錬金術師協会への提案
霊術の巻物を霊術師学院に売ったときの報酬として残っていたのは五百ヴァリスだけだった。それだけでは必要な材料を買うには足りない。仕方なく、貯金を切り崩した。そこにはさらに五百ヴァリスが残っていた。
なんとか……ギリギリ間に合った。
買い物を終えて帰宅すると、袋を床に置き、錬金セットを取り出す。今回の袋の数は多かったが、一つ一つは小さかった。普段のように大量購入はしていないからだ。
今日、ファイとの修行が早めに終わっていてよかった。もう少し遅れていたら、薬屋は閉まっていたに違いない。
錬金セットの準備が整うと、金属板を数枚取り出して床に敷き、五百ミリリットルのビーカーと二百五十ミリリットルのフラスコの下に火を灯した。それぞれに水を注ぎ、沸騰を待つ。
作業を始めると、今や俺の粗末な部屋の同居人とも言える蛇が、ずるずると這い寄ってきた。
じっとこちらを観察していたが、袋の一つに頭を突っ込んで材料を嗅ぎ回ろうとしたので、そっとその頭を押し戻す。
「やめろ」
その声には明確な警告を込めた。
蛇はシューッと怒ったような声を上げた。……たぶん、怒っていたのだろう。だが、今日の俺は容赦しない。
「その材料を買うために、全財産を使ったんだ。お前に汚されてたまるか」
蛇が表情を作っているかどうかはわからないが、なぜかすねているように見えた。
俺は真剣な視線を返す。今は本気だと伝える必要がある。
理解したのかどうかは不明だが、無言のにらみ合いの末、蛇はしょんぼりとベッドの上へと戻っていった。
ひとつ、問題は解決だ。
水が沸騰するのを待ちながら、俺は袋を見つめ、最初に何を作るかを考える。
少し考えて頷き、一番近くの袋を手に取る。その中には木の皮のような物体――「ウッドチップシェル」が入っていた。これはFランク魔獣・ウッドスラッグの体の一部で、魔獣山脈に生息する無害な生物だ。
これを乳鉢と乳棒で粉末状にし、百ミリリットルのビーカーに入れる。乳鉢と乳棒を洗浄し、次の材料を手に取る。
手のひらにすっぽり収まるほど小さなキャベツのような植物、「グラスハート」。これもすり潰し、ペースト状になったものを五百ミリリットルのビーカーに沸騰した水へ投入する。
完全に混ざるまでかき混ぜると、液体は濁った茶緑色に変化した。
乳鉢と乳棒を再び洗い、次の材料へ――。
その作業は、夜が明けるまで延々と続いた。
――そして朝。目の奥が死んだような感覚のまま、俺は街を歩いていた。
一睡もしていない。徹夜で丹薬の精製を続けていたのだ。
錬金自体は疲れる作業ではないが、この体はまだ徹夜に慣れていない。以前の――過去に遡る前の人生なら、もう少しどうにかなったかもしれないが、今の俺には少し堪える。
「エナジーピルでも作るか……名前は“レッドブル・ブースターピル”だな」
独り言を呟きながら、石灰岩や石畳でできた通りをいくつも曲がる。
地区を越えるごとに街並みが変化していくのは、いつ見ても面白い。
貧民街を抜けると、建物の密度が下がり、装飾も凝ったものが増える。柱付きの家、彫像のある邸宅、バルコニーやベランダ付きの建物、そして中には小さな宮殿のような家まであった。
首を振って気を取り直し、目的地へと歩を進める。
十五分ほどして、俺は目的地に到着した。
袋に入れた丹薬を手に、階段を見上げる。
そこは錬金術師協会へと続く石造りの階段だった。
かつては立派だったであろうその階段も、今ではひび割れ、欠け、色褪せた状態。
さらに目を上げれば、協会を囲む壁もまた、同じく傷みが目立っている。
階段を上り、中庭に足を踏み入れた。
そこにはいくつもの大きな建物が並んでいた。
かつての威光を感じさせる造り。石に刻まれた竜の意匠、瓦葺きの屋根、そして中央の建物の入り口には二体の竜の像。赤く塗られ、金の飾りが施された巨大な扉もまた、この場所の格を物語っていた。
――少なくとも、かつては。
今や壁の塗装は剥がれ落ち、建物にはひびが走り、瓦は色褪せ、竜の像も放置されて荒れている。
扉もまた、修理が必要な状態だった。
荒廃。まさにその言葉がぴったりだった。
まだ朝が早いせいか、前回来たときに見かけた露店も出ていない。
だが、人影はある。その中に、前に錬金セットを売ってくれた青年の姿を見つけた。
俺より数歳年上と思われる彼は、肩まである赤髪にわずかにオレンジの光を含み、茶色い瞳と色白の肌を持っていた。今日は深い青のローブを身にまとっていたが、それもまた使い込まれてくたびれている。
俺に気づいた彼は、一瞬目を細めて記憶を辿るような表情を見せたが、すぐに理解したのか目に力が戻った。
「お前、先月錬金セットを買っていった子供だろ?」
“子供”という言葉に、思わず眉がピクリと動いた。
……せめて“女”と言われなかっただけマシか。
「そうだ」
俺は作り笑いを浮かべて返した。「記憶力がいいんだな」
「こんなところに来るやつは珍しいし、若い子が錬金セットを買うなんて、もっと珍しいからな」
また“子供”か……
心中で暴力的な衝動を振り払いつつ、俺は冷静な態度を保つよう努めた。
「今日は、誰かに錬金術師協会の会長を紹介してもらいたくて来た」
「会長に会いたい?……すまないが、今は君に構ってる余裕はないと思うな」
「客が多すぎて手が回らないってか?」
皮肉を込めて言うと、彼は一瞬反応したが、俺は構わず続けた。
「会長にこう伝えてくれ。“興味を引く提案がある”と」
その上には高性能の錬金セットが置かれており、机の後ろでは一人の人物が羊皮紙を読み込んでいた。
机の向こうに立っていたのは、二十五か三十歳を超えてはいないであろう若い女性だった。
彼女は先ほどの青年と同じ、赤にオレンジが混じったような髪を持っていた。背が高く、紫の絹のローブをまとっている。そのローブは少し古びていたが、彼女が着ると不思議とそれすら上品に見える。おそらくは彼女の体つきのおかげだろう。胸はカリよりもさらに豊かで、曲線を描くその体は、男なら誰もが見惚れる“理想の砂時計”のようだった。
俺たちが机に近づくと、彼女は顔を上げた。大きな鹿のような瞳――その奥には鋭い光が宿っていた。
「あなたが会いたいと言っていた方ですか?」
丁寧だが少し困惑した声で問いかけてくる。
「そうだ。ただ、こちらから頼みがあるというよりは、俺が力になれるかもしれない、という話だ」
「どういう意味か、よくわからないわ」
彼女が首をかしげ、顔にかかった髪を耳にかける。
納得のいかない表情を見て、俺は机の上に目を向けた。高性能の錬金セットが端に寄せられ、広がるスペースには、数枚の羊皮紙が置かれていた。そこには多くの走り書きがあり、錬金材料の組み合わせに関する研究のようだった。
この人……独自に丹薬の再現を試みているのか。正直、感心した。
俺は袋から六種類の丹薬を取り出し、机の上に並べた。
青に波のような模様の丹薬。深い茶色、濃いピンク、紫、内部に雷が宿るようなもの、そして真紅の丹薬。
女性の目が見開かれ、輝きを帯びる。
「これは……」
「テンダー・ヒーリング・ピル、スピリチュアル・ブースター・ピル、一時強化の丹薬、クラリティ・ピル、エンデュランス・ピル、そしてエレメンタル・ピル」
彼女は丹薬を見つめたまま、すらすらと名前を言い当てた。
「正解だな」
俺は驚きを隠せなかった。「よく知ってるんだな」
「百年前の火災で、精製方法の書はすべて焼失した。でも、丹薬に関する記録は一部残されたわ。当時の会長が命がけで資料の一部を守ったの。私はその断片から、精製方法を再現しようとしていたの」
彼女は俺に視線を向ける。その瞳には警戒と、わずかな好奇心が宿っていた。
「あなた……これをどうやって?」
「俺が作った」
「あなたが……?錬金術師だったのね?」
「いや」俺は首を振った。「俺は本物の錬金術師とは言えない。作れるのは、当時必要に迫られて覚えた数十種類の丹薬だけだ。真の錬金術師とは、材料同士の反応を理解し、独自の丹薬を創造できる者のことだ」
「昔は、そうだったわね」
彼女は寂しげに微笑む。「でも、今の時代、たった一つの丹薬を作れる者すらいない。ましてや六種も……。あなたのような存在は、もはや伝説の域よ」
そして、少しだけ表情を改めた彼女は名乗った。
「私はフェインレア・クーニス」
「エリック・ヴァイガーだ」
「あなたがこの丹薬を持ってきたということは……取引の話よね?」
机の上に広がっていた資料を手早く整えながら、彼女が問いかけてくる。
俺は横に立つ青年――彼女の弟と思しき男――のぽかんとした表情に、思わず笑いそうになったが、すぐに意識をフェインレアへと戻した。
「俺は、この丹薬の製法を文書化し、協会の錬金術師に教えることができる」
「その代わり、利益の一部をいただくというわけね?」
「その通り」
フェインレアはしばし沈黙し、背筋を伸ばして椅子に座り直す。
指を組み、机の上にそっと置く。
鋭い眼差しで俺を見つめてきたが、俺はそれに動じなかった。
彼女は賢い女だ。
この取引が成立するかどうか、また成立するならその条件をどうすべきか――それを見極めているのだろう。
「取引自体には異論はないわ」
フェインレアは慎重に言葉を選びながら口を開いた。「でも、現状の錬金術師協会は過去最悪の状況よ。ネヴァリアの人々には笑いものにされている。正直、今私たちがこれを売ろうとしても、誰も信じてくれないでしょうね」
「それは……問題だな」
「ええ」
フェインレアは自嘲気味に笑い、再び丹薬へと視線を向ける。
「でも、オークションにかければ、あるいは可能かもしれない。オークションハウスも最近は苦戦しているけど、まだ一定の影響力がある。もしあそこが貴族たちにこの丹薬を紹介してくれれば、評判が広まって本格的に売れるようになるかもしれない」
俺はオークションハウスのことをよく知らない。
前世では、図書館の仕事をしていたこともあり、関わりはなかった。
だが、カリが一度か二度行ったことがあると話していたのを思い出す。
「それを実行できないのか?」
「やってみる価値はある。でも、あのオークションハウスは、うちと無関係な小貴族が運営しているの。関係性も信頼もない私たちが交渉しても、話を聞いてもらえるとは限らないわ」
「どこの貴族だ?」
「ヴァルスタイン家よ」
体が硬直した。
これは偶然か、それとも運命か。
だが、いずれにせよ関係ない。重要なのは――俺が動けるということだ。
「ヴァルスタイン家への接触は、俺に任せてくれ」
フェインレアは目を細めて俺を観察する。
俺の着ているボロボロの服が、貧民であることを明確に物語っていた。
当然、警戒心も強くなるだろう。
だが、それと同時に、彼女は俺が持ってきた六つの“失われた”丹薬を目の当たりにしている。
「あなた……ヴァルスタイン家と知り合いなの?」
「そうだ」
俺は微笑みを深めた。「現当主の娘――彼女とはかなり深い関係にある」
フェインレアは大きく息を吸い込み、俺の言葉を慎重に吟味した。
貧民の少年が貴族令嬢と親しいなど、普通は信じがたい。
だが、彼女は賢く、そして追い詰められている。
それに、もし俺の言葉が本当であるならば、それは協会にとって大きな希望となる。
数秒の沈黙の後、彼女は静かに頷いた。
「その件、任せるわ」
「必ず、いい報告を持ってくる」
いくつかの挨拶を交わし、俺は丹薬を袋に戻す。
そのとき、彼女が名残惜しそうにそれらを見つめていたのを見て、俺は口元をわずかに緩めた。
そして、錬金術師協会を後にする。
――明日の修行中に、ファイにこの丹薬をオークションに出せるか相談してみよう。
そして、錬金術師協会を後にする。
――明日の修行中に、ファイにこの丹薬をオークションに出せるか相談してみよう。
あとがき
今回は少し展開がゆっくりだったかもしれません。読者の皆さんの好みに合っているか、不安な部分もありますが……楽しんでいただけたなら幸いです。




