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リンの優しい手

「……っは……!」

夢から目覚めた俺は、息を荒げながら上体を起こした。

冷や汗が全身を濡らしていた。

瞼の裏には、まだ生々しい死と暴力の残像が焼き付いている。

唸るように喉の奥から呻き声が漏れた。

──前世の記憶だ。

この悪夢は……きっと、あの時の……。

だが。

頭は痛んでいたが、身体には妙な安らぎがあった。

不快ではない……むしろ、心地よいとすら感じる。

……なぜだ?

ようやく意識が戻り、原因に気づく。

「……髪……撫でられてる……?」

俺の髪を誰かの指先が撫でていた。

汗で湿った髪を、優しく、慈しむように指が通っていく。

その指の爪は、普通より少し長くて、ほんの少し鋭さもあった。

けれど──まったく怖くない。

むしろ、その繊細で愛おしい手つきは、俺の心に深く染み込んでいく。

頭皮をなぞるその指先が、まるで心を癒すようだった。

「……はぁ……」

思わず、安堵の溜息が漏れた。

あまりに気持ちが良くて……

このまま、もう一度眠ってしまいそうだった。

眠りには……戻らなかった。

──というより、戻れなかった。

その理由に気づいたのは、ほんの一瞬遅れた後だった。

今この状況で、俺の髪を撫でるなんて──

そんなことをするのは、たった一人しかいない。

ゆっくりと目を開ける。

視界に映ったのは、金色の瞳。

「……リンか」

ベッドの上、俺の隣で、彼女は横になっていた。

片腕で頭を支え、もう片方の手で俺の髪を撫でている。

絹のような黒髪がカーテンのように垂れ、

いくつかの束は胸元へと流れていた。

──そしてその胸は、すべて露わになっていた。

濃い褐色の肌に浮かぶ立った乳首。

鳥肌が浮かび上がるほど冷えているはずなのに、彼女は気にもせず、

俺の髪を、ただ静かに撫で続けていた。

「やっと……目が覚めたのね」

リンが囁くように言った。

思わず「やめろ」と言いそうになったが……

その言葉は、口から出てこなかった。

理由は──いくつかある。

ひとつは、彼女の顔に浮かぶ不安の色だ。

リンの表情は、いつもどこか高飛車で、どこか子供っぽい。

まるで甘やかされたお姫様のような顔つきが常だった。

だが今の彼女は──あの時のカリを思い出させた。

小さなケイリが悪夢に怯え、泣きながら俺たちの部屋に飛び込んできた時。

それを心から心配していたカリの顔に、よく似ていた。

……そんな顔を見て、「やめろ」と言えるわけがない。

もうひとつの理由は、単純に──

彼女の手があまりにも心地良すぎたことだ。

今の俺は、ひどく疲れていた。

正直、慰めてくれるなら、誰でもよかったのかもしれない。

──そんな言い訳を、心の中で呟きながら。

「……俺のこと、心配してくれたのか?」

そう問いかけると、リンは唇を噛んだ。

否定しようとしたのかもしれない。

だが──結局、素直にうなずき、小さく呟いた。

「……寝てる間、すごく暴れてたの……。この姫がいくら呼んでも、全然起きてくれなかったし……」

「……悪かった」

声が枯れていたが、それでも俺は謝った。

「悪い夢だったの?」

「──ああ。……ひどく、悪い夢だった」

リンはこくりと頷いた。

「この姫も、悪い夢を見たことがあるのよ。あなたに会う前は──毎晩のように」

「……どんな夢だった?」

「護衛たちと引き離された日の夢。あの襲撃の時よ。暴力と死が、至る所にあった。見知らぬ敵の刃に、護衛たちはひとり、またひとりと倒れていったわ」

彼女の瞳が、一瞬だけ遠くを見つめた。

「この姫も、助けようとするの。でも……いつも同じ。誰かを助けようとした時にはすでに遅くて、結局この姫は逃げるしかなかった。逃げる途中で傷を負って、ひとりぼっちになる夢……」

「……俺に会う前、ってことは……」

息を呑みながら問いかける。

「──それ以来は、見ていないのか?」

「そうよ」

リンは微笑んだ。

それは、紛れもなく──愛しさを湛えた微笑みだった。

「あなたがこの姫を助けてくれた時から、あの悪夢は見なくなったわ。変身できずにイノシシに襲われていた時──あなたが現れてくれた時からね」

「……」

「だから、この姫はあなたの隣で眠るの。あなたの腕の中にいれば、悪夢に悩まされることはないから」

返す言葉が見つからなかった。

俺は黙って目を閉じる。

リンは何も言わずに、ただ静かに髪を撫で続けてくれた。

まるで、恋人にしかできない優しさだった。

── guilty pleasureギルティ・プレジャーという言葉を思い出した。

罪悪感を覚えるほど気持ちよくて、

それを素直に受け入れることすらためらってしまう感覚。

けれど……そんな俺でも、ぽつりと呟いた。

「ありがとう」

目を閉じたまま、そう口にすると──

すぐに返ってきた声は、実に優しかった。

「礼などいらぬ。この姫の夫でしょう? あなたが望むなら、何度だって傍にいるわ」

……どうしてだろうな。

甘い言葉のはずなのに、

まるで、開いた傷口にナイフを差し込まれるような気分だった。

「……ところで、そろそろ始まるんじゃない? 例の──トーナメント」

リンの声で目を開ける。

「そうか。……そろそろ準備しないとな」

ため息をついて、ゆっくりと体を起こす。

──俺の朝は、特に変わったことはない。

ベッドから出て、洗面所で汗を流し、顔と髪をしっかり洗う。

……いや、今日に限っては、全身洗ったな。

夢のせいか、ひどく汗をかいていたから。

着替えは、昨日着ていた服だ。

特別に豪華なわけじゃないが……

この服は、この人生で誰かが初めて買ってくれた服だった。

──だから、これからはこの服を標準装備にするつもりだ。

それだけの価値が、俺の中にはあった。

服を着終えた頃には、リンはすでにリビングにいた。

俺がキッチンへ向かうと、彼女はその場で座ったまま、視線だけで俺の後ろ姿を追っていた。

食材棚を漁って──そこからパンの塊と干した果物をいくつか取り出し、皿を二枚手にして戻る。

「朝飯、食うか?」

「この姫、お腹が空いたの。あなたと一緒に食べるわ」

そう言って、リンはゆっくりとディヴァンから立ち上がり、

下半身を滑らせるように俺のもとへとやって来た。

朝食中、会話らしい会話はなかった。

だが、それは多分……俺のせいだ。

言うべき言葉が見つからなかった。

どう接すればいいのか、わからなかった。

──ラミアは肉食だ。

昔、ミッドガルドでバトリング・ヴァルキュリーズのメンバーだったラミアと話したことがある。

彼女が言うには──

果物や野菜、小麦で作られた料理も食べられなくはないが、

本来ラミアは肉を摂取しないと栄養が偏ってしまうらしい。

それでもリンは、パンも果物も、文句一つ言わずに食べてくれた。

わがままで気高くて、ちょっと子供っぽい──

だけど、本当にいい子なんだと思う。

──だからこそ、今夜は帰りに肉パイを二つ買ってこようと心に決めた。

食事を終えた俺は、部屋の隅に立てかけていた《ドラゴンテイル・ルーラー》を手に取り、

玄関の前へと立つ。

横にはリンがいた。

その表情に、特別な感情は見えなかった。

だが不思議なことに、俺には彼女が何か言いたそうにしているのがわかった。

ほんの少し、唇が震えている。

そして──

左手の甲に刻まれた薔薇の指輪型の紋様が、じわりと熱を持ったように脈打つ。

「……が、がんばってね」

リンはそう言った。

──違うな。

たぶん、それは本当に言いたかった言葉じゃない。

だが俺は、微笑みながら返した。

「ありがとう」

そう言って、玄関のドアに手をかける。

けれど、すぐには開けず──肩越しに、彼女を振り返る。

「──俺が優勝したら、もう誰にも止められない。

 お前を外に連れて行ける」

その言葉に、リンの目が一瞬だけ揺れた。

潤んだような光を宿した瞳。

少しだけ震える唇。

──泣くかもしれない。

そう思ったが、

彼女は代わりに微笑んでくれた。

そして、長い耳がぴこぴこと嬉しそうに揺れる。

「この姫は、あなたの帰りを待ってるわ」

「……ああ」

小さく頷いてから、俺は扉を開けた。

深く息を吸い、

背中のルーラーを握り直す。

そして──

コロッセオへの道を、歩き出した。

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