霊災(スピリチュアル・ディザスター)
シフトに遅れてきたため、図書館が閉まるまで働き続けた。ちょうど太陽が沈みかけた頃、仕事を終えた俺は通りを歩いていた。空は赤や橙の色で染まり、まるで燃えているかのようだった。
だが、俺は部屋へ戻るつもりはなかった。代わりに、さらに遠くへ向かっていた。
ネヴァリアは都市国家だ。正直、どれほどの広さがあるのかは知らない。だが、いくつかの区域で構成されていることは覚えている。街の中心部――いわゆる「市街地」には、ほとんどの市民が住んでいる。そして市門を越えて東へ進めば、広大な農地と開けた平原が広がっていた。
だが、今の俺は北へと進んでいた。
朧げな記憶を頼りに、俺は北を目指していた。歩きながら、ネヴァリアの中心にそびえる巨大な山に目を向ける。
――いや、「山」と呼ぶには少々足りない。「丘」と言った方が近いかもしれないが、それにしては大きすぎる。まるで誰かが小さな山の頂上を削り取り、その平らになった地に豪奢な邸宅を建てたかのようだった。
その山頂に位置する巨大な建物。それが、頑丈な石壁に囲まれたアストラリア王族の居城――「帝皇家宮殿」だった。
「カリィ……」
その名を口にした瞬間、またしても彼女に会いたいという衝動が胸を突いた。
だが、俺はそれに抗うように身を翻す。
「もう少しだけ……待っててくれ。」
ネヴァリアの外周は、巨大な城壁で囲まれていた。その石造りの城壁は、少なくとも二十メートルはあろうかという高さで、俺を圧倒するようにそびえていた。
近づくにつれ、城壁の上を巡回する兵士たちの姿が見えてきた。そして、その巨大な門の両脇には、守衛が二人ずつ立っていた。幸いなことに、その門はまだ開いていた。
彼らは、鎖帷子の上から黒く塗られた鎧を纏い、ややゆったりとした茶色のズボンを履いていた。だが、動きやすそうな装備だった。一人は剣とバックラーを装備し、もう一人は槍を握っていた。そして、全員が黒いマントを羽織り、左胸には太陽の紋章が刺繍されている。
――ネヴァリアの霊術士たち。
彼らは、魔獣の襲撃に備える、街の第一防衛線だ。
門を通る人々はまだ多く、俺が通り抜けても誰も気に留めなかった……いや、一人の守衛が俺の髪を見てしかめっ面をしていたが、それ以上の反応はなかった。
そのまましばらく歩き続けると、やがて巨大な森が見えてきた。そこにある木々は、城壁と同じくらいの高さを誇っていた。
ネヴァリアは、北・南・西の三方を山脈に囲まれていた。それらの山脈は互いに連なり、まるで三日月のような形を成しており、その中心にネヴァリアが存在している。
この街が他国からの侵略を防ぐため、戦略的な意味を込めてここに築かれたのかは知らない。だが――
……この街が魔獣の領域にあまりにも近すぎたことが、かの大侵攻の引き金となったのではないか、と俺は思っていた。
どこまで奥に入ればいいのか、正直分からなかった。だが、少なくとも霊力に敏感な人々の邪魔にならない場所まで離れたかった。
本音を言えば、魔獣山脈まで行きたかった。だが、あそこに足を踏み入れるには、ネヴァリア霊術師団の一員であるか、王家直属の親衛隊、あるいは貴族である必要があった。または、少なくとも霊術師団の隊長以上の者からの特別許可が必要になる。
俺は、その魔獣山脈へと続く峡谷の前に建てられた巨大な門をじっと見つめた。門の前には、またしても二人の守衛が立っていた。上の城壁を巡回する兵士たちの姿もあるし、門の両側にある塔の上にも、それぞれ兵士が配置されていた。
俺は、物陰に隠れながら、ほぼ一分ほどその様子を観察し続けた。
そして、見切りをつけると、門を避けて森の奥へと足を進めた。
陽が山の向こうに沈みかけていたため、辺りはどんどん暗くなっていった。さらに、頭上に広がる樹冠が星の光すら遮っていた。
だが、俺の足取りは迷いなかった。根を避け、木々の間を縫いながら、確かな感覚で進んでいく。
木々や茂み、巨岩や池のそばを通り過ぎ、やがて俺は小さな空き地に辿り着いた。特に目立った場所ではなかった。ところどころに草が生えているが、ほとんどは裸地で、複数の巨大な根が地面を突き破り、絡まり合っていた。
空き地に足を踏み入れた瞬間、どこからか水の流れる音が耳に届いた。
深く息を吸い込む。花の香りが混じった自然の空気が、思った以上に心を落ち着かせてくれた。……どうやら俺は、もうあの街の匂いに慣れなくなってしまったらしい。
「……ここで十分だな」
そう呟いた俺は、ほんの少しだけ躊躇してから、草の生い茂る場所に腰を下ろした。
足を組み、両手を膝の前に構える。掌と掌の距離は、およそ四尺ほど。
そして、ゆっくりと深く息を吐き出した。
自分の内側へと意識を向け、霊力を探ろうとした、その時だった。
「ぐっ…!」
精神の奥へと手を伸ばした瞬間、突然――圧倒的な圧力が全身に叩きつけられた。
俺の体から青い霊力が激しく噴き出す。
それは天空へと突き刺さるような巨大な蒼の柱となり、雷のような霊光が周囲へと四散しながら天を衝いた。木々の天蓋を突き破り、夜空を照らす。
あまりにも突発的だったため、制御などできるはずもなかった。
ようやく我に返り、何とか抑えようとしたとき――俺は気づいた。
「……制御できない……っ!」
歯を食いしばる。だが、その霊力の奔流はさらに勢いを増し、ついには周囲の環境にまで影響を及ぼし始めた。
地面が割れ、真上の枝が砕け散る。
左手の側にあった岩が、轟音と共に粉砕される。
指先の下からは水が噴き出し、空へと青白い雷がほとばしった。
俺は唇の内側を噛み締めた。血の味が口の中に広がる。
視界が暗くなり、意識が遠のいていく。
なんだ……これは……
ヒルダは夫たちと共に眠っていた。
だがその夜、突如としてネヴァリアの空を覆う強大な霊圧に、文字通り跳ね起きそうになった。
彼女と三人の夫は、ほぼ同時にベッドから飛び起き、お互いの顔を見合わせると、慌ただしく布団から這い出た。
素早くナイトガウンを羽織り、裸の体を隠すと、夫たちと共に窓際へと向かう。
霊圧の源がどこから来ているのかを見極めようと、窓の外へと目を凝らす。だが、探すまでもなかった。
「……滅多に見られるものじゃないわね」
ヒルダは腕をさすりながら呟いた。鳥肌が立っていた。
森の奥から、巨大な霊力の柱が天へと伸びていた。
それは竜巻のように渦を巻き、周囲へと雷撃を放ちながら唸っていた。
いくつかの稲妻が木を直撃し、まるで紙のように引き裂いたが、大半の雷光は空へと消えていった。
あまりに衝撃的な光景だった。
ヒルダも、夫たちも、霊圧が完全に収まるまでただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ようやく我に返ったヒルダは、夫たちに的確な指示を出し始める。
「ヴァレンス」
彼女は第一夫に向き直った。
「王立親衛隊を率いて、あの霊力を調査させなさい。急いで。三大天家も同様に動き出しているはずよ。特にルヒト家には絶対に先を越されないように」
「承知しました、我が女王」
ヴァレンスは一礼すると、寝室奥のクローゼットへと急ぎ、着替えを始めた。
彼の背中を見届けた後、ヒルダは残る二人の夫へと視線を移す。
「ライナー、ダンテ。あなたたちはエドガー、フェリクス、それとヘレンを呼び、部隊を率いて現地へ向かって」
彼女は鋭い目つきで命じた。
「原因の特定は後回しよ。まずはネヴァリア霊術師団に命じて、あの一帯を完全に封鎖させなさい。誰一人、出入りを許してはならないわ」
「さっきの霊力を放った人物……敵対者だと思いますか?」
ダンテが尋ねた。
ライナーは無言で一礼し、クローゼットへと駆け込んでいく。ちょうど中から出てきたヴァレンスとすれ違った。彼はすでに金色の鎧を身に纏い、帝国親衛騎士団将軍(インペリアル・ロイヤル・ナイト・ジェネラル)の威厳を纏っていた。
「分からないけど、たぶん違うと思うわ」
ヒルダは少し間を置いてからそう答えた。
「あの霊力の放出は、意図的というより、修行中に力が暴走してしまったように感じたわ。むしろ心配なのは、あの人物を三大天家が先に見つけて、自分たちの有力者として囲い込もうとすることよ。特にルヒト家が先手を打って、あの人物を取り込んだりしたら……」
それ以上は言わなくても、ダンテには十分だった。
普段は飄々とした彼の表情から一切の余裕が消え失せ、真剣な顔でうなずくと、そのままクローゼットへ向かい、着替えを始める。
数分後、彼はネヴァリア霊術師団指揮官の証である銀の鎧を身に着けて部屋を出ていった。
ライナーの後を追うように。
残されたヒルダは、一人静かに窓の外へと目を向ける。
さきほどまで渦巻いていた霊力の柱は、ついに完全に消え去っていた。
だが、それはもはや関係のないこと。
あの霊圧を感じ取った者は、ネヴァリア中に山ほどいるだろう。そして、空を突き刺すような霊力の柱を目撃した者も、きっと多い。
そう考えながら、ヒルダはナイトガウンを脱ぎ、クローゼットの奥へと足を踏み入れた。
広々としたその空間には、彼女と夫たちの衣装や装備が揃っていた。
夫たちと違い、彼女は鎧を身に着けない。
その代わり、白い絹のズボンを腰まで引き上げ、腹部と谷間がほのかに覗く長袖のシャツを身にまとう。
最後に、宝石で飾られた淡い紫のマントを羽織ると、会議が立て続けに入ることを見越して、上質な室内履きを履いた。
着替えを終えたヒルダは、その豪奢な寝室を後にし、輝く白いタイルでできた廊下へと足を踏み出した。
精霊灯が進む先を照らし、足元には紫色の絨毯が長く伸びている。いくつかの曲がり角を曲がりながら、やがて一つの扉の前へと辿り着いた。
コン、コン、と軽くノックする。
「カリ?」ヒルダは優しく声をかける。「中にいるの?」
扉の向こうから、微かにため息が聞こえた。
「います」
「入ってもいい?」
「……どうぞ」
安堵の息を吐き、ヒルダはそっと扉を開けて中へと入った。
部屋の中は広々としていたが、女の子らしさは一切感じられなかった。
壁には飾り一つなく、煌びやかなカーテンもない。代わりに本棚が壁沿いにずらりと並んでおり、奥にはクローゼットと専用の浴室に続く扉があった。部屋の中央には天蓋付きの大きなベッドがあり、左奥には机が置かれている。
窓辺に立ち、遠くを見つめている娘の姿があった。
その視線の先に、先ほどまで霊力の柱が立ち昇っていた場所があることを、ヒルダはすぐに察した。
「様子を見に来たのよ」
ヒルダは微笑みながらカリの元へ歩み寄る。
「大丈夫?」
カリはまたため息をついたが、振り向くことはなかった。
「売り物のように、あと数息で他人のものにされるというのに、どうして大丈夫でいられると?」
ヒルダは娘の言葉に眉をひそめた。
「誰かに売り飛ばすなんてこと、していないわ。ただ政略結婚の可能性について話し合っているだけよ」
「私にとっては、どっちも同じです」
カリはぼそりと呟いた。「興味がないって、伝えてくれればいいのに」
「彼らの申し出を真正面から断れるほど、私にも権力はないのよ」
ヒルダは乾いた笑みを浮かべながら、窓際へと歩み寄った。娘の隣に立つが、距離は数歩空いている。それでも、二人並んで外を見渡せるほどに窓は大きかった。
「そんな力があったなら、ルヒト家の提案なんて百回でも蹴り飛ばしてるわ」
カリの返事は、またしてもため息だけだった。
ヒルダは自分の無力さを心の中で呪った。
もし娘が四人の子の中で最年長か、あるいは最も強い存在であれば、ルヒト家の申し出を断ることもできただろう。だが、カリは末娘であり、しかも力もまだ未熟だった。この強さがすべてを決める世界では、相手の申し出を一蹴する権利などなかった。ましてや、ルヒト家自身が強大な権力を有しているのだから。
ただ幸いにも、彼らが正式に求婚するにはまだ早い。とはいえ、数ヶ月後には動きを見せるだろう。
――大霊術師大会が間近に迫っている。きっと、そのときに何か仕掛けてくるはずだ。
「さっきの霊力、感じたかしら?」
話題を変えるようにヒルダは尋ねた。
「なかなかのものだったわね」
「ええ……」
カリは眉間にしわを寄せた。
「あの霊力、なんだか変でした。妙に……懐かしいような気がして」
「懐かしい……?」
ヒルダは首を傾げたが、それ以上の答えは返ってこなかった。
娘が沈黙したままなので、ヒルダは再び窓の外へと視線を戻す。
――願わくば、夫たちが何か手がかりを掴んでいてくれますように。
第3章まで読んでいただき、ありがとうございます!楽しんでいただけたでしょうか?
実は今、日本にいます。だから「小説家になろう」での投稿も普段より少しだけやりやすいです。
このまま毎日1話ずつ投稿できたらいいな〜なんて思ってますが、どうなるかはまだ分かりません(笑)。
これからもエリックの物語を応援していただけたら嬉しいです!