図書館での再会
半月――つまり三十一日が経った。
その間、俺はひたすら修行に明け暮れていた。朝早くから訓練することもあれば、図書館の開館・閉館のシフトによっては夕方に訓練することもあった。仕事のない日は、一日中修行に費やした。
修行の進み具合は、順調――と言いたいところだが、実際はそうでもない。
滝行で霊脈を広げる訓練と、霊技の実戦練習を交互にこなしていたが、今の俺に使える技は限られていた。
持っている技のうち、四分の三は必要な霊力が足りず、実戦では使いものにならない。
だが、幸いなことに、【閃歩】だけは使用可能だった。
この三十一日間、カリにもフェイにも会うことはなかった。
……正直、それは少し堪えた。
フェイが顔を出さないのは、まあ仕方ない。あんな気まずい別れ方をしたのだから。
だが、カリまで俺を避けるようになるとは思っていなかった。
俺のちょっとしたからかいが、彼女にとってそんなに恥ずかしいことだったのだろうか?
そんな考えが頭の中をぐるぐると回る中、今日も俺は図書館で働いていた。
今日は開館担当だったため、魔獣山脈から昇る朝日を背に、いつもより早く出勤した。
午後になったら、またフェイと出会ったあの岩場に行くつもりだ。
自分で編み出した【閃歩】を、未だにまともに使いこなせていないのは、正直かなり屈辱だった。
二階の本棚の間を歩きながら、なるべく他のことを考えようとしたが――うまくいかなかった。
本を一冊棚に戻したとき、ふと違和感に気づいた。
五段目の棚に、『此処と今との距離(ディスタンス・ビトウィーン・ヒア・アンド・ナウ)』というタイトルの本が置かれている。だがこの本は、本来四段目に並ぶべきものだった。
「本当に……」俺はぼそっと呟きながら、本を引き抜いた。「棚の場所がわからないなら、適当に置くなって――」
そこまで口にして、俺の手が止まった。
本を抜き取った先にあったのは、澄んだ蒼い瞳だった。
見覚えのあるその瞳を前に、俺は言葉を失った。ただ、じっと見つめることしかできなかった。
「えっと……」カリもどうしたらいいのかわからない様子で、声を震わせながら言った。「こ、こんにちは、エリック。」
「カリ……」
その名を、俺は息を吐くように呼んだ。
衝撃で身体が勝手に動きそうになったが、何とか踏みとどまった。危うく棚に頭をぶつけるところだった。
「ねえ……エリック。」
カリは、戸惑いながらも柔らかい声で話し始めた。その声は、まるで音楽のように心に染み込んできた。
「この前……あのとき、急に逃げ出してしまったこと……謝りたくて。」
「謝る必要なんてないよ。」
俺は首を振り、棚の隙間から見えるその瞳に笑みを向けた。
「恥ずかしがらせてしまったのは、俺の方だ。調子に乗ってしまった。本当にごめん。」
「ち、違うの!全然そんなことないの!」
カリは慌てて声を上げた。その勢いに思わず目を見開いた。
「私は、誰かにからかわれるなんて経験、今まで一度もなかったから……。みんな、私のことを"皇女"だからって、特別扱いして、遠慮ばかりして……。私は、兄妹の中でも一番弱くて才能もないのに。」
話しながら、カリの頬がほんのりと紅に染まっていった。
「だから……あなたにからかわれて、正直、嬉しかったの。」
「……本当に?」俺は思わず聞き返していた。
カリが小さく頷いているのが、本を挟んで見える瞳の動きからわかった。
「あなたと話していると、私は普通の女の子になれる気がしたの。家の伝統を守らなきゃいけない皇女でもなくて、名門学院に通う生徒でもなくて……ただのカリになれるって。」
ただのカリ――。
その言葉は、以前の時間軸でも彼女から聞いたことがあった。
あのときカリは、俺が"普通の人"として接してくれるのが嬉しいって言ってた。
だけど、本当は違う。
カリは俺にとって、かけがえのない、特別な存在だった。
――だけど、それは胸にしまっておこう。今は。
「それじゃ、これからもからかってもいいのかな?」
俺は軽く冗談めかして尋ねた。
「え、か、からかうの……?」
カリの蒼い瞳がぱちぱちと瞬き、頬にほんのり差していた赤みが、ぱっと鮮やかに広がった。
目線を逸らしながら、か細い声で続けた。
「そ、そんなにたくさんじゃなければ……少しくらいなら……」
その返事に、俺は思わず笑みをこぼす。
「それは嬉しいな。カリの照れた反応、すごく可愛いから。もっと見たくなっちゃう。」
「も、もう……意地悪……」
カリはむくれて小さく口を尖らせたが、その仕草すらも可愛くて、俺はますます頬が緩んだ。
しばらくの間、二人して静かに笑い合った。
こうして心から笑えるのは、いつ以来だろう。
――いや、時間を遡ってから数回あったが、それ以前は何十年も笑ったことなんてなかった。
「……ねえ、そろそろこの本棚越しじゃなく、ちゃんと顔を見て話さないか?」
俺は笑いながら提案した。
「うん、もちろん。」
カリも笑みを返してくれた。
俺は左手側へと回り込みながら歩き出した。
同時に、カリも同じように回り込もうとしていたらしい。
角を曲がった瞬間――
「きゃっ!」
カリが慌てて後ずさりしようとした拍子に、バランスを崩した。
俺は咄嗟に手を伸ばし、カリの手首をしっかりと掴んで引き寄せた。
「……あ……」
カリが小さな声を漏らした。
気づけば、彼女の顔は俺の胸に押し当てられていた。
俺はカリよりもずっと背が高い。
――背丈だけは、昔からこの女性に勝っていた。
まあ、カリは何度か「エリックのほうが私より可愛いかも」なんて冗談めかして言ってたけど……
本気じゃないと信じたい。信じさせてくれ。
「大丈夫か?」
胸元に顔を埋める彼女に、そっと声をかける。
カリは上を向かず、小さくコクリと頷いた。
「う、うん……」
「よかった。」
それだけ言って、俺は彼女を支えたまま動かなかった。
しばらくして、カリはそっと俺の腕を押して距離を取った。
深呼吸を何度かして、顔に浮かんだ赤みを必死に抑え、ようやく微笑みを浮かべる。
「……助けてくれて、ありがとう。」
「どういたしまして。」
俺はそう返しながらも、ふと気づいた。
……そもそも、なんでカリはあんなところにいたんだ?
「ところで……」
俺は彼女の顔を覗き込む。
「なんで、あの本棚の影に隠れてたんだ?」
「えっ……」
カリの表情が、ぴたりと止まった。
目を大きく見開き、さっき鎮めたばかりの頬が再び真っ赤に染まっていく。
「そ、それは……その、ね……謝るきっかけを探してたの!」
しどろもどろになりながら、カリは両手を背中で組み、かかとで地面をコツコツ鳴らす。
「謝るきっかけ……?」
俺は訝しみながら、問い返す。
「そ、そうなの!でも……うまく言葉が見つからなくて……」
さらに小さくなった声でカリが続ける。
――あれ?
もしかして……。
「……まさか、何日も本棚の影から俺を……?」
恐る恐る聞いてみると、
「ち、違うからっ!」
カリは顔面真っ赤にして、ぶんぶんと手を振った。
「そ、そんな何日もじゃないの!ここ数日だけだから!……あ、でもそれも同じくらい変だよね……」
顔を真っ赤にして言い訳するカリが、どうしようもなく愛おしく思えた。
俺は、どうしても我慢できなかった。
吹き出して、笑いが止まらなくなった。
涙まで浮かべながら、俺はカリの顔を見て笑ってしまった。
「こ、こんなの笑いごとじゃないのに!」
カリは頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向く。
小さな足で地団駄を踏む仕草が、あまりにも愛らしくて――
それがまた、俺の笑いを誘った。
「ごめん、ごめん……!」
俺は必死で笑いをこらえながら言った。
「ちゃんと伝わってるよ。カリが、本当に謝ろうとしてくれてたって。」
深呼吸をして、ようやく笑いを抑えた俺は、真剣な表情で続けた。
「ただ……まさか、そんなに可愛いところがあるとは思わなかったんだ。」
「か、可愛い!?」
カリが目をぱちくりさせる。
「うん。」
俺は優しく微笑んだ。
「普段のカリは、いつも気品があって凛としてる。それも素敵だけど……
こうして、ちょっとドジで、ちょっと不器用なカリも……すごく、いいと思う。」
「……そう。」
カリは小さく呟き、顔を逸らした。
でもその横顔には、うっすらと微笑みが浮かんでいた。
真っ赤な頬と、その微笑みに、俺の胸が温かくなる。
「それなら……少しは、よかったかも。」
そのまま突っ立って話すのも妙だったので、俺たちは近くのテーブルに移動して向かい合って座った。
しばらく談笑していたが、ふと、さっきの会話の中で引っかかった言葉が頭に浮かんだ。
俺は真剣な表情になり、カリをまっすぐ見つめる。
「……カリ。」
「え?」
「さっき、自分が兄弟の中で一番弱くて、一番才能がないって言ってたよな。」
俺は低い声で静かに言った。
「でも、俺はそうは思わない。カリ、お前は……兄弟たちの中で、誰よりも強い存在だ。」
カリの顔に、再び赤みが差した。
でも、今度は恥ずかしさではなく、どこか優しい笑みを浮かべて首を振った。
「そんなこと……言われても、信じられないよ。」
カリは小さく笑いながら言った。
「兄たちは、みんな熟練したスピリチュアリストだよ。すでに魔獣山脈にも何度も遠征している。私が彼らより強いなんて、ありえない。」
「それが違うんだ。」
俺は、思わず真剣な声を出していた。
カリが驚いたように目を瞬かせる。
「確かに、今の時点では君の兄たちの方が実力は上かもしれない。でも、君には彼らにはないものがある。」
俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君には、強い意志がある。
自分の手で未来を切り開きたいっていう、はっきりとした『願い』がある。
ただ流れに身を任せているだけの兄たちとは違う。
もし君が、その自由への想いを力に変えられたなら――
必ず、彼らを越えられる。」
自分でも、少し言いすぎたかなと思った。
でも――カリは、顔を真っ赤にして俯くどころか、唇を震わせていた。
大粒の涙が、彼女の青い瞳に溜まっていく。
「……ありがとう。」
カリはそっと手で目元を拭った。
まだ涙になる前に。
そして、俺に向かって――
朝日に照らされて咲く太陽花のような、眩しい笑顔を見せてくれた。
「君にそう言ってもらえて……本当に嬉しい。」
「俺は、本心から言ったんだ。」
まっすぐに見つめ返しながら、俺も微笑む。
「うん、わかってる。」
カリは頷き、さらに優しく微笑んだ。
その表情に、胸の奥が温かくなる。
「だから……ちゃんとお礼を言わせて。」
やっほー、またまたこんにちは!
今日は「もう一章投稿する!」って言ってたので、ちゃんと頑張りました~!
今回の章は、前よりちょっと長めです。
楽しんでもらえたら嬉しいな。
エリックとカリ、そしてエリックとフェイ、それぞれの関係の違いをちょっとずつ描いてみたんだけど……うまく伝わってたらいいなあ。
感想とかもらえたらすごく励みになります!
それじゃあ、また次の章でお会いしましょう~!




