第三十二章
過去、再び滅ぼされた彼らの家
ここ数日、状況は緊迫していた。夜間の警備に就いていた者たちが、空にいくつかの影を見たと言っていた。もしそれがただの鳥であれば、報告するほどのことではなかったし、そもそもあの影を視認することすらできなかったはずだ。この世界に、翼幅が十メートルを超える鳥など存在しないのだから。
私は、万が一に備えて夜間の警備を増やした。仮にそれが魔獣であったなら、早急な対応が必要になる。しかし、数日が経過しても何も起きず、ネヴァリア出身の霊術師たちは徐々に気が緩み始めていた。無理もない話だ。緊張状態を長く維持し続けることは難しい。やがて、人は油断という名の罠にかかるのだ。
「キィィィィィイイイ!!」
深夜、鋭い叫び声が空気を裂き、私とカリは同時に飛び起きた。魂をえぐるような音だった。私たちは裸のまま、迷うことなく窓辺へ駆け寄った。
そこで見た光景に、言葉を失った。
「まさか……」カリの瞳が大きく見開かれる。
「ああ」私の心にも冷たいものが走る。「間違いない、魔獣だ。プテラノドン型だ」
空に無数の影が飛び交っていた。長い頭のトサカと、針のように鋭い歯が並ぶクチバシ。皮膜の翼は広く、体格自体はそこまで大きくはないものの、その翼幅は軽く二メートルを超えていた。そして、手こそないが、三本の鋭い爪を持つ足は、生身の肉など容易に引き裂くだろう。
窓のすぐ傍まで接近していた個体が、口を大きく開けて再び耳を裂くような咆哮をあげる。その歯列はまるで刃物のようだった。
「外へ出ましょう!」カリが叫ぶ。
「すぐ後ろにいる!」
慌ただしく防具を身につける。時間がなかったため、カリは胸当ての下に巻いていた布を省略したが、武器は忘れなかった。彼女が持つのはランス型の武器――ランスールと呼ばれる武具で、槍の穂先の根元に十字状のガードがついており、それが三叉に開いているため、見た目はトライデントにも似ている。その穂先は血のように赤く、かつてカリの母が討ち取ったBランク魔獣の血とアダマンタイトを混ぜて鍛えたものだと聞いていた。
一方の私は、ただの量産型ブロードソードしか持ち合わせていなかった。
他の霊術師たちも、同じように武器を手にして館のホールに向かっていた。中には素手の者もいたが、それでも皆、戦う意思はあった。
外に出ると、すでに地獄絵図が広がっていた。プテラノドンたちは、鋭い鉤爪でいくつもの建物の屋根を破壊し、混乱に乗じて逃げ出してくる人々を次々と狙っていた。
一人の青年が空から襲い掛かってきた魔獣に肩を掴まれ、空中へと連れ去られるのを見た私は、心を固めて叫んだ。
「霊術師たち!! 防衛陣形を組め! 戦えない者は屋敷の中へ退避させろ!」
私の叫びは、魔獣の咆哮と人々の悲鳴にかき消されそうになったが、それでも数人が反応し、周囲の者たちへ指示を伝えてくれた。霊術師たちは魔獣の集中している場所へと走り出し、それぞれが術式を展開した。
ある少女は、重厚なフルプレートに身を包み、ツヴァイヘンダーを振り下ろした。最初の一撃で刃に炎が灯り、次の一撃では炎の斬撃が生まれ、それが魔獣の胸を焼いた。続けて別の魔獣が彼女に襲いかかろうとしたが、それを止めたのはカリだった。彼女は体を捻って霊力を凝縮し、ランスールの穂先から放たれた光の槍が、見事に魔獣の心臓を貫いた。
倒れゆく魔獣に向かって私は跳躍し、その亡骸を踏み台にして空中へと飛び上がった。描いた放物線は別のプテラノドンへと繋がる。その背中に、落下の勢いを乗せて剣を突き立てた。プテラノドンは恐怖に満ちた悲鳴を上げ、必死に私を振り落とそうともがく。そのまま館の壁に激突すると、壁はまるでパンでできていたかのように脆く崩れ落ちた。
私は歯を食いしばり、剣を通じて雷を送り込んだ。強烈な霊力が体を駆け巡る。剣が眩しく輝き、刃に沿って稲妻が流れ、プテラノドンの体内へと入り込み、内臓を焼き尽くした。魔獣の鼻や口、耳から煙が立ちのぼり、体内が焦げる音が聞こえてくる。だが、その厚い皮膚のおかげで私自身には感電した感触はなかった。
魔獣は地面に落ちる前に絶命していた。私は死体から飛び降り、すぐさまカリの元へと戻った。彼女は恐ろしいほどの威力でランスールを回転させている。武器の先端から光が放たれ、一つ一つの光が凝縮して小さな球体となり、内に秘めた強力な霊力を帯びて宙に浮かんでいる。カリがランスールを振り抜くと、光球は矢のような速度で飛び、小型のプテラノドンたちを次々と貫いた。その体はまるで枯れた羊皮紙のように容易に破れていった。
戦況は比較的順調のように見えたが、すでに二人の霊術師が命を落としている。一般人の大半は生存していたものの、初めから霊術師の人数自体が少なかった。最初から十人しかいなかった私たちだが、二人を失った今、戦える者は八人だけだ。さらに悪いことに、プテラノドンはCランク魔獣だ。通常、一匹倒すのに複数の霊術師が必要になる。単独で倒せるのは私とカリだけだ。
「魔獣がさらに道の方から来ているぞ!」
鋭い叫びが響く。入口を守っていた若い女性霊術師がその声の主だ。その直後、一匹のプテラノドンが彼女の頭を爪で掴み、空中へと連れ去った。これで七人になった。
まるで世界が私たちに追い討ちをかけるように、門付近の館を取り囲む外壁が爆発し、新たな魔獣の群れが押し寄せてきた。小型のもの、大型のもの、角を持つもの、鋭い爪を持つものなど、あらゆる種類の魔獣が入り混じっている。魔獣についての知識に乏しい私は、それぞれの正確な種類までは判別できなかったが、ただ事でない状況だけは理解した。
「数が多すぎる!」悲痛な叫びが響いた。
「一体どうすればいいんだ?!」絶望的な声がそれに続く。
「皆、落ち着いて私についてきて!」カリが叫び、ランスールを高く掲げ地面に突き立てる。武器の底から凄まじい霊力が放出され、迫る魔獣たちの足元へと広がった。地面が裂けて隆起し、直後に爆発を起こし、多くの魔獣が空中に吹き飛ばされた。
「一般人は霊術師の間に入れ! 霊術師たちはカリの元に集まれ!」私は指示を飛ばした。カリは自らの攻撃で作った隙間に向かって突進している。
他に選択肢がないことを悟った一般人と霊術師たちは、諦めた表情を浮かべながらも指示に従った。彼らの様子からは、まるで死地へ向かうような覚悟が滲み出ていた。
しかし、私はそんな彼らの表情に気を取られている暇はない。カリと共に魔獣の群れに向かって突進し、剣に霊力を集中させた。剣に亀裂が入り、美しい刃の表面に小さなひびが入ったが、それを無視して雷を凝縮させた。次の瞬間、稲妻は剣の刃先から十メートルほど伸び、私はそれを横一閃に振り抜いた。
雷の刃は魔獣たちの脚を次々と切断し、前列の群れは地面に崩れ落ちた。草の上に血の池が広がり、その後方にいた魔獣たちは倒れた仲間にぶつかり、大きな山を築いた。
カリは素早く数歩前に踏み出し、身体をひねりながら霊力を凝縮した。その口から激しい気合いの叫びが放たれる。彼女の手の中でランスールが複雑な軌道を描き、その先端を勢いよく突き出す。直後、膨大な霊力が凝縮された巨大な円筒状の光線が槍から噴き出した。地面をかすめるように前進した光線は、前方に群がる魔獣の群れを飲み込んだ。多数のDランクやCランクの魔獣が一瞬で消し飛ぶ。殺されたのではない、完全に消滅したのだ。その攻撃により魔獣の隊列に大きな穴が空き、私たちと他の者たちはその隙間を突いて駆け抜けた。
私は周囲で起こることに気を払う余裕もなく、次々に迫り来る魔獣を切り倒していった。四つ足の毛むくじゃらな魔獣が襲いかかってくる。私は雷をまとったままのブロードソードを振り下ろし、その体を真っ二つに切り裂いた。振り返りざまに手を掲げ、霊力を放出すると、稲妻の波が数体の魔獣を直撃し、その身体を痺れさせた。
カリは最前線を進んでいた。彼女は地面を舞うように動きながらランスールを振るい、絶え間なく攻撃を放つ。無数の白い槍が空中に形成され、雨のように魔獣たちの身体を貫いた。ランスールからは凝縮された光のビームが放たれ、多くの敵を撃ち抜く。彼女が武器を円状に振り回すと、白い光の波紋が広がり、周囲にいた魔獣たちの身体を切り裂いた。
彼女の恐るべき強さに、私は思わず目を見張った。自分も強い方だと思ってはいたが、カリは戦場においてはまさに怪物だ。私は胸の内で誇らしさを覚えていた。
ようやく道の終点が見えた。その先には山間の通路が見える。両側を高い崖に挟まれた幅約二十メートルの一本道で、ここへ至る唯一の道だった。私たちがこの場所を選んだ理由の一つだ。攻撃を受ける方向が制限され、安全だと考えたのだが、結果的にはそれが罠となった。
「もう少しだ!」とカリが叫ぶ。「あと少しで辿り着く!」
私たちが通路へ辿り着こうとしたその瞬間、凄まじい咆哮が響き渡り、身体が震える。地面が揺れ動き、全員が足を止めざるを得なかった。その道の真ん中に巨大な魔獣が姿を現したのだ。巨大な脚は太く、まるで何本もの大木を束ねたようだ。その巨大な前脚が一歩踏み出す度に、地面が激しく揺れ動く。細長い胴体には筋肉が波打ち、その獣が動くたびに威圧感を放っていた。唇がめくれ、鋭い牙が幾重にも並ぶ口が露わになる。その額には二本の角があり、一本は上部に大きくそびえ、もう一本はそのすぐ下にやや小さい角が生えている。
「あれはベヒーモス!」カリが驚愕の叫びを上げる。
ベヒーモス――Bランクの魔獣だ。討伐には、高度な技能を持ち、卓越した力を有する霊術師が複数必要とされる存在である。魔獣山脈で資源を狩る霊術師の大半は、ベヒーモスとの遭遇を避けようとするものだ。その討伐には、王国の近衛兵やネヴァリアの霊術師隊長級の実力者が数人必要だった。
「もう終わりだ!死ぬぞ!」誰かが悲鳴を上げる。
「誰も死なせない!」私は鋭く返し、すぐにカリへ視線を向ける。「君はどう思う?」
「私たち二人だけでは厳しいでしょうね……」カリは唇を噛んだ。「でも、これを倒さなければここから逃げることはできない」
私は頷く。「私もそう思っていたところだ」すぐに後方の仲間たちへ振り返り声を張り上げた。「霊術師たち!民間人を守れ!こいつは私とカリが相手をする!」
彼らの返事は聞こえなかった。ベヒーモスの咆哮がすべてを掻き消していたからだ。
私とカリはすぐに駆け出す。彼女が先行し、私がその少し後ろを追う。カリは私よりずっと速かった。その速度のおかげで、ベヒーモスが彼女を押し潰そうと足を振り上げるより早く、その下をすり抜けていく。彼女の白く輝くランスールが魔獣の左前脚を狙い振るわれるが、その堅牢な皮膚に阻まれ、攻撃は弾かれ火花が散った。衝撃で後ろへ飛ばされたカリの瞳が大きく見開かれる。ベヒーモスはすかさず彼女を踏み潰そうとしたが、彼女は素早く立ち直り、間一髪のところで攻撃を避けた。
「皮膚が厚すぎる!」と彼女が叫ぶ。
「今度は私が試してみよう!」
ベヒーモスは私を睨みつけながら口を大きく開き、直径一メートルはあろうかという猛烈な炎のブレスを吐き出した。その熱気が離れている私のところまで伝わり、肌が焦げるような感覚に襲われる。
Bランク魔獣が厄介なのは、霊力による攻撃が使えることにもある。
私は炎のブレスをかわし、剣に雷を宿した。背後で起きた爆発が猛烈な風圧となり背中を押したが、私はそれを利用してさらに加速し、しっかりと地面を踏みしめながら突進した。武器から響く亀裂音を無視し、限界まで霊力を流し込み、ベヒーモスの左前脚に全力で斬りつけた。雷を帯びた刃が脚にぶつかった瞬間、最初は何も起こらなかったが、咆哮をあげてさらに霊力を送り込むと、刃が徐々に食い込み、ついにはその脚を完全に切り落とした。
ベヒーモスは激痛と怒りに満ちた咆哮をあげ、地面に倒れ込んだ。その衝撃で地面が激しく揺れる。カリはすでに魔獣の下から飛び出し、前方に回り込むと跳躍し、ランスールを前方に突き出した。
「これでもくらえ!!」
ランスールの穂先はベヒーモスの眼を貫いた。傷口から鮮血が溢れ、カリの胸当てを真っ赤に染めるが、彼女は構わず武器をさらに深く押し込んだ。魔獣は苦痛に暴れ、彼女を振り落とそうとしたが、カリはその鼻先を蹴り、ランスールを引き抜いて後ろへ飛び退った。彼女が私の隣に着地すると、破壊された眼窩から大量の血が流れ落ちた。
「今よ、エリック!」カリが叫ぶ。
「うおおおおおっ!!」
私はさらに霊力を剣に集中させ、再び巨大な雷の刃を生み出した。その長さは私の体の三倍はあっただろう。刃が激しい音を立てて鳴り響いたが、それすらもかき消す勢いで私は絶叫をあげ、剣を振り下ろした。雷の刃はベヒーモスの胴体を真っ二つに斬り裂く。魔獣は苦悶の悲鳴をあげたが、それも徐々に弱まり、やがて痛々しい呻き声と共に息絶えた。
「はぁ……はぁ……」激しい呼吸を繰り返す私の手から剣が砕け散り、破片が地面に散らばる。刃のなくなった柄を放り出し、立ち上がろうとするが足元がふらつく。一撃に全ての霊力を込めることは、それほどまでに疲弊するのだ。
「大丈夫?」カリが私の身体を支えてくれる。
「ああ……」私は息を切らしながら答えた。「少し……息を整えれば……」
頷いたカリは背後を振り返る。
「みんな!」彼女は生き残った霊術師と一般人に向かって叫ぶ。「早く!立ち止まらずに走って!何があっても振り向かないで!」
振り返って見ると、生き残っている人数はかなり少なかった。残っていた二十人ほどの一般人のうち五人が、さらに霊術師二人がダイアウルフなど他の魔獣に襲われて命を落としていた。生存者の中には女性が二人、男性が三人、それに子供が二人——幼い男の子と十一、十二歳ほどの少女がいた。多くの命が失われたにもかかわらず、生き残った者たちは私たちの後を追い、走り続けた。私たちは迫り来る魔獣の群れを背に、山道を必死に駆け抜けた。その間、私の胸中は重苦しかった。
三か月間、平和に暮らしてきたあの家は、もう失われてしまったのだ。
この章から第2巻が始まります。物語は過去の時間軸に遡り、エリックが時間を遡る以前に直面した苦難や試練が描かれています。楽しんでいただければ幸いです。




