「二度目の初対面」
翌朝、目を覚ました瞬間、俺は首に違和感を覚え、背中は痛み、内臓は焚き火で炙られたかのような感覚に襲われていた。
さらに、尻は泥でびっしょりと濡れており、最悪の目覚めだった。
……まあ、昨夜隠れていた木の下でまだ眠っていたと気づいた瞬間、その理由はすぐに分かったけどな。
「……体がガタガタだ……」
呻きながら木の根の間から這い出る。
背筋を伸ばし、腕をぐいっと上へ伸ばした瞬間、バキバキッと骨の音が小さな林に響いた。
霊力感知を使って周囲を探る。
幸いにも、誰の気配も感じられなかった――よし、今が帰るチャンスだ。
問題は、門をどう通るかだ。
泥まみれの若者がのこのこと街へ戻ってきたら、門番に怪しまれるのは当然だろう。
だが、うまくやればバレずに済む……はずだ。
朝日が空に昇る中、俺はネヴァリア市内へと向かって歩き出した。
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カリ・アストラリアは、十二人は楽に座れそうな長いテーブルの端に一人、静かに腰掛けていた。
今は誰もいないが、やがて母や父たち、兄たちがやってくるだろう。
……兄たちは、まあ、ほぼ確実に来る。
けれど、両親――特に母と三人の父の誰が現れるかは、まったくの未知数だった。
もしかしたら、母はもう仕事を始めているかもしれない。
彼女は、この広すぎる食堂の静けさに、心が少しだけ寂しくなるのを感じた。
感じないふりをして、目の前のスプーンを手に取る。
木の器に盛られた温かいお粥の上には、切りたての果物が乗っていた。
ハチミツの甘さと果物の爽やかな香りが鼻をくすぐる。
普段なら大好きな香りのはずだった。
でも今は、思考がまったく別の場所を彷徨っている。
――あの夜の霊力。
眠っていたはずなのに、あの霊圧を感じた瞬間、心が震えて目が覚めた。
強大で、圧倒的で、それなのに、なぜか怖くなかった。
何かが――そう、何かが胸の奥を優しく叩いたような、不思議な感覚だった。
……でも、なぜそんな風に感じたのかが思い出せない。
どうしてあの霊力が、あそこまで懐かしく感じられたのだろう?
考えれば考えるほど、霧の中に手を伸ばすような気持ちになる。
そのとき、食堂の扉が音を立てて開いた。
入ってきたのは三人の男性。
先頭に立つのは、カリより二歳年上の青年――十八歳。
彼は彼女より頭二つ分ほど背が高く、跳ねた茶髪に鮮やかな青い瞳をしていた。
赤いチュニックが広い肩と逞しい胸板を隠していたが、隠しきれないほどの自信と傲慢さがその眼差しに宿っていた。
まさに、まだ「本物の大人」にはなりきれていない少年特有の輝きだ。
続いて入ってきたのは、二十三歳と二十五歳の兄たち。
二十三歳の方は、赤い長髪を革紐でポニーテールにまとめ、緑の瞳とそばかすが特徴的。
そして最年長である二十五歳の彼は、暗めの茶髪に、まるで石を彫ったかのような厳格な顔立ち、戦士のように広い肩幅。
左頬にある十字の傷が印象的だったが――
カリはその傷の由来を知らなかった。
彼は、一度もそのことを話してくれなかったのだ。
「おっ、我らが妹殿じゃないか!」
三兄弟の末っ子――ゲイロルフがそう叫び、カリの方に小馬鹿にしたような笑みを向けてくる。
カリは眉をひそめた。
「部屋から出てくるなんて珍しいな? いつも亀みたいに引きこもってるくせに」
……殴ってやろうかしら。
カリの頬がピクリと引きつる。心の中でその衝動を押さえ込むのに少し苦労した。
「妹をからかうのはやめたらどうだ、ゲイロルフ」
そう言ったのは、次兄のミッケルだった。
ゲイロルフは肩をすくめた。
「お前が擁護するのは、最近ずっと家にいなかったからだろ、ミッケル兄さん。
ルヒト家から縁談の話が出て以来、こいつずっと落ち込んで部屋に閉じこもってたんだぜ?
あれじゃあ、俺が小馬鹿にしたくなるのも当然だろ」
ミッケルとゲイロルフが言い合っている間に、三兄弟の長兄――エアランドは何も言わず静かに部屋へ入ってきて、テーブルの端に座った。
カリはそっと唇を噛む。
……何か、挨拶した方がいいだろうか?
礼儀としては、声をかけるべきだと分かっている。
でも、彼の冷たい雰囲気と無言の圧力に、カリは昔から苦手意識を持っていた。
何を言っても、怒らせてしまうような気がしてならない。
そのとき――
「気に病むな」
低く、抑えた声が部屋に響いた。
「えっ……兄上、エアランド……?」
カリは思わず声を詰まらせた。
エアランドはそれ以上何も言わず、ただ前を見据えたまま沈黙を貫いた。
そのタイミングで、キッチンの扉が開き、一人の女性が姿を現した。
白のチュニックに黒のビスチェを重ねた彼女は、いくつものお粥の入った木製の器を乗せたトレイを押していた。
彼女の登場に気づいた他の兄たちも、ようやく席についた。
三人の兄たちに朝食が運ばれてくる間、カリはなるべく「急いでいるようには見えない程度に」早く食べ終わるよう努めていた。
ミッケル兄さんはまだいい。
けれど、エアランド兄さんの冷たい雰囲気はやっぱり苦手だったし、ゲイロルフ兄さんに至っては……正直、あまり好きではなかった。むしろ、全然好きじゃない。
黙々とスプーンを動かしていたカリだったが、末っ子の兄が口を開いた瞬間、思わず反応してしまった。
「結局、あの霊力について何も分からなかったって信じられないよな~」
ゲイロルフは口をとがらせながら言った。「あれだけの力を持ってる奴が、スッと消えるなんてさ、普通じゃないだろ?」
……思わず、手が止まった。
早く席を立ちたい気持ちはあったけれど、話の内容が気になってしまい、自然と耳を傾けていた。
「確かに、あれほどの霊力を放った人物が、煙のように消えたのは不可解だな」
ミッケルがそう頷きながら、お粥の入った器を手元に引き寄せた。
「だが、それ以上に気になるのは“なぜ”だ。なぜ、あんなにも強大な霊力を解き放ったのか。
誰かに気づいてほしかったのか? だとすれば、誰に? そして、なぜそのまま姿を消したのか? どうにも釈然としないな」
「もしかしたら、目的なんてなかったのかもな」
ゲイロルフはスプーンを器に突っ込み、そのままお粥を口に運びながら、もごもごと続けた。
「そもそも人間じゃない可能性だってあるだろ? BランクやAランクの魔獣でも、あれくらいの霊力なら出せるし」
「人間だ」
ふいに響いた低く静かな声に、三人全員がぴたりと動きを止めた。
エアランド兄さんが、お粥を食べながら淡々と呟いていた。
感情の読み取れない冷たい瞳と無表情――それは、まるで感情を忘れたかのような顔だった。
「え? なんだって?」ゲイロルフが聞き返す。
「人間だった」
エアランドは再びそう繰り返す。
「昨夜、霊力を放ったのは人間だ。それも、母上と同等の力を持っていた。
誰だったのか、あるいは何を目的としていたのかは分からない。
だが――お前たち二人は祈っておけ。その人物がアストラリア王家に敵意を持っていないことをな」
重たい沈黙がテーブルを包み込む。
カリは静かにスプーンを口に運びながら、兄の横顔を見つめた。
一方でゲイロルフとミッケルは、それぞれ困惑と警戒が入り混じった表情を浮かべていた。
「……ふん、別にどうでもいいさ」
沈黙を破ったのは、やっぱりゲイロルフだった。
「そのうち正体が分かるだろ? 出てきたら俺が真っ先に剣で歓迎してやるよ」
エアランドは肩をすくめただけだった。
まるで、「もう忠告はした。あとは好きにしろ」と言いたげに。
食べ終えたカリは、器とスプーンを持って立ち上がり、キッチンへと向かった。
カウンターに置いて、料理担当のメイドへ微笑みかける。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「ありがとうございます、お嬢様」
中年の女性――ところどころ白髪の混じる黒髪を結ったその女性は、優しい笑みを返してくれた。
部屋に戻ったカリは、クローゼットを開けてサンダルを手に取る。
(今日は……図書館に行ってみようかな)
そう呟きながら、彼女はサンダルを履いた。
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濡れた布で体を拭いたあと、俺は新しい服に着替えた。
茶色いズボンは肌に擦れて少しチクチクするし、オフホワイトのシャツは明らかに数サイズ大きい。
とはいえ、上に羽織った茶色のチュニックがシャツを隠してくれるおかげで、外見的にはそこまでおかしくは見えないはずだ。
靴に関しては選択肢がなかった。昨夜の泥だらけのブーツしかなかったから、それを履くしかなかった。
できるだけ泥を落としたが、専用の道具も洗剤もない状態では、限界がある。
準備を終えた俺は、図書館へと向かった。
今日は仕事の日じゃない――ちゃんと勤務表を確認しておいた。
だが、今の俺にとって、頭を整理するにはあそこが最適だった。
道中、朝食代わりにパンを一本買った。十ヴァリス。
……結果として、財布の中身がほとんど空になった。
思わずため息が漏れる。
その後、近くの雑貨店で羊皮紙と羽ペン、それにインクを買った時には、本気で泣きそうになった。
だが、それらを手に入れたことで、ようやく図書館へと辿り着く。
中に入ると、すぐにナディーンさんが出迎えてくれた。
俺の姿を見るや否や、腕を組みながら眉を片方だけ持ち上げる。
「なにしてんの、エリック? 今日は仕事の日じゃないでしょ」
「考え事したくてさ、ここに来たんだ」
俺は苦笑いを浮かべながらそう返した。
だが、ナディーンさんの腕組みは解けず、むしろそのままの姿勢で眉をひそめる。
「考え事? ……家でできないの?」
「家でもできるけど、俺は本に囲まれてる方が落ち着くんだよ」
「まったく……あんたって、本当に本が好きよね」
ナディーンさんはため息をついた。
「まぁいいわ。どうせ止めても無駄だし。
でも、ちゃんと他の利用者の邪魔にならないようにしてよね。
ここは“勉強する場所”なんだから」
「心配すんなよ。俺はあんたみたいにうるさくないから」
「……なによその口の利き方?」
ナディーンさんはジト目で睨んできた。
「いや、今のは冗談だって」
俺が笑うと、彼女はふんっと鼻を鳴らして仕事に戻っていった。
その隙に、俺は階段を上って二階へ向かう。
ナディーンさんは――俺の様子に何か気づいてるのかもしれない。
変だと思ってるのは確かだろう。でも、それが“何”なのかまでは分かってないはずだ。
……まあ当然か。
だって俺自身だって、昔の“俺”がどんな性格だったのか、いまいち思い出せないんだから。
ネヴァリアが滅びる前――
魔獣襲撃が起きる前の俺って、一体どんなだったんだっけな?
二階の造りは一階とほとんど同じだ。
本棚がいくつも並んでいて、棚と棚の間には机が設置されている。全部で六つくらいあるだろうか。
……だが、今は誰も座っていないようだった。
一階には主にノンフィクション系の書籍が置いてあるから、大抵の利用者は下の階に留まっている。
俺は一番近くの机に腰を下ろし、買ってきた羊皮紙とインク、それに羽ペンを机の上に置いた。
だが、まだインク瓶の蓋は開けなかった。
まずは――頭の中を整理する必要がある。
最優先の目標は、ただ一つ。
ネヴァリアを滅ぼした「魔獣襲撃」を防ぐこと。
どうして魔獣たちがネヴァリアを襲ったのか、その理由はまだ分からない。
だが、今の俺にできる対策は一つしかない。
――力を得ること。
かつて俺が到達した、あの頂点の力さえ取り戻せれば、
数十万の魔獣だって蹴散らすことができるはずだ。
――とはいえ、力を得るといっても、簡単なことじゃない。
まず、静かな修行場所が必要だ。
できれば滝があると理想的だ。あれがあると、鍛錬の効率が格段に上がる。
それから、錬金術の器具一式と、各種材料を揃えなければならない。
そして最後に――身体を鍛えるための特注の“重り付き修行服”も必要だ。
……要するに、何を始めるにしても、金が要る。
記憶を手繰り寄せながら、ネヴァリアで金を稼ぐ手段を思い出してみた。
いくつか、確かに“効率のいい稼ぎ方”がある。
一つは、魔獣を倒して、その魔核をトレーダーや錬金術師に売ること。
二つ目は、魔獣山脈にある遺跡でお宝を見つけ、それを競売所で売り捌くこと。
三つ目は、地下闘技場で戦って賞金を得ること。
……だが、この三つはいずれも“力”が必要だ。
今の俺には、その力がない。
この体は弱々しいし、霊力の制御すらままならない。
……それにしても、今の霊力は、俺が大人だった時と比べて十分の一にも満たない。
過去に戻るというのは、それほどの“代償”を必要とするのか?
あるいは、肉体が霊力に耐えきれず、自動的に放出してしまったのか?
……正直、分からない。
そもそも時を遡った例なんて聞いたことがないし、誰に聞けばいいのかも分からない。
そして、上記以外で金を稼ぐ手段――それが一つだけある。
それは、“霊術”を貴族の家や霊術士学院に売ることだ。
これが、最も安全かつ現実的な選択肢かもしれない。
俺には、いくつかの強力な霊術があった。
それも、霊術士学院じゃ絶対に手に入らないような技ばかりだ。
というのも、ほとんどが俺自身の手で作り上げたものだからな。
……使うためではなく、知識を深めるための理論的な練習として。
そもそも、俺は他人のように霊術を使うことができなかった。
だからこそ、雷や水といった自分の属性以外の技も作ってきたんだ。
……いや、正確には「光」も俺の属性だった。
だが、それは俺が持っていたわけじゃない。
死に際の“あの人”――妻が、俺に託してくれたものだ。
今の俺が、その光属性を使えるかは分からない。
……だが、使えなくても仕方ない。
光と闇は、この大陸でもっとも希少な属性なのだから。
ましてや、孤立都市ネヴァリアにおいては尚更だ。
これまで出会った人間の中で、光の素養を持っていたのは、妻とその母親だけだった。
インク瓶の蓋を開け、羊皮紙を広げ、羽ペンをインクに浸す。
そして――書き始めた。
霊術とは、“ルーン”を用いた手順を記述し、それに霊力を込めて完成させるものだ。
ルーンとは、遥か昔から存在していた古代文字を元にした記号だ。
だが、それは人間の言語ではない。
いや、そもそもこの世界の言語ですらない。
ルーンは、“ニザヴェリル”という異世界に住む種族――ドヴェオルグによって伝えられた技術だ。
彼らはルーンの刻印術と符文術において無類の才を誇っていた。
……昨晩、霊力を一気に放出したのは、ある意味で幸運だった。
そのせいで今は力が枯渇しているが、逆に言えば霊力の制御がしやすくなっている。
もっとも、霊力を込めるたびに、内臓が焼けるような激痛が走るのはどうにかしてほしいがな。
それでも――
俺は、羽ペンに霊力を流し続け、黙々と記述を続けた。
ルーンにはそれぞれ意味があり、その意味を文章のように組み合わせることで、霊術を構築することができた。
こうして作られた霊術は、“霊感視”を使える者なら修得可能だ。
霊感視とは、特定のリズムで瞬きをすることで発動する眼術の一種で、ルーンの意味を視認し、理解する力を持っていた。
……もっとも、ルーンの用途はそれだけではない。
技の記述を終えた俺は、羽ペンを置いて腕を伸ばした。
「ふぅ……」
筋肉が引き伸ばされる感覚に、思わず呻き声が漏れる。痛みはあるが、それを上回るほどの心地よさが身体を包んだ。
書き上げた霊術の巻物をじっと見つめる。
それは淡い青い光を放っていたが、俺の霊力が完全に霊符に馴染むと、その光はすぐに消えていった。
そこには六十以上のルーンが記されていた。
四行分――それなりに複雑な術式だ。
とはいえ、俺の中では大した技ではない。
これは昔、依頼されて作ったものだ。
動作を最小限に抑えつつ、Aランク相当の威力を出せる霊術をくれ、と言われてな。
確か、あの時の依頼主は面倒くさがりな奴だった。
……まぁ、今の時代なら、霊術士学院にでも売り込めば、それなりの金にはなるだろう。
そう思って小さくため息を吐き、巻物を丁寧に丸めて、真ん中を紐で括った。
そして立ち上がり、階段へ向かう。
――が、降りようとしたその瞬間、階段の上から誰かが上がってきた。
俺は、思わず息を呑んだ。
気品と優雅さを纏ったその人影。
まるで黄金を紡いだかのような金髪が、雪のように白い肌をふわりと包む。
頬にはわずかに紅が差し、常に微笑んでいるかのような柔らかな印象を与えていた。
小さな鼻、丸く大きな青い瞳、そして控えめに色づいた唇――
まるで、夢の中で何度も見た“彼女”そのものだった。
白のワンピースに、金の紐で結んだ簡素な装い。
その上からは、淡い紫色のマントが肩にかかっていた。
だが、それでも隠しきれない――いや、むしろ強調されていたのは、彼女の胸元だった。
胸元に抱きしめている一冊の本。
それによって彼女の豊かな双丘は押し上げられ、布越しにも分かるほどの存在感を放っていた。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
彼女のサンダルが木製の階段を踏みしめるたびに、軽やかな音が響く。
階段を上りきった彼女は、目の前に立ち止まり――俺の存在に気づいた。
そして、俺の目を見つめてきた。
その瞳には、わずかな戸惑いと……心配の色があった。
「……大丈夫?」
静かで丁寧、だがどこか距離を感じさせる声だった。
「え?」
俺の返事は……たぶん、今世で一番マヌケだった。
「……泣いてるよ?」と彼女は言った。
「……え、俺?」
思わず指先で目元をなぞる。濡れていた。
「……ああ、そうか。ちょっと目にゴミが入っただけだ。ここの本、結構埃っぽいからな。」
照れ隠しに乾いた笑いを浮かべながら、俺は慌てて涙を拭った。
「たまにそういうこともありますよね」
彼女はそう言って、丁寧な微笑みを浮かべた。
涙を拭き終えた俺は、彼女に道を譲ろうと一歩横に出た。
本当はもっと話したかったが、今はその時じゃない。
いきなり感情的になって話しかけたら、怪しい奴だと思われてもおかしくない。
……だが、彼女が胸に抱えている本に気づいた瞬間、その思いはどこかへ吹き飛んだ。
「それって、《アンデリルの物語》じゃないか?」と俺は聞いた。
彼女の目が、ほんの少し輝きを増した。「ご存じなんですか?」
俺は頷いた。「俺のお気に入りの一冊だ。若者が故郷を旅立ち――」
「そして、各地を巡り――」彼女が続けた。
「遺跡を探索して――」俺が受け取り、
「危険に立ち向かいながら――」彼女が頷き、
「冒険への飽くなき渇きを満たすために旅を続けるんだ」
俺たちは、同時に口を揃えた。
「これ、私の好きな本の一つなんです」
今度の笑顔は、さっきよりも柔らかく、どこか親しみを帯びていた。
首を少しかしげると、金色の髪がさらりと揺れ、光を受けてきらめいた。
「他にはどんな本を読まれるんですか?」
「むしろ、“読んでない本”を聞いたほうが早いかもな」
そう言いながら、俺はかつてのお気に入りをいくつか挙げてみた。――魔獣侵攻の前の話だが。
自分でも驚くほど、いろいろ覚えていた。
俺の言葉に、彼女の表情はどんどん明るくなっていく。
ついには太陽よりも眩しく思えるほどの笑みを浮かべていた。
「どれも、私の好きな本ばかりです」
彼女は夢見るように言った。「中には持ってるものもありますけど、ここでしか読めないものも多くて…」
「君がここに来てるの、よく見かけるよ」俺は正直に打ち明けた。
「あなたも、よく来てるんですか?」
「まあ、ここで働いてるからな。来ないほうが不自然だろ」
「えっ!」
彼女は驚きの声を上げ、唇を「O」の形にした。「そういえば… 本棚に本を戻してる姿、見たことあるかも… ごめんなさい、いつも本のことで頭がいっぱいで、周りをあまり見てなくて…」
「気にするなって」
本当はもっと話していたかったが、そろそろ学院に技術書を売りに行かないと間に合わない。それに、彼女がここに来た理由も知っている。
時間を取らせるのは悪い。
「とにかく、君は本を読みたくて来たんだろ? 邪魔しちゃ悪いし、俺は行くよ」
「……そうですか」
彼女の肩が、ほんのわずかに落ちたのが見えた。
その様子に、俺の目に少しだけ冒険心が宿る。
「また君をここで見かけたら、話しかけてもいいかな?」
「読んでる本について、誰かと話すのも悪くないと思ってさ」
彼女の瞳に再び光が宿った。
「ええ、ぜひ… またお話ししたいです」
俺は微笑んだ。「俺の名前はエリック。エリック・ヴァイガーだ」
「私はカリ――カリです」
彼女の笑顔は、まさに芸術としか言えなかった。「エリックさん、お会いできて嬉しかったです」
「俺もだよ」
俺が道を譲ると、彼女はもう一度微笑んでから階段を通り抜け、二階の奥へと歩いていった。
彼女が席について読書を始めても、時折こちらをチラリと見てくるのが可愛らしかった。
「“カリ”だけ、か……」
俺は小さく笑った。
名字を言わなかった理由は、もちろん分かっていた。
皇妃ヒルダの娘――そう明かしていたら、普通の男なら即座にひれ伏していただろう。
階段を下りながら、俺は背中に感じる微妙な「視線」を無視できなくなった。
……というより、「殺気」だな。
視線の正体を探ると、館内にいた十代前半~後半と思しき男子たちが、俺を睨みつけていた。
お前ら、祖先でも殺されたのかよってくらいの視線だ。
そんな中、ナディーンさんが近づいてきた。
「……意外ね、あんたがあんな積極的に話しかけるなんて」
「どういう意味だよ?」俺が聞くと、
「なんでもないわ」
彼女は空いた手をひらひらと振った。もう片手には本の山。
「……いい会話だった?」
「まあな」俺は目を細める。「……まさか、盗み聞きしてたんじゃないだろうな?」
「バカ言わないで。あんたたちの声がデカすぎただけよ。誰だって聞こえるわよ」
「そうかよ……」
改めて、あの男子たちの視線の理由が分かってため息を吐く。
「……他人のことなんて気にせずに自分の人生生きればいいのにな」
ナディーンさんは俺の言葉に小さく眉をひそめたが、特に何も言わなかった。
ただ、「もう帰りなさい」とだけ言ってきた。どうやらこの場に居るだけで、図書館の空気が悪くなっているらしい。
……まあ、最初から長居するつもりもなかったけどな。
第4話まで読んでくださって、ありがとうございます!
今回はあまり大きな出来事は起きませんでしたね。この物語は少しスローペースかもしれませんが、それはエリックや他のキャラクターの内面をしっかり描いていきたいと思っているからです。
――でも、エリックはカリと再会(?)しました!これは物語の中でもとても大事な場面だと思っています。皆さんにもこの再会の瞬間を楽しんでもらえていたら、とても嬉しいです!
これから少しずつ物語が動き始めますので、どうかこれからも応援よろしくお願いします!