に手に入らないような技ばかりだ。

というのも、ほとんどが俺自身の手で作り上げたものだからな。

……使うためではなく、知識を深めるための理論的な練習として。

そもそも、俺は他人のように霊術を使うことができなかった。

だからこそ、雷や水といった自分の属性以外の技も作ってきたんだ。

……いや、正確には「光」も俺の属性だった。

だが、それは俺が持っていたわけじゃない。

死に際の“あの人”――妻が、俺に託してくれたものだ。

今の俺が、その光属性を使えるかは分からない。

……だが、使えなくても仕方ない。

光と闇は、この大陸でもっとも希少な属性なのだから。

ましてや、孤立都市ネヴァリアにおいては尚更だ。

これまで出会った人間の中で、光の素養を持っていたのは、妻とその母親だけだった。

インク瓶の蓋を開け、羊皮紙を広げ、羽ペンをインクに浸す。

そして――書き始めた。

霊術とは、“ルーン”を用いた手順を記述し、それに霊力を込めて完成させるものだ。

ルーンとは、遥か昔から存在していた古代文字を元にした記号だ。

だが、それは人間の言語ではない。

いや、そもそもこの世界の言語ですらない。

ルーンは、“ニザヴェリル”という異世界に住む種族――ドヴェオルグによって伝えられた技術だ。

彼らはルーンの刻印術と符文術において無類の才を誇っていた。

……昨晩、霊力を一気に放出したのは、ある意味で幸運だった。

そのせいで今は力が枯渇しているが、逆に言えば霊力の制御がしやすくなっている。

もっとも、霊力を込めるたびに、内臓が焼けるような激痛が走るのはどうにかしてほしいがな。

それでも――

俺は、羽ペンに霊力を流し続け、黙々と記述を続けた。

ルーンにはそれぞれ意味があり、その意味を文章のように組み合わせることで、霊術を構築することができた。

こうして作られた霊術は、“霊感視”を使える者なら修得可能だ。

霊感視とは、特定のリズムで瞬きをすることで発動する眼術の一種で、ルーンの意味を視認し、理解する力を持っていた。

……もっとも、ルーンの用途はそれだけではない。

技の記述を終えた俺は、羽ペンを置いて腕を伸ばした。

「ふぅ……」

筋肉が引き伸ばされる感覚に、思わず呻き声が漏れる。痛みはあるが、それを上回るほどの心地よさが身体を包んだ。

書き上げた霊術の巻物をじっと見つめる。

それは淡い青い光を放っていたが、俺の霊力が完全に霊符に馴染むと、その光はすぐに消えていった。

そこには六十以上のルーンが記されていた。

四行分――それなりに複雑な術式だ。

とはいえ、俺の中では大した技ではない。

これは昔、依頼されて作ったものだ。

動作を最小限に抑えつつ、Aランク相当の威力を出せる霊術をくれ、と言われてな。

確か、あの時の依頼主は面倒くさがりな奴だった。

……まぁ、今の時代なら、霊術士学院にでも売り込めば、それなりの金にはなるだろう。

そう思って小さくため息を吐き、巻物を丁寧に丸めて、真ん中を紐で括った。

そして立ち上がり、階段へ向かう。

――が、降りようとしたその瞬間、階段の上から誰かが上がってきた。

俺は、思わず息を呑んだ。

気品と優雅さを纏ったその人影。

まるで黄金を紡いだかのような金髪が、雪のように白い肌をふわりと包む。

頬にはわずかに紅が差し、常に微笑んでいるかのような柔らかな印象を与えていた。

小さな鼻、丸く大きな青い瞳、そして控えめに色づいた唇――

まるで、夢の中で何度も見た“彼女”そのものだった。

白のワンピースに、金の紐で結んだ簡素な装い。

その上からは、淡い紫色のマントが肩にかかっていた。

だが、それでも隠しきれない――いや、むしろ強調されていたのは、彼女の胸元だった。

胸元に抱きしめている一冊の本。

それによって彼女の豊かな双丘は押し上げられ、布越しにも分かるほどの存在感を放っていた。

俺は、その場に立ち尽くしていた。

彼女のサンダルが木製の階段を踏みしめるたびに、軽やかな音が響く。

階段を上りきった彼女は、目の前に立ち止まり――俺の存在に気づいた。

そして、俺の目を見つめてきた。

その瞳には、わずかな戸惑いと……心配の色があった。

「……大丈夫?」

静かで丁寧、だがどこか距離を感じさせる声だった。

「え?」

俺の返事は……たぶん、今世で一番マヌケだった。

「……泣いてるよ?」と彼女は言った。

「……え、俺?」

思わず指先で目元をなぞる。濡れていた。

「……ああ、そうか。ちょっと目にゴミが入っただけだ。ここの本、結構埃っぽいからな。」

照れ隠しに乾いた笑いを浮かべながら、俺は慌てて涙を拭った。

「たまにそういうこともありますよね」

彼女はそう言って、丁寧な微笑みを浮かべた。

涙を拭き終えた俺は、彼女に道を譲ろうと一歩横に出た。

本当はもっと話したかったが、今はその時じゃない。

いきなり感情的になって話しかけたら、怪しい奴だと思われてもおかしくない。

……だが、彼女が胸に抱えている本に気づいた瞬間、その思いはどこかへ吹き飛んだ。

「それって、《アンデリルの物語》じゃないか?」と俺は聞いた。

彼女の目が、ほんの少し輝きを増した。「ご存じなんですか?」

俺は頷いた。「俺のお気に入りの一冊だ。若者が故郷を旅立ち――」

「そして、各地を巡り――」彼女が続けた。

「遺跡を探索して――」俺が受け取り、

「危険に立ち向かいながら――」彼女が頷き、

「冒険への飽くなき渇きを満たすために旅を続けるんだ」

俺たちは、同時に口を揃えた。

「これ、私の好きな本の一つなんです」

今度の笑顔は、さっきよりも柔らかく、どこか親しみを帯びていた。

首を少しかしげると、金色の髪がさらりと揺れ、光を受けてきらめいた。

「他にはどんな本を読まれるんですか?」

「むしろ、“読んでない本”を聞いたほうが早いかもな」

そう言いながら、俺はかつてのお気に入りをいくつか挙げてみた。――魔獣侵攻の前の話だが。

自分でも驚くほど、いろいろ覚えていた。

俺の言葉に、彼女の表情はどんどん明るくなっていく。

ついには太陽よりも眩しく思えるほどの笑みを浮かべていた。

「どれも、私の好きな本ばかりです」

彼女は夢見るように言った。「中には持ってるものもありますけど、ここでしか読めないものも多くて…」

「君がここに来てるの、よく見かけるよ」俺は正直に打ち明けた。

「あなたも、よく来てるんですか?」

「まあ、ここで働いてるからな。来ないほうが不自然だろ」

「えっ!」

彼女は驚きの声を上げ、唇を「O」の形にした。「そういえば… 本棚に本を戻してる姿、見たことあるかも… ごめんなさい、いつも本のことで頭がいっぱいで、周りをあまり見てなくて…」

「気にするなって」

本当はもっと話していたかったが、そろそろ学院に技術書を売りに行かないと間に合わない。それに、彼女がここに来た理由も知っている。

時間を取らせるのは悪い。

「とにかく、君は本を読みたくて来たんだろ? 邪魔しちゃ悪いし、俺は行くよ」

「……そうですか」

彼女の肩が、ほんのわずかに落ちたのが見えた。

その様子に、俺の目に少しだけ冒険心が宿る。

「また君をここで見かけたら、話しかけてもいいかな?」

「読んでる本について、誰かと話すのも悪くないと思ってさ」

彼女の瞳に再び光が宿った。

「ええ、ぜひ… またお話ししたいです」

俺は微笑んだ。「俺の名前はエリック。エリック・ヴァイガーだ」

「私はカリ――カリです」

彼女の笑顔は、まさに芸術としか言えなかった。「エリックさん、お会いできて嬉しかったです」

「俺もだよ」

俺が道を譲ると、彼女はもう一度微笑んでから階段を通り抜け、二階の奥へと歩いていった。

彼女が席について読書を始めても、時折こちらをチラリと見てくるのが可愛らしかった。

「“カリ”だけ、か……」

俺は小さく笑った。

名字を言わなかった理由は、もちろん分かっていた。

皇妃ヒルダの娘――そう明かしていたら、普通の男なら即座にひれ伏していただろう。

階段を下りながら、俺は背中に感じる微妙な「視線」を無視できなくなった。

……というより、「殺気」だな。

視線の正体を探ると、館内にいた十代前半~後半と思しき男子たちが、俺を睨みつけていた。

お前ら、祖先でも殺されたのかよってくらいの視線だ。

そんな中、ナディーンさんが近づいてきた。

「……意外ね、あんたがあんな積極的に話しかけるなんて」

「どういう意味だよ?」俺が聞くと、

「なんでもないわ」

彼女は空いた手をひらひらと振った。もう片手には本の山。

「……いい会話だった?」

「まあな」俺は目を細める。「……まさか、盗み聞きしてたんじゃないだろうな?」

「バカ言わないで。あんたたちの声がデカすぎただけよ。誰だって聞こえるわよ」

「そうかよ……」

改めて、あの男子たちの視線の理由が分かってため息を吐く。

「……他人のことなんて気にせずに自分の人生生きればいいのにな」

ナディーンさんは俺の言葉に小さく眉をひそめたが、特に何も言わなかった。

ただ、「もう帰りなさい」とだけ言ってきた。どうやらこの場に居るだけで、図書館の空気が悪くなっているらしい。

……まあ、最初から長居するつもりもなかったけどな。


第4話まで読んでくださって、ありがとうございます!


今回はあまり大きな出来事は起きませんでしたね。この物語は少しスローペースかもしれませんが、それはエリックや他のキャラクターの内面をしっかり描いていきたいと思っているからです。


――でも、エリックはカリと再会(?)しました!これは物語の中でもとても大事な場面だと思っています。皆さんにもこの再会の瞬間を楽しんでもらえていたら、とても嬉しいです!


これから少しずつ物語が動き始めますので、どうかこれからも応援よろしくお願いします!

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