その理由
俺は一歩、一歩とグラントに近づいていった。
落ち着き払った、氷のように冷たい歩み。
もちろん、わざとだ。
俺が近づくほど、相手が恐怖に飲まれていくのが分かったから。
すでにグラントは完全に硬直していた。
逃げようと思っても、もう体は動かない。
俺の霊圧によって関節は固まり、俺がゆっくりと“獲物”に迫るのを、ただ見上げるしかなかった。
俺が近づくにつれて、霊圧の効果はより強くなる。
十五メートル──グラントの青白い肌には汗が滲み、滴り落ちた。
十メートル──その体は、怯えた兎のように震え始める。
五メートル──ついには腰を抜かして尻餅をつき、ただ目を大きく見開いて俺を見上げるだけの存在に成り果てた。
そして、一メートル。
俺は歩みを止めた。
止まった理由は、そうするつもりだったからではない。
グラントが失禁したからだ。
鼻を刺す酸味を含んだ臭い。
グラントの下には、羞恥の象徴ともいえる水たまりが広がっていた。
俺は鼻をひくつかせ、眉をひそめた。
「この勝負はもう決まった。お前の負けだ。
俺との約束を守れ。
カリとフェイに無理やり婚約を押しつけようとする行為を今後一切やめろ。
そして二度とあいつらに話しかけるな。
たとえ一度でも近づけば──その時は容赦しない。」
グラントに、俺の言葉がどこまで届いたのかは分からない。
彼の目は見開かれたまま焦点を失い、顔色は死人のように青ざめ、全身が恐怖で震え続けていた。
俺は舌打ちし、霊力を収めた。
霊圧が消えた瞬間、グラントの身体は“糸の切れた人形”のように崩れ落ちる。
白目を剥いたまま後ろに倒れ、完全に気絶した。
その様子を見届けてから、俺はレイナーへ視線を向けた。
彼はまるでAランク魔獣の牙を突きつけられたかのような顔で、硬直していた。
「……試合結果を宣言しないのか?」
「あっ、そうだったな」
俺の声でレイナーがようやく我に返った。
彼は慌てて手を上げ、試合結果を宣言した。
「第一試合の勝者、エリック・ヴァイガー!」
俺は満足げに頷き、扉のほうへと向き直った。
アリーナの出口へ歩き出した時、バランスがこちらに奇妙な視線を送っているのに気づいた。
一瞬だけ気になったが、まあいいかと肩をすくめて、そのまま廊下を進み、待機室へと戻った。
待機室に入ると、全員の視線が一斉に俺へと向けられた。
彼らの目線に少しだけ眉をひそめたが、すぐに気にするのをやめて、そのままフェイのもとへと歩いていった。
彼女は窓のそばに立っていた。
俺が近づくと、フェイは微笑みながら赤い髪の一房を耳にかけた。
「すごい試合だったね」
「そうか?」
俺の眉は自然と深くなった。
「正直なところ、グラントは拍子抜けするほど弱かった。もう少し戦いを長引かせるつもりだったが、あれだけ弱ければやる価値もなかった」
「戦いを長引かせたかったの?」
フェイは不思議そうな表情で俺を見た。
「どうしてそんなことを?」
「奴の心を完全に叩き潰したかったからだ」
俺は即答した。
「グラントは、お前とカリが嫌がっていたにもかかわらず、強引に婚約を迫っていた。俺たちの取り決めでは、俺が勝てば奴はお前たちに二度と関わらないと約束した。だが──グラントも、ルヒト家全体も、傲慢で、約束を守るような連中ではない」
フェイはしばらく沈黙していたが、やがて静かに頷いた。
「だから…完膚なきまでに圧倒して、魂ごと潰して、二度と私たちに近づけないくらい怖がらせようとしたんだね」
「ああ、その通りだ」
フェイは少しだけためらいがちに、問いかけた。
「それって…カリのためにやったの?」
「それに…お前のこともだ」
俺は一切の迷いなく口を開いた。
「前にも言っただろう。お前を助けるって。グラントを倒すために一緒に修練してきたのは、お前自身の手で奴を打ち倒せるようにするためだった。でも、たとえ俺が戦うことになっても、お前の家族が奴に脅されて、お前を物のように売り渡すような状況にはさせたくなかった」
「ヘレン・ブリュンヒルドおよびアリルド・クリーガー、アリーナまでお願いします」
静まり返っていた空気を、レイナーの声が切り裂いた。
その時になって初めて、俺は気づいた。
――誰一人として拍手をしていなかったことに。
扉の方へと二人の人物が動き出す。
一人目は、屈強な体つきで、やや男らしい顔立ちをした女性。全身を重厚な鎧で覆い、その一歩ごとに金属音が鳴った。
腰には一本のブロードソードが吊るされている。見た目は地味な鞘に収まった剣だったが、油断は禁物だ。
――確か、あの人はカリの指導者だったはずだ。つまり、相当な実力者ということだろう。
もう一人は、淡い赤──ほとんどピンク色に近い髪をレザーバンドでまとめた若い女性だった。
彼女の装備は、ヘレンのような全身鎧ではなかった。
胸部のみを守るプレートに、露出した腹部。肩当ては革製のストラップでしっかり固定されている。
その下に着ている薄青の服が、歩くたびにひらりと揺れた。
白いタバードの裾が脚の周りで風にたなびく。
背中には、交差する形で短剣が二本、Xの字に収まっていた。
フェイと俺は、彼女たちが部屋を出ていくのを黙って見送った。
そして、フェイが俺に向き直る。
「ありがとう」
彼女はそれだけを、真っ直ぐに伝えてくれた。
――「そんなこと、礼なんていらない」とか、「俺がやりたくてやっただけだ」とか、そういうくだらない言葉を返すのは愚かだ。
感謝を伝えてくれた相手には、それを素直に受け取るべきだ。
だから俺は、ひと言だけ返した。
「どういたしまして」
たった三文字の言葉だったが、フェイはそれだけで微笑んでくれた。
俺もそれに応え、ふたりで再び窓の外へと視線を戻す。
ちょうどその時、ヘレンとアリルドがアリーナに姿を現した。
観客席は再び賑わいを取り戻し、歓声や叫び声が響き渡る。
――どうやら、さっきの俺の戦いによる衝撃から、もう立ち直ったらしい。
「どっちが勝つと思う?」
フェイが問いかけてきた。
アリーナでは、ヘレンが剣を抜き、アリルドが背中から短剣を両手に引き抜いていた。
「難しいな」
俺は目を細め、霊識を使ってふたりの霊力を探る。
「純粋な力だけで言えば、アリルドのほうが上だ。だが、ヘレンのほうが霊力の制御に長けているように見える。それに、彼女は水属性、アリルドは火属性。属性相性ではヘレンが有利だ。つまり、この戦いは技量の差で決まるだろう」
「なるほどね」
フェイもふたりに目を向けながら、頷いた。
ちょうどその時、レイナーの合図で試合が始まった。
「ヘレン・ブリュンヒルドの名前は聞いたことがある。彼女はネヴァリアン霊術師団の隊長の一人で、十人の隊長の中でも最強とされてるわ。“水の女神ブリュンヒルド”って異名もあるくらい、独特な戦闘スタイルで有名なんだって」
フェイがそう語る横で、アリルドが霊力を解放した。
瞬間、彼女の身体の周囲に濃密な炎のオーラが展開される。
グラントの赤い炎とは異なり、その炎は――青かった。
青い炎。
錬金術協会の人間から聞いた話によれば、青い炎は存在する中でもっとも高温なのだという。
酸素の消費量が多いほど炎の温度が上がり、色が青くなるらしい。
詳しい温度までは知らないが、俺が過去に見た別の青い炎は、鋼をも容易く溶かしていた。
対照的に、ヘレンは霊力のオーラを纏わなかった。
だが、それは霊力を出せないからではない。
彼女はすでに霊術の第二段階に到達している。
その証として、彼女の全身を淡く輝く青い光が包み込んでいた。
まるで、もう一つの皮膚のように。
「ふむ……彼女の戦い方は、圧倒的なスピードと手数で相手を翻弄するスタイルのようだな」
昨日の戦いを思い出しながら、俺は呟いた。
「でも、君が言ってるのはきっと属性の使い方についてだろうな。そういえば、昨日の予選では一度も水属性を使っていなかった気がする」
「それは、彼女が昨日は一度も傷を負わなかったからよ」
フェイが即答する。
「なるほど」
それだけで、ヘレン・ブリュンヒルドの戦闘スタイルがどういうものか、俺は完全に理解した。
再び視線をアリーナに戻す。戦いはすでに始まっていた。
アリルドは双剣を大きく振るい、初見では荒々しく見えるが、そこには明確なリズムがあり、各一撃ごとに青い炎の三日月状の斬撃を飛ばしていた。
ここ待機室からは熱は感じないが、それらの斬撃は地面を焼き焦がし、アリーナの床は黒く焦げた跡だらけになっていく。
しかし、数え切れないほどの攻撃が飛び交う中でも、ヘレンは一切動じず、冷静なままゆっくりと前進していた。
彼女の剣は鋭く、そして正確。
横一閃で最初の炎を斬り裂き、振り下ろす一撃で次の炎を両断し、足元で回転しながら右下から左肩へと斜めに剣を振り上げた。
その斬撃はただ炎をかき消すだけでなく、そこから水の波が飛び出し――さらに続けて振り下ろした刃からは第二波の水が放たれる。
二つの波が合流したことで、水の霊術は一気に速度と威力を増した。
アリルドはその技を正面から受けることを避け、素早く回避する。
だが、水の波はそのままアリーナの後方の壁に激突し、石壁をえぐるような轟音と共に爆発を起こした。
アリルドがかわしたその一瞬――
ヘレンは地を蹴り、疾風のごとく前へと突進した。
アリルドは瞬く間に至近距離での白兵戦に持ち込まれ、その状況に対応しようと懸命だったが、経験の差は歴然だった。
ヘレンの連撃の前に、彼女は完全に押されていた。
そして、剣がはじかれ、最終的にヘレンの刃がアリルドの喉元へと突きつけられた。
「降参しなさい」
ヘレンの声は冷静だった。
「降参するわ」
アリルドが肩を落とす。
「やっぱり、ネヴァリア霊術師団で最強の隊長と呼ばれるのも納得ね」
「光栄だわ」
ヘレンは微笑んだ。
「クリーガー家の者にそう言ってもらえるなんて、本当に名誉なことよ」
「勝者、ヘレン・ブリュンヒルド!」
レイナーの宣言と同時に、観客席から大きな拍手と歓声が巻き起こる。
「フィン・ソケレとフェイ・ヴァルスタイン、アリーナへどうぞ!」
「どうやら、私の番ね」
フェイが立ち上がる。
「幸運を祈ると言いたいところだが……君には必要なさそうだな」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「皆に君の強さを見せてやれ」
「うん、任せて」
フェイは晴れやかに微笑んで頷く。
その笑顔は、どこか自信に満ちていた。
俺は彼女の肩から手を下ろし、その背中を見送る。
フェイがドアをくぐり、フィンと共に姿を消すのを確認してから、再びアリーナに視線を戻した。
――親友の初めての一対一の戦いを、俺は見届けるつもりだった。




