過去の悪夢
どれくらい森の中を歩き続けたのか、もう分からなかった。
ネヴァリアから遠く離れたこの場所で、僕の左目の傷はすでに癒えていたけれど、それは醜くも痛ましい痕跡として残った。
今では白く乾いた裂け目が、僕の顔に刻まれている。
昼間は、悪夢のような日々だった。
魔獣を避け、どうしても無理なときは戦う。
夜になればもっとひどかった。
太陽が沈むと、僕たちは洞窟の中や茂みの下、見つけられる限りの場所に身を潜めるしかなかった。
ろくに眠れた記憶もない。
……いや、「僕たち」と言っても、実際に戦っていたのは彼女だった。
僕じゃない。
戦う力を持たない僕は、ただカリの背後に隠れ、何もできずに怯えていた。
カリは――彼女は、命をかけて僕を守ってくれた。
美しく、優雅なその姿で、彼女は死の舞踏を踊るように敵を屠った。
その背中を見つめるたびに、僕の中の尊敬と憧れはどんどん膨れ上がっていった。
同時に、自分の無力さに打ちのめされた。
彼女は二人分の重荷を背負って戦っているのに、僕は何一つ支えになれなかった。
そんなある夜――
僕は洞窟の入り口に座り、ぼんやりと遠くの森を見つめていた。
ここは、ディア・ウルフの群れが巣にしていた小さな洞窟だった。
カリが群れを倒して、彼らの毛皮を剥ぎ取り、この場所を寝床にしてくれた。
本当はカリに休んでもらいたかったから、見張りは僕がすると申し出た。
彼女は必死で断ろうとしたけれど、僕には分かっていた。
カリの限界が近いことに。
戦いの最中、彼女は何度も足元をふらつかせた。
いつもなら余裕で倒せるはずの魔獣相手に、苦戦していた。
寝不足で体力も精神力も、すり減っていたんだ。
だから今、せめて僕にできること――
見張りくらいは、やらせてほしかった。
そんなことを考えていると、洞窟の奥から、小さな声が聞こえた。
カリの声だ。
胸がざわついた。
慌てて立ち上がり、洞窟の奥へ走る。
何か魔獣でも現れたのかと、心臓が跳ねたけれど――
そこには、悪夢にうなされるカリの姿があった。
寝言のように何かを叫びながら、彼女は激しく身をよじっていた。
「カリ!」
僕は必死で彼女を揺すった。
次の瞬間、拳が僕の頬を打った。
鈍い痛みが走ったけれど、そんなの気にしていられない。
ぐっと肩を掴んで、さらに強く彼女を揺さぶる。
「カリ! 起きて!」
声を張り上げた瞬間、彼女の瞳がぱちりと開かれた。
透き通った青い瞳から、涙がこぼれ落ちた。
その一粒が頬を伝い、顎、首筋、そして鎖骨へと滑り落ちる――
胸が締め付けられた。
「エリック……?」
震える声で僕の名前を呼ぶカリ。
僕は――
その震える姿を、全力で受け止めようと決意した。
「大丈夫?」
僕は尋ねた。
カリは首を横に振り、僕を押しのけるようにして起き上がった。
彼女は自分の目元をぬぐった。
その様子を、僕はただ見つめることしかできなかった。
胸の奥で、どうしようもない無力感がじわじわと広がる。
そして、彼女が浮かべた微笑みを見た瞬間、僕の心はぎゅっと痛んだ。
「平気よ。」
カリはそう言った。
「心配かけて、ごめんね。」
僕は無意識に顔をしかめた。
そんなの、絶対に嘘だ。
「全然、平気なんかじゃない。」
思わず言葉が漏れる。
「いったい、何があったの?」
カリは目をそらした。
無理に笑おうとしたけれど、うまくいっていなかった。
僕の顔はさらに曇った。
「『何でもない』なんて、嘘だよ。」
「寝ている間、泣いてたんだよ?」
カリは沈黙を貫いた。
言葉を返すこともなく、ただ黙っている。
――まただ。
彼女は、ずっとこうだった。
あの日、僕を助け出してくれてから。
ずっと、何か重たいものを心に抱えている。
家を失った悲しみだけじゃない。
それ以上の、何か――
でも、カリはそれを、僕に見せようとしなかった。
たぶん、それは僕のせいだ。
僕が弱いから。
僕に心配させまいと、強がっているんだ。
だから――
僕はカリのそばににじり寄り、
今度は彼女に拒まれる前に、自分から抱きしめた。
カリの体が、ぴたりと硬直する。
……でも、彼女は僕を突き飛ばさなかった。
本気を出せば、簡単に僕なんか振り払えるはずなのに。
カリの腕は、だらりと垂れたままだった。
濡れた布のように力が抜けている。
そして、彼女自身も僕にもたれかかるように崩れ落ちた。
僕は必死に体勢を保った。
体力なんてほとんどない僕には、彼女の重みが思った以上に堪えたけれど――
それでも、倒れたくなかった。
彼女を支えたかった。
「カリ。」
僕は彼女の頭に顎を乗せたまま、静かに呼びかける。
「お願いだから、教えて。
君が抱えてるもの――僕にも分けてほしい。
僕は、君の力になりたいんだ。」
カリは沈黙を続けた。
だけど、僕は急かさなかった。
たとえ彼女がグラント・ロイヒトと結婚してから何年も会っていなかったとしても、
彼女のことなら、少しくらい分かるつもりだった。
――今、カリは言葉を絞り出そうとしている。
そのために、ほんの少しだけ時間が必要なんだ。
「……お母様が、亡くなったの。」
僕は思わず息を呑んだ。
それが当然のことだとは、頭では理解していた。
あれだけのことがあったのだから。
でも、カリがこうして打ち明けてくれるということは、
きっと単なる『デモンビースト襲撃』による死ではない、
そんな気がした。
カリは震える声で続けた。
「毒殺されたの。……あの日、デモンビーストの襲撃が始まったとき、私は急いで母様の部屋に向かったの。知らせなきゃって、必死だった。」
カリは言葉を詰まらせ、
震える息を吐きながら、続きを語った。
「でも……部屋に入ったら、母様も、お父様たちも、みんな――もう死んでた。
そして、その遺体の前に立っていたのは……グラント・ロイヒトと、顔を隠した黒いローブの男だった。」
僕の腕に、自然と力がこもった。
だけど、カリを怖がらせたくなかったから、それ以上の反応は押さえ込んだ。
……グラント・ロイヒト。
彼は、僕とカリを引き裂いた男だ。
あの日、ほんの一度だけ顔を合わせただけだったけれど――
今、カリの話を聞いて、胸の奥が怒りで煮えたぎる。
「それで……?」
僕は静かに促した。
カリは苦しそうに唇を噛みしめた。
でも、やがて、しっかりとした声で続けた。
「当然、私は断ったわ。
……家族を殺した相手についていくなんて、できるわけないもの。」
カリの声には、怒りと悲しみ、そしてほんの少しの誇りが滲んでいた。
「たぶん、あいつは怒ったのね。
結婚した夜以来、私は一度も彼に触れさせなかったから。
それで、あの黒いローブの男と一緒に、私を襲ってきたの。」
カリは拳をぎゅっと握りしめる。
細い肩が震えている。
「でも……私は逃げたわ。
あいつに傷を負わせて、必死に宮殿から逃げ出した。
そして……ずっと、あなたを探してた。」
「……そっか。」
僕は、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。
どうして、こんなにも罪悪感と喜びを同時に感じるんだろう。
カリがこんな酷い目にあったことは、
聞いているだけで、胃がぎゅっと締め付けられるほど苦しかった。
だけど――
彼女が、逃げ出して最初に探した相手が、僕だったこと。
それを知った瞬間、胸の奥が温かく、じんわりと満たされていくのを感じた。
……そして、また罪悪感が押し寄せた。
「カリ……君のことが、すごく、好きだ。」
その言葉は、口にするつもりなんてなかった。
だけど、気づいたときにはもう、唇からこぼれていた。
僕は、取り消さなかった。
だって、それが本心だったから。
二年半前――
カリがグラント・ロイヒトと結婚することを告げたあの日、
僕は、あのときも確かに気持ちを伝えた。
あの頃から、何も変わっていなかった。
いや……
むしろ、カリがいなくなってしまった分、
この想いは、さらに燃え上がるように強くなっていた。
僕の告白に、カリの身体がびくりと震えた。
そして次の瞬間――
「う、うわぁぁぁぁっ……!」
カリは、僕の胸に顔を埋めて、
子供のように泣きじゃくった。
びしょ濡れのシャツ。
涙だけじゃない。
――鼻水も、だ。
でも、僕は何も言わなかった。
ただ、彼女を優しく抱きしめた。
それだけでよかった。
きっと、彼女はずっと我慢してきたんだ。
辛くて、苦しくて、
それでも誰にも弱音を吐けなかった。
それを、僕の前で全部、解き放ってくれた。
時間がどれだけ経ったのかは分からない。
カリの泣き声は、次第に静かになっていった。
それでも、ときどき、くしゅん、と鼻をすする音が聞こえた。
「……少しは、落ち着いた?」
そっと尋ねる。
「うん……」
まだ顔を上げられないカリの声は、かすれていた。
きっと、顔はぐしゃぐしゃだろう。
それでも、カリは小さな声で言った。
「……ごめんね。」
僕は、首を横に振った。
カリには見えなかったかもしれないけど、それでも伝えたかった。
「……今のカリには、これが必要だったんだと思う。」
「……うん。」
カリは再び黙り込んだ。
でも、僕はそれを気にしなかった。
たとえ、シャツが涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたとしても、
それでも、僕は嬉しかった。
――僕は弱い。
誰一人、守ることができない。
これまでだって、全部カリに頼りきりだった。
だけど。
今だけは。
僕にも、カリにしてあげられることがあった。
そう思えただけで、胸がじんわりと温かくなった。
だけど――
(弱いな……)
ふと、心の奥底からそんな声が聞こえた。
僕は、弱い。
それを痛感した。
だけど、このままではいけない。
きっといつか、カリの力だけでは、乗り越えられない壁が現れる。
もし、僕たち二人が、もっと強大な魔獣たちに囲まれたら――
カリは、きっと僕を守ろうとするだろう。
自分を犠牲にしてでも、僕を逃がそうとするだろう。
だけど。
僕には、そんな未来を許せない。
――カリには、生きていてほしい。
「カリ……」
しばらくして、僕はそっと呼びかけた。
「なに?」
「僕を、強くしてくれないか?」
その言葉に、カリは顔を上げた。
泣きはらした青い瞳。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
赤く腫れた目元。
鼻水だって垂れている。
それでも、彼女は僕にとって、世界で一番美しかった。
カリは、何かを探すように僕を見つめた。
それから、ゆっくりと、力強く頷いた。
「……うん。強くなろう。私が、手伝う。」
その言葉に、胸が熱くなった。
「ただし……」
カリは言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「今の私たちの状況を考えると、すごく……厳しい修行になると思う。」
……なんとなく、カリの言葉の端々に、危険な香りを感じた。
だけど、僕は迷わなかった。
「大丈夫だ。」
僕は覚悟を決めた顔で答えた。
「それがどんなに辛くてもいい。僕は強くなりたい。」
その時――
カリの目に、ようやく光が戻った。
「……いい覚悟ね。」
カリは、ゆっくりと言った。
「その覚悟、絶対に忘れないでね。これから先――本当に、必要になるから。」
……このときの僕は、まだ知らなかった。
カリがどれほど「鬼教官」だったかを。
本当に。
本当に、本当に……厳しかったんだ。
皆さん、こんにちは!
今回のチャプター、楽しんでいただけたでしょうか?
正直に言うと、最近の章について少し不安に思っています。
というのも、これらは「夢」という形で描かれる過去の回想シーンだからです。
読んでくれている皆さんが、あまり違和感を覚えなければいいなと願っています。
さて、次のチャプターからはいよいよ――
現在の時間軸でのエリックの本格的な修行が始まります!
楽しみにしていてくれたら嬉しいです!




