すべてが崩れる前の時間へ
驚きに息を呑みながら、俺は飛び起きた。
まるで糸を引かれた操り人形のように、体が勝手に起き上がった。
「っ……げほっ、げほっ……!」
胸を押さえながら咳き込み、吐き気を必死でこらえる。頭がぐるぐると回って、思考がまとまらない。目を閉じ、深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
暴れる鼓動を落ち着かせるため、何度も繰り返した。
一分……いや、二分ほど経った頃、ようやく体の力が抜けて、俺はベッドの上にばたりと仰向けに倒れた。
そのとき、背中に感じたのは、少し硬めのマットレス。
どこかで感じたことのある感触だった。懐かしい……けれど、はっきりとは思い出せない。
目を開くと、視界に広がっていたのはくすんだ茶色の天井板。
木製のパネルが張り巡らされており、目を向けた先には小さなヒビが入っていた。俺はそのヒビを追いかけるように視線を移動させ、それが壁へと消えるのを見届けた。
――見覚えがある気がする。
眉をひそめる。
……ここはどこだ?
俺の最後の記憶は、「第七界の大君」との死闘。
あいつの剣と、俺の拳が激突し、時空さえ歪むほどの衝撃を起こしたその瞬間――すべてが暗転した。
そして今、俺はここにいる。
だが……“ここ”がどこなのか、まったく思い出せなかった。
さらに三十分ほどベッドに横たわったままでいたが、さすがにもう限界だった。
この状況を把握しないわけにはいかない。
俺はベッドから身を起こし、立ち上がった――その瞬間、ふと足が止まる。
……気のせいか、世界が少し大きくなったような……?
いや、気のせいだろう。そう思って肩をすくめながら、部屋の中を見回した。
部屋といっても、特筆すべきものはない。
広さはおそらく三十から四十平米ほどか。
俺がさっきまで寝ていた簡素な木製のベッドが後ろにあり、左手には本棚、右手の壁際には水の入った小さな洗面鉢が置かれていた。
その上には、ヒビが入った鏡がぶら下がっている。
洗面鉢の隣には、小さなタンスもあった。
眉をひそめながら、俺は洗面鉢の前まで歩き、顔に水をバシャリとかけた。
そのまま横に掛けてあったタオルを手に取り、顔を拭く。
――あまりにも自然な動作だった。
シャワーや浴槽に慣れていたはずの俺が、タオルと水だけで顔を拭くことに、何の違和感も持たなかったことが、逆に恐ろしく感じられた。
まるで、この身体がそうするのが“当然”だとでも言うように。
不安が、じわじわと胸に広がっていく。振り払おうとしても、できなかった。
……そして、俺は鏡を見た。
そこに映っていたのは、俺であって俺ではなかった。
あまりにも滑らかな顔立ち。
女と間違えられても不思議ではない、整いすぎた容姿。
シミも、傷も、影もない、白く滑らかな肌――
俺は左目の上に指を這わせた。かつて受けた深い傷跡が、そこにあったはずだった。
……だが、今はどこにも見当たらない。
淡い緑色の髪が背中の真ん中まで垂れていて、さらに混乱を加速させる。
俺は視線を落とし、上半身を見下ろした。
――そのとき、思わず妙な声が口から漏れた。
あまりにも貧相な体。
俺は筋肉隆々というわけではなかったが、何十年も修練を積み、戦場をくぐり抜けてきた結果、無駄のない筋肉と爆発的な力を備えた肉体を持っていたはずだ。
……だというのに、今目にしているのは、風に吹かれれば飛ばされそうなほど、細く頼りない体だった。
「な、なんだ……?」
――そう言いたかったはずなのに、口から出たのは、たったひとつの単語だけだった。
「俺に何が起きたのか」なんて、言葉にならなかった。
再び部屋を見回すと、ベッドの近くに窓を見つけた。
木製のシャッターで覆われている。
「……は?」
わけが分からず、首を振りながら窓へ駆け寄り、シャッターを開けて外を覗いた。
そこに広がっていた光景は――懐かしさと、異物感が混じり合ったものだった。
視界いっぱいに広がるのは、木造や石造りの建物の数々。
瓦屋根や切妻屋根、そして平らな屋根が並び、まばらに配置されている。
目を下に向ければ、ここが建物の二階であることが分かった。
数メートル下には、人の波――まるで鎮魂歌のように、群衆が行き交っている。
「……この場所は……」
喉が詰まり、言葉にならないまま、俺は見覚えのあるような、けれど確信の持てない人々を見つめた。
頭の中で必死に答えを探す。ここがどこなのか、何が起きたのか、すべてのピースを繋げようとした。
――そして、たどり着いた答えは……認めたくないものだった。
「ここ……ネヴァリア、なのか……?」
当然ながら、誰も答えてはくれない。
木のシャッターを閉じ、俺は急いでタンスへと向かった。
中から服を取り出して、無造作に身に着けていく。
黒いズボンと、シワの寄ったシャツ。
どちらも質は低く、着心地も粗い。
高級なAランク魔獣の絹など、あるはずもない。
だが、今はそんなことにこだわっていられない。
肩に掛ける革のベストをストラップで締め、最後に、くたびれた茶色のブーツを履いた。
準備を終えた俺は、扉を開けて廊下を抜け、階段を降りて、外へと出た――。
外へ出た瞬間、涼しい春の風が肌を撫でた。
同時に、街中に響く騒がしい喧騒が俺の耳を打つ。
百種類にも及ぶ匂いが鼻腔を刺激する。
汗と埃にまみれた大衆の臭い、香水を浴びすぎた連中のバラの香り――鼻に突き刺さるような濃さだった。
そして、屋台から漂ってくる、こんがりと焼けた肉の芳ばしい香り。
……悪臭と香りが混じり合い、強烈な刺激となって押し寄せてくる。
今の俺の感覚には、少しキツすぎた。
最近はもっと自然で澄んだ空気に慣れていたからな。
増していく不安を必死に押し殺しながら、俺は群衆の流れに身を任せることにした。
――間違いない。この場所は、ネヴァリアだ。
見慣れた建築様式。木と石の建物が所狭しと立ち並び、建物同士の隙間は半メートルもないほどだ。
ここは〈居住区〉、もしくは俗に言う〈平民街〉。
賃貸料が破格の安さであることから、貧困層が集まっている地域だった。
……そう、俺がかつて貧しさに喘いでいた頃に住んでいた場所だ。
だが、何かがおかしい。これは現実じゃない――そう思わずにはいられなかった。
ネヴァリアはもう存在しないはずだ。
数十年前、魔獣の大規模侵攻によって壊滅した。
俺は、カリとカイリを失ったあと、廃墟と化したこの都市に戻ってきた記憶がある。
そこには、強大な魔獣が住み着き、人の姿など一つもなかった。
なのに、今、目の前にあるのは――活気に満ちた、まるで何事もなかったかのようなネヴァリアだった。
何が起きているのか分からないまま、俺は足の向くままに歩き続ける。
若い男が肩をぶつけるようにしてすれ違い、
子供たちが「鬼ごっこだー!」と叫びながら路地を駆け抜け、笑い声を上げる。
数人の若い女性が石畳の道端で輪になり、何かの噂話に花を咲かせていた。
俺は頭を左右に振りながら、街の光景を見渡した。
――ここは現実なのか? それとも……夢なのか?
これは夢か? 幻術にでもかけられているのか?
それとも――俺はすでに死んでいるのか?
まったく分からなかった。
だから、とりあえず自分の腕を思い切りつねってみた。
「いって……!」
鈍い痛みが走る。
……夢では、なさそうだ。
とはいえ、幻覚を見ている可能性もまだ否定はできない。
そんなふうに頭をフル回転させているうちに、俺の足は自然とある建物の前で止まっていた。
一階部分は石造り、二階は丸太で組まれた二階建ての建物。
屋根は木製のシングルで覆われており、全体的に簡素な作りだった。
だが、入り口の横には木製の看板がぶら下がっていて、そこには開かれた本の絵とともに――
《図書館》という文字が刻まれていた。
「……そうだ。ここで、働いてたことがあった……よな?」
誰に言うでもなく、そう呟いた俺は、しばし戸の前で立ち尽くした。
どうするべきか、頭の中で逡巡する時間は、おそらく健康的とは言えないほど長かったと思う。
それでも、ようやく決心をつけて、俺はゆっくりとドアを開けて中へと入った。
外観からは想像できなかったが、図書館の内部は意外と広い。
間口こそ狭いが、奥行きがあった。
中央には縦に長い四つの机が、二列に並べられている。
そしてさらに奥の壁沿いには、横長の机がふたつ配置されていた。
机の周囲には、天井まで届く本棚がいくつも並び、静かな空気が満ちていた――。
さらに奥へと歩みを進めながら、左手にある本棚の陰からちらりと見える階段に目をやる。
それから右を向いた瞬間、俺の足が止まった。
壁際、少し離れた場所に、長いカウンターが設置されていたのだ。
……ああ、懐かしい。
若い頃、よくあのカウンターに座っていた。
仕事の合間を縫って、本をこっそり持ち込んでは、あの場所で読んでいたものだ。
もちろん、それが見つかれば――
「エリック・ヴァイガー。自分がどれだけ問題を起こしたか、分かってるんでしょうね?」
背後から聞こえてきたのは、どこか落ち着きながらも怒気を孕んだ女性の声だった。
思わず身体がビクッと反応する。
振り返ると、そこに立っていたのは――彼女だった。
身長は俺の胸元くらいしかない。だが、それは一般的な女性としては平均的な高さだろう。
肩まで伸びた金髪は毛先が少しだけカールしており、白い肌に緑色の瞳、そしてそばかすが点々と浮かぶ顔立ちは、どこか若々しく見える。
しかし、赤いチュニックの下に隠れているその胸は、若さとは裏腹に非常に存在感があった。
……昔、うっかり裸を見てしまったことがある。
あの時、「女性らしい」という言葉の意味を初めて理解した気がする。
「ナディーンさん……」
「“ナディーンさん”じゃないわよ、まったく」
ナディーンは目を細めながら、左手に持っていた本を右手のひらにバシッと叩きつけた。
「何分遅れてると思ってるの?」
どう答えればいいのか分からず、一瞬だけ沈黙する。
そして、口から出た言葉は――俺史上、最高に冴えない返答だった。
「えっと……分かりません?」
「今は正午を三十分も過ぎてるわ。今日はあんたが開店する当番だったでしょ。自分で計算してみなさい」
「そ、そうでしたか……」
思わず言葉を詰まらせながら、どうにか頭を整理しようとする。だが、現状を飲み込むにはあまりにも情報が多すぎた。何が起きてるのか理解すらできない。
とはいえ、せめて返事くらいはできる。
「……遅れた分、今日は残業します」
「当然でしょ」
ナディーンはぼそっと呟いた。「あんたの給料は、ベッドでゴロゴロするために払ってるんじゃないのよ」
そう言って、手に持っていた本を俺の胸にドンと押しつけた。
「うぐっ……!」
思わず一歩後退しながらも、反射的に本を落とさないよう手で支える。
「分類しなきゃいけない本が山ほどあるわ。さっさとやりなさい」
「……はい」
どこか上の空の返事をしたせいか、彼女はまた俺の顔をじっと見つめてきた。
目を細めて、まるで何かを探るように――いや、疑っているような視線だった。
俺も視線をそらさずに見返す。
その態度にナディーンの眉間がさらに寄る。だが、数秒後、彼女は小さくため息をつき、肩をすくめてそのまま歩き去った。
彼女の背中を見送りながら、俺は手に持っていた本へと視線を落とす。
タイトルは――
ある若き錬金術師が、病に倒れた妻を救うため、命がけで薬の材料を集める旅に出るという冒険譚だった。
思い出した。これ、昔読んだことがある。
ナディーンが珍しく気に入っていた、数少ない恋愛物語のひとつでもあったな。
夢なのか、幻なのか、死後の世界なのか。
何であれ――
「やることをやるか……」
俺はナディーンの言葉に従い、本を所定の棚へと収める。
そしてカウンターへ向かい、積まれていた本を一冊ずつ確認する。
どれも記憶にある。どの棚に置くべきか、自然と頭の中に浮かんできた。
……記憶が、まるで濁りのない水のように、鮮明に蘇っていく。
その感覚が、少しだけ怖かった。
そして、そんなありふれた作業をこなしながら――
俺は「一体、自分に何が起きたのか」という仮説を立てていた。
第七界の大君主との戦いで、最後に放った攻撃は空間に歪みを生じさせた。
空間の歪み――それは、あまりにも強大な力が現実そのものに亀裂を走らせた時に起こる現象だ。
あの時、奴は闇属性で構成された巨大な剣を振り下ろし、俺はそれに対抗して、光・雷・水の三つの属性を圧縮した拳で迎え撃った。
その瞬間、世界は真っ黒に染まり、気づけば俺はネヴァリアの昔の部屋で目を覚ました。
……もしかすると、あの時の空間の歪みが現実世界の織り目を狂わせて、時間を巻き戻したのかもしれない。
もちろん、これはただの憶測だ。
いや、夢や幻、死後の世界といった可能性も捨てきれない。だが――
それでも俺は、この仮説を信じたかった。心の底から信じたかった。
なぜなら……
もし本当に過去に戻ってきたのだとしたら、あの人はまだ生きているということだからだ。
彼女のことを考えた瞬間、抗いがたい衝動が体を突き動かした。
今すぐにでもあの女性に会いに行きたかった。
彼女を抱きしめて、唇を奪って――そして、月明かりの下でそのまま一晩中愛し合いたい。
そんな妄想じみた情熱が、俺の理性を揺さぶる。
気がつけば、体が勝手にドアの方へ向かっていた。
「っ……!」
慌てて踏みとどまり、目を閉じて、深く深呼吸をする。
そして頭を何度も振って、衝動を振り払った。
「バカか、俺は……今のままの状態で彼女に会えるわけがないだろう」
思わず自分に吐き捨てる。
それに、あの頃の彼女は頻繁にこの図書館に通っていたはずだ。
もし本当に過去に戻ってきたのなら――いずれ必ず会える。焦る必要なんてない。
本をすべて片付け終えた俺は、カウンターの裏へまわり、椅子に腰を下ろした。
引き出しを開けて、中から羽根ペンとインク、それから羊皮紙を取り出す。
そして一気に書きなぐる。
過去に戻った今の目標
ネヴァリアを魔獣の侵攻から救う
カリに会う
カリと結婚する(前世では正式に結婚できなかった)
カイリを授かる
第七界の大君主を倒す
そのリストをじっと見つめながら、俺は思わず眉をひそめた。
正直言って、ずいぶんとシンプルなリストだ。
だが、簡単に達成できるとは到底思えない。
特に最初と最後の目標は、困難を極めるだろう。
たしか――魔獣の侵攻が始まったのは、俺が二十歳になった年だった。
そして、目覚めた時の鏡に映っていた姿を見る限り、今の俺は十七歳くらい。
つまり、最大でも三年の猶予があるということになる。
時間としては、まあ十分だ。だが、問題は――
「どうやって備えればいいのか分からないことだな……」
何をすればいいか分からなければ、三年が三日にも満たない。
まずやるべきは、自分の実力を知ること。
俺はあの大君主との戦いで瀕死になった状態から過去へ飛ばされた。
では――この身体に、あの時の力は残っているのか?
見た目はあんなに貧弱だった。筋肉も落ちて、昔の面影すらない。
だが、「霊術士」としての力までは、まだ分からない。
まずはそれを確かめなければ――何も始まらない。
こちらがその次の部分の日本語ライトノベル風翻訳です。エリックの葛藤と感情を丁寧に反映させ、内面のモノローグとして表現しています:
二つ目の目標については――正直、今のところ何かする必要があるかどうか分からない。
本音を言えば、今すぐにでも彼女のもとへ駆け寄って、「愛してる」と叫びたい気持ちでいっぱいだ。
だが、さすがにそれが好意的に受け取られるとは思っていない程度の自制心は、俺にもまだある。
そもそも、今の彼女にとっての俺は――存在すら知られていないかもしれない。
……その考えが胸にズシンと重くのしかかった。
痛みすら覚えるような、切なさ。
こんなにも会いたいのに、彼女は俺を知らない。
愛しているのに、まだ出会ってすらいない。
それでも、焦るわけにはいかない。
今は――時が来るのを、待つしかないんだ。
エリックは、どうやら本当に過去に戻ってしまったようです。
まだ混乱しているものの、少しずつ状況を整理し、自分のやるべきことを見つけ始めています。
これから彼が何を選び、どんな行動をとるのか――
ぜひ、次の章も楽しみにしていてくださいね!